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お帰りなさいませ

 肩を軽く揺さぶられて、わたしは息を吸った。


 蹄の音が、いつのまにか止まっていた。


 それに気づくまで、わたしはまだ王都の並木道を進んでいるつもりでいた。薄い朝の光。石畳の白さ。膝の上でかすかに鳴った焼き菓子の紙包み。ミツルちゃん、と呼んだ子どもの声。どれも水底へ沈むみたいに遠くなって、けれど背中にあった体温だけは、眠りの縁でもほどけずに残っていた。


 もう一度、肩に低い力が触れた。


「ミツル」


 呼ばれた名が、まぶたの裏へゆっくり届いた。息を吸うと、革と馬の匂いの奥に、磨かれた石の湿りが混じっている。王都の通りではない。もっと静かで、手入れの行き届いた場所だった。


「……ん……」


「着いたぞ」


 ヴィルの声だった。


 目を開けても、すぐには焦点が合わなかった。白い柱がぼやけ、庇の影が朝の淡い光を受けて滲む。スレイドの首がすぐ前でわずかに動き、鼻先から吐かれた息が、淡い白さになってほどけた。


 離宮の馬車寄せだった。


 さっきまで人々の視線と声の中にいたはずなのに、いま聞こえるのは、スレイドが蹄を置き直す音と、扉の向こうで誰かが息を呑む、ほんの小さな音だけだった。


「……わたし、寝てた?」


「寝ていたな」


「少しだけって、言ったのに……」


「少しでも休めたならいい。休める時に休む。今のお前には、必要なことだ」


 言い返そうとして、喉がからりと鳴っただけだった。


 ヴィルの腕が手綱を緩める。わたしの身体はまだ鞍の揺れを覚えていて、動こうとした瞬間、膝の奥から力が抜けた。背中を支えていた体温が一度離れ、彼が先に地へ下りる。


 次の息で、腰のあたりを支えられた。


「降ろすぞ。動くなよ」


「……わかっております。護衛騎士のあなたの手を煩わせるようなことはいたしませんことよ」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 どうしてそんな芝居をしたのかはわからない。ただ、ヴィルの手が近すぎて、その近さに気づいたことを隠したかったのだと、身体のほうだけが知っていた。


「そうか? なんだか落ち着かない感じだが」


 だというのに、彼は淡々とした声だった。


 深い意味はないはずなのに、鎖骨の下があとから小さく跳ねた。見透かされたような気がした。何を、と聞かれたら答えられない。だから反論の形だけが唇に残る。


 ヴィルの手は確かだった。急がず、乱暴でもなく、必要な場所だけを支える。掌の厚みが腰の近くへ触れるたび、眠りの底に沈んでいた意識が、少しずつ身体へ戻ってくる。


 靴底が石床へ触れた。


「……寝覚めはそんなもんだ。だが、ここは戦場ではなく離宮だ。慌てなくていい」


 石の硬さが足裏から上がってくる。夜の熱を失った床は、薄い靴底越しにも身体の内側をひやりと撫でた。腕も肩も重い。首の後ろには、馬上で眠ったあとの鈍い痺れが残っている。


 髪の中に入り込んだ煤の匂いが、動くたび鼻の奥へ戻ってきた。潮と、乾ききらない魔素の気配が、肌の表面へ薄く貼りついている。


「立てるか?」


「……立てるわよ」


「嘘をつけ。見てればわかる」


 責める声ではなかった。ただ、見抜かれているだけだった。


 膝の裏で、ぐらりと小さな波が起きる。ヴィルは離れない。けれど、すぐに抱え上げもしない。わたしが自分の足で立ち直すのを、黙って待っている。その距離の取り方が、いつものヴィルだった。


「あなただって疲れているでしょうに……」


「俺より自分の足元を心配してろ」


「でも、わたし、途中で寄りかかったかもしれない。負担じゃなかった?」


「馬鹿を言うな。お前なんざ羽根のようなものだ。苦になるようじゃ、騎士失格だろ」


 ――だよね。わたし、ちっちゃいし。


 事実だし、軽口だとわかっている。以前なら、きっと少しもやっとした。子どもの身体。細い腕。ヴィルの腕の中では、まだ簡単に持ち上げられてしまう重さ。対等というには、あまりに遠い。


 それなのにいま、羽根、という言葉だけが、眠気のやわらかいところへ触れてしまった。軽いと言われただけだ。負担ではないと言われただけ。そうわかっているのに、腰に残る掌の感触まで、急に別の温度を持ちそうになる。


