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繋がらない線

 日が傾いていた。


 観測室の窓から差す光は、いつの間にか橙を帯びている。朝から積み上げた紙の上を、その色がゆっくり這い、地図の端に置かれた硝子文鎮(ガラスぶんちん)を淡く光らせていた。卓の脇に重ねた記録紙の影は、さっきよりずっと長く伸びている。壁際の望遠鏡台に掛けられた布が、窓からの風にわずかだけ揺れた。


 王都は暮れかけの色に沈みつつある。


 塔の窓から見下ろす白い屋根の連なりは、午前中には石灰色だったのに、いまはどこも薄い茜を含んでいる。運河の水面が一筋だけ光を返し、遠く南港のあたりでは、早くも灯が点りはじめていた。


 穏やかな夕暮れだった。


 この塔から見る限りでは。


 わたしは紙から目を上げ、一度だけ瞬きをした。


 目の奥が、ひりつく。朝からずっと、細かな数字と符号を追いつづけている。インクの匂いは鼻の奥にこびりつき、いつからか、この部屋の空気と区別がつかなくなっていた。窓枠の古い木が乾いた風を通すたび、紙の端がかさりと鳴る。そのたびにパウエルが手を伸ばし、文鎮を直していた。


 卓の上は、午前とは別の場所のように変わっている。


 臨時共通王都図。


 お祖父さまが名づけ、パウエルが紙の上へ落とした、仮の名を持つ地図だった。その右端には、東門外の救護区外縁と第一練兵場まで、薄い紙で継ぎ足されている。そこだけ紙の色がわずかに違い、何度も指で押さえた跡が残っていた。継ぎ目の糊は、もう半分ほど乾いている。


 王都の内と外。


 城壁を挟んで分けられていたはずの場所が、いまは一枚の図面の上で、細く縫い合わされている。


 その上に、赤い印が増えていた。


 朝の段階では三つだった点が、いまは九つになっている。西門。南港。運河沿い。それに加えて、救護区外縁の三箇所。市場の裏手。東寄りの倉庫街が二箇所。


 赤い印のそばには、時刻と段階値が書き添えてある。わたしの字。パウエルの字。ところどころ、大学棟の観測班が走り書いた癖の強い筆跡。三人ぶんの手が、一枚の図面の上で重なっていた。


 赤だけではなかった。青い印も増えている。


 発動しなかった地点。急変の兆候を見せながら、まだ人のまま留まっている人たちが通った場所。東門外の救護区画。侍医司の臨時診療所。南港の裏通りから、運河沿いの船着き場へ抜ける細い道筋。


 赤と青を同じ図面の上に置く。


 ただそれだけのことが、午前にはできなかった。発動した場所ばかりを追っていた。焼けた場所。倒れた場所。兵が走った場所。灯信(とうしん)が飛んだ場所。


 お祖父さまに「急変しなかった記録も、同じだけ重要だ」と返されてから、地図の表情は少しずつ変わっていった。


 情報は、灯信(とうしん)と紙便で断続的に届いている。


 パウエルは通信窓のそばに立ち、光を読み、光を返す。短く、長く、また短く。返ってくる光を復号し、記録板へ書き取り、必要なものだけを卓の上へ運ぶ。彼の瞳は灯信が返るたび、左から右へ短く動く。光の長短を数えているのだ。覆いのついた金具へかけた指は手慣れていたが、目元には朝よりも濃い疲れの影が落ちていた。濃い緑のローブの袖口に、インクの染みがひとつ増えている。


 その繰り返しが、もう何度になったか数えていない。


 最初に届いたのは、魔導兵団からの西門第二波の魔素波形票だった。伝令が塔の階段を駆け上がる足音が石壁に響き、パウエルが扉口で受け取った紙は、まだ折り目がぬくい。灯信で先に来た段階値と、大きな齟齬はない。ただ、波形票の端には、発動直前の微細変動だけが別欄で抜き出されている。わたしが頼んだ通りに。


 その紙を卓の隅へ置くより先に、通信窓の(ともしび)が短く三度瞬いた。パウエルが振り返り、瞳だけで追い、記録板の余白へ符号を走らせる。侍医司からの接触者記録の第一便だった。急変兆候者の数は、確認できた範囲で十一名。うち三名は保護移送後に安定。二名は経過観察中。残る六名は、まだ報告が来ていない。


 つづいて、灰月の紙便。南港の魚市場周辺の聞き取り。避難民を匿おうとした商人が二名。逆に、避難民を追い出そうとした者が四名。いずれも暴力には至っていない。末尾の走り書きは、バルグが手を回したらしい、とだけ。墨の乗りが薄く、急いで書いたのが分かった。


