唯一人の騎士
お祖父さまは、わたしのほうへ押し出した書簡の束を、もう一度だけ指先で揃えた。
紙の角が、こつ、と乾いた音を立てて重なる。白い剣の柄に残っていたあたたかさが、まだ指の内側で細く続いているのに、目の前にある紙は冷たかった。墨の乾いた匂いが、さっき自分で決めたことを、もう一度こちらへ返してくる。
消えないまま読むしかない。
その言葉が、胸の奥でまだ静かに息をしていた。
「では、ローベルトの第一報から始めようか。……いや、その前にだ――」
紙の端を押さえていた指が、そこで止まった。
「確かに、この報告はよく整っている。地点も、時刻も、段階も、過不足なく並んでいる」
お祖父さまは、そこでわたしを見た。
総長ではなく、祖父の目だった。
「だが、紙には向かぬこともある」
喉の奥が、小さく締まった。
報告書は、出来事を並べるためにある。
どこで、いつ、何が起き、どの段階でどの判断が下され、どんな結果に至ったのか。そこに、迷いは載らない。斬れなかった理由も、斬らずに済ませようとした手の震えも、救えなかったあとに胸の奥で生まれてしまった安堵も、記録の行間へ押し込められていく。
やがて、余白の外へ削ぎ落とされる。
お祖父さまは、そこを見ていた。わたしが何を見たのか、その先を。何に迷い、何ができて、何ができなかったのか。報告書の外へこぼれたもののほうへ、静かに目を向けている。
それは、昨夜からずっと、皮膚の内側に残っているものだった。運河の湿った匂いも、石畳の冷えも、狙撃の気配が背へ貼りついた一瞬の、肩甲骨の下の強張りも。倉庫の前で足元の石が内側から光ったときの、息を奪われるような青白さも。
そして、そのあとのこと。
わたしたちを足止めするために、五人が残っていた。
屋根の狙撃手。橋下の二人。水門脇の魔術工作員。鎖をほどいたもう一人。足止め役五名との交戦。
〈場裏・白〉による一時拘束。
そう書けば、まず事実は並ぶのかもしれない。けれど、その人たちが濡れた石畳を踏んで近づいてきた音は、そこには残らない。逃げるためではなく、勝つためでもなく、起動の鍵を握る首魁を先へ行かせるために、自らの身体を数秒分の道具へ変える音。
――捨て石。
その言葉さえ、たぶん正式な書面には向かない。
右から滑り込んできた刃は、喉ではなく、マウザーグレイルの柄へ触れている指を狙っていた。鎖はスレイドの首へ向かい、術式盤へ沈んでいく指が見えた。どれも、殺すためだけの動きではなかった。こちらの初動を遅らせ、進路を詰まらせ、数秒を奪うための動きだった。
わたしには、斬れなかった。正確に言うなら――死に至らしめることを怖れた。
だから風で閉じ込めた。〈場裏・白〉を放ち、五人をそれぞれ内側へ呑み込ませた。腕を、足を、ローブの裾を、武器を、呼吸を。閉じた風の中で絡め取り、動きだけを奪っていった。
けれど、長く続ければ、呼吸を奪う。
そのことを、身体のほうが先に知っていた。だから、わたしは解いた。殺さないために。これ以上閉じこめてしまえば、止めるための術が、殺すための檻へ変わってしまうと思ったから。
黒いローブの裾が、濡れた石畳へ落ちた。
短刀が乾いた音を立てる。鎖が水路の縁で跳ねる。水面が、何も知らないように小さく揺れた。
次の瞬間、黒布の下で、何かが内側へ食い込むような気配がした。
爆ぜる音は、大きくなかった。
空気が、一度だけ硬くなる。焦げた布の匂いが喉へ貼りつき、膝をついていた人影が、糸を切られた操り人形みたいに崩れていった。
ひとり。
ふたり。
三人、四人、五人。
誰も、声を上げなかった。
報告書には、こう書けるのだと思う。
足止め五名。
一時拘束。
拘束解除直後、自決。
けれど、紙は書けない。
わたしが殺さないために解除したことを。
それでも止められなかったことを。
わたしが殺したのではないと分かっているのに、わたしが死を選ばせてしまったと思ったことを。
もし、もっと上手くやれていたら。
