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ミツルお姉ちゃん

 スレイドが歩き出す。


 わたしは鞍の前側に小さく収まり、背中をヴィルの胸もとに支えられていた。両脇の外側を通る彼の腕が手綱を取り、スレイドの首筋が朝の冷えを払うように上下する。革と煤と、夜の汗の匂いが近かった。


 蹄が石畳を打つ音が、夜の底から朝へ向かって、ゆっくり