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点ではなく、人を

 ――デルワーズ。


 喉の奥で、その名が小さくひっかかった。


 声に出したわけでもないのに、呼んだ瞬間、腹部の痣のあたりが薄く冷える。夢の中で硝子越しに見た白い輪郭。濁った液体の底に沈んでいた、白い肌と長い黒髪の少女。


 あれは、デルワーズだった。


 少なくとも、わたしの魂はそう聞かされた。耳ではない場所に名を刻まれ、触れてもいない痣が、それに応えるように冷えた。眠っているのか、造られているのか、捨てられているのかさえ分からないまま、ただそこに置かれていた命。


 造られた命だった。祈るための器を、殺すための器へ。精霊族を守るはずの巫女の形をそのまま使って、精霊族を滅ぼすように組み上げられた少女。


 その矛盾は、あまりにも冷たく、あまりにも整っていて、だからこそ、いま王都の足元で進んでいることと同じ匂いを持っていた。


 報告書を書こうとした朝がある。デルワーズとマウザーグレイルの関係を、兵器としての機能に絞って記そうとした。感情を封じて、事実だけを並べたはずだった。でも、すべてを書けば、わたしの中の傷まで誰かの手に渡ってしまう気がして、筆が止まった。


 あのとき、まだ、言葉の奥に残る温度をどう扱えばいいのか分からなかった。


 デルワーズは兵器だった。けれど、兵器であるだけでは終わらなかった。


 ロスコーが、最初の芽を与えた。命令だけで動くはずだった身体の奥に、ほんの小さな違和感が残った。従うだけでは終われないという、まだ名前にもならないもの。


 レナード家が、その芽に温度を与えた。食卓の匂い。呼びかける声。叱られること。笑われること。役割ではなく、名前で呼ばれること。彼女はそこで、人の温かさを知ったのだと思う。


 やがて恋をした。ライルズと結ばれ、エリシアのお母さんになった。


 守りたいものを持つ人になっていた。だから、自らの命を賭して、我が子の生きていける未来を選んだ。


 彼女の名は、歴史のどこにも残されていない。それでも、わたしにだけはわかる。あの少女がいまのこの世界を作ったということ。


 だからこそ、マウザーグレイルはただの兵装ではなかったのだと思う。暴走を抑制する装置でも、逸脱を罰する機能でもなく、壊れそうな魂の輪郭をぎりぎりのところで保つための護り。


 マウザーグレイルがあったから、彼女はそこへ辿り着けた。


 壊れずに、ではない。


 壊れそうになりながら、それでも、そこへ。


 そう考えなければ、あの白さがあまりにも悲しかった。


 ――そうでなければ、どうしてわたしがいま、ここにいるというの?


 腰に下げたマウザーグレイルが、布越しにひやりと冷えた気がした。


 いま、その深部には茉凜がいる。わたしがわたしでいられなくなりそうな時、剣の奥からこちらへ手を伸ばしてくれる。そういう温度があるから、マウザーグレイルはいまもまだ、わたしにとって剣であるだけではいられない。


 けれど、窓の外で立ち上がる黒紫の線には、その温度がなかった。


 守るためではない。支えるためでもない。人を点にし、道を線にし、暮らしを導線にする。急変した人の身体も、発動しなかった人の沈黙も、救護の手も、灰月の調査も、次の反応を測るための材料として置かれているように見えた。


 その冷たさが、デルワーズを造った手つきと重なる。少女を兵器に変えた思想と、街そのものを術式に変えようとする思想。形も時代も違う。けれど奥にあるものだけは変わっていない。命があることを知りながら、命ではなく機能として見る眼差し。


 ――根は同じだ。


 そう思った瞬間、吐き気が込み上げた。少女ひとりの身体に刻まれていたものが、今度は街そのものへ広げられようとしている。


 唇を噛んだ。血の味はしない。ただ冷えた息だけが、喉の奥で震えていた。


 敵がわたしを、デルワーズの再来と呼んだ理由が、いまさら別の重さを持って戻ってくる。再来にしたいのは、わたしだけではないのかもしれない。この王都そのものを、あの少女と同じように、用途へ押し込めようとしている。祈るための器を殺すための器へ変えたように、人が暮らす街を、虚無へ孔を開けるための器へ変えようとしている。


 ――許せない。王都は、あなたたちの実験場なんかじゃない。


 市場に朝から声を張る人がいること。路地裏に遠い故郷の味を守っている店があること。運河沿いの橋で立ち話をする誰かがいること。そこにあるのは、点でも線でもない。ひとりずつの、暮らしだった。


 ――そんなこと、させない。させてたまるもんですか。


 言葉にはならなかった。声にしたら、きっと震えてしまう。けれど、その震えごと、わたしの中で何かが細く立ち上がる。怒りというにはまだ冷たく、決意というにはまだ脆い。それでも、デルワーズの名が胸の底へ沈んだ場所で、小さな灯のように消えずに残った。


 あの少女が命令ではなく未来を選んだのなら、わたしもここで選ばなければならない。


 点ではなく、人を。線ではなく、暮らしを。この王都を、もう一度、人の街として取り戻すために。


 ――でも、どうやって?