その考えは、濡れた石畳の冷えよりもしつこく足首へ絡みついた。もっと早く術式盤の指を止めていれば。もっと強く、でも呼吸を奪わない形で拘束できていれば。解除する前に、自決の仕掛けを見抜けていれば。誰かひとりでも、生かしたまま捕らえることができていれば。
そして、証拠も。
命を捨ててでも守ろうとしたものが何だったのか。誰に命じられ、どの合図で動き、どこまで知っていたのか。彼らを捕らえられていれば、首魁へ続く道も、クロセスバーナが王都へ仕込んだものの輪郭も、もっと早く、もっと確かに掴めたのではないか。
そんなことを考えても、もう遅い。
分かっている。
けれど、分かっていることと、考えずにいられることは違った。
手のひらには、まだ領域を解いた感触が残っていた。閉じた風をほどいたはずなのに、喉の奥ではまだ、空気が足りないような気がしている。殺さないために解いた。その理屈は間違っていない。けれど、その正しさのすぐ隣で、五つの身体が声もなく崩れていった。
報告書には、それを載せられない。
けれど、載らないからといって、無かったことにはできない。
そして、南港へ辿り着いたあと、首魁がいた。
足止めの五人とは明らかに違った。
あの人は、ただ差し出された捨て石ではなかった。
『ミツル・グロンダイル。貴様は、デルワーズの再来である』
その名を、あの人はわたしへ重ねようとした。
黒紫の外郭は、月の光を鈍く返していた。人の身体の下へ、別の硬さを無理に沈めたもの。人の腕の形をしているのに、人の腕ではない。人の声をしているのに、人のままでもない。
あの人を、ただの魔獣とは呼べなかった。
けれど、人だと言い切ることもできなかった。
ヴィルは、殺すためではなく、止めるために動いた。バルグが道を作り、ラウールが術式の奥を読み、ヴィルが外郭の継ぎ目を裂いた。首ではなく、胸でもなく、外郭の継ぎ目へ。捕らえるために。終わらせないために。
それでも、結末は、こちらの手の中にはなかった。
首魁の外郭が、内側から焼き切れていった。さっきまで武器として動いていた腕の奥で、白い灼けが灯り、証拠も、身体も、最後に残るはずだった言葉さえ、灰のように崩れていく。
首魁自壊。
証拠焼失。
この二語で、結果だけは整えられる。
けれど、紙は書けない。
わたしたちが、殺さずに止めようとしたことを。
それでも捕らえられなかったことを。
そして、壊れていくのを見ながら、わたしがほんのわずかに安堵してしまったことを。
これ以上、その人を傷つけずに済む。
そう思ってしまった。
その安堵が、いまも喉の奥に残っている。煙の苦みよりも、血の匂いよりも、ずっと消えにくいものとして。
――けれど、捕らえるべきものは、何ひとつ手の中に残らなかった。
首魁の声も。
身体も。
術式の核も。
誰が命じ、どこへ繋がっていたのかを示す、確かな証拠も。
残ったのは、焼けた匂いと、黒紫の外郭が灰へ変わる光景と、デルワーズという名を押しつけられたときの、舌の裏の冷えだけだった。
どの欄にも、それは入らない。
けれど、欄の外へ落ちたからといって、無かったことにはできない。してはいけないのだと思う。
「……この第一便の報告書には、載っていない部分ですね」
「そうだね」
声は責めるものではなかった。
「無理に語らずともよい。ただ、私が知らずに済ませてはいけないところだけ、聞かせてくれるかね?」
知らずに済ませてはいけない。その言い方が、ひどくお祖父さまらしいと思った。知りたい、とは言わない。聞かせなさい、とも言わない。けれど、知らずにいることを、この人は自分へ許さないのだった。
わたしは膝の上で指を組み替えた。爪の端が、さっきの跡をもう一度なぞっていく。
「わかりました。できるだけ、手短にお話しします。報告書と重なる部分も多いと思われますので」
わたしは、急送報告第一便に載らなかったものだけを、指先で拾うように語った。運河筋で背に貼りついた狙撃の気配。倉庫の前で、足元の石が内側から光った刹那。足止めに残った五人が、拘束を解いた直後に自ら死を選んだこと。そして、南港で首魁と対峙したときの、あの冷えきった声。