 頬が熱くなったのか、外気で感覚が鈍っているだけなのか、わからない。


 笑おうとして、口元だけが少し動いた。


 ヴィルは何かを言いかけたように唇を動かし、それから短く息を吐いた。


「掴め」


 差し出された腕を見て、わたしは一瞬だけ迷った。


 全部預けてしまえば、たぶん楽だった。けれど、そうしてしまったら本当に歩けなくなる気がした。だから袖口の布へ、指一本だけを置く。ほんの少しだけ。頼るというより、そこにいることを確かめるみたいに。


 ヴィルは何も言わなかった。


 その沈黙が、かえってありがたかった。預けすぎるな、とも、もっと掴め、とも言わない。ただ、指一本ぶんの重みを、そのまま受け止めてくれている。


 馬車寄せの奥から、布の擦れる音が近づいた。


「お嬢様……」


 リディアの声だった。


 その声を聞いた瞬間、離宮へ戻ってきたのだと、身体のほうが先に理解した。湯の支度。整えられた寝具。扉の外で控える足音。問い詰めるのではなく、まず手順を整えてくれる人の気配。


 けれど次の一息で、その声の端が揺れた。


「よくご無事で……」


 いつものリディアなら、きっともう少し整えた言葉にした。無事のお戻りを、とか、お怪我はございませんか、とか。そういう、きちんと畳まれた布みたいな言い方をする人だ。


 それなのに、今はその一言だけだった。


 汚れた袖。髪に絡んだ粉。爪の間の黒ずみ。自分ではもう嗅ぎ慣れてしまった戦いのあとが、リディアの前では急に重くなる。


 彼女は、それを責めなかった。


 ただ、ほんの少しだけ唇を結び、次の言葉を探すように息を吸った。


「ただいま、リディアさん……」


 そう言ったつもりだった。


 けれど声はひどく小さく、途中で眠気にほどけてしまった。リディアは一瞬だけ息を詰め、それから視線を足元へ落とした。


「お足元に、お気をつけくださいませ」


 泣きそうな声を、段差や湯の支度へ置き換える。心配をそのままぶつけず、生活の物だけをまっすぐ差し出す。母さまがこの離宮にいたころから、きっと彼女はそうしてきたのだろう。知らない母さまの朝を、知らない手順のまま、いまわたしが受け取っている。


「お怪我はございませんか?」


「ないと、思います」


「思います、では困ります」


 その言い方があまりにもリディアで、返事をする前に指先が少し強張った。


「大丈夫です。見た目はちょっとひどいかもですけど、ヴィルがよく守ってくれました。打ち身も擦り傷もありません」


「念のため、侍医司の医官をお呼びいたしましょう」


「いえ、大丈夫です。いまは非常時ですし、わたし一人に人手を割いていただくのは、申し訳なくて……。確認は、あとで、お願いします。いまは、たぶん……眠気のほうが大きくて」


「……わかりました。すぐに湯をお支度いたします。お召し替えも。髪も、このままではお苦しゅうございましょう」


 リディアの声は柔らかい。けれど、手順は少しも乱れない。湯を用意し、服を替えさせ、髪を洗い、傷を確かめる。心配を、ひとつずつ生活の形へ戻していく人の声だった。


 わたしは頷こうとして、まぶたが落ちかける。


「湯浴みは、あとで……」


「お嬢様」


「ごめんなさい。いまは……少しでも眠りたいの」


 リディアの返事は、すぐには落ちなかった。


 朝の空気が袖口から入り込み、肌に残っていた熱をゆっくり奪っていく。どこかで鳥が鳴いた。たったそれだけの音なのに、耳の奥がきしむほど遠く感じられた。


「すまんがリディア。寝かせてやってくれ」


 ヴィルが短く言った。


 リディアは彼へ視線を向けた。わずかな間がある。侍女としての判断と、古くからこの離宮を見てきた人の心配が、その沈黙に重なっていた。


「ですが、このままでは寝具が……」


「手間をかけるが――」


 低い声が、静かに続いた。


「見ての通り、こいつはもう限界だ。わかるな?」


 こいつ、と呼ばれる乱暴さも、限界だと断じられる近さも、どちらもヴィルの声だった。


 わたしは反論しようとして、息だけを落とした。言い訳の形すら、もう喉の奥でほどけてしまう。


 リディアは、そこでようやく小さく頭を下げた。


「かしこまりました。では、湯はお目覚めのあとに。寝具だけ、すぐ整えます」


「……ご迷惑をおかけしてすみません」


「とんでもありません。今のお嬢様のお声では、半分ほど眠っておいでですもの」


「そんなにですか?」


「はい。ありありと」


 否定したかったけれど、できなかった。足裏の感覚は薄く、首の後ろはひどく重い。まぶたの内側には、まだ並木の薄い光が残っていて、離宮の柱と王都の石畳が、何度も重なりかけていた。


