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余白に引かれた線

《《美鶴、だめっ!》》


 茉凛の声が、脳裏を走った。


 いつもの軽さはなかった。冗談も、間をほどく明るさもない。刃物のように鋭く、それでも震えるほど必死で、胸の内側を直接叩いてくる声だった。


 控え室を出て、観測室の窓辺へ近づいたところから、もう足取りは曖昧だった。


 さっきまで紙とインクと冷えた石に満ちていた観測室の空気も、魔道ランタンの青白い光が照らす卓の木目も、パウエルが整えた記録紙の束も、窓枠に膝をかけた瞬間、ぜんぶ遠のいた。


《《戻って! いま外へ出ちゃだめだ!》》


「でも、見ないと……っ、見ないと、わからないのよ。わたしが、見落としたから、こうなったの。わたしが、点なんかを置いて――」


 窓の外で、王都の夜が石の街を黒く沈めていた。白い屋根の連なりも、運河の細い水面も、灯信の届かない路地の闇も、同じ暗さに飲まれている。その底から、黒紫の壁がゆっくりと立ち上がっていた。


 石畳の目地を縫い、排水路の縁を伝い、橋脚の影を繋いでいく。音はない。ただ、夜そのものの脈みたいに、暗がりの奥で低く息づいていた。


 美しかった。


 そう感じてしまったことが、喉を焼いた。


《《見てるでしょ! もう十分見えてる! 飛び込むのは、違う! だいたい、ここをどこだと思ってるの? 塔のてっぺんだよ。落っこちたら死んじゃうよ。このバカ!》》


 腰のマウザーグレイルが、強く熱を返した。鞘の中で金属が震え、その振動が帯を伝って腰骨の内側へ届く。茉凛の怒りと、茉凛の怖さが、剣の温度になってわたしの身体を叩いていた。


「そんなことするわけないでしょ!」


《《いんや、頭より体は正直だよ。わたしにはわかるんだ。美鶴はそういうところがある》》


「うるさいわね――」


 言いかけた瞬間、背後から腕が回った。


 低い息遣い。革と金属と、よく知った体温。ヴィルの腕がわたしの腰を抱き、窓枠から強く引き戻す。石の縁にかけていた膝が外れ、身体が後ろへ倒れ込んだ。背中が硬い胸にぶつかり、呼吸が一度止まる。外套の布越しに伝わる鎖骨の硬さと、その奥で打つ脈が、肩甲骨の裏まで沈んだ。


「ミツル!」


 耳元で、ヴィルの声がした。怒鳴り声ではない。けれど、底が震えていた。眠りの名残も、控え室の静けさも、その一声で裂けた。


 古い塔の石壁が、声を短く返した。拾って、反響して、余韻だけを落としていく。あとに残ったのは、窓から入り込む冷えと、わたし自身の荒い息だけだった。


 わたしは腕の中でもがいた。


「離して! 離してよ、ヴィル! 見ないと、あれを、ちゃんと――わたしのせいなの。わたしが、人を、点に置いたから」


「ったく。だからって、窓から身を投げ出して見るもんじゃない。危ないだろが」


 ヴィルの腕は動かなかった。窓枠から引き戻すためではなく、戻した場所にとどめるための重さだった。首筋にかかる息が近い。その熱が、夜の冷えと混じって、妙に鮮やかだった。


「違うの。あれは点じゃないの。六つでも三つでもない。王都の路地そのものが線になってる。壁が立ってるのよ」


「悪いが、お前に見えるものが俺には見えん。たしかに、ピリピリ肌に刺す感じはわかる。だがな――」


「……『狼煙』って言葉に、わたし、まんまと――」


「おい、聞いてるのか? わかったから、戻れ」


「ぜんぜん、わかってない!」


 声が、幼く跳ねた。


 言った瞬間、自分でも痛いほどわかった。理屈が剥がれている。整理できていない。怖いのだ。


 見ていたはずなのに、見えていなかったことが。人を守ろうとした目の前で、街そのものが使われていることが。そして、むしろわたしたちが、その手伝いをしていたかもしれないことが。