言葉にしてしまえば、どれも短かった。けれど、短い言葉の内側に、湿った石の匂いや、爆ぜる前の沈黙や、潮に混じる焦げた外郭の匂いが戻ってくる。喉の奥へ、まだ乾いた砂のようなものが残っていた。
わたしは一度だけ、唇を閉じる。
閉じた瞬間、南港の風が蘇った。夜明け前の水は黒く、倉庫の影は低く潰れ、そこに立っていた人の声だけが、妙に澄んでいた。澄んでいたからこそ、人間の声ではなくなっていく途中のもののように聞こえたのだった。
ヴィルが、必要なところで言葉を継いでくれた。狙撃手の位置。倉庫への導線。南港での退路。わたしの声が震えかけたところで、彼の低い声が、震えをそれ以上広げなかった。
慰めではなかった。だから、崩れずに済んだ。言葉は必要なところにだけ置かれていく。わたしはその足場へ、片足ずつ乗せ直しているのだと、遅れてわかった。
お祖父さまは、長く白い顎髭を撫でた。
「なるほど。では、今一度、確かめたいことがある」
「はい」
「南港に出現した敵の首魁についてだが――魔族の模倣体とも呼ぶべき外郭化状態へ変じてもなお、自我と判断は保たれていたと見てよいのかね?」
お祖父さまの問いは、刺す場所が鋭かった。
わたしは、すぐには答えられなかった。
自我。
その言葉を当ててよいのか、まだわからない。あの人は人であったのか。人であったまま、どこまで術式へ寄せられていたのか。あるいは、術式になりながら、なお人の悪意だけを残していたのか。
でも、ただの魔獣ではなかった。
そこだけは、間違えられなかった。
「……はい。少なくとも、わたしには、そう見えました。言葉も、判断も、こちらを測る目も失っていませんでした。ただ、感情が揺れるというより、役目だけが身体の奥に焼きついているようで……それが、ひどく怖かったのです」
言葉にしたあと、指先が膝の上で少しだけ縮こまった。
あの声の冷たさが、もう一度耳の奥へ戻ってくる。怒りとも、嘲りとも違う。人の声をしているのに、人のぬくみから切り離されてしまったもの。けれど、そこに意志がなかったわけではない。むしろ、意志だけが、ひどく硬い形で残っていた。
「そして、あの人は、わたしに名を重ねようとしました。『デルワーズの』、と」
言ってしまってから、舌の裏が冷えた。
デルワーズ。その名は、わたしのものではない。けれど、いつもすぐ隣に立っている。古い影のように。少女の名であり、兵器の名であり、誰かが誰かを閉じこめるために使ってきた名。
その名を、あの人はわたしへ重ねようとした。
デルワーズの再来と。
デルワーズの写し身と。
言葉にすれば短い。けれど、その短さの中に、調製槽の冷たさも、白い剣の沈黙も、誰かの震える手も、細い血の流れも、ぜんぶ折り畳まれているようだった。
名前は、ただの音ではない。
誰かを救うためにも使えて、誰かを閉じこめるためにも使える。昨夜、南港で、その名はまた、わたしを閉じこめるために使われようとしていた。
だから、受け取ってはいけない。
拒むために、まず正しく見なければならないのだと思う。
お祖父さまは、しばらく何も言わなかった。
指先が、机の上の報告書の端をそっと押さえている。紙は薄い。けれど、そこに書かれなかったもののほうが、いまはずっと重いのだと、その沈黙だけで分かった。乾いた紙の匂いが、部屋の奥で静かに沈んでいく。
わたしは、膝の上で組んだ指を少しだけ握り直した。喉の奥には、まだ南港の潮と焦げた外郭の匂いが残っている。その上へ、別の名が落ちてくる予感がした。
やがて、お祖父さまが言った。
「……黒髪のグロンダイル。中央大陸北方、小国ケリンのエレダンに現れた最強の魔獣狩り。君がそういう名で語られてきたことは、私も聞き及んでいる」
声は静かだった。責める色も、感心する色もない。古い資料の表題を読み上げるようでいて、その奥では、そこに書かれていないものを確かめようとしている声だった。
