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見えているもの

 望遠鏡の硝子は、夜気を吸って冷たかった。


 額を寄せると、硝子の縁から細い冷えが皮膚へ移る。わたしは片目を閉じ、細い筒の向こうに中央公園を探していた。灰色の塔の最上階から見下ろす王都は、地上で響いているはずの悲鳴も足音も、ひどく薄いものにしてしまう。白い屋根。細い道。魔道街灯の青白い輪。人の流れは、紙の上へこぼれた墨のように見えた。


 その中心で、赤いものがひらめいた。


 最初は標識布かと思った。けれど、違う。あの赤は、もっと深い。夜の底に沈まず、むしろ闇のほうを押し返すように高く掲げられている。風を孕んだ布の中央で、金の糸が一瞬だけ光った。


 ――あれは、双翼。


 王家の旗だった。


 息が、喉の途中で止まった。


 ――でも、なぜあの場所に……。


 王宮は動かない。少なくとも、こんなふうには動かない。西門でも、救護区でも、練兵場でも、王家の名はいつも遠かった。民の声は、王宮の白い壁へ届くまでに薄くなっていく。そういうものだと、わたしはもう知っている。


 それなのに、王家の旗が、中央公園の外縁で翻っている。


 望遠鏡の端に、見覚えのある巨体が映った。荒く立った髪。肩幅。背に負うには大きすぎる斧。魚市場で見た、あの人だ。たぶん、バルグさん。旗はその斧に括りつけられ、高く持ち上げられていた。


 その傍らに、ふたりの影がある。


 距離がありすぎて、顔までは分からない。丸眼鏡のような光がひとつ、かすかに跳ねた気がした。もう一人は小柄だった。細い腕を上げ、王宮側へ抜ける道を示しているように見える。


 胸の奥が、薄く冷えた。


 思い当たる人は、ひとりしかいなかった。


『王の娘としても。王位継承第一位としても。……何もしないままでいることはできなかった。それだけです』


 あの声が、望遠鏡の硝子の冷たさの向こうから戻ってきた。


 王家の印を持ち出せる立場にいて、王宮が動かないことを知っていて、それでも民の前へ出ることを選ぶ人。王女としてではなく、ただのシンシアとして王都を歩こうとした人。


 シンシア――シンシアリーナ。


 名は、声にならなかった。


 もし本当に彼女なら。もし、あの旗が彼女の手から渡されたものなら。彼女はもう、清掃の日に水桶を運んでいた少女の顔だけでは戻れない。王宮の沈黙に背いた咎を、自らの足元へ引き寄せてしまう。


 それでも、彼女はきっとそうする。


 ――あの人は、何もしないでいることはできない人だから。でも、どうして?  どうして、わたしに知らせてくれなかったの?


 そう思いかけて、唇を噛んだ。


 わたしが知れば、きっと彼女を止めただろう。危険だから。心配だから。王女の立場を、王宮の刃の前へ晒してほしくなかったから。


 けれど、知らされたからといって、彼女が選び終えたものを、どうして止められようか。


 望遠鏡の中で、赤い旗が揺れた。


 その下で、人の流れが変わっていく。黒点へ吸われるように止まっていた足が、王宮側へ、運河沿いへ、細く分かれていく。恐怖は消えていない。噴水の上の黒は、まだそこにある。それでも、止まっていたものが動きはじめている。


 旗は、黒を消せない。


 けれど、人の目を奪い返すことはできる。


 ――ありがとう、シンシア。あなたの勇気と行動に尊敬と感謝を。どうか無事でいて。


 旗の下にいるのが、たぶんバルグとカテリーナなら。あの人たちなら、きっと彼女を守り抜いてくれる。


 わたしは、望遠鏡から目を離した。


 硝子の縁に触れていた額だけが、ひどく冷えていた。片目を開くと、観測室の青白い灯が、まぶたの裏へ遅れて滲む。紙の匂い。床石から上がる硬い寒さ。灯信器具の金具が、どこかで小さく鳴った。