 消火の水を流した排水路。灰泥を掃いた石畳の目地。補修材を塗った壁際。荷車の轍が踏み固めた敷石。あの丁寧さのひとつひとつが、いま、黒紫の滲みと重なっていく。


 わたしが地図の上に赤い印を打ち、発動点と未発動点を分類し、人を救護対象として見つめていたその裏で、敵は街の皮膚へ針を刺していた。


 ヴィルの腕に込められた力が、少しだけ強くなる。


「怖いのも、腹が立つのもわかる。だがな、ここで自分を落としちまったら終わりだ。わかるな?」


 終わり。


 落ちる場所は、窓の外だけではない。


 あまりに単純で、だから逆らえなかった。


 わたしは息を吸った。肺の奥が痛い。塔の高みにある風は、地上より乾いている。その冷えが鼻腔の奥を削り、目の端が勝手に熱くなる。涙ではない、と言い聞かせようとして、できなかった。


 石壁に跳ねた魔道ランタンの光が、視界の端で滲んで揺れた。


《《美鶴、よく聞いて》》


 茉凛の声が、少しだけ温度を取り戻した。さっきの刃物のような鋭さは退いて、その代わりに、手のひらで頬を挟むような近さがあった。


《《あなたは負けたんじゃない。人を見たんだよ。人を見て、助けようとした。それはぜったい正しい。でも、あいつらはそこにつけこんできた。あなたが間違えたんじゃない》》


 その声に、嘘はなかった。


「でも……でもね、茉凛。わたしが点に目を奪われたから、線が隠れたのよ。わたしは見せられて、見落としてた。それがちょうど向こうの欲しかったものだったの。わたしが『正しく』あろうとするほど――向こうの思う通りに手を伸ばしていた。わたしはなんて――」


 声が途切れた。言葉が、喉の奥で砕ける。正しさまで、敵の設計図に組み込まれていた。そのことが、肋の裏を冷たい指で押してくる。


《《あーっ、もう。『でもでもだって』じゃないっての……》》


 そこで、茉凛の声が短く途切れた。


 あとには、熱の引いた沈黙だけが残った。


 怒りではなく、決めた声で、茉凛が続けた。


《《悔しがるのはあと。泣くのもあと。自分を責めるのも、ぜんぶあと。いまは、読むことだよ》》


 読む。


 その言葉だけが、冷えた身体の中で、かすかに火を持った。


「はーっ……」


 わたしは、ヴィルの腕の中でゆっくり息を吐いた。まだ震えている。けれど、その震えまで、自分のものとして戻ってくる。足の裏は石床を踏んでいる。背中には彼の胸がある。腰にはマウザーグレイルの重みがある。怒りも、自責も、消えてはいない。


 ――それでも、いまは置いておくしかないんだ。


 いま拾ってしまえば、手が塞がる。読むための指まで、罪悪感で固まってしまう。


 紙とインクの匂いが、喉へ戻ってきた。観測室の匂いだった。卓の上に残された記録紙。赤い印。パウエルが並べた文鎮の石。筒に戻されたままの臨時共通王都図。


 ここは、読むための場所だった。


 わたしの手の届く場所だった。


「……王都図を」


 呟いた。


 ヴィルの腕は、すぐには緩まない。背中にかかる重みが、わたしの呼吸の深さを測っている。まだ不安定だと思われているのだろう。たぶん、そうだった。


「どうするつもりだ?」


「王都図を……出して。いまの柱の位置を、重ねるわ」


「よし、それでいい」


「赤と青は……一度、外す。発動点も、未発動点も、中心じゃない。路面と、排水路と、橋脚と……補修記録、消火記録、清掃記録。それを、重ねないと、読めない。点じゃなくて……線で見るのよ。見方を、根本から変えなきゃ」


