切れてはならない橋
グレイ総長――お祖父さまは、執務机の向こう、深い椅子に腰を下ろしていた。
初めてこの部屋へ入ったときと、ほとんど同じ位置だった。巨大な机。背後の書棚。古い紙と木の匂い。昼前の光が、机上の封蝋を淡く照らしている。
机の上には、すでに封を切られた書簡が数通、角を揃えて置かれていた。一見、ただの書類の束だった。けれど、いちばん上の端を押さえるお祖父さまの指だけが、少し強い。
わたしが無事だという報せは、もう届いているのだろう。
それでも、お祖父さまは、すぐにはそこから目を離さなかった。文字だけでは足りなかったのだと、遅れて気づく。
お祖父さまは、立ち上がらなかった。
ただ、書簡から目を離し、まっすぐにわたしを見た。その一拍だけが妙に長い。次の瞬間には、いつもの穏やかな顔へ戻っていた。戻り方が、あまりに整いすぎていた。
わたしは一礼し、口を開こうとした。
「お祖父さま。昨夜の件について、わたしから――」
けれど、声は最後まで届かなかった。
お祖父さまが、片手をわずかに上げたのだ。遮るというより、落ちかけたものを受け止めるような手つきだった。
「座りなさい、ミツル」
その声は、総長の声ではなかった。
少なくとも、最初の一音は。
「報告の前に、まずは労わせておくれ。君は昨夜、この王都のため、無辜の民のため、ずいぶん骨を折った。いや、骨どころではないな。心のほうまで、ずいぶん削られたという顔をしている」
言い返そうとして、舌が止まった。
窓の外では、遠くの中庭を風が渡っていた。枝先の若葉が細かく揺れる。音はここまで届かない。その静けさが、かえって昨夜の残りを肌の上へ押し戻してくるようだった。
お祖父さまの視線が、わたしの半歩うしろへ移る。
「ブルフォードよ。君もご苦労だった。よく、ミツルをここまで連れ戻してくれた」
ヴィルが、わずかに顎を引いた。
革手袋の指が、一度だけ握られる。布と革の擦れる短い音が、総長室へ落ちた。
「護衛騎士として、当然の役目を果たしたまでです」
短い返答だった。
けれど、その声は乾いていた。眠らず、濡れた石畳を踏み、血と煤の匂いの中で、ずっと隣にいてくれた人の声だった。
お祖父さまは、それ以上は言わなかった。
ただ、目を伏せた。その沈黙が、礼の形をしていた。
「……ご心配を、おかけいたしました。大変、申し訳なく思います」
「いやいや、私は何も責めているわけではない。だが、心配くらいはさせておくれ。私は、君の祖父なのだからね」
その言葉の終わりで、机上の書簡を押さえていた指が、ほんの少しだけ浮いた。
何かに触れようとして、触れないまま戻ってきた指だった。羊皮紙の端がかすかに鳴り、乾いた音だけが、わたしたちの間へ落ちる。
書面の上でなら、わたしの無事はもう届いていたはずだ。
それでも、お祖父さまは頬の色を見た。呼吸を見た。肩に残った力まで、見落とさなかった。
「うむ……顔の血色も、悪くはないようだな。安心したよ」
軽く言ったあと、お祖父さまは椅子を指し示した。
その手つきは穏やかだった。けれど、肘掛けから離れた指先には、まだ消えきらない力の跡が残っている。
ヴィルが半歩うしろで、わずかに身じろぎする。何も言わない。座れ、という圧だけが背中に来た。
わたしは仕方なく椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、膝の裏から力が抜ける。平気なつもりでいたのは、わたしだけだったらしい。白い剣を抱え直すと、柄の冷えが掌へ戻ってきた。
「ですが、事は急を要するかと思います。手遅れになる前に、こちらから手を打たねばなりません。敵の首魁が死に際に残した、『狼煙』という言葉の意味が気になるのです。これで終わりではない。昨夜の出来事は、きっと前触れに過ぎないのではないかと。それから、術式化魔石核片を植え付けられた――」