 窓辺の傍らに、ヴィルが立っていた。


 彼は中央公園の方角を見下ろしたまま、こちらへ目を向けない。けれど、その横顔は、わたしが何を見たかより、何を飲み込んだかを測っているようだった。


「お前が見たかったものは見えたか?」


「ええ、見えたわ。王家の者にしか許されないはずの旗が翻っていた」


 声は、思ったより静かに出た。


 けれど、自分の指先がまだ望遠鏡の筒を掴んでいることに、遅れて気づく。離そうとすると、金属の冷たさが指腹へ薄く貼りついていた。


「なんだと? そいつはどういう事だ。王家は見て見ぬふりを決め込んでたんじゃないのか?」


「どういった経緯でそうなったのかまでわからないけれど、人が北向きにも流れはじめたわ。市民の避難誘導は、なんとかなりそうよ」


「そうか。それはいいとしよう。俺が聞いているのは――」


「わかってる。わたしが見たかったものは、それとはべつのことよ」


 ヴィルの視線が、そこでようやくこちらへ落ちた。


 問いの続きを、彼は飲み込んだ。聞きたいことがある顔だった。たぶん、わたしが誰のことを考えたのかを。あの旗の下に、誰がいると読んだのかを。


 けれど、いまそれを言葉にすれば、胸の奥で凍りついたものが割れてしまう。


 割れている場合ではなかった。


 わたしは望遠鏡へ戻らなかった。もう、筒の向こうだけを見ていてはいけない。


 卓へ向き直る。


 臨時共通王都図の上で、中央公園はまだ白い。赤い発動印も、青い避難導線も、黒紫の壁が立っていた位置も、そこにはまだ記されていない。紙の上では何も起きていない一画のままなのに、窓の外では黒い点を抱いている。


 安全だから空いているのではない。


 何かを受け取るために、空いていた。


 そう考えた瞬間、背筋の内側が冷えた。


 窓の外には、もう黒紫の壁は立っていない。


 少し前まで王都の低い場所を切り分けていたあの薄い壁は、ふっと消えた。白い石壁は、夜気の中で元の白さへ戻っている。けれど、目の奥だけが覚えていた。地面から薄く垂直に持ち上がり、風を受けても揺れず、夜の王都へ黒い硝子板を差し込むように立っていた、あの位置を。


 壁は消えた。


 でも、見えたものまで消えたわけではない。


「先ほどまで立っていた黒紫の壁、展開位置を再確認してください」


 声を出すと、観測員のひとりがはっと顔を上げた。羽根ペンの先に溜まっていたインクが、王都図の余白へぽつりと落ちる。


「南東区画、旧香辛料商跡の北側。運河第四枝路に沿う形です」


「記入してください。点ではなく、線として」


「線として、ですか?」


「はい、そのままを忠実に」


 観測員が頷き、手元の細筆を下ろした。南東の路地から運河沿いへ、魚市場の北側、橋脚の影、中央公園の外縁へと、黒紫の短い線がひとつずつ置かれていく。


 王都図の上で、それらは点ではなかった。


 黒紫の壁として見れば、ただの遮断に見える。けれど、王都図の上へ倒して見ると、線になる。


 ――線。欠けた線。


 中央公園を囲むようで、囲みきらない。王宮へ向かう道を閉じるようで、わざと閉じ残している。視覚的にも実質的にも危険性と威圧を示し、群衆を恐慌へ追い込むだけなら、もっと直線で分断すればいい。もっと効率よく塞げばいい。


 ――都市の導線を封じて、人を閉じ込め、混乱させるための形じゃない。やっぱり、別の意図がある。それも、もっと古くて、もっと嫌な形の。


「……あれとは違う」


 声が、思ったより先に落ちた。


 パウエルの筆が止まる。


「ミツル様?」


「これは、魔法陣を構築するための線ではありません」


 わたしは紙の上で、黒紫の短い線をつないだ。発動点同士を結ぶのではない。壁の向き。途切れた場所。避難導線の流れ。何も起きていない白い空白。それらを、ひとつずつ重ねていく。


「線の置き方が、まったく違います」


 ヴィルが半歩近づいた。


「違う? お前が読みを外したっていうのか?」


「ええ、完全に読み違えていたわ」


 喉の奥が乾く。


「観測記録に残った壁は、そのものだけを見ても何なのか分からない。でもね、一見して規則性のないものも、地図の上へ倒して見ていくと、線になるのよ」


「線といっても、魔法陣とは違うんだな?」


「そう、根本からして違うわ。魔法陣を結ぶための線じゃないの。壁と空白と、人の流れまで含めた形で見ると、ようやく分かってくる」


 パウエルが、王都図の端を押さえ直した。紙の繊維が、乾いた音を立てる。


「壁が持つ意味とは、魔法陣の構築を目指すものとばかり、考えておりましたが」


「はい、違います」


 否定はすぐに出た。


 自分でも驚くほど、迷いがなかった。


「魔法陣ではありません。少なくとも、魔術師が理論に従って描く陣ではないです。中心があり、回路があり、発動点がある。そういったひとつひとつが意図と意味を持つものであれば、この段階でも読み取れるはずです。けれど、これは違う」


