急いで結ばない
お祖父さまは、すぐには答えなかった。
白い紙の端へ指を置き、それから、わたしを見る。
祖父の目だった。
「君は、すでに一度、答えを出しているはずだよ」
「……わたしが、ですか?」
「ああ。昨夜の、あの灰色の塔の最上階でね」
言われた瞬間、身体が先に覚えていた。
冷えた石段。紙とインクの匂い。灯信の青白い光。西門、南港、運河沿い。点のまま置いた記録。
『《《まだ線を引かないで》》』
茉凛の声は、思い出すより早く戻ってきた。
そして、離宮から届いた小さなケース。
『必要とあれば。選択は君の自由』
あの伝言が、喉の奥へ静かに戻ってくる。
「私は君に、見ることを命じた。だが、見たうえで動くべきだと判断したなら、動いてよいとも伝えた」
「……はい」
「そして、君は動いた。いや、正確には、動くための条件を、自ら定めていた。急変した者を敵として討つためではなく、急変させている側を止めるために。人を人でなくした者を、捕らえるために。それが、君の答えだった。そうではないかね?」
あの夜、余白を前にして、わたしは確かに決めていた。
捨てない。線を急いで引かない。見たい形へ寄せない。
それは戸惑いだけではなかったのだと、いまになってわかる。ただ迷って立ち止まっていたのではない。わたしはあのとき、自分で足を置く場所を選んでいた。
そう思えた瞬間、胸の奥で、ごく細い息がほどけた。
ほっとするには、まだ早かったけれど。
「でも……あれは、分類する作業でしかありませんでした。そうです。なんだかんだと言って、わたしは、人を仕分けようとしていたんです。それに、わたしの力では、糸を手繰るのが精一杯でした。発動の前に拠点を探り当てられたのも、奇跡のようなものだったんです」
書簡の端が、いつの間にか指の下で折れていた。
分類、という言葉は乾いている。けれど、そこに置いたものは、ほんとうは息をしていた人たちだった。まだ顔も、名前も、恐怖の色も戻せないまま、わたしはそれを点として扱った。
折れた紙の白さが、少しだけ眩しく見える。
息を吸うと、紙とインクの匂いが喉へ薄く貼りついた。
その乾きの奥に、昨夜の冷えが残っている。石段を上った足裏の痛み。灯信の青白さ。まだ線にならない点の群れ。それらが、まぶたの裏でまた小さく散った。
次の言葉は、その乾きに少しだけ遅れた。
「でも、次はどうなるかわかりません。今度はもっと、大きなものになるかもしれない。それも、予想もつかない形で……そんな予感がするのです。最後に首魁が残した狼煙という言葉は、ただの脅しではないと……そう思えるのです」
声が少し掠れた。
言い訳をしているのではない。
それでも、聞きようによってはそう聞こえるかもしれない。そう思っただけで、舌の裏に苦みが戻った。昨夜からずっと消えずにいる、煙のあとに似た苦みだった。
「それでも……王宮は、見て見ぬふりをしようとする。隣国の列強も、動向を窺う諸国も、みんながこの王都を、黒髪のグロンダイルがどう動くかを、見ているんです。そんな、試されて、値踏みされるみたいなところで……わたしは、いったいどこまで踏み込んでいいんでしょうか?」
言い終えたつもりだった。
胸の奥には、まだ言葉が残っていた。紙の端を押さえる指に、知らず力が入る。
「あるいは、わたしが王様の元へ赴き、説得にあたるべきなのでしょうか?」
その瞬間、背後で革の擦れる音がした。
ヴィルが、ほんの半歩だけ動いていた。踏み出すというには短く、留まるには強すぎる動きだった。喉の奥で何かを噛み殺したように、顎の線が硬くなる。
その横顔を見たとたん、白銀の塔で聞いたローベルト将軍の声が、わたしの中へ低く戻った。
父は、王宮へ向かった。メイレア王女の言葉を信じて、自分ひとりでも行くと、上がどう判断しようと背を向けることは騎士の恥だと、そう言って。
王宮の門は、開かなかった。
開かれなかった扉と、戻されてしまった言葉。その冷たさが、いまさらのように肌へ触れる。
そして、戻ってきたものは、救いではなかった。
「ミツル、それは――」
ヴィルの声が落ちかけた。
お祖父さまが、静かに手を上げる。大きな動きではない。ただ、紙の端へ置いていた指を、ほんの少し浮かせただけだった。