自分でも、順番が崩れているとわかった。
狼煙。首魁の死。術式化された魔石片。まだ起きていないはずの次の発火。
ひとつずつ置くべきものが、喉の奥で先を争っていた。報告ではなかった。昨夜から残っている焦げたものを、ただ吐き出しているだけだった。
「それも、少し待とう」
穏やかな声だった。
なのに、逃げ道のない声でもあった。
お祖父さまは机上の書簡へ視線を落とし、一通をそっと指先でずらした。
「君が報告しようとしていることは、おおよそではあるが、すでに把握している」
「……それは、どこから流れてきた情報でしょうか?」
思わず聞き返すと、声が少し幼く響いた。
お祖父さまの口元に、小さな笑みが浮かぶ。こちらの驚きを、先に知っていた人の顔だった。
「将軍府発の正式な報告ではない。表向きにはね」
封蝋の赤が、机上でひどく醒めて見えた。
「現場のローベルトから、内密に速報便が届いたのだ」
「え……」
眠りの残りが、一瞬で消えた。
正式な経路ではない、と言われる前から、その書簡がただの報告ではないことだけはわかった。封の押し方も、運ばれてきた急ぎの気配も、まだ部屋の空気に残っている。
離宮で眠っていた数時間が、急に遠くなる。
「たしかに将軍は、総長宛に報告書を提出するとおっしゃっていました。でも……こんなにも早く、ですか?」
「もちろん、正式な手続きを経たものではない。ゆえに、取り扱いには注意を要する。だが、現時点で得られる情報としては、これ以上なく正確だ」
「ですが、あの方も現場の指揮でお忙しいでしょうに……」
その数時間のあいだにも、王都のあちこちでは人が走り、記録がまとめられ、封が押され、誰かの手から誰かの手へ渡されていた。
わたしが湯を浴び、茶を飲み、焼き菓子を齧っていたあいだに。
「添付資料もあるぞ」
お祖父さまは、束の下から薄い綴じを引き出した。端が少し歪んでいる。急いでまとめられたものなのだろう。
「ラウール殿の分析表と、いくつかの推測だ。急変兆候者の状態、発動前後の変化、術式化魔石核片の反応傾向についての考察。加えて、首魁が残した『狼煙』という言葉についての、暫定的な見解も含まれている」
お祖父さまは、資料の端を静かに揃えた。
「価値ある情報だよ。現場でしか得られない、まだ熱を失っていない情報だ」
「ラウールまで……」
ありがたかった。
けれど、すぐには喜べなかった。わたしが眠っていたあいだに、誰かが走り、誰かが書き、誰かが封を押した。その手渡しの跡が、いま目の前にある。
助けられている。
その事実は、あたたかいのに、少し痛かった。
「なんてことでしょう……。それでは、わたしの立つ瀬がないではないですか」
そう言ったはずなのに、唇の端だけが、少し遅れてほどけた。
笑ってしまうには申し訳なくて、俯くには温かすぎる。わたしの言葉になるはずだったものを、誰かが先に整えてくれた。そのありがたさだけが、机の上で白く黙っていた。
「ですが、彼らには感謝を伝えたいです。わたしひとりでは、どうにもならないことばかりでしたから」
お祖父さまは、少しだけ目を細めた。
「それは違うよ、ミツル。君こそが最大の功労者だ。昨夜の王都で、君がいなければ読めなかったものがある。止められなかったものもある。なにより、人を人として扱う一線を、君は最後まで手放さなかった。違うかな?」
その言葉を、すぐには受け取れなかった。
喉が詰まる。礼を言うべきなのか、否定すべきなのか、自分でもわからない。
「ローベルトも、ラウール殿も、それをよく知っている。だからこそ、君にこれ以上の負担をかけまいと、君が少しでも安んじることができるようにと、整えたのだろう。すべては、君を気遣ってのことだ」
机の上の資料が、光を受けて白く浮いた。
お祖父さまの声は、そこで硬さを帯びた。
「だが、問題は残っている。言うなれば、内憂外患、とでも言うべきか……」
「と、いいますと?」