「その名を、君が何のために外へ置いたのかもね。父君を知る者へ届くように。グロンダイルという名に、細い手掛かりを託すように」
「だが、いま私の前にいるのは、噂ではない。死線をくぐって、なお自分の足で戻ってきた、私の孫だ。それ以外の何者でもないよ」
喉の奥が、ふいにほどけそうになった。
孫。
そのひとことは、抱擁ではなかった。けれど、抱きしめられるよりも静かに、わたしの輪郭を人の側へ戻してくれるようだった。
「もちろん、責めているのではない。人は、名で縛られてよいものではないからね。首魁が告げたその名は、古代に生きただろう者の名だ。君の名ではない。たとえ同等の資質を持っていたとしても、それが君の在り方を決める理由にはならない」
紙の上に置かれた報告書の端が、昼の光を受けて白く沈んでいる。そこには地点も時刻も段階も並んでいるのに、わたしが一拍遅れたことも、斬れなかったことも、誰かの名を想像してしまったことも書かれていない。
けれど、お祖父さまは見ていた。
紙に載らないその一拍を。
「君が、そうする子だということも、分かっているつもりだよ。見えてしまえば、見なかったことにはできない。救えるかもしれぬ者を前にして、立ち止まることなど、君にはできはしない。……そうだろう?」
否定の言葉は、喉まで上がってこなかった。
膝の上で重ねた指が、知らないうちに少し硬くなっていた。守りたいと思うことと、正しく守れることは違う。救いたいと思うことと、救うために止めることも違う。わかっているのに、目の前に人の痕跡が残っていれば、わたしはその違いを、一瞬だけ取り落としてしまう。
その一瞬で、誰かが傷つくかもしれない。
その一瞬で、ヴィルが前へ出るかもしれない。
そう思ったとき、息の奥が薄く冷えた。
「ブルフォードよ」
「はっ」
「だが、君がいた」
それだけ言って、お祖父さまは言葉を止めた。
ヴィルの革手袋の指が、わずかに動く。窓の外で風が枝を撫でた。葉擦れはここまで届かない。ただ昼の光だけが、書架の金文字の上で、浅く揺れていた。
「……昨夜、君がこの子の傍らにいたことで、いくつもの最悪が避けられたのだろうね」
「私はミツルお嬢様の専任護衛騎士であります。その役目を果たしたまでです」
「そう言うだろうと思っていたよ」
お祖父さまの口もとに、かすかな苦笑が浮かんだ。
けれど、目元は笑っていなかった。そこにあるのは、総長としての評価だけではない。昨夜、報告書には載らない場所で何が起きたのかを、いまようやく手で触れた人の痛みだった。
「だが、礼は受けておきなさい。これは総長としてではなく、ミツルの祖父としての礼だ」
「……過分です」
「過分ではないよ。決してね。私は、君に深く感謝している」
その声だけが、少し低くなった。
「ミツルを、ただの“強い者”として扱わずにいてくれた。それが、どれほど得難いことか」
息が浅くなった。
言葉にされて初めて、自分が何を怖がっていたのか分かることがある。黒髪のグロンダイル。最強の魔獣狩り。白き剣を帯びる子。そう呼ばれるたびに、わたしは少しずつ、人ではないものへ寄せられていく気がしていた。人間であることより、力のほうを先に見られて、怖かったことを怖いと認める隙もないまま、役目の上へ立たされていく。
けれど、ヴィルはそうしなかった。
止める時は止めた。叱る時は叱った。時にはうるさいほど、ご飯を食べたか、眠ったかと訊いた。傷口を隠せば、黙って包帯を取り出したし、強がれば、強がったぶんだけ余計に見抜いた。こちらが平気な顔をつくろうとするほど、彼の視線はほんの少しだけ細くなり、何も言わないまま水差しを寄せたり、外套を肩へ掛けたりした。
けれど、わたしを名だけで扱ったことは、一度もなかった。
「この子は、退かぬ」
お祖父さまは、静かに言った。
「退けぬ、と言ったほうが正しいのかもしれんな。だからこそ、単に強く優れた護衛というだけでは足りないのだよ」