「ブルフォード」
その一語で、空気が止まった。
叱責ではなかった。遮るための声でも、厳しさで押さえる声でもない。ただ、かつて王であった人の重みが、その音の底に沈んでいた。
ヴィルは唇を結び、言葉を飲んだ。飲み込まれたものが、部屋のどこかに硬く残る。革手袋の指が一度だけ曲がり、それからほどけた。
お祖父さまは、わたしを見る。
祖父の目であり、同時に、王宮の奥を知り尽くした人の目だった。
「なるほど。君はこの国の行く末を憂い、そしてその中で自分の役割はどうあるべきかを見据えているのだな……」
窓の向こうで、庭木の影が細く揺れた。
お祖父さまはその揺れを追っているようで、ほんとうは、わたしの息が戻るのを待っていたのだと思う。急かされない沈黙ほど、逃げ場がない。叱責よりも深いところで、こちらの輪郭を確かめられている気がした。
「だがね、ミツル。役割で言うならば、王宮へ出向くのも、ロイドフェリクの前へ立つのも、君の役目ではないよ」
問いのいちばん熱いところが、すっと冷えた。
楽になったわけではなかった。王宮へ行かなくてよい、という言葉の先に、王宮がこちらへ手を伸ばしてくる形がある。まだ何も命じられていないのに、膝のあたりが先に固くなった。
「考えてもみたまえ。君が王宮へ行けば、王は君の言葉を聞く前に、君の立ち位置を決めようとするだろう」
お祖父さまの声は、静かだった。
「国を憂うのであれば、王権の下に立て。民を救いたいのであれば、その力を王へ預けよ。おそらく、そういう形になる」
喉の奥が、ひやりとした。
「それは保護という名目、あるいは恩赦という形を取るかもしれない。赦しの言葉をしているかもしれない。だが、行き着くところは同じだ。君の願いを、君自身のものではなく、王の名の下に使えるものに変える」
ヴィルが、息を殺したのがわかった。
「だから、行かせるわけにはいかない。君の答えを、いや君自身を王宮の側の言葉に結ばせないためだ」
少しだけ、息が楽になった。
そのぶん、別のものが戻ってくる。
責められなかったことが、いちばん堪えた。
責めてもよかったはずなのに、と思う。危ういところへ何度も踏み込み、止められてもなお見届けようとし、守られることを下手なまま、またここへ来てしまった。
なのに、お祖父さまの目には咎める色がない。
あるのは、ただ、失いたくないという痛みだった。
その痛みを、わたしは知っている気がした。
王都に入った日の、若緑の髪へ落ちた視線を思い出す。誰かが小さく呟いた、メービス様の、という声。黒髪を隠すための色だったはずなのに、その色は、母へ続く古い扉をひらいてしまった。
お茶の席で。灰色の塔で。
お祖父さまは、何度もその扉の前に立っていたのだと思う。わたしの髪の色や面差しに母の影を見て、それでも、そこへわたしを閉じこめはしなかった。
メイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルト。
その名が胸の内をよぎるだけで、総長室の古い紙の匂いが、遠い雨を連れてくる。
二十年以上ものあいだ、あの離宮にはどれほどの沈黙が積もっていたのだろう。
愛する娘を守りきれなかった父親として。王でありながら、すべてを引き戻すことができなかった人として。
そして今、その娘の面影を濃く映したわたしが、目の前にいる。黒髪の巫女の、呪いにも似て受け継がれていく容姿。始祖であろう、あのデルワーズの影まで重ねられながら。
お祖父さまは、わたしを国の札としてだけ見ているわけではない。
でも、札ではないと言い切ることもできない。
灰色の塔へ立たせた。王都を見せた。わたしにしか読めないものを、読ませた。
それは、祖父としての優しさだけではない。
先王としての判断だった。
それでも、この人はわたしを失いたくない。
その両方がわかってしまうから、苦しかった。
――だって、わたしは幼い頃の母さまとそっくり……いいえ、そんな言葉では足りない。鏡写しみたいな姿形なんだから。どうしたってお祖父さまは、わたしの中に母さまを見てしまう。失った日の痛みを、思い出してしまう。それがどれだけ残酷なことか。
