いつものあなた
目が覚めたとき、白い光はもう、寝台の端まで届いていた。
夢は見なかった。
そのかわり、舌の裏に夜が残っている。焦げ、薄い鉄、煙。湯を通していないものだけが、身体の内側で昨夜の形を保っていた。
まぶたを持ち上げると、天井の梁がゆっくり像を結んだ。赤い天幕の裾が、窓から入る風にふれている。庭のほうから、鋏の噛み合う乾いた音が届いた。急ぎ足の靴音も、扉を叩く拳の音もない。
それが、安堵だった。
何かあれば、誰かが走ってくる。灰月か、侍医司か、魔導兵団か、将軍府か、魔術大学か。どこからでも線は届く。けれど今は、来ていない。
肋の内側で固く絞られていたものが、息を吐く隙間だけゆるんだ。
手の中には、まだ白い剣があった。眠るあいだも、柄を離していなかったらしい。羽根のように軽いのに、確かにそこにある重さ。その白を握り直してから、わたしはもう一度、息を吐いた。
「……起きてる、茉凛?」
《《ほいなー。起きてるよ。というか、わたしは寝ないので、ずーっと起きてるっての》》
「そうだったわね。あなたは、眠くならないのよね……」
《《お寝坊さんは、ようやくお目覚めですかね。もうお日さま、けっこう高いみたいだね。だいたい昼前ってとこかな?》》
「……そんなに寝てたの?」
《《ぐっすりだったよ。途中、ちょっとうなされたみたいだけど、すぐ沈んでいったから、ほっとしたよ》》
「ありがとう。……夢も、見なかったわ」
《《だろうね。夢を見る場所まで、たどり着けてなかったもん。玄関入った途端に力尽きた感じ》》
「玄関って、どういう意味?」
《《魂の玄関ってかんじ。ぱたん、って》》
くだらない、と思ったはずなのに、口の端だけが先にほどけていた。
《《だってさ、ここんところ講義の準備で睡眠不足だったじゃない? 毎晩机に突っ伏して寝落ちかけてたし、わたしが声掛けなかったら、風邪引いちゃってたとこだよ》》
「そうね。もうぎりぎりだったし。茉凛の声掛けには、感謝してます」
《《昔の試験勉強のときとは逆の立場だね。今度はわたしが教官で、美鶴が生徒でさ》》
教官、という響きに、古い机の木目が戻ってきた。
蛍光灯の白さ。すこし滲んだノートの罫線。眠気に負けそうな目で、それでも背筋だけは伸ばしていた茉凛。わたしはずいぶん偉そうに、たぶん彼女が笑ってくれるところまで計算して、声を張っていた。
その記憶はもう、わたしだけのものではない。
解呪のために記憶を分け合ったあの日から、わたしたちは、共に過ごした時間の裏側まで知っている。机の木目も、ノートの端も、わたしが変に声を張った理由も、茉凛の中に残っていた。
近すぎる記憶は、照れ隠しの逃げ道まで塞いでしまう。
「でも、あなたはわたしみたいな鬼教官とは違うよ。なんていうか……」
――ああ……やっぱり、お姉さんなのかも。
そう思うと、みぞおちのあたりがくすぐったかった。湯にも触れていない朝の空気が、喉の中でやけに軽い。
《《なんていうか?》》
「なんでもない。ただ……そういうところ、昔からずるいわよね」
《《ずるい?》》
「わたしが隠しておきたいことまで、あなたはもう知っているんだもの」
《《知ってるよ。美鶴が優しすぎたことも。わたしを追い詰めないように、わざと大げさに鬼教官をしてくれてたことも。わたしのこと、すんごく大切に思ってくれたことも。だからいま、こうしてるんだよ》》
「そう……茉凛、ありがとうね」
そこまでまっすぐ言われると、抵抗のしようがなかった。
わたしが隠しておきたかった理由も、笑わせるために張った声も、うまく言えなかった祈りも、彼女はもう知っている。知ったうえで、こうして軽い声のまま、朝へ戻してくれる。