紙の端を見つめたまま、わたしは唇を結んだ。
退けない、と言われると、責められているようで、けれど少し救われるようでもあった。
わたしは勇敢なのではない。立派なのでもない。ただ、退き方が下手なのだと思う。見えてしまえば、目を逸らせない。人の輪郭が残っているかもしれないと思えば、どうしても足を止められない。
たとえ、その一瞬が戦場では命取りになるのだとしても。
――わたしは、死へと至る痛みを、その苦しみを知っているから。
そう言ってしまえば簡単すぎる。わたしが知っているのは、切られた痛みでも、撃たれた痛みでも、傷口を押さえて耐える痛みでもない。身体の内側で受容結晶体が増殖し、血管を這い、臓腑の奥へ硝子片のように食い込んでいく感覚だった。
死にたくても死ねない。
気を失えない。
狂うことさえできない。
意識だけが、残酷なほど澄んでいた。身体は内側から食い破られているのに、頭のどこかでは、いま何が起きているのかを冷静に観察している自分がいた。
そうして、かつてのわたしは――柚羽美鶴は、生を終えた。
だから、敵だと分かっていても、もう人ではないのかもしれないと頭では理解していても、その奥に、まだ誰かの痛みが残っているかもしれないと思った瞬間、わたしの手は遅れる。
その遅れが、危ういことも分かっている。
それでも、ただ切り捨てるほうへは行けなかった。苦痛の中に閉じ込められたまま、終わりだけを待つ時間を想像してしまう。助けられないとしても、せめて、もう一度傷つける側には立ちたくないと思ってしまう。
その性質を、お祖父さまは優しさとも愚かさとも呼ばなかった。ただ、危ういものとして、正確に見ていた。
「いざという時、止める者が要る。連れて戻す者が要る。何よりミツルには君という騎士が必要なのだよ、ブルフォード」
ヴィルは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、肯定に近かった。音のない一拍のあいだに、部屋の温度がわずかに変わる。書簡の紙束、インク壺、窓辺の光、壁に掛けられた古い地図。それらの間へ、言葉になる前の重いものが静かに沈んでいった。
「かねてより、近衛騎士団から『護衛を派遣したい』との打診はあった。だが、私は退けた。ロイドフェリクの介入を認めるわけにはいかんからな」
近衛騎士団。
その名が部屋の中へ置かれてから、少し遅れて、白銀の整った鎧が目の奥に浮かんだ。揃った足音。磨かれた肩章。わたしの半歩後ろで息を殺し、こちらの仕草ひとつまで静かに拾っていく人々。
護衛という言葉はやさしい。
けれど、王宮から差し向けられた目は、守るだけでは済まない。わたしがどこへ行き、誰と会い、何を見たか。そのひとつひとつが、やがて王宮の机の上へ戻っていく。守られることと、囲われることは、紙一枚の薄さで隣り合っているのだと、喉の奥が先に知ってしまった。
「それに、数で守れるというものでもない」
お祖父さまの声は、そこで少しだけ低くなった。
「君は動く時ほど一気に動く。たとえ危うい場所だと分かっていても、見えてしまえば、最前線の只中へ踏み込む。そういう子だ」
言い返せなかった。
灰色の塔で糸を見つけたときも、東門の保護区画へ一目だけと言い張ったときも、わたしはたぶん、同じ顔をしていたのだと思う。一目だけ。少しだけ。確かめるだけ。そう言いながら、見えてしまえば、足はもう次の場所へ向かっている。
「大掛かりな護衛を付ければ、守りは厚くなるどころか、かえって足枷になるだけだ。判断に遅れ、動きに遅れるばかりだ」
紙の端に置かれたお祖父さまの指が、わずかに沈んだ。
「護衛とは、数を並べることではない。出るべき一歩を妨げず、退くべき一拍で止め、戻れなくなった時に連れ戻すことだ」
その言葉が、ヴィルのほうへ向けられた。
「ブルフォード。君は、かつて銀翼の騎士であった。前へ出る者を守ることと、前へ出すぎた者を連れ戻すことは、同じではない。その難しさを、知り尽くしているはずだ」