胸の奥で、冷たいものが小さく沈んだ。
わたしは、この方にとって、ただの孫ではいられないのかもしれない。と同じ顔で、黒髪の巫女として、争乱の只中に立っている。癒えるはずだった傷の上へ、知らずに指を置いてしまうみたいに。
わたしがいなければ。
その言葉は、もう何度も捨てたはずだった。捨てたつもりのものほど、静かな部屋では戻ってくる。
クロセスバーナが悪い。
人を仕掛けたのは彼らだ。証拠を焼いたのも、狼煙を残したのも、わたしではない。
わかっている。
それでも、黒髪の少女がここにいなければ、お祖父さまはこんな目でわたしを見ずに済んだのではないか。
そう思ってしまう自分を、止められなかった。
それでも、お祖父さまは、わたしを母の代わりにはしなかった。
若緑の髪を見ても、メイレアの名を口にしても、その奥で、この人はずっと、わたしをわたしとして見ようとしてくれていたのだと思う。
わたしは、母ではない。
メイレア王女の影でも、王家に残された札でも、ただの黒髪の巫女でもない。
そのことを、お祖父さまは言葉にしすぎない。慰めにも、励ましにも、閉じこめない。
だから逃げ場がなかった。
「王宮の古ぼけた扉を叩くのは、この老いぼれの仕事だ。幸い、私はまだ、そこへの通り道を、少しばかり覚えているのでね」
お祖父さまは、ほんの少しだけ笑った。
その笑みの下にあるものは、冗談の軽さではなかった。古ぼけた扉、という言葉の向こうに、厚い石壁と、磨かれすぎた床と、誰かの声を聞く前に立場を測る王宮の空気が、かすかに浮かぶ。
そこへ自分の手で行くのだと、この人は言っている。
「ですが……」
声が薄く裂けた。
反論というには弱く、飲み込むには熱い。膝の上で指先が絡まり、爪の端が掌へ小さく食い込む。行かせられないと言われて安堵したはずなのに、胸の奥では、まだ何かが身をよじっていた。
「この件は以上だ。君が口出ししていい問題ではない。わかったね?」
柔らかな声の底で、石の戸が静かに閉じた。
怒りではなかった。曖昧に越えられる線でもなかった。祖父の声の奥に、かつて王であった人の声が重なっている。許すことと、任せることと、禁じること。その三つを、同じ温度で告げられる人の声だった。
喉の奥が詰まる。
もう一度だけ息を吸った。紙とインクの匂いが肺に落ち、さっきまで熱を帯びていた言葉が、少しずつ形を変えていく。
「お祖父さま……では、わたしは、どうすればよろしいのですか」
問いは、思ったより幼く響いた。
縋るつもりではなかった。けれど、声の端にそう聞こえるものが滲んでしまった気がして、頬の内側が熱くなる。どう動けばいいのか。どこへ足を置けばいいのか。自分で答えを出したはずなのに、次の白紙を前にすると、また指先が迷ってしまう。
お祖父さまは、その迷いを責めなかった。
「君には、継続して観測を依頼したい」
観測。
その語が、部屋の中へ静かに置かれた。
剣を抜くことよりも、黒鶴を放つことよりも、ずっと地味で、冷たい言葉だった。けれど、その冷たさは遠ざけるためのものではない。熱に呑まれないための、器の縁のようなものだった。
「君の精霊魔術は、たしかに代え難い戦力なのだろう。だが、君の持つ才能は、それだけではあるまい。何も、最前線だけが戦いではない。王都全体を俯瞰し、読むこともまた戦いであり、才能の有効な使い道だ。何より、焦るあまり、近視眼的に答えを急いで結ばずともよい」
言葉の後半で、窓の外の光が卓上の余白をすべった。
昨夜の点。西門、南港、運河沿い。まだ線にならないもの。まだ敵とも、被害とも、救いとも名づけきれないものたち。
お祖父さまは、そこへわたしを戻そうとしているのだとわかった。
前線へ出ないことは、目を逸らすことではない。斬らないことも、何もしないという意味ではない。
人だったものを、急いで魔獣と呼ばない。魔獣化させられた人を、ただの被害者としても閉じこめない。点を点のまま見て、線を引く前に、その向こう側を読む。
それは、たぶん、わたしにしかできない戦いだった。
胸の奥に残っていた熱は、すぐには消えない。けれど少しだけ、別の場所へ置き直されたようだった。焦りの炎ではなく、観測室の灯信のように、細く、消えず、遠くを見るための光へ。