 焼き菓子の包みは、いつのまにかヴィルの手に移っていた。


 白い紙の角が少し折れている。膝の上で滑りかけた紙包みを、革手袋の指が押さえた記憶だけが、まだぼんやり残っている。


 リディアはそれを両手で受け取り、そっと胸の前へ寄せた。


「こちらは、お目覚めのときにお茶とともにお出しいたしますね」


「……はい。あとで、お願いします」


「かしこまりました」


「リディアさん?」


「はい」


「甘すぎないお茶がいいです。たぶん、起きたら……喉が、苦いから」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 喉の奥に残っているものを、そう言えたことに。煙なのか、魔素なのか、夜の恐怖なのか分からない。けれど身体はもうそれを区別する力もなく、ひとつの違和感として喉へ残していた。


 リディアの指が、紙包みの縁をそっと整える。


「では、いつもの香草茶を薄く淹れましょう。ラベンダーを少し、ローズヒップは控えめに」


「……はい」


「お嬢様?」


「はい」


「お帰りなさいませ」


 その言葉は、先ほどの「よくご無事で」よりも静かだった。


 けれど、そこに込められていたもののほうが深かった。帰ってきた。そう言われて、わたしはようやく、自分がまだ外にいたのだと知る。王都の朝にも、人々の声にも、ヴィルの腕の中にも、ずっと帰ってくる途中だったのだ。


 あとで。


 その言葉が、まだ続きのある朝を置いてくれた。眠ってもいい。起きたら湯があり、お茶があり、焼き菓子がある。そんな当たり前のものが、戦いのあとではひどく眩しかった。


 自室までの廊下は、いつもより長く感じられた。


 磨かれた石床は、靴音をひとつずつ薄く返してくる。壁際の花の香りは淡く、荒れた外の名残に負けそうで、それでも確かにそこにあった。離宮は、わたしが戻ってくる前と同じ顔をしている。誰かが拭き清め、誰かが花を替え、誰かが扉の金具を磨いている。


 その静けさの中を、汚れたまま歩いている自分だけが、ひどく場違いだった。


 袖の布が腕に貼りつく。髪の先が頬に触れるたび、細かな粉が肌へ残る。きれいにしなければ、と思う。湯に浸かり、髪を洗い、服を替えなければ。リディアが整えてくれた寝具を汚してしまう。


 わかっているのに、足はもうそれ以上の手順を覚えていなかった。


 半歩前を、ヴィルが歩いていた。


 いつもの距離だった。先導するでもなく、後ろから押すでもなく、わたしの歩幅が遅れたぶんだけ、自然に遅らせている。靴音の間隔が広がるたび、彼の歩幅もそれに合わせて緩む。そのことを、わざわざ意識しないでいられるのが、いつも不思議だった。