 言葉が出るにつれて、喉の痛みが戻ってくる。けれど、それでいい。夢の声ではなく、自分の声だった。


 柱と呼んだものは、たぶん柱ではない。路面の奥で滲んだ魔素が、わたしの感覚に触れた瞬間、上へ伸びる光に見えただけだ。塔の高みから見下ろせば、地上の目地を這う滲みは、ひとつひとつが低く細い。けれどわたしの目には、それが垂直に立ち上がる壁のように映った。


 魔術適性という言葉では、たぶん説明できない。魔石の命の灯火へ触れられないわたしの身体が、魔素の濃淡や異質な乱れだけを先に拾ってしまう。その理由は、まだわからない。けれど、黒紫の魔素が視界のかたちへ押し上げられたのなら、見えた順番には意味がある。


 滲みが立った場所。途切れた場所。隣へ移るまでの間。そこに、敵が隠した手順がある。


 ヴィルが、ようやく腕を少し緩めた。


「立てるか?」


「……立てる」


「嘘なら担いでいくぞ」


「……立てるわって。これ以上、あなたの手を煩わせるつもりはないわ。わたし、こんなことで負けるつもりはないの」


 返した声は、まだ弱かった。けれど、さっきよりは確かだった。


 ヴィルはすぐには離さなかった。腕の力を抜いたまま、わたしの重心が本当に戻るのを確かめている。


 そういうところだけ、ひどく容赦がない。言葉ではなく、腕の角度と力の配り方で、わたしの状態を読んでいる。


「ならいい」


 短く言って、ようやく支えが半歩ぶん退いた。


 ヴィルの手が離れた場所に、冷えが入り込む。背中が急に軽くなり、さっきまでそこにあった体温の輪郭だけが、布越しに残った。


 足の裏に石床の感触が戻り、膝の震えが自分のものとして分かる。倒れそうではある。けれど、倒れるなら観測室で倒れる。卓の上の王都図の前で倒れる。それくらいの意地だけは、まだ残っていた。


 そのとき、扉の外で足音が止まった。


 控えめで、けれど急いでいる足音だった。石の廊下を走ってきた靴底が、観測室の前で急に間を詰める。二度、扉が叩かれた。木と石がぶつかる乾いた音が、観測室の空気を短く揺らす。返事を待つ間も惜しいのか、パウエルの声がすぐに重なった。


「ミツル様。失礼いたします。ラウール様より、灰色の塔宛に灯信が入りました」


 わたしはヴィルを見た。ヴィルもこちらを見返す。青い瞳の奥に、いつもの苛立ちではない、硬い警戒があった。


「内容は?」


 ヴィルが言った。


 扉の向こうで、紙の擦れる音がする。パウエルが記録板を持ち替えたのだろう。覆い金具の金属音が小さく鳴った。


「市中街路に魔素滲出。地点不定。新規発動相当。書面は追う。至急、とのことです」


 地点不定。新規発動相当。


 その二つの語が、肋の裏でぴたりと噛み合った。


 発動なのに、地点がない。相当、としか言えない。


 ――やっぱり、ラウールも拾っていたんだ。


 地上から見れば、おそらくそれは柱ではなかった。石畳の目地に沿う滲みか、排水溝の縁の変色か、空気の奥でかすかに揺れる、嫌な色の気配。はっきり発動と呼ぶには薄すぎる。けれど、見間違いとして捨てるには、あまりに気味が悪い。


 彼は、それを異常として拾った。点にできないから、地点不定と打った。発動と断じきれないから、相当と添えた。


 灯信では、それ以上は送れない。限られた符号の中に、見たものの形をできる限り正確に押し込んだのだ。


 わたしは塔の上から、彼は王都の足元から。視る場所が違うだけで、読もうとしているものは同じだった。


 ――そうだ。塔の上にいるわたしより、彼のほうが、ずっと近くで見ているんだ。


 石畳の目地を這う黒紫のすぐそばに立ち、触れてはならないものの縁で、銀翼の騎士を下がらせ、灯信所へ走らせている。あの穏やかな人が、切迫に押されて声を荒らげる姿まで、見えるようだった。