わたしを遠ざけるための言葉ではなかった。
折れない場所へ、置き直すための言葉だった。
そう受け取るまでに、少し時間が要った。
「勇んで踏み込みすぎれば、視野を狭めるばかり……ですね」
「そうだ。そして昨夜、君は線を引くことを急がなかった。魔獣と呼んでしまえば早いものを、そうしなかった。敵と救護対象を、ひとつの籠へ入れなかった。あれは迷いではない。必要な慎重さであったと、私は見ている」
喉の奥に、まだ焦げた苦みがあった。
それでも、その苦みの意味が少し変わる。
ただ残っている夜ではない。まだ読まれずにいる夜なのだと、遅れてわかった。
灰色の塔の余白で、わたしは人を点にしてしまったと思っていた。お祖父さまは、その点を捨てなかったことを見ていたのだ。急いで線にしなかったこと。急いで敵の名札を貼らなかったこと。その遅さを、弱さではないと言ってくれている。
「昨夜の出来事を、怒りや恐怖だけでまとめてはならない。いたずらにクロセスバーナの名を叫ぶだけでも足りない。急変した者たちを、魔獣と呼んで片づけてもならない。君が見たものを、君にしか見えなかった順番で、壊さずに置いてほしい」
「はい」
返事は、思ったより小さく落ちた。
その小ささの中に、少しだけ芯が戻っていた。窓の外で枝葉が揺れ、卓上の端へ淡い影がかかる。昨夜の王都が、その白い余白の上で、まだ息をしているように見えた。
「何が先に起きたか。どこに人の輪郭が残っていたか。どこから術式になったか。狼煙は何を残し、何を消したか。君の言葉は、断罪のためではない。誤った断罪を避けるために要る」
お祖父さまは、机上の紙束へ指を置いた。
乾いた音が、部屋の静けさを一枚めくる。
「急変兆候者。急変個体。起動源。君の定義した三つの分類については、この魔術大学として、正式に採り入れたい。共通の認識として徹底させよう。王宮へ提出する書面の書式についても、同様にね」
息が止まった。
それは、灰色の塔でわたしが言った言葉だった。
紙の上に、まだ人の呼吸が残っているかもしれないと思いながら、震える指で区別した言葉。捨てないために置いた線。救えなかったものと、まだ救えるかもしれないものを、同じ黒い塊へ沈めないための、頼りない境目。
それが、いま、お祖父さまの声で呼び直されている。
「保護すべき者。止めたうえで、なお救う道を探すべき者。捕らえねばならない者。名を明瞭にしておかねば、助ける手は止まる。あるいは、切り捨てる手ばかりが、早くなるものだ」
胸の奥が、ひどく静かになった。
分類することは、怖い。
ひとつの名へ置いた瞬間に、何かを閉じこめてしまうことがある。けれど、名を明瞭にしなければ、誰も手を伸ばせないものもある。曖昧さの中で守られるものと、曖昧さの中で失われるもの。その両方が、白い余白に薄く浮かんでいた。
「……もしかして、お祖父さまは、それを王様へ……?」
「ああ。ロイドフェリク向けには、正しい分類が要る。彼が決断を誤らないためにな。そして、他国に我々の判断を、ただの弱さや混乱として読ませないためにもだ」
わたしは、机の上の資料を見た。
ローベルト将軍の速報。ラウールの分析表。焼けた倉庫。自壊した首魁。消えた証拠。まだ眠っているかもしれない、術式化された魔石片。
端に並んだ言葉は、どれも乾いていた。その乾きの下には、煙の匂いと、血の温度と、夜明け前の市場に残った水の冷たさが沈んでいる。
灰色の塔で置いた線は、あの夜の王都を診るためのものだった。
その線はもう、塔の中だけには留まらない。
あのとき捨てなかったものが、いま王宮へ運ばれようとしている。
そう思った瞬間、細い墨線が、どこか遠い場所まで伸びていくように見えた。
王宮へ。諸国へ。そして、まだこちらを眺めているだけの国々の卓上へ。
いずれは、クロセスバーナにさえ読まれるものとして。
線は、刃にもなる。
それを、遅れて理解した。
「リーディスを狙っているのは、クロセスバーナだけではない。北のシャイヴァルドも、東のバラセル司教領も、黙って眺めてはおるまい。君なら、その意味はもう読めているはずだ」