「紙の上ではないからこそ、構築は困難であろうとは推測しておりましたが……」


「わたしも、最初はそう考えていました。ですが、そもそも見ていたものが違ったのです」


 窓の外には、もう黒紫の光はない。


 そのかわり、王都図の上に置かれた細い線だけが、青白い灯の下でまだ濡れているように見えた。消えたものが、紙の上でだけ息をしている。白い街の肌に浮かんだ古い傷を、わたしたちは遅れてなぞっているのかもしれなかった。


「これは印です」


 言葉にした途端、腹の底が引き絞られた。


「いいえ……紋様と呼ぶべきでしょう」


 観測室の空気が、ほんの少し沈んだ。


 パウエルが静かに聞き返す。


「紋様、ですか? それには、どういった意味があるのでしょうか?」


「魔術理論で説明がつかないものであるならば、魔術師の理解の及ぶところではなくなります。だからこそ、見誤りやすいんです。わたしたちは、あれを魔術という尺度で観測しようとしていた。それこそが盲点だったのかもしれませんね」


「クロセスバーナの技術とは、既知の魔術とは別の系統である、ということでしょうか? 噂に聞くところの、神代の御業に近いものと……」


「はい。少なくとも、通常の魔石魔術で扱う魔法陣とは別系統と見るべきです。ラウールは、その概要を掴んでいたのでしょう。過去の記録のどこかで、似たものを見ていたのかもしれません。彼が追っているものも、たぶん同じ根を持つものです。あるいは、それこそが……」


 言いかけて、わたしは口を噤んだ。


 この世界で普及している魔石魔術の奥には、まだ名づけられていない古い層があるのかもしれない。


 けれど、その推測は勇み足に過ぎる。


「どうしましたか?」


「いいえ、なんでもありません」


 わたしは王都図の上へ視線を落とした。


「表からは見えない場所に、あらかじめ仕込まれていたんです。橋脚や、入り組んだ路地。排水路や補修跡。生活を支える都市基盤の裏側へ。王都の日常の汚れや修繕跡に紛れ込めば、誰も線としては見ない。そして、そこに沈められていた術式化魔石片が、首魁の狼煙を合図に同調しはじめた。それが先ほど、黒紫の壁として立ち上がっていたんです」


 息を吸うと、観測室の乾いた空気が肺の奥まで降りてきた。


「動き出すまでは、観測できない。ひとつひとつの地点だけを見ても、意味は掴めない。けれど、塔の上からなら王都全体を俯瞰できます。立ち上がった瞬間を記録し、それを地図の上へ倒せる。だから、ようやく形として見えるのです」


 わたしは指を動かした。


 中央公園。


 魚市場北側。


 運河筋。


 橋脚影。


 旧香辛料商跡。


 灯信の死角。


 そして、白い空白。


「その上でこう判断します。これは魔法陣ではありません。王都の上に、紋様を書き起こしていた。古い記録にあった、正統ならざる紋章。そこに示されていた不具なる紋様へ連なる形に近い……」