――茉凛。やっぱり、あなたはわたしにとっての奇跡なんだよ。
白い柄に添えた手が、ようやく力を抜いた。
わたしと茉凛は、一緒に生きている。その事実は、いまさら祈り直さなくても、掌の中にあった。
◇◇◇
しばらくして、扉が控えめに鳴った。叩く強さに迷いがない。リディアの手だった。
「お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
「……ええ。起きてます」
「湯のお支度が、整っております」
扉を開けて入ってきたリディアは、昨夜のことを何ひとつ口にしなかった。煤けた外套がどこへ片づけられたのかも、寝具に移ったかもしれない汚れのことも。
ただ、寝台の脇の水差しを下げ、新しい布を腕にかける。こちらの足元へ一度だけ目を落とす。その目の整い方が、かえって逃げ場をなくした。昨夜のわたしが、どれほどひどい姿で戻ったのか。言われなくてもわかってしまう。
「お加減は、いかがでしょうか?」
「よく眠れましたから、ずいぶん楽になりました」
「それは、ようございました。お顔の色も、今朝よりは」
「そんなにひどかったでしょうか? 顔が煤けていたのは確かですけど」
「……お答えしてよろしいものかどうか、迷う程度には」
いつものリディアの言い方だった。答える前に、喉の底で笑いがほどける。
「正直なのですね」
「お嬢様がお訊きになりましたので」
「反省しています」
リディアは、決して問い詰めない。
それは、身分差だけのことではないのだと思う。幼い母がドレスを汚し、叱られる前に笑って逃げた日のことを、この人はきっと知っている。困らせられて、ため息をついて、それでも湯を用意し、布を替え、髪を梳いたのだろう。
だから今も、わたしの汚れた髪や煤けた顔を責めない。ただ、次の手順へ連れていってくれる。
「はい。昨夜のご苦労は、湯でよく流してしまいましょう。新しい一日をお迎えになるためにも」
湯殿へ向かう廊下は、昼前の白さに乾いていた。
朝露は消えかけている。石床は夜の冷たさを手放し、靴音をやわらかく返す。壁際の花は替えられていて、淡い香りが、髪に残る煤の匂いと、廊下の途中で静かにぶつかった。
湯殿へ移る前に、リディアが若緑の髪へ手をかけた。
金具が外れる小さな音が、朝の廊下に澄んで響く。煤を吸った毛先が肩から離れ、首筋へ空気が触れた。
「こちらは、お預かりいたします」
「……ずいぶん、汚してしまいましたね」
「よく、お役目を果たされました」
責めるでも、惜しむでもない声だった。リディアは若緑の髪を白い布の上へ横たえた。眠らせるような手つきだった。
黒髪がほどけると、湯気の中で、わたしは急に自分の重さへ戻った。
まず、ぬるめの湯を肩へかけられた。
肌を伝って、湯が濁っていく。煤が溶け、潮がほどけ、市場の魚と油の匂いが湯気のなかへ逃げていった。髪をすすぐと、手のあいだから黒ずんだ水が落ちる。リディアが櫛を通すたび、戦場の匂いが一筋ずつ抜けていく。
湯は、夜の汗も、煙も、血の鉄臭さも、ひと筋ずつ石床へ連れていった。
洗い終えた黒髪を、リディアがやわらかな布で包んだ。水を含んだ重みが首の後ろへ落ち、そこだけがひやりとする。布の端から一滴だけ水が落ちて、石床に濃い点を作った。
それから、清潔な湯へ身を沈めた。
湯に包まれた瞬間、肩の奥で強張っていたものがほどけた。湯面が胸の下で揺れ、白い湯気が頬へ当たる。布に収められた黒髪の重みだけが、首の後ろに残っていた。
終わったのかもしれない、と身体が思いかけた。
清潔な湯。櫛の感触。傍らに用意された替えの衣。それらが、生きて戻ったのだとわたしへ教えてくる。
けれど、舌の奥の焦げた苦みだけは、湯を通しても落ちなかった。