 将軍府からの封鎖路更新は、伝令ではなく灯信のあとに紙で届いた。西門から南港へ抜ける大通りには通行制限。運河沿いの船着き場は閉鎖。銀翼騎士団は第一練兵場周辺へ待機。赤い線で引かれた路地が三本消され、新しい封鎖線が二本、別の墨で足されている。消した跡は薄く残り、紙の繊維が少し毛羽立っていた。


 そのひとつひとつを、わたしは臨時共通王都図の上へ置いていった。


 赤い印のそばに時刻を。青い印のそばに移送経路を。余白には、直前変動値だけを抜き出した小さな表を作り、地点番号を振った。


 図面の上で、街が少しずつ埋まっていく。


 埋まるほど、見えない場所が増えていく。


 その感覚が、目の奥のひりつきと一緒に、じわりと残った。


 市場裏手の地点は、段階値が他より低い。発動はしたが、規模が小さく、現場の制圧も早かった。対照的に、運河沿いの一地点だけが、段階値も魔素の残留量も突出している。なぜこの地点だけが重いのか、記録からは読み取れない。


 東寄りの倉庫街も、気にかかった。


 ここは、他の地点と比べて発動の時刻が遅い。西門が最も早く、南港がそれに続き、運河沿い、市場裏手、救護区外縁と広がって、倉庫街が最後。


 時刻順に並べると、西から東へ扇のように広がっているように見えた。


 ――見えるだけなのか、それとも。


 わたしは直前変動値の表へ目を落とした。


 発動後の濁った魔素ではなく、発動直前に走った細い揺らぎだけを抜いた数字。大学棟の観測班が、わたしの要請どおりに別欄へ移してくれていた。全記録は保持したまま。仮説に合わせて削らないでと頼んだ、あの判断は間違っていなかったと思う。


 九つの地点の直前変動値を並べる。


 六つまでは、揺らぎの向きが似通っていた。波形というほど整っていない。ただ、立ち上がりの癖に共通するものがある。外から同じ合図を受けた痕だという推測を、少なくとも否定はしない。


 残りの三地点が合わない。


 市場裏手の一箇所は、直前変動がほとんど記録されていない。発動が早すぎたのか、観測班が間に合わなかったのか。


 もう一箇所は、変動の向きが他と逆を向いている。


 倉庫街の一地点に至っては、値そのものが欠落していた。紙便が途切れたのか、そもそも測定できなかったのか。


 ――六つは似ている。三つは違う。


 それだけのことが、どうしても一本の線にならなかった。


「パウエルさん」


「はい」


「倉庫街東の記録、大学棟に再送を求められますか。直前変動値が欠落しています」


「すでに一度、再送要請を出しております。返答は、観測班の設置が遅れたため、当該地点では発動前の測定が行えなかったとのことです」


 パウエルの声は平坦だった。


 ただ、記録板を抱える腕に少しだけ力が入っていた。彼もまた、この空白を空白のまま置くことが嫌なのだ。嫌であるということと、埋める手段があるということは、別だった。


「つまり、ここはそもそも測れていないのね」


「はい。発動後の残留記録のみとなります」


 わたしは記録具を置いた。


 置いた拍子に、卓の端から別の紙がずれかけて、ヴィルが無言で押さえた。革手袋の掌が紙の角を捉える、手慣れた動きだった。


 ヴィルは窓際の椅子に腰を下ろしている。銘なき聖剣を膝の脇に立てかけ、地図筒を足もとに置き、片足を少し前に出した姿勢で、ずっとこちらの作業を見ていた。口は挟まない。紙がずれれば押さえ、インク壺の蓋が浮けば親指で直し、ランプの芯が燃え尽きかければ立ち上がって替える。常設の魔道ランプだけでは、卓へ広げた図面の端まで光が届かなかった。


 替えるとき、彼は革手袋を外さない。手袋のまま芯をつまみ、新しい芯を差し、火を移す。手つきは野営の夜と同じだった。少しだけ不格好で、少しだけ正確すぎる。


 そのインク壺の蓋を直す手が、さっきも、そのさっきも、同じ無造作さでそこにあった。わたしが数字に呑まれかけるたびに、紙の端で小さく鳴る革手袋の音が、呼吸を一拍だけ戻してくれる。