お祖父さまの声は静かだった。
けれど、そこには軍の記録を読む総長の目ではなく、あの西部戦線の地獄を、王座の向こう側から見届けてきた人の重みがあった。兵の数を増やすだけでは守れないものがある。命令系統の正しさだけでは、間に合わないこともある。それを誰が見極めるのか。
「それだけではない。君はミツルと共に魔獣狩りをし、旅を続けてきた。この子がどんな顔で無理をするのか。どんな声で平気だと言うのか。どこから先へ行けば、戻る道を見失うのか。君は誰よりも近くで、それを見てきたはずだ」
ヴィルは、何も言わなかった。
けれど、革手袋の指が一度だけ握られた。答えを返すより先に、身体のほうがその言葉を引き受けたように見えた。
「何より、ミツルを守り抜ける騎士は、君を置いてほかにないのだよ。閃光と並び称された、雷光でなければな」
総長室の空気が、一段だけ深くなった。
ヴィルは、片膝をつかなかった。ただ、背筋を正した。肩の線がわずかに硬くなり、それから静かに落ち着いていく。その小さな動きの中に、戦場で何度も剣を握り直してきた時間と、わたしの半歩後ろに立ち続けてきた時間が、同じ重さで重なっているように見えた。
「この命に代えても、ミツルお嬢様は必ずお守りします」
低い声だった。
飾り立てた誓いではない。戦場を知る人が、必要な言葉だけを選んだ声だった。重すぎる約束のはずなのに、彼の口から出ると、ただの段取りのように静かで、その静けさのほうが、かえって胸へ深く沈んだ。
――そんな……。
これまで何度も言われたその言葉を、いまのわたしは喜んではいけない気がした。
重すぎるのだ。命を賭けると言われることは、守られることと同じではない。わたしのために誰かが死ぬかもしれない形を、きれいな誓いとして受け取ってしまえば、また何かを急いで結んでしまう。
それでも、ヴィルの声は、わたしを不安にするためのものではなかった。わたしを戦場の中心へ押し上げるためでも、力を称えるためでもない。ただ、わたしが退けなくなったとき、戻る道を見失ったとき、その半歩後ろから手を伸ばすと告げる声だった。
――わたしには、なにも言えない。どう言えばいいのかわからない。
喉の奥で、昨夜から残っていた苦みが、別のものへ変わりかける。痛みではない。安堵とも言いきれない。もっと頼りなく、もっと危ういものだった。わたしは膝の上の指をそっと握り、強く握りすぎないように、けれどほどけすぎないように、その加減だけを確かめていた。
「頼んだぞ――」
お祖父さまは頷いた。
「君はミツルの、唯一人の騎士だ。君でなければ務まらん。わかったな、ブルフォード」
その言葉が、総長室の空気をふっと静めた。
――わたしの。
その音が、胸の内側で小さく反響した。
甘い約束ではなかった。戦場へ立つ者に与えられる、重い役目の名だった。分かっている。分かっているのに、その言葉は、白い紙の上へ落ちた淡い光みたいに、すぐには消えてくれなかった。
みぞおちの奥が、ひそかに熱を持った。
白き剣を持つ巫女と、その傍らに立つ騎士。
そう聞けば、どうしても、いくつもの影が重なってしまう。メービスとヴォルフ。遠い庭の光の中で、女王と王配と呼ばれていたふたり。そして、父と母。メイレアとユベル。先代の黒髪の巫女と、閃光と呼ばれた騎士。
巫女と騎士は、ふたつでひとつの戦闘単位だった。
それはもう、知っている。白い剣が二振りでひとつの意味を持つことも、器と刃が揃ってはじめて届く場所があることも、あの幻想の中で、わたしは見た。見てしまった。
けれど、その名の先に、もっと遠いものがあることも、わたしは知ってしまっている。
遠い庭の光。
花の匂い。
司祭たちの声。
女王と王配、と呼ばれたふたり。
メービスとヴォルフは、ただ並び立っただけではなかった。戦場でひとつの単位になり、儀式の場で対として立ち、その先にまだ別の名を持っていた。わたしがいま触れてはいけない、遠すぎる名を。
――もしかして、いつの日かわたしたちも?