煤は肌から落ち、服も替えられる。そうして外側が一枚ずつ整っていくほど、身体の内側へ入り込んだ夜だけが、形を変えずに残る。
――まだ、終わっていない。
狼煙の意味を、まだ報告していない。術式化魔石核片を植えつけられた人が、あとどれだけいるのか。死に際に放たれたあれは、ほんとうに不発だったのか。湯の温かさのなかでも、その問いだけは冷たかった。喉の底へ石のように沈んでいる。
湯から上がり、湯殿に続く控えの間へ移ると、リディアが布で黒髪の水気を押さえてくれた。
濡れた髪は思ったより重い。首の後ろに冷たさを残し、布越しに水を吸われるたび、身体が少しずつ湯上がりの輪郭を取り戻していく。櫛の歯が、絡んだ毛先から夜の残りをほどいていった。
そのあいだに、別の侍女が茶器を運んできた。
侍女はリディアへ目礼し、丸盆を小卓へ置くと、すぐに部屋を下がった。扉の閉まる音は、湯気に吸われるみたいに小さかった。
ローズヒップは控えめ、と昨夜頼んだとおりだった。湯気の立つ杯のそばに、白い紙包みが添えられている。角の折れた、あの焼き菓子だった。
「……何から何まで、すみません」
「お嬢様のお言いつけですもの。甘すぎないお茶を、と。それから、こちらの焼き菓子も、お約束のものでございます」
一口、茶を含む。
薄い甘さと香草の香りが、舌のざらつきの上を通り抜けていった。
焼き菓子をひとかけ齧る。素朴な甘さが、喉の奥に残っていた硬さをすこしだけゆるめる。
リディアはわたしの後ろに立ち、湿った黒髪の水気を布で押さえ直した。それから布をずらし、櫛を毛先へ通していく。櫛の歯が触れるたび、頭皮に涼しさが残る。音を立てない手つきなのに、そこには問い詰めるより深い心配があった。
《《ね、美鶴。気づいてる? いま、わたしの予定表、ちゃんと進んでるよ》》
「予定表?」
声は小さく、櫛の音にまぎれるほどだった。
《《寝る、湯浴みする、焼き菓子を食べる、リディアさんのお茶を飲む。昨夜わたしが作った、完璧なぐーたら予定表だよ》》
「……あれ、本気だったの?」
《《もちろん本気だよ。あとは、ちゃんと食べること。それからヴィルといっしょに厩舎に行って、スレイドにお礼を言うだけだね。優秀な妹で、お姉さんは鼻が高いですぞ》》
「これがぐーたらというものかしら。ひとつも怠けていないと思うのだけど」
《《してるよ。お姉さん公認のぐーたらは着実に進行中》》
「勝手に言ってなさいよ。もう……」
リディアの櫛が、最後に毛先を一度だけ梳いた。
「お髪は、もう少し風を通してからまとめましょう。お食事の前に、冷えてしまわれてはいけませんから」
「ありがとう。……なんだか、あなたの手を借りてばかりで、申し訳なく思います」
「どうか、そのようにはおっしゃらないでくださいませ。わたくしは、メイレアさまがまだ小さくていらした頃より、おそばにお仕えしてまいりました。いま、その御息女でいらっしゃるお嬢様のお髪を整え、お茶のお支度をさせていただけますことを、この上ない喜びと存じております」
濡れた髪を押さえる布の上で、リディアの手が一度だけ止まった。
「昨夜の仔細は、わたくしには分かりません。けれど、お嬢様が人々のためにお力を尽くされたことは、お姿を拝見すれば分かります。でしたら今は、誰かの手を借りることを、どうかご自身でお咎めになりませんよう」
返す言葉が、すぐには見つからなかった。
「……はい」
濡れた黒髪は布に収まり、首筋だけが涼しい。茶の香りと焼き菓子の甘さが、まだ舌に残っている。
やがて髪の水気が落ち着くと、リディアは布を外し、黒髪を丁寧に梳いた。櫛の歯が毛先を抜けるたび、湯殿の白い湿り気が遠ざかっていく。
