誰のものでもよくは、ない
中央公園の広場へ出るころには、空の端が薄い青に変わっていた。
噴水の水はまだ止められたままで、広場の石には夜の湿りが残っている。憲兵たちは遠巻きに人の流れを見守り、灰月の者らしい影が掲示板の前で短く言葉を交わしていた。人々は距離を取りながら、それでも通りの端からこちらを見ていた。
それを見たとき、喉の下にまた、よかった、という小さな息が戻った。
井戸の傍では、洗濯桶を下ろした女たちが、濡れた布巾を絞りながらこちらを見上げていた。さっきの店先で受け取ったばかりの心配が、別の視線でまた返ってくる。ちゃんと食べな。ちゃんと休みな。声にならないまま、王都の朝に滲んでいた。
桶の縁から水が一滴、石へ落ちた。
その音が消えるころ、木の根方に腰掛けていた老人が、杖の柄を撫でながら低く笑った。笑い声というには掠れていて、それでも夜明けの石畳へ小さく転がる。
老人はふと顎を上げた。スレイドへ目をやり、それから視線を細める。
「その馬、立派じゃのう」
「スレイドっていうんです。とても賢い子なんですよ」
「スレイドか。よい名だ。儂の出身地の古語で、『草原を駆け抜ける風』という意味だ」
老人は杖の先で石畳をとん、と叩き、スレイドを見上げた。
わたしは思わず背後を振り返りかけて、視線だけで止めた。
ヴィルがふんと鼻を鳴らした。
「ヴィル、そうなの?」
「当たりは当たりだが、俺はもともと流浪の身だったしな。旅の途中でそういう言葉はよく耳にしたものさ。こいつにふさわしい粋な名だと思って、付けたわけだ」
「へーっ、そういう由来があったんだ。よかったね、スレイド。かっこいい名前だって」
ヴィルの口元の皺が、ほんの少し深くなった気がした。背後の気配だけで、それが分かった。
名前があること。
ただそれだけを、いい、と言ってくれる声だった。
スレイドが、それを分かっているように静かに鼻を鳴らす。鬣が朝の冷えの中でかすかに揺れた。
「ほら見ろ。ご機嫌そうに返事したぞ」
「今のが返事なの?」
「たぶんな」
広場の隅で、母親の脚にしがみついていた子どもたちが、その鼻の音にぱっと顔を上げる。先頭の女の子が口元を押さえてひそひそ笑い、隣の男の子がつられて肩を震わせた。母親たちが慌ててその肩を押さえる。けれど、口元は少しだけ緩んでいた。
「ねえ、さわっていい?」
その中のいちばん小さな男の子が、母親の手をすり抜けて、一歩だけ石畳を踏み出した。
ヴィルの腕が、わたしの背後でわずかに動く。スレイドの首が下がりかける前に、ヴィルの低い声が落ちた。
「やめとけ。いまはこいつも疲れてる」
厳しいのに、怖がらせない高さで止めている声だった。男の子はびくりと肩を揺らしたが、すぐに母親の袖の内側へ戻る。
「……うん」
「いい子だ」
ヴィルはそれだけ言って、慌てて頭を下げた母親へ、小さく頷きを返した。
短いやりとりだった。けれど、護衛騎士としての彼の声が、ここで一度だけきちんと表へ出た瞬間だった。わたしの背中に当たっていた革の張りが、普段の硬さに戻る。
スレイドは少しだけ首を上げ、まるで当然だと言いたげに、広場の石畳を踏んだ。
「でも、今の顔」
「顔? スレイドのか?」
「うん。なんだかまんざらでもない感じ。得意そうに、舌出してたわよ」
「馬の顔まで読むようになったのか、お前は」
「だって、そう見えたんだもの。いけない?」
「なら、そうなんだろう。楽しけりゃ、どうだっていい」
ヴィルはそっけなく言った。けれど、その声の底に乾いた笑いが残っていて、わたしは思わず笑ってしまった。
その笑いは、ひどく小さかったけれど、ちゃんと自分のものだった。
大通りへ出ると、蹄音は広い石畳に明るく跳ねた。
王都は、日常の顔を取り戻そうとしている。水を汲む人がいる。店の戸を開ける人がいる。祈るように胸元へ手を置く人がいる。誰も歓声を上げない。けれど、通りのあちこちで、小さな安堵の息がほどけていく。