 ――きっと、悔しいでしょうね。


 正しく読めたのに、一手遅れた人の痛みを、わたしは少しだけ知っている。


 彼は、生まれ育った国を一夜で失った。愛する家族も、帰る場所も、クロセスバーナに奪われた。その彼が、ようやく辿り着いたリーディスで、また人が変えられていくところを見せつけられている。


 間に合わなかった。


 何もできなかった。


 そんな言葉を、彼が口にするとは思えない。きっと表には出さない。怒りも、悔しさも、灯信の短い符号の中へ押し込めてしまう。


 けれど、だからこそ、わかった。


 ――彼は、かつてのわたし――柚羽美鶴と似ているんだ。


 目を閉じた。一瞬だけ、夢の白い靄が戻る。不具の紋様。黒紫の縁。デ……ル……ワ……ズ……という圧。白い輪郭。王都の足元で目覚める線。


 全部が、ひとつの冷たい手触りへ重なった。


 目を開ける。


 窓の外では、黒紫の壁が、またひとつ先へ伸びていた。南港側の倉庫の壁際から、運河沿いの橋脚の影へ向かって、音もなく繋がろうとしている。


 やはり、美しかった。石の街を縫う光は、遠くから見れば、夜の運河に落ちた灯りのようですらあった。その美しさに、もう一度、奥歯を噛みしめる。


「パウエルさん」


 声は、まだ掠れていた。けれど、もう逃げてはいなかった。


「臨時共通王都図を……出してください。灯信記録と、消火記録。それから、清掃記録と、排水路図、橋脚の補修履歴。いま取れるものは全て揃えてください」


 扉の向こうで、パウエルが短く息を呑んだ。


 清掃記録。補修履歴。それは防衛資料ではない。王都の日常を動かすための事務記録だ。それを観測室へ持ち込めという指示の意味を、彼はすぐに理解したのだろう。


「承知いたしました」


 迷いのない声だった。


 パウエルの実務の手つきには、余計な感情を挟まない正確さがある。灯信符号を読み取り、記録板へ印を落とし、覆い金具を開閉する指の動きは、いつも淀まない。その正確さが、いまのわたしには必要だった。