最後に、黒髪は首の後ろでゆるくまとめられた。まだ完全には乾いておらず、結わえた先だけが、背中のあたりでひやりとした。
魔術大学の紺色の制服が用意されていた。
袖を通すと、しっかり織られた布地の重みが肩へ乗った。離宮の寝衣とも、湯上がりの薄衣とも違う、外へ出るための重さだった。釦をひとつずつ留めていくたび、湯にほどけていた身体の輪郭が縫い直されていく。襟元を整えられ、袖口を直されるうちに、背筋の奥へ芯が戻った。
戦う人の重さではない。寝台へ沈んでいた身体の重さでもない。これから、読みに行く人として、制服は肩に乗っていた。
リディアが最後に襟元へ手を添え、わずかな歪みを直した。
「お支度、整いましてございます」
「ありがとう、リディアさん」
鏡の中のわたしは、まだ顔色が薄かった。
けれど、湯を浴び、髪を梳かれ、制服を着たその姿は、もう寝台に沈んでいた少女ではなかった。
支度を終えて、小さな食事室へ下りると、ヴィルはすでに窓辺にいた。
外を眺めていた彼が、こちらの足音で振り返る。首の後ろでゆるくまとめられた黒髪の先が、背中のあたりでまだ冷たい。
卓には、透き通った琥珀色のコンソメスープと、割ったパンと、水の硝子瓶が並んでいた。重すぎず、けれど空腹を放っておかない、リディアらしい支度だった。
湯気の奥に、骨と香草の匂いがある。その香りに触れると、喉の奥に残っていた夜が、ほんの少しだけ遠のいた。
ヴィルはまだ、席についていなかった。
待っていたのだ、と気づくまでに、一呼吸かかった。
すこし前は、冷え切った食堂だった。
そのときも同じように、ヴィルは食卓のそばにいなかった。銀器は冷たく、スープの湯気は細り、任務という言葉だけが、わたしと彼のあいだに硬く置かれていた。あのときの背中は、同じ部屋にいるのに、ひどく遠かった。
けれど、いまは違う。
昼前の光が水差しの硝子に乗り、琥珀色のスープから湯気が立っている。香草茶の残り香は、まだ唇の内側にやわらかく残っていた。
ヴィルは相変わらず、食卓にはつかない。こちら側へは来ない。けれど、背に受けるまなざしがある。奇妙なくらい、呼吸が楽だった。
あのとき、わたしは背中で、彼の誠実さを受け取っていたのだと思う。
からかわれている気配も、見守られている温度も、言葉にされないまま置かれた気遣いも。どれも、ただの護衛の手つきとして片づけるには、深く残りすぎていた。
――それにしても、なんてわかりやすいのかしら。『わたしの背中は誠実なのよ』と言ったのに。
なんにもわかっていなかった。
彼の背中ではなく、それを受け取るわたしのほうが、ずっと遅れていたのかもしれない。
けれどヴィルは、きっと気づかない。
感謝だと思うだろう。安心したのだと思うだろう。たぶん、それ以上の名前を、彼はわたしより先に持とうとはしない。
いまは、これでいい。
わたしを見てくれていること。そばにいてくれること。それだけで、昨夜から残っていた冷えは、昼前の食事室でほどけていった。
わたしはスプーンを手に取り、スープのボウルへ目を落としたまま問いかけた。
「ヴィル……今のところ、動きはない?」
「ない。少なくとも、離宮へ入る急報はひとつもない」
短い返事に、肩の力が抜けた。
抜けたぶんだけ、別のものが落ちてくる。離宮が静かなのは、わたしが眠っていられたからだ。その静けさのために、まだ眠れずに動いている人たちが、王都のどこかにいる。
「便りがないのはいい便りとはいうけれど……まずはよかったと言うべきかしらね。でも、現場にいる人たちは、まだ……」
「お前が気を回す番は、報告のときだ。今じゃない。余計な心配はするな」
素っ気ない言い方の奥に、皿へ戻れ、という実務の圧があった。