その安堵に応えなければ、と思った。
わたしは何度か、目が合った人へ小さく頷いた。手を振り、笑い、焼き菓子の包みを落とさないように指先へ力を込める。うまくできているかは分からない。ただ、怖くないものとして、ここにいる。そう伝えたいだけだった。
ヴィルは何も言わず、ただ後ろで手綱を取り、スレイドの歩みをゆるく保っている。急がせることも、止めることもない。けれど、わたしがあたふたするたびに、背後から面白そうな気配が濃くなっていく。
「……そういえばあなた、さっきからずっと笑ってたでしょう?」
「笑ってなどいない」
「嘘よ。背中がうるさかったもの」
「ひどい言い草だな。俺はあくまで護衛騎士らしく、礼節を保ち、主殿の背中を守っていただけだ」
「どこが礼節よ。もうひしひしと伝わってきたわよ。笑いを必死に堪えてるって感じ」
「それはお前の背中が勘違いしているだけじゃないか?」
「わたしの背中は誠実なのよ」
「ほう。背中に誠実もくそもあるか」
そこで、ヴィルの声がほんの少しだけ緩んだ。背後の胸の硬さが、わずかに揺れたのが分かる。
「顔を見なくたって分かるのよ。どうせ、また面白がってるって」
「ふむ。まあ、少しどころではなかったが。それが何か?」
「ひどい。やっぱり笑ってたんじゃない」
「いや、笑ってはいない。……見ていただけだ」
「何を?」
「お前が、ここでどう立つのかをな」
短い言葉が、朝の空気の中で少しだけ重くなった。
「それで、あなたの目から見て……どうだった?」
訊いてから、すぐに訊かなければよかったと思った。答えがほしいわけではなかった。けれど、もう言葉は戻らない。
ヴィルはすぐには返さなかった。スレイドの手綱が、ほんのわずかだけ締まる。馬の歩みが乱れない程度の、小さな力だった。
「最初は肩に力が入っていたな。震えてもいた。だが、それもすぐに収まった。俺が見たのはそれだけだ」
その言い方があまりに淡々としていて、耳の奥が不意に熱くなった。
「……それ、褒めてるの?」
「ほかにどう聞こえたというんだ」
「ええと。それって、つまり観察記録?」
「はは、それもいい。なら、俺からの褒めの記録にしておけ」
「雑さ極まりないわね。ちゃんとまとめて、わたしを褒め称えるレポートとして提出してもらいたいものだわ」
「あのな、書類仕事は苦手と言ったろうが。そういうのはラウールにでも聞いとけ」
「それはそれで、たぶん恥ずかしくなるから嫌よ」
「だろうな」
「だろうな、って何よ」
「あいつは、一から十まで懇切丁寧に説明するような男だ。そうなったらお前、逃げ場をなくすぞ? ま、それを眺めるのも一興だがな」
「……それ、最悪じゃないの。趣味が悪い」
「あいつの言葉は優しいからな。耳元で並べられるとなれば、口説けない女はいまいよ」
「ふーん。じゃあ、ヴィルは耳元で並べないの?」
「そういう柄じゃない」
「……うん。それは、知ってる。あなたってそういうの似合わないもんね。警護の合間に、隠れてぐいっと飲ってそうな飲んだくれだし」
「お前もたいがい辛辣だな。なんだか最近、カテリーナに似てきたぞ」
「お互い様じゃないの?」
「あー、はいはい」
ヴィルの声に、低い笑いが混じった。今度ははっきりと、肩で受け取れるくらいの音だった。
焼き菓子の包みを持つ指へ、紙の皺が食い込む。蜜の匂いはもう弱くなっていた。それでも、その小さな熱が、掌の内側へまだ残っている。
「でも……ありがとうね」
「何が?」
「顔を隠せって、言わなかったことよ」
「悪いことをして戻ってきたわけじゃないと言っただろうが」
「うん」
「なら、その必要はない」
「……ずいぶん簡単に言うのね。簡単なことじゃないのに」
「当たり前だろ。簡単じゃないから言った」
鎖骨の下が、一拍だけ遅れて揺れた。
褒め方も、慰め方も、不器用だ。けれど、その不器用さのまま届くから、よけいに逃げ場がない。
「……あいかわらず、ずるい返し方ね」
「どこがだ。俺は正直なだけだ」
「だから、そういうところなのよ。ぜんぜんわかってないんだから」
「文句があるのか? あるなら、なんでも言ってくれ」
「も、文句は……ないけど」
「ならいいだろ」
それ以上は言い返せなかった。
やがて、離宮へ向かう並木道へ入る。
人影は少しずつ減っていった。石畳の音も柔らかくなり、朝露を含んだ葉が、薄い光を受けて揺れている。民衆の視線が途切れた途端、体の芯を支えていたものが、ふっと抜けた。
まぶたが重い。
さっきまで張っていた笑顔の形が、頬からほどけていく。肩が落ち、手綱を握るヴィルの腕の動きが、背中越しにゆっくり伝わってくる。
と、背後の気配が変わった。
肩の位置がわずかに下がった。背筋にあった硬さが、葉擦れの音と一緒にほどけていく。市場と広場で人前に立っていた姿勢の芯が、ここで音もなく解かれたのが、背中越しに分かった。
ヴィルは、こちらを見下ろさないまま、手綱を持つ位置を変えた。革の擦れる音が、背中のすぐ後ろで低く鳴る。
「ミツル」
「……うん」
「もういい。力を抜け」
「……べつに寝るつもりないし。離宮までそんなにかからないでしょう?」
「眠くないやつは、そういう返事をしない。寝られるときに寝とけ」
言い返そうとして、舌の先に言葉が乗らなかった。
ヴィルの腕が、鞍の上で揺れるわたしの体を背後から静かに受ける。落とさない手。さっきまで街の視線の中でわたしを立たせていた手が、今度は崩れていく重さを受け止めようとしている。
焼き菓子の包みが、膝の上で滑りかけた。
すぐに、革手袋の指がそれを押さえた。
「落とすなよ。せっかくもらったんだ」
「……食べるわよ。あとで」
「ああ。離宮に着いたらな。リディアに旨い茶を淹れてもらおう」
短い返事のあと、革手袋の指は包みを膝の真ん中へ戻して、すぐに手綱の側へ戻っていく。触れたかどうかも分からないほどの一瞬だった。それなのに、包みの紙の角に、ほんのわずかな温もりが移っていた気がした。
並木の葉擦れが、遠くの水音みたいに聞こえる。街の声はもう背後へ遠ざかっていた。けれど、白い紙の群れと、焼き菓子の温もりと、ミツルちゃん、と呼んだ声だけが、耳の奥にまだ残っている。
よかった。
今度は、心の中でそう言えた。王都は壊れていない。人々は、朝を始めようとしている。
そのことを見届けたのだと思った瞬間、瞼の裏へ薄い光が滲んだ。
「ヴィル……?」
「なんだ」
「少しだけ……寝てもいい?」
「だから寝ろと言った」
「……命令みたい」
「命令だ」
低い声が、呆れるほどいつも通りだった。だから、安心してしまった。
スレイドの歩みがゆるむ。背後の体温が近くなり、革と馬と朝露の匂いが、疲れた身体の輪郭をそっと曖昧にしていく。
手綱を持つ腕は、わたしの体を囲むように動かない。けれど、囲っていることだけは、布越しにしっかり伝わってくる。市場で誰かと言葉を交わしていたときの「護る側の体温」とは、どこか違う温度だった。守るというより、ただ近くにある、という温度だった。
名づけてはいけない、と、自分の中の誰かが静かに言う。
名づけた瞬間、この温度はもう同じ顔では戻ってこない気がした。
だから、いまはまだ、名づけずにおく。
近くにあるもの。
安心するもの。
それだけで、いまは十分だった。
まぶたが落ちる。持ち上げようとして、もう上がらない。
並木の葉が、薄い光を受けて揺れている。蹄の音が、水の底で聞く鐘みたいに丸くなる。背後で、ヴィルが何も言わずに手綱を取り直す気配がした。
白い紙の端が風に震える光景を、最後にもう一度思い出した。
薄くて、頼りなくて、それでも刃より先に人の手へ届いていた紙。
その白さを息の底に残したまま、わたしはとうとう目を閉じた。
背中が、とすん、と背後の硬いものへ寄りかかった。
誰のものでもいい、と思った。
嘘だった。
誰のものでもよくは、ない。
けれど、その小さな嘘ごと、朝露の匂いの中へ、ゆっくり沈んでいった。