そこまで考えかけて、息が止まる。
――いけない。そこへ目を向けてはいけない。それだけはだめ。
可能性がないわけではない。そう思ってしまったことさえ、いまはまだ名づけてはいけない。急いで線を引いてはいけない。
これは恋の名ではない。ましてや、結ばれる約束でもない。
ヴィルが背負っているのは、騎士としての責務であり、今は亡きユベルへの誓いであり、わたしをここまで連れてきた長い時間の重さだ。そこに、わたしの勝手な熱を重ねてしまえば、この人が差し出してくれたものまで、別の名で縛ってしまう。
分かっているのに、その言葉は、胸から離れてくれなかった。
――でも、離れたくない。
その想いだけが、鍵をかける前の胸の内で、静かに形を持ちはじめていた。
ヴィルの横顔を、見てはいけないものを見てしまったように、わたしは見ていた。
頬の線。伏せられた睫毛の影。腰にある剣の重み。戦場を越えてきた人の静けさ。どれも、よく知っているはずだった。けれど、唯一人という言葉のあとでは、少し違って見えた。
違って見えたことを、まだ認めてはいけない気がした。
ヴィルは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……それが騎士たるものの本分。そして――」
それから、間を置く。
「今は亡きユベル・グロンダイルへの誓いでもあります」
逃げではなかった。
けれど、こちらへ踏み込みすぎる言葉でもなかった。その距離でいいのだと思った。むしろ、そうであってほしい。わたしがこの先、鍵をかけないで向き合えるように。急いで名をつけず、けれど、なかったことにもせず、この人の隣に立つために。
お祖父さまは、ヴィルを見つめたまま、深く息を吐いた。
「ありがとう、ブルフォード」
短い言葉だった。
それだけで、充分だった。
「……過分なお言葉です」
その横顔を見て、わたしはようやく、少しだけ息をした。
いまの彼は、わたしを守る騎士だ。
それでいい。
そう思ったはずなのに、胸の奥では、まだ小さな熱が消えずにいた。恋とも、約束とも、まだ呼んではいけない。まして、あの遠い庭で見た名へ結んではいけない。
けれど、そう思ってしまった気持ちまで、捨てなくていいのだと思った。
急いで名をつけず、答えへ結ばず。
それでも、生まれてしまったものを、乱暴に消さずにいてもいいのだと。
いつの日か、並び立つ日が来るのなら。
そのとき、わたしは彼に恥じない存在でありたい。守られるだけではなく、守れる者として。差し出された背に隠れるのではなく、同じ風を受けて立てる者として。
ふたつでひとつになれるように。
その言葉は、まだ遠い。
遠いからこそ、いまは大切にしまっておけるのかもしれない。
わたしは膝の上の指を、そっとほどいた。
気持ちくらい、大切にしてもいいのだと思う。