いまのわたしにできることを、ひとつずつ取り戻せと。水を飲み、温かいものを口にし、報告できる頭を起こせと。
「ところで、あなたは寝たの?」
「少しはな」
「少し、って……」
「問題ない。言っただろう。戦場に長くいりゃ、細切れに眠るのが癖みたいになっちまうんだ」
「それを、問題ないって言っていいのかしらね。あなただって、もう若くないんだから」
「言ってくれる。ま、いざとなりゃお前を頼るさ。持ちつ持たれつだ。ただし、今は俺が見る範囲だがな」
返す言葉に詰まって、わたしは杯へ口をつけた。
水は冷たすぎず、乾いた喉をまっすぐ通った。
杯を置く音が、小さく響く。
それから、わたしは恐る恐る振り向いた。
ヴィルはまだ窓辺にいた。こちらの顔をしばらく見てから、ふっと息を吐く。
「血色は……まあまあだな」
「まあまあ?」
「最悪は抜けたって意味だ。しっかり寝て、水を飲み、飯を食う。一通り済ませれば体は戻る。頭だって回るはずだ。さあ、まずは目の前の飯に向かえ」
――いちいち、言い回しが軍隊じみているのよね。
普通のひとが聞けば、ただのぶっきらぼうの無神経だろう。けれど、わたしにはもう、その下にあるものが少しだけ分かってしまう。
「ご指導、どうも。鬼の教官殿」
「何が教官だ。ま、聞く気があるなら上出来だ」
スープを口へ運ぶ。
温かさが、舌のざらつきをやわらかく覆っていく。パンを割る音が、戦場のあとの食事室に、ひどく日常めいて響いた。
ふと、気づいたことがあった。
「……そういえばだけど」
「なんだ」
ヴィルは卓の端へ寄り、水差しへ手を伸ばしかけていた。
「ちょっと前の、護衛騎士らしいすまし顔は、いったいどこへいったのかしら?」
ヴィルの手が、水差しの上で一瞬だけ止まった。
すこし前のことだった。王宮の目が離宮へ向き、精霊魔術の講義が国家の催しめいて膨らんでいったとき。ヴィルは、わたしと自分のあいだに、一本きれいな線を引いた。護衛騎士と、その守護対象。距離を保つことで、王宮側へ余計な口実を渡さないために。
理屈は、わかっていた。わかっていたのに、あの線は、少しだけ寂しかった。
「んなことしてる場合か」
ヴィルは、こともなげに言った。
「それでお前を守れるならやる。だが、今は無理だ。体裁なんざ取り繕ってたら、間に合わんだろ」
「……あらま」
「不満か?」
「ううん。そんなことないよ」
首を振ってから、わたしは笑った。
「さすがにヴィルには似合わなすぎだったもの、あの顔」
ヴィルの眉間がぴくりと動いた。
「やっぱり無理は禁物よね。それに……わたし、いつものあなたの方が好みよ」
言ってから、一拍遅れて、自分の言葉が部屋に残っているのに気づいた。
頬が熱い。
湯上がりの火照りなのか、口にしてしまった言葉のせいなのか、自分でも判別がつかなかった。取り消したくなる。なかったことにして、別の話へ逃げたくなる。
けれど、昨夜の茉凛の声が、まだ胸のどこかに残っていた。
大事だと思ったものを、なかったことにしない。きれいな箱に入れて、鍵をかけて、押し込めない。名前をつけなくても、手元に置いていい。
だから、わたしは取り消さなかった。言ってしまった事実を、そのまま卓の上へ置いておく。
ヴィルは、表情を変えなかった。ただ、水差しに添えた手だけが、わずかに止まっていた。
「そうか」
それだけだった。
水差しを置く音が、ほんの少しだけ遅れた。否定もしない。問い返しもしない。ただ受け取って、卓の向こうへそっと置くような、短い返事だった。
《《はい、鍵をかけなかった。よくできました》》
茉凛の声が、耳の奥で得意げに笑う。
わたしは答えなかった。答えたら、頬の熱の理由が、ひとつに決まってしまう気がした。