 そう思った瞬間、胸の底に立ち上がりかけたものは、怒りとも決意ともつかないまま、いったん別の場所へ沈んだ。熱のままでは、まだ足りない。怒りだけでは止められない。


 それなのに、身体のどこかは、もう先へ走り出そうとしていた。王都へ下りて、黒紫の線を探して、ひとつずつ寸断する。そうすれば止まるのではないか。あまりにも短絡的で、危うい考えだった。どこを切れば止まるのか。どこを触れば逆に広がるのか。読めていないまま手を出せば、わたし自身が、敵の望む反応のひとつになってしまうかもしれない。


 ――取り戻すためには、まず読まなければならない。


 分かっている。分かっているのに、胸の奥では別の声が止まらない。いま行かなければ。いま止めなければ。その焦りの熱を、理屈が必死に押さえ込んでいる。


 その入口で、ひとつの言葉が喉の奥へせり上がってきた。


 ――狼煙。あの言葉のほんとうの意味。


 魚市場で黒ローブの男が崩れたとき。あの消滅は、ただの死ではなかった。燃え尽きる身体の奥から、どこかへ何かを報せる狼煙として働いていた。わたしたちはそう読んだ。だから、報せの中身を追った。発動した者。発動しかけた者。運ばれた者。誰が、どこで、どの地点で症状を変えたのか。


 間違いではなかった。けれど、その正しさの中へ、わたしたちは閉じ込められていたのかもしれない。


 狼煙だと思えば、人は煙の立った場所を見る。見上げているあいだに、足元では何も見ない。


 あれは遠くへ意味を運ぶための煙ではなく、すでに王都の足元へ置かれていたものを、決められた順に起こすための合図だったのかもしれない。いま目を覚ませ、と告げる指揮。眠っていた線のひとつひとつを、同じ呼吸へ戻していくための、ひどく静かな声。


 みぞおちの奥が、じわりと熱を持った。焼けるというより、深いところから錆びた刃を押し当てられるような熱だった。


 ハムロ渓谷の冷たい空気を、ふいに思い出した。


 魔石の利権にしがみつく者たちが、魔獣の巣を金のなる木として抱え込み、人の命を巣の維持費みたいに数えている、この世界の歪んだ構造。あのとき、わたしは茉凜を突き放すように叫んだ。


『くだらない、くだらなすぎる!』


 あの怒りには、まだ、底の浅さを軽蔑できる余地があった。


 ――けれど、これは。くだらなさですらない……。


 逃げた人を匿おうとする手。倒れた人を運ぼうとする肩。火を消そうと運ばれる水。掃除し、補修し、街を日常へ戻そうとする丁寧さ。誰かが誰かのために動く、そのほんの小さな善意の連なり。そのすべてが、導線として読めてしまう。人がやさしくあろうとする、その動きこそが、線を敷くための手順だったのだとしたら。


 指が震えた。爪が掌の内側へ食い込み、遅れて鈍い痛みが戻ってくる。


「……ふざけるな」


 声が、低く落ちた。自分でも知らない温度だった。許せない、という言葉さえ、いまは追いつかない。


 人を、人のまま守りたかった。それだけだったのに。その願いの形を、向こうはそっくりそのまま、罠の図面に写し取ったのかもしれない。


「いつの間に……どうやって、こんなものを」


 手が震える。火事。清掃。補修。荷車。排水路。ボヤのたびに動いた水と灰と人の足。それが全部、敷設の手順だったなら。わたしたちが必死に対応していたその裏で、街の皮膚へ針が刺し込まれていたなら。


 考えがいくつも走り、ひとつも掴みきれない。


 ――まだだ。断定するにはまだ早い。


 大図書館で見てきた既知の魔法陣と比べるには、まず全体を捉えて王都図へ落とさなければならない。


 ――それでも、ひとつだけわかることがある。これは、無作為にばら撒かれた点じゃない。一定の規則性を持っている。


 わたしは、窓枠へさらに身を乗り出した。


 もっと見なければならない。線の折れ目。柱の順番。どこが壁になり、どこがまだ空いているのか。東運河から南港へ進むなら、次は市場裏か、中央商業区の低地か。あの壁が王宮側へ伸びるのか、大学側を囲むのか。


 ――見なければ。読まなければ。止めるなら、まず、どこを止めるべきなのかを。


 膝が、窓台へかかった。


 冷たい石の感触が、衣越しに肌へ食い込む。外へ出ようとしたのではない。そう思いたかった。けれど身体は、少しでも近くで見ようとしていた。頭ではなく、焦げついた責任だけが、先に窓の外へ手を伸ばしていた。

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