「それから、将軍府へ。封鎖線を……発動点基準で引かないように、と。壁の進展方向を見るように、と。主要街路ではなく……路地裏と、水の低い道を注視するように、と」


 一度、息が切れた。


「あと、住民の避難勧告と誘導は、ローベルト将軍の判断にお任せします、と。王宮を通していたら、間に合わないかもしれない」


 言い終えると、舌の裏に硬いものが残った。


「めちゃくちゃなことを言ってるって自覚はあるの……」


 けれど、ヴィルは満足そうに頷いた。


「王都がひっくり返るかもしれん時に、そんなもん気にしてられるかってんだ」


「でも……彼が咎を受けることになったら」


「ローベルトなら問題ない。あいつの二十年は重い。軍部に根を張り、王宮に食い込むために、どれだけの苦労を重ねてきたか」


「あなたも、カテリーナも、でしょう?」


「俺たちは、大したことはしてないさ。軍から逃げ出した口だからな。留まることのほうが辛いこともある」


「そうね……」


「さあ、お前はお前の仕事だ」


「うん」


 短く答えると、胸の内で何かが小さく沈んだ。


 仕事。


 その言葉は、ひどく冷たいようでいて、いまのわたしには必要な形をしていた。


 かつて白銀の塔で、ローベルト将軍が開いた扉の音を、ふと思い出した。西部戦線のあと、二十年かけてそこに立ってきた彼の重さを、いま、わたしは利用しようとしている。


 それが必要だと分かっている。分かっているのに、喉が痛かった。


 けれど、茉凛の声が、静かにそこを押さえた。


《《ナイスだよ、美鶴》》


「……そうかな」


《《うん。悔しがるのはあとでいい。今は、確かめよう。でも、行くとなったら、わたしもいっしょだよ。どこまでだってね……》》


 軽い声ではなかった。でも、見捨てない声だった。どこまでも付いていく、と言い切る声は、茉凛の中でいちばん静かな強さのかたちだった。


 わたしは頷いた。


 ヴィルがそっと肩へ手を置く。支えるための手。止めるための手。どちらでもある手だった。指の力は強くなく、ただ肩の上に重さだけを残している。わたしはその重さを受けたまま、もう一度だけ窓の外を見る。


 王都の白い石の街。光と潮風の街。地図を見ながら、茉凛と遊ぶように歩いた街。市場の天幕のあいだを歩き、運河沿いの石段に腰を下ろし、魚の匂いと香辛料の粉に咳き込んだ午後がある。路地の隅でパンを分け、子どもたちの走る声を聞いた夕方がある。


 その足元から、黒紫の壁が立ち上がっている。


 点ではなかった。六つでも、三つでもなかった。白い地図の余白そのものが、いま、敵の線として立ち上がっていた。


 まだ、これが何なのかはわからない。


 魔法陣と呼ぶには早い。術式と断じるには、根拠が足りない。王都図へ落とし、街路と排水路と補修記録へ重ね、知らない形を知らない形のまま読むしかない。大図書館で見てきた既知の魔法陣とも違う。もっと大きく、もっと静かで、もっと王都の生活そのものに溶け込んだ何かを。


 けれど、奪われているものだけはわかった。


 ――余白だ。


 人が休み、歩き、荷を運び、水を流し、日々を戻すための場所。ボヤの灰を掃き、補修材を塗り、壊れた敷石に砂利を押し込み、濡れた石の縁を布で拭った、誰かの手が触れた場所。


 そこに引かれた線を、わたしはまだ読めていない。


 ――奪い返す。わたしの愛した王都を。そこに住まう人たちを、誰かの思惑のままにさせてなるものか。


 そう思ったとき、震えが、少しだけ遠くなった。


 そのときだった。


 王都の低い場所で、赤い光がひとつ、立ち上がった。


 灯信ではなかった。


 灯信の光は、もっと短く、硬い。覆い金具の開閉に合わせて、切られた息のように瞬く。けれどそれは、地上の闇の奥からゆっくり浮き上がり、途中で一度、脈を打った。


 ――あの赤は。


 火の色に似ているのに、炎の舌がない。芯だけが赤く、外縁には薄い金の粒がまとわりついている。冷えた空気の中でふくらみ、縮み、何かの呼吸を確かめるように、南東の空へ半円を描いた。


 緋朧天石(ひろうてんせき)の赤に似ていた。


 火に似て、火ではないもの。魚市場で、ラウールが石畳の上を走らせていた赤と同じ色が、今度は夜空を渡っている。あのとき、黒ローブの男に相対しながら、ラウールの指先が赤い光の糸を伸ばしていた。その赤が、王都の夜に、呼吸するように浮かんでいた。


 ――ラウールのいる方角だよね。


 そう理解した瞬間、その光が進路を変えた。


 灰色の塔へ向かってくる。


「ミツル」


 ヴィルの声が低く落ちた。


 次の息を吸う前に、彼の腕がわたしの前へ出た。肩を引かれ、身体が窓辺から半歩、後ろへ下がる。石床の上でわたしの踵が鳴り、その音より先に、ヴィルの右手が腰の銘なき聖剣の白い柄へ触れていた。柄が魔道ランタンの青白い光を一瞬だけ拾い、観測室の闇に白く浮かぶ。


 火球は、まっすぐではなかった。


 途中で何度も小さく軌道を折り、見えない糸を避けるように、王都の夜を縫ってくる。屋根のあいだを抜け、灯信所の光の脇をすり抜け、塔の石壁に沿って弧を描く。信号弾なら、こんな飛び方はしない。敵の攻撃なら、もっと速い。なのに、こちらへ向かっている。灰色の塔の窓を、選んでいるかのように。