「我が愚息、現王ロイドフェリクのことだ……」
名前が落ちた瞬間、部屋の空気が低くなった。
ロイドフェリク二世。
リーディス王国の現国王。
その名は、王宮の白銀の塔のように遠い。けれど、遠いだけではない。あの人の言葉は、玉座の上から母の名を、父の名を、わたしの名を、別のものへ変えようとした。王の言葉には、それができてしまう。
昨夜の騒乱が市中の混乱で終わらないなら、次に必要なのは救護だけではない。封鎖、調査、外交、軍の再配置。
けれど、その決断を下す人は、真実だけでは動かない。
根拠と体面、王権としてのかたち。
その人の言葉がなければ、兵は動かない。けれど、その人の言葉が、また誰かの名を変えるかもしれない。
膝の上で、指に力が入った。
白い剣の柄が掌に触れ、ひやりとした温度を返してくる。
「国王である彼を説得し、決断させるに足る材料が揃ったとは言い難い」
お祖父さまは、ゆっくりと続けた。
「王宮の正式な手続きに載せ、確たる証拠と呼ぶには、まだ弱いと言わざるをえないのだ」
拠点らしき倉庫は焼けてしまった。首魁の配下と思しき者たちは、口を閉ざすように死を選び、首魁は自分の身体ごと証拠を消した。囮もまた、役目を終えるように停止し、自壊した。
残っているのは、痕跡と、焼け残った欠片と、わたしたちの証言と、まだ形を結びきらない推測ばかりだった。
「王都を揺るがすほどの……いいえ、国そのものを根底から危うくするほどの重大事であったとしても、ですか?」
「たしかに、昨夜の出来事は重大だ。だが、重大であるほど、ロイドフェリクは形式を求める。何を根拠に兵を動かすのか。何を根拠に街区を封じるのか。何を根拠に、クロセスバーナの名を王国の前へ置くのか」
言葉のひとつひとつが、机の上へ置かれていく。
これまでわたしが立ってきた場所では、まだ身体が先に動けた。
苦しむ人がいれば助ける。敵がいれば止める。術式の歪みがあれば読む。間違えてはならない線を、目の前の誰かの呼吸に合わせて引き直すこともできた。
けれど王の前では、それだけでは足りない。
正しい、と言うだけでは扉は開かない。兵を動かし、街区を封じ、国境の向こうの名を王国の前へ置くには、崩れない形が要る。
「だから、ローベルトは正式な報告を待たなかった。ラウール殿も、分析結果が完全に整う前に、推測を添えた。彼らは、現段階で得られた情報のすべてを、急いで私へ寄越したのだ」
「つまり……ローベルト将軍は、お祖父さまを頼った。王様を説得していただくために。そういうことなのですか?」
言ってから、自分の声が少し強張っていることに気づいた。
お祖父さまは、すぐには答えなかった。
窓の外で、雲が光を横切る。書架の金文字が鈍り、部屋の輪郭が沈む。
その沈黙の中で、机上の書簡がただの報告ではないことを理解した。
これは、現場から先王へ渡された橋だ。
王を動かすための、まだ細く、けれど切れてはならない橋。
お祖父さまは、静かに息を吐いた。
「そうだね。言葉を選ばぬのであれば、そういうことになるだろう」
声は穏やかだった。
けれど、そこにあるものは、祖父の温度だけではなかった。かつて王冠を戴いた人の、古い責務の重さが、机の向こうに立っていた。
わたしは、膝の上の指を一度ほどき、また組んだ。
ここで問われているのは、見たものをどう言葉にするかだった。
患者の呼吸を診るための読みではない。魔素の流れを追うための読みでもない。紙に置いた一語が、兵を動かし、街の扉を閉じ、人の名を敵へ変えてしまう。
それでも、書かなければならない。
書かなければ、今度は何も動かない。
どちらも、怖かった。
「では、わたしはどうすればよいのでしょうか?」
問いは、思っていたより小さく落ちた。
小さかったのに、部屋の静けさはその言葉をすぐには手放さなかった。机上の書簡も、封蝋も、窓辺に沈む昼の光も、みな息を潜めているように見えた。