お祖父さまの声が、少しだけ低くなった。
紙の匂いの奥で、窓の外の光が淡く揺れる。昼の部屋にいるはずなのに、その声の低さだけが、遠い国境線の冷えを連れてきたようだった。見えない場所で、いくつもの目がこちらを向いている。その視線は、剣よりも軽く、剣よりも逃れにくい。
「精霊の巫女の再来を保護する。異端の火種を鎮める。隣国を救うために助力する。名目など、いくらでも作れるものだ。伝説に語られる力として。神代の業として。奇跡として。脅威として。人は、不安で不確かなものに、名札をつけたがるものだからね」
名札、という言葉が、胸の内側へ静かに貼りついた。
それは薄い紙のようでいて、一度貼られると皮膚ごと剥がさなければならないもののように思えた。黒髪。巫女。再来。奇跡。脅威。ひとつひとつはただの言葉なのに、並べられた瞬間、わたしの身体の置き場所を決めてしまう。
「……黒髪のグロンダイルに、また、新たな名がつけられることも」
言ってから、舌の裏が冷えた。
名がつく。
それは、飾られることではない。置き場所を決められることだ。
保護すべき巫女、鎮めるべき異端、借りを作らせるための救国の少女。
どの名も、わたしの声より先に歩ける。
王都の石畳を。王宮の廊下を。まだ見たことのない北の雪道や、東の聖堂の床を。
わたしがそこへ行くより前に、わたしではないわたしが先に置かれてしまう。誰かにとって都合のよい輪郭で、祈られたり、恐れられたり、使われたりする。
それが、名をつけられるということなのだ。
「そうだ。君の言葉が先に置かれなければ、都合のいいように名札は掛けられていく。古い名も、新しい名もね。あのメービス伝説とて、もとは同じことだったのかもしれない」
窓の外で、風が枝を撫でた。
葉擦れはここまで届かない。ただ、書架の金文字の上を、昼の光だけが小さく揺れていた。
メービス。
その名は、この王都では光を帯びて語られる。けれど、その光の奥に、どれほどの沈黙が閉じ込められてきたのだろう。誰かが彼女を語るたび、彼女自身の声は少しずつ遠くなったのではないか。美しい伝説の額縁に収められて、二度と違う表情を許されなくなったのではないか。
胸の奥で、若緑の髪が風に揺れる。
メービス様の、と誰かが囁いた日の、あの小さな声が戻ってくる。あれは懐かしさだった。敬意だった。けれど同時に、わたしではない誰かへ、わたしを重ねる声でもあった。
「だから、君は決めなくてはならない。何を語るか。何を語らないか。どの名を受け取らず、どの役目なら引き受けられるのか」
決める。
その言葉は、命じられるよりもずっと重かった。
誰かに決められるのではない。誰かの名札を剥がすだけでもない。自分の声で、どこまでを受け取り、どこからを拒むのか。その境目を、震える手で引かなければならない。
急いで線を引かないことと、線を引かずに逃げることは違う。
その違いが、いま、白い余白の上でひどく静かに光っていた。
「では……わたしがすべきことは、王を動かすことでも、決断を迫ることでもなく」
「うむ」
お祖父さまは、ゆるやかに頷いた。
その頷きは、わたしの問いを軽くするものではなかった。むしろ、問いの形を整えて、もう一度こちらへ返すものだった。膝の上で、絡めた指がわずかにほどける。掌に残っていた爪の跡が、遅れてじんと痛んだ。
「間違えてはならない線を、残すことだ。急いで結ばぬための線をね。君ならば、きっとできるはずだよ」
その言い方に、喉の奥の苦みが、ほどけきらないまま少しだけ動いた。
わたしは、白い剣の柄へ指を添えた。
金属の冷えの奥に、いつものあたたかさが細く返ってくる。指先の皮膚ではなく、もっと深いところへ触れてくる温度だった。肉体とは違う。けれど、確かにそこにいるとわかる応答。
塔の夜から、ずっと隣にあった温度だった。
「……お祖父さまは、わたしをお使いになるのではなく」
言いかけて、言葉が少しだけ喉に引っかかった。
使う。
その語は、紙の上なら何でもない。けれど口にすると、王宮の廊下の冷たさや、誰かに決められた立ち位置の硬さまで連れてくる。わたしは息を吸い直し、柄に添えた指をほんの少しだけ緩めた。
「わたしに、選ばせようとしているのですね」