「で、どう見える?」


 ヴィルの問いは短かった。


 わたしは地図の上で指を動かした。西門から南港、運河沿い、市場裏手、救護区外縁、倉庫街。九つの赤い印を順にたどる。


「六つまでは、立ち上がりの癖が似ているわ。外からの同じ合図を受けた痕だとすれば、矛盾しない。時刻順に追うと、西から東へ扇のように広がっている。起動源が西寄りのどこかにあって、そこから合図が放射状に広がったとすれば、時刻差もおおむね説明がつく」


「おおむね、というのは?」


「この三地点が、どうにも説明できないのよ」


 言い切ったあとで、舌の裏が少し乾いた。


 認めることは、見たい形へ紙を寄せなかったという証明でもある。ただ、その正しさで安心できるほど、甘くはなかった。説明できないということは、まだ掴めていないということだから。


「それと、もうひとつ気になることがあるの」


 わたしは九つの赤い印を、もう一度見た。


 ここから先は、まだ声にしていなかった。数字を並べている最中に、ふと浮かんだ形。浮かんだ瞬間、背中が冷えた仮説。


「赤い印の配置を、地図の上だけで見ると……何かの形に見えなくもないの」


「形?」


「……魔法陣のようなもの」


 言った瞬間、観測室の空気が変わった。


 ヴィルの目が細くなり、パウエルのペン先が記録板の上で止まる。窓からの風が一瞬だけ途切れて、望遠鏡台に掛けた布の揺れが止まった。


「九つの発動地点を結ぶと、不完全だけれど、大きな魔法陣の節点のように配置されているように見える。もし、王都全体を覆うような魔法陣が仕掛けられていたのだとしたら……急変者は、破壊のためだけに置かれたのではないのかもしれない。陣を起こすための、何かに使われていた可能性がある」


 言葉を並べるほど、自分の声が遠くなる感覚があった。


 これは、仮説にすぎない。


 わたしは、地図の端を指で押さえた。爪の先に、継ぎ足された紙の糊の凹凸が触れた。


「でも、これだけじゃ立証できない」


「なぜだ?」


「九つしかないからよ。魔法陣の節点として成立させるには、もっと多くの点が必要になるし、配置の精度も求められる。いまの九地点を結んで見える形は……わたしが見たい形に寄せて読んでいるだけにすぎないのかもしれない」


 そこまで言って、息を吸った。インクと紙の匂いが、肺の奥まで沈む。


「それに……点と点を結ぶ線が見えないの。これらを、どこで結べばいいのかが、まだ分からない」


 一度口にしてしまうと、地図の赤い印が、急に遠くなった。


「加えて、三地点の直前変動値が合わない。もし同じものに反応しているなら、もっと揃うはずだった。少なくとも、紙の上ではそう見えるはずだった。なのに六つは揃っていて、三つは外れている。この食い違いを説明できない限り、仮説は仮説のままよ」


 そのとき、前室の扉が控えめに叩かれた。


「失礼します」


 ソレイユの声だった。


 扉の隙間から、薄い亜麻色の髪がのぞく。観測室の内扉より奥には入らないという条件を、彼女は忠実に守っていた。扉を全部は開けず、半分だけ開いて、身体を斜めにして顔だけをこちらへ向けている。腕には、前室で使っている受発信台帳の控えと、その下に挟んだ講義草稿を抱えていた。台帳の角が少し折れている。何度も開閉したのだろう。


「パウエルさん、台帳の欄分けで、一箇所だけ確認してもよろしいですか」


 パウエルが振り返り、彼女のほうへ歩く。扉のところで紙を受け取り、目を通す。羽根ペンの軸を指先で転がす癖が、ここでも出ていた。短く頷いた。


「どうぞ」


「異常段階と、再送要請と、書面番号未着を、同じ保留欄へ入れているのですが……これ、分けたほうがいい気がして」


 ソレイユは、少し言いにくそうに紙の角を押さえた。


「同じ未確認でも、理由が違うものまで一つにしてしまうと、あとで見たときに、全部が同じ種類の空白に見えてしまいそうで」


 その言葉に、わたしの指が止まった。


 同じ種類の空白。


 ――そうか。一括りにしてしまえば、違うものまで同じ顔をする。発動した点も、未発動の点も、記録のない場所も、欠けた紙も、分類を誤れば、同じ沈黙に見えてしまう。


「ソレイユ」


「はい」


「あなたは、それをどう分けたいの?」


「えっと……」


 彼女は台帳の端を見下ろした。王都図を見ているわけではない。手元の欄に引いた線を、指先でなぞっていた。ただ、届いたものを、届いた形のまま失わないようにしている。それだけだった。