 みぞおちの奥が、ひやりと縮んだ。


 思わず、目を閉じた。


 熱は来なかった。


 衝撃も、音もない。


 ただ、まぶたの裏で赤い光が一瞬だけ散り、細かな砂のようにほどけて消えた。金にも赤にもなりきれない微粒が、暗闇の中で最後の脈を打ち、消えた。


「……飛び散った」


 ヴィルの声が、すぐそばで落ちた。聖剣の柄にかけた手は、まだ離れていない。


 わたしは、ゆっくり目を開けた。


 窓の外には、もう何もない。さっき火球があった場所に、淡い余光だけが、ほんのわずか漂っていた。風が余光の尾を撫で、それも消えた。あとには、潮を含んだ冷たい匂いだけが、窓枠の木の割れ目に残った。


「いまのは火球術よね。それもかなりの遠距離から、とても精密な制御だったわ。あれはラウールが撃ったの?」


「だろうな」


 ヴィルの声には、確信があった。


「まさか、お前を狙ったなんてことはあるまい」


「じゃあ、あれは『ここだ』と。ここに来いという合図? 助けに来てほしいってことなのかしら?」


「違うな。こいつは……警告だ。いや、もっと直接だな。『そこから動くんじゃない』。そんなところだろう。あいつめ」


 ヴィルの口調が、かすかに変わった。苛立ちではない。響きの中に理解があった。同じ場所を守ろうとする人間が、同じやり方を選ぶときの、短い共感のようなもの。


 ――動くな、か。


 ラウールが灯信ではなく、あの光を飛ばした理由を考えようとして、手の内から温度が引いた。灯信では間に合わなかったのか。符号では足りなかったのか。それとも、言葉にすれば余計なものまでわたしが拾ってしまうと、彼は知っていたのだろうか。


 言葉より先に、光を投げる。


 言葉は意味を持つ。意味を持てば、わたしは読む。読めば考える。考えれば、走り出してしまう。


 ラウールは、それを知っていたのかもしれない。だから言葉ではなく、光だけを投げた。


 王都の下で、あの線はまだ伸びている。


 そして、ラウールはそのどこかに立っている。石畳の目地を這う滲みのすぐそばで、触れてはならないものの縁に踏みとどまり、それでも観測を続けている。


 わたしは窓枠に手をかけた。古い木のざらつきが、爪の下へ細く食い込む。塗りの剥げた木が、乾いた粉を指先へ渡した。


 ――ラウール。あなたは、ここで見ろと言っているのね。これから、何が起きるのかを、わたしに見届けろと。


 そう言われたのだと、わかった。


 直接、言葉を渡されたわけではない。けれど、あの赤い光が灰色の塔の手前で四散した瞬間、意味だけが残った。来るな。動くな。ここから見ろ。地上で見えない形を、塔の上から読め。


 だからこそ、見なければならなかった。


 託された、と言い切るにはまだ早い。けれど、彼があの光でこちらへ投げたものを、わたしは受け取ってしまった。


 ここから。この高さから。彼が地上で拾ったものを、わたしは空から別の形で読む。それがいま、わたしにできる、唯一のことだった。


 観測室の奥で、パウエルが動く気配がした。通信窓の覆い金具が開き、灯信の光が夜の石壁に短く跳ねる。将軍府と侍医司へ向けた追加の灯信が、塔の上から王都の闇を渡っていく。


 紙が来る。記録が来る。消火記録も、清掃記録も、補修履歴も、排水路図も。わたしが頼んだものが、この卓の上に届く。


 それまで、わたしはここで見る。


 窓の外に広がる王都の夜を。黒紫の線が這う白い石の街を。ラウールが立っているどこかの路地を。まだ名をつけられないものの輪郭を。


 震えは、まだ残っている。


 けれど、足の裏は石床を踏んでいた。


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