◇◇◇
食事を終え、リディアが馬車へ水筒を持たせてくれた。
「道中、喉が渇かれましたら」
「ありがとう、リディアさん」
「先王陛下にも、どうぞよろしくお伝えくださいませ」
馬車寄せの石は、もう乾いていた。
朝露の名残はなく、昼前の白い光が、屋根の庇に溜まっている。スレイドが軽く首を振り、鼻先から短い息をこぼした。昨夜の冷えを越えた毛並みは、陽を吸って温かそうに見えた。
馬車へ乗る前、わたしはスレイドの首筋へ手を伸ばした。
「昨夜は、ありがとう。あなたも少しは休めた?」
スレイドは、わかったのか、気に入らなかったのか、短く鼻を鳴らした。
けれど、ヴィルが手綱を持つ手を緩めたので、たぶん、伝わったのだと思う。
ヴィルがスレイドの鞍へ手をかける。馬車の外で伴走するのだ。同じ場所に乗らなくても、同じ速度で進むことはできる。
馬車が動きだす。
窓の外、並木道の先に、王都の屋根並みが見えた。
――よかった。遠目には、大きく変わっていないように見える。
井戸端では水が汲まれ、店先では昨夜の煤を払う箒が動き、割れた硝子を片づける手もあるのだろう。少なくとも、表向きは、昼へ戻ろうとしている。
スレイドの蹄の音が、車輪の音に重なって、一定の拍を刻んでいた。
隣にいるわけではない。けれど、その拍は、ヴィルが同じ速度で進んでいることを、身体へ知らせてくる。
それだけで、不思議と呼吸が落ち着いた。
◇◇◇
王都は、昼へ戻ろうとしていた。
井戸の縁で水が跳ね、店先で煤が払われる。東の門の外では、まだ名を呼ぶ声が続いている。誰かが小さく笑い、箒の音が、昼の石畳に軽く跳ねた。
夜を越えたのだと、そう信じはじめた街の息づかいだった。
けれど、白い石畳の下では、別のものが目を開けつつあった。
古い排水溝の壁を、薄い線が一本、なぞっていく。
橋脚の影に沈んだ石の欠片が、内側から淡い光を抱きはじめる。
閉ざされた倉庫の床下で、煤に似た紋様が、息をするように脈打つ。
使われなくなった小さな祈りの部屋で、床板の裏に、淡い輪が音もなく滲んだ。
誰にも見られず、気づかれないまま。
音は、砂を擦るほどに小さく、水底で泡がひとつ潰れるほどに小さかった。
それらは叫ばないし、燃え上がりもしない。
ただ、狼煙を受け取ったものだけが知る時刻へ向けて、目盛りを進めていた。
首魁の死は、終わりではなかった。
合図だったのだ。
◇◇◇
馬車が、王立魔術大学の裏門をくぐる。
離宮から王太子時代の道を抜けるこの導線は、正門よりもずっと静かだった。学生たちのざわめきや、講義へ急ぐ足音は、壁の向こうで薄くほどけている。
校舎群の向こうに、灰色の塔が見えた。
王宮の白銀の塔が王権の光を背負うものなら、こちらは、知と観測を灰色の石に沈めた塔だった。昼前の光のなかで、塔はひどく静かに立っている。
馬車から降り立ったわたしを、ヴィルが半歩うしろから守る位置につく。その立ち位置だけは、いつもと変わらなかった。
校舎へ向かう階段の上から、大学の空気が降りてくる。
古い紙と、乾いた木と、何百人もの足が磨いてきた石の匂い。インクの澱んだ甘さが、そこへ混じっている。戦場の焦げた臭気とは違う、考える者たちだけがつくる静けさだった。ここでなら、言葉にできるはずだった。狼煙の意味も、術式化魔石核片の不安も、まだ輪郭を結ばない危機のかたちも。
けれど、舌の奥の苦みは、まだ消えていない。
石段の冷たさが、薄い靴底を通して足裏へ伝わってくる。一段のぼるごとに、知の場が身体を迎え入れていくのに、その苦みだけは、どの段でも残ったままだった。
湯を通しても落ちなかったそれを飲み込みながら、わたしは総長室へ続く階段を上っていった。