「再送を待っているもの。現場で測れなかったもの。記録はあるけれど、まだ照合していないもの。少なくとも、その三つは別にしたほうがいいと思います」


 パウエルの目が、わずかに細くなった。ペンの軸を転がす指が、止まっている。


「よい判断です。未着、未測定、未照合を同じ欄へ入れると、後続の照合で混乱します。ソレイユ嬢、その三つは分けてください。欄の名は、こちらで補います」


「はい」


 ソレイユはほっとしたように息を吐いた。


 わたしはまだ動けなかった。


 未着。未測定。未照合。


 同じ空白ではない。


 同じように白く残っていても、そこにある理由は違う。


 では、王都図の上にある空白も――本当に、同じ空白なのだろうか。


「ミツルさん?」


「うん」


「あの、こんなときに……余計なことかもしれないんですけど」


 ソレイユはためらってから、台帳の下に挟んでいた草稿を抜き出し、胸の前で抱え直した。半開きの扉の向こうから、前室の薄い灯が床へ落ちている。彼女の目は、あくまで手元の余白に落ちたままだった。こちらの図面へ近づこうとする気配はない。


「講義草稿の整理をしていて、気づいたことがあって。精霊子の安全運用のところで、ミツルさんが書いた注があるでしょう。『ひとつの〈場裏〉に、複数の属性は入らない』って」


「ええ」


「これって、小さな〈場裏〉でもそうなんですよね。大きくても、小さくても、ひとつの属性しか持たせられない」


「そうよ。一領域一属性が原則。同じ〈場裏〉に、別の属性を混ぜることはできない。無理に重ねれば、場そのものが干渉して反発する。だから、別の属性を扱うなら、分けて置くしかないの」


「でも、もし複数の小さな〈場裏〉を並べて、ひとつずつ別の属性を持たせたら……大きなひとつに見えることはあるんですか?」


 わたしの指が、地図の上で止まった。


 心臓が、肋骨の内側でひとつだけ強く打つ。


 小さなものが並んで、大きなひとつに見える。


 それは、いま目の前の地図に、わたしが見ようとしていたものとひどく近かった。九つの点。ひとつひとつは別の発動。それを並べると、大きなひとつに見えてしまう。


 ソレイユは、王都図を読んでいるわけではない。


 機密の中身に触れようとしているわけでもない。


 ただ、前室で任された台帳の欄を分け、講義草稿の言葉を整えようとしている。その手つきが、この部屋の熱とは違う場所から、わたしの指を止めてくれた。


「……ソレイユ、それは講義のどの箇所に入れるつもりで訊いているの?」


「えっと、安全運用の章の最後に、『だからこそ、精霊魔術は設計の術でもある』って入れようかなと思って。ひとつに詰め込まずに、分けて扱うことで、初めて安全に近づけるって」


 ソレイユは草稿へ目を落とし、親指の腹で余白を一度だけなぞった。扉の縁で、前室の灯が細く揺れている。


「領域の外へ出さない限り、現象そのものは〈場裏〉の内側に留まるんですよね。だから、混ぜるより分けて置いたほうが扱いやすい。そこが普通の魔術とは違う、大切なところなのかなって。そういう文脈で……」


 普通の魔術。


 ソレイユの言うそれは、魔石の命の灯火(ともしび)へ働きかけ、術式で現象を具現化する、この世界の一般魔術のことだ。わたしの〈場裏〉とは、根本から違う。


 それでも、彼女が見ているのは分類だった。


 ひとつへ詰め込むのではなく、分けて置くこと。


 彼女は、わたしの表情の変化に気づいたらしい。言葉が途中で止まり、紙を抱く手に力が入った。


「あの、何か変なこと言いましたか?」


「いいえ。変じゃないわよ」


 声が、思ったより低く出た。


「それ、とても大事なことかもしれない」


 ソレイユは首をかしげた。何が大事なのか、まだ分からない顔だった。分からないまま、胸元の草稿を抱いている。


 その顔を見て、ようやく気づいた。


 彼女は、こちらを急かしていない。答えを求めてもいない。ただ、自分の手の中にある言葉を、こぼさないように差し出しているだけだった。


 その問いの軽さが、図面の上へ前のめりになっていたわたしを、一度だけ立ち止まらせてくれた。


「本人が当たり前すぎて、見過ごしていることってあるでしょう? そういう視点が大切なの。ありがとう、ソレイユ。いまの言葉で、少し立ち止まれた気がするわ」


「そんな」


 ソレイユは困ったように瞬きをした。


 褒められたと思ったのかもしれない。たぶん少し違う。彼女がくれたのは答えではなく、問いを置いておくための余白だった。


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