 言いながら、声が少しずつ細くなっていく。


 ――近い? その言葉では足りない。似ている、でも足りない。だって、わたしは、この形をよく知っているのだから。


「ミツル」


 ヴィルの声が低く落ちた。


 わたしが何を飲み込んだのか、彼は見ていた。けれど、先には言わなかった。言わせるために待っている。そういう沈黙だった。


「……わたしは、この形を見たことがあります」


 唇の裏が乾く。


「先王陛下の書斎にあった古い拓本でも。繰り返される夢の底でも。それから……」


 そこから先が、少しだけ言えなかった。


 観測室の青白い灯が、紙の端を照らしている。インクの匂い。足裏に伝わる床石の硬さ。窓の外で動く王都の音。全部が遠くなっていく。


 でも、逃げてはいけない。これは、わたしだけの怖さではない。


 わたしは、王都図から目を離せなかった。


「……わたしにもあるのです」


 言葉にした瞬間、腹に負った痣の輪郭が、皮膚の裏でくっきりと際立った。


「似ている、というより……同じ形へ向かっている。ヴィル、あなたも見たでしょう?」


 ヴィルは表情を変えなかった。


 ただ、短く息を吸った。それだけで、彼が何を思い出したのか分かった。


 わたしがドレスの布を握りしめたまま差し出した、あの赤黒い印。カーテン越しの光。息を詰めていたリディア。お祖父さまの、思考を止めないまなざし。


「ああ」


 ヴィルは低く答えた。


「見た」


 若い観測員が息を呑んだ。


 パウエルの筆先が、紙に触れないまま止まっている。


 わたしは観測員たちのほうへ、向き直った。


「わたしのお腹に、赤黒い痣があるんです。先王陛下ご自身が編纂された拓本に、研究対象として残されていた正統ならざる紋章。それと酷似した、不気味な形です」


 声は、ひどく静かだった。


 静かすぎて、自分の声ではないようだった。


「黒いローブの男は、その印がわたしに刻まれていることを知っていました。だから、わたしをデルワーズの再来と呼んだ。デルワーズの写し身なのだと……」


 服の下の痣が、そこにあることを急に主張しはじめる。痛みではない。熱でもない。ただ、身体の内側から、冷たい指で古い名をなぞられたような感覚だった。


「つまり」


 ヴィルが短く言った。


 それ以上を、彼は言わなかった。


 問いの形だけを、わたしの前へ置く。


「ええ」


 わたしは頷いた。


「王都に立っていたあの壁が作り出した形は、わたしの痣と同じ系統と見ていいわ。つまり、根っ子は同じなのかもしれないということよ」


 言い切ったつもりだったのに、最後の声だけが少し沈んだ。


「少なくともだけど、彼らはそう捉えていた。だから、わたしをデルワーズの写し身と呼んだ。だから、わたしを欲しがった。彼らが唯一神と呼ぶものを、復活させるための鍵として……」


「お前自身が鍵だと?」


 ヴィルの声が、低く硬くなった。


 わたしは首を振った。


「違う。そんなの違う」


 そこだけは、すぐに否定した。


「まだ、わたしが鍵だと決まったわけじゃない。彼らが、勝手にそう読んでいるだけよ。似ているからって、根拠になるとは限らない。不具なる紋様と、わたしの痣と、デルワーズの名が重なったからといって、それが真実だと決まったわけじゃない。でも……もし、本当にそうだったなら」


 言葉が、そこで途切れた。


 みぞおちの奥が、ゆっくりと重くなる。


 ――世界を壊すための鍵。それがわたしだというの? どうしてそうなるの? わたし、そんなもの望んでないのに。


 怖いのに、震えは来なかった。


 震える場所そのものが、身体の奥で凍ってしまったようだった。


 ヴィルは何も言わなかった。


 代わりに、半歩だけ近づいた。剣の金具がかすかに鳴り、その音が紙の上を細く渡る。守る、と言葉にしないまま、そこに立つ位置だった。


 その気配に、ようやく息が少しだけ戻った。


「……わたしは、鍵そのものじゃない」


 声はまだ細かった。


 それでも、今度は逃げずに言えた。


「彼らが、わたしを鍵として使おうとしているだけよ。それだけは、お断りするわ」


 その違いだけは、手放してはいけなかったのだ。


 ヴィルは無言のまま静かに頷いた。


 それでいい、と言ってくれているように思えた。


 出会った頃の彼なら、たぶん頭を撫でたり、肩へ手を置いていた。傷だらけの大きな手の温かさに、わたしは何度も救われた。父を亡くし、母を見失い、ひとりで立っているつもりで、本当は立ちきれていなかったころのわたしを、彼は何も言わずに支えてくれた。


 でも、今は触れない。


 半歩近くに立ったまま、こちらの言葉を奪わない。


 その距離が、ひどく寂しくて、少しだけ息がしやすかった。


「まあ、わたしに対しての、彼らなりの『宣告』のつもりなのでしょうけどね」


「あれだけ大掛かりに手間を掛けて、ご苦労なこった」


「ほんとよね」


「だが、お前の見立てでは、それだけではないのだろう?」


「ええ。それで済むわけがないのよ。つまり、彼らの作戦の主眼、本命とは……」


 そこで、言葉が一度だけ途切れた。


 観測室のどこかで、灯信器具の金具が小さく鳴る。細い音だったのに、王都図の白い中央公園へ落ちたしずくのように、わたしの耳に残った。


 わたしは紙の上へ視線を戻す。


「中央公園でいま起きようとしていることよ」


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