「無理に喋らんでいいぞ」


 ふいに、ヴィルが小さく言った。


「何言っているの……喋ってなんかないわよ」


「口元が動いてた。思案に暮れている時の癖だ」


 言われて、ようやく自分の唇が、何かを訴えそうな形をしていたことに気づいた。


「……バレるのね」


「眠いときのお前は特にな。そんなところもユベルにそっくりだ」


 返す言葉が、出てこなかった。


 廊下の端で、風受けの布がかすかに膨らんだ。離宮の朝の風だった。湿った花の香りが鼻先をかすめていく。


「ヴィルはさ……」


「なんだ?」


「な、なんでもないわ」


 飲み込んだ言葉だけが、喉の下へ静かに沈んだ。


 ――前は、父さまに似ていると言われるのが嬉しかったはずなのに。


 どうして今は、こんなふうに痛むのだろう。


 考えなくていい。名づけなくていい。歩くことだけ、息をすることだけ、部屋まで辿り着くことだけでいい。


 ヴィルの半歩先を行く背中が、そう言っているような気がした。


 廊下の先に、自室の扉が見えた。


 いつもなら、そこまで来れば身体の奥が少し緩む。赤い天幕の陰にある寝台。窓辺の椅子。白い剣を置く場所。リディアが整えてくれる水差しと、朝の光を含んだ薄い硝子。


 けれど今は、扉までの数歩がひどく遠かった。


 足裏が石床の硬さを拾うたび、膝の奥から力が抜けそうになる。袖口の汚れが、歩くたびにかすかに擦れた。髪の先が頬へ触れて、肌に細い跡を残す。


 リディアが、わたしより先に扉へ手をかけた。


「すぐに寝具を整えます。お嬢様は、どうぞそのまま」


 そのまま。


 その言葉が、今はひどくありがたかった。着替えなくていい。湯に入らなくていい。きれいな顔を作らなくていい。ただ、倒れ込んでいい場所がある。


 扉が開く。


 赤い天幕の陰に、寝台が静かに待っていた。白い寝具はまだ夜明けの空気を含んでいて、皺ひとつない布の上に、窓から入る淡い光が薄く伸びている。


 そこへ飛び込むのは、ひどく申し訳ないことのように思えた。


 でも、もう無理だった。


 部屋の入り口で、ヴィルの足が止まる。


「俺はここまでだ。さすがに寝床までは面倒は見れんからな」


 声は扉の外側からだった。


 その距離に、安心してしまう。入ってこない。踏み込まない。けれど、そこにいる。腰を支えていた手はもう離れているのに、離れたあとにも、体温の名残だけが薄く残っていた。


「ええ。あとは大丈夫」


 わたしが言うと、ヴィルは扉の桟へ手を当てたまま、部屋の奥へ視線を流した。


「水は枕元へ置いてあるようだな」


「……いつのまに」


「リディアの手だな。顔くらいはきれいにしておけ」


 ああ、と声にならない返事だけが落ちた。


 寝台のそばに、水差しが置かれている。薄い硝子の腹に、朝の光がぼんやり滲んでいた。リディアは、もうここまで整えてくれていたのだ。


「ヴィル」


「なんだ?」


「スレイドに……ありがとうって、伝えておいて」


「自分で言え。起きたらな」


「……そうね。そうするわ」


「今は何も考えず、よく寝ることだ。育ち盛りなんだからな」


「いい加減、子ども扱いしないでもらいたいものね」


「寝落ち寸前のやつは、だいたい子どもと同じだ」


 反論したいのに、口が動かない。


 リディアが小さく咳払いをした。咎めるためではなく、扉を閉める時間を知らせるような、控えめな音だった。


「小言なら、後でいくらでも聞いてやる。いいから、さっさと寝ろ」


「わかったわよ……あなただって、いつまでも若くないんだから。少しは休んでちょうだいね。まだ病み上がりなんだし」


「言ってくれる。部屋の外に椅子でも置いて、そこで寝るさ」


 言って、ヴィルは扉から手を離した。


 その背中が廊下の薄明かりへ沈むのを、わたしは見ていた。最後の一歩で振り返らなかったのが、ヴィルらしかった。


 扉が静かに閉まる。


 外の足音も、リディアの控えめな気配も、薄い布を一枚隔てたみたいに遠のいた。部屋の中には、寝具の白さと、水差しの鈍い光と、髪からほどける外の名残だけがあった。


 白い剣を抱え直し、寝台へ向かう。


 ほんの数歩だったのに、足はもうその距離さえ覚えていなかった。膝が折れるより早く、身体のほうが寝台を選んだ。


 枕が頬を受け止めた瞬間、身体から力が抜けた。髪に残った潮の気配が、呼吸のたびにかすかに戻ってくる。湯浴みをしなければと思うのに、まぶたはもう言うことを聞かなかった。


 寝具の白さが、視界の端でぼやけていた。


 リディアの手で伸ばされた、皺ひとつない布。その上に、灰のひと粒が落ちる。袖口からこぼれたものだった。明日、リディアは何も言わずにそれを払うだろう。咎める言葉も、嘆く声もなく、ただいつもの手順で。


 申し訳ない、と思うより先に、ありがとう、という形のない呼吸だけが、喉の奥から漏れていった。


 抱えた白い剣へ、指先が触れる。


 柄の感触は、戦闘のあとも変わらなかった。髪や袖に残るものが部屋へ移っても、その白さは少しも曇らない。頼りないほど軽いのに、そこにあるだけで、わたしをこちら側へ呼び戻してくれる。


 練兵場の乾いた土。ヴィルのまなざし。父に似ていると言われたとき、胸の底へ落ちた痛み。馬上で眠りに落ちる直前、背中にあった体温。


 どれも、いまは名前をつけてはいけない気がした。


 名前をつけたら、眠れなくなる。


 あとは、薄い静けさだけが残った。けれどその静けさも、白い寝具の奥へ沈んでいく。指先は白い剣に触れたまま、もう何も掴めなくなっていた。


 遠くで、扉の向こうの気配が一度だけ動いたような気がした。


 見守られている。


 そう思ったのを最後に、まぶたの裏の光がゆっくり滲み、朝の匂いも、喉に残った苦みも、言えなかった言葉も、深い眠りの底へほどけていった。

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