お祖父さまは、目元だけをやわらげた。
それは、王の笑みでも、総長の笑みでもなかった。古い書簡の匂いが沈む部屋で、ただ目の前の子どもに、急ぎすぎるなと告げる人の表情だった。
「選ばせる、というほど立派なものではないよ。私はただ、君がすでに選んだものを、そして、これから選ぼうとするものを、粗末にしたくないだけだ。もちろん、君自身もだ。君は、どうにも自分を後回しにしがちだからね。そこだけは、年寄りの小言として聞いておくれ。決して、自分を粗末にしてはいけないよ」
命令とも甘やかしとも違うから、いちばん厄介だった。
命じられたなら、従えばいい。止められたなら、恨めばいい。お祖父さまは、そのどちらもしない。わたしが自分を置き去りにしないよう、ただ、白い紙の端を押さえている。
その手つきが、やさしいぶんだけ逃げ場をなくしていた。
わたしは、卓上の白い余白を見た。
灰色の塔で語り合ったときと、同じだった。まだ線の引かれていない場所。そこに、次の誰かの呼吸が残っているかもしれない。まだ名前にならない痛みや、まだ敵とも味方とも呼べないものが、紙の白さの奥で息をひそめている。
急いで結ばない。
あの日、震える指で自分に言い聞かせた言葉が、いまは別の重さで戻ってくる。
診るための慎重さが、国を誤らせないための慎重さへ、形を変えていく。ひとりの人を魔獣と呼ばないための線が、王宮の判断を急がせないための線になり、他国の名札にわたしを渡さないための線にもなる。
役割は、変わっていなかった。
ただ、その線を置く場所が、王都の地図から、王と他国の視線が交わる盤面へ移っただけだった。
それだけ、と言うには、あまりにも広い。
広くなったからといって、わたしの手から完全に離れてしまうわけではない。そう思えるまでに、少し時間が要った。
「……わかりました」
わたしは、膝の上で組んでいた指を、静かにほどいた。
掌には、さっき爪を立てた跡がうっすら残っていた。痛みは小さい。けれど、その小さな痛みが、いまここにいる自分の輪郭を確かめさせてくれる。
「わたし、しっかり読みます。望まぬ答えを、結ばせないために」
声は、思ったよりもまっすぐに出た。
強がりではなかったと思う。迷いがなくなったわけでもない。胸の奥にはまだ、昨夜の煙が残っている。逃げ惑う人の足音も、乾いた記録になってしまうものたちも、消えたわけではない。
ただ、それらを消えないまま読むと決めた。
ヴィルが、うしろでわずかに身じろぎする気配があった。革の擦れる音が、ごく小さく落ちる。
何も言わない。
けれど、その沈黙が、肯定の重さでそこにあった。
短く褒めることも、余計に慰めることもしない。ただ、わたしが選んだ持ち場の後ろに立ち、必要なら止める。そういう人の沈黙だった。
「よろしい」
お祖父さまは、机上の書簡を、わたしのほうへ静かに押し出した。
紙束が卓をすべる音は、ひどく乾いていた。その音だけで、部屋の空気が少し変わる。祖父と孫の対話から、記録と判断の時間へ。冷たく切り替わったわけではない。さっきまでの温度が、紙の下へ薄く敷かれたまま残っている。
「では、これまで得られた情報の精査から始めようか。まずは、ローベルトの速報からだ」
その端が、指先に触れた。
古い紙の匂いがした。戦場の焦げた臭気とも、血の匂いとも違う。それでも、喉の奥の苦みは消えなかった。
消えないまま読むしかない。
苦みを消してしまえば、早く結べてしまう。
怒りへ、恐怖へ、敵の名へ。
あるいは、救えるはずだったという自分への責めへ。
そのどれも、きっと簡単だった。簡単だからこそ、いまは選んではいけない。
わたしは一枚目の紙を、自分のほうへ引き寄せた。
ローベルト将軍の筆跡は、速報らしく硬く、余白を惜しむように詰まっていた。文字の列の奥に、白銀の塔で聞いた声がかすかに戻る。父を知っていた人の声。王宮の門前で閉じられた言葉を、いまもどこかに抱えている人の声。
その人が見た王都の夜を、わたしはこれから読む。
急いで線を引かないために。
けれど、必要な線を失わないために。
白い剣の柄に添えた指の下で、あたたかさが一度だけ、静かに脈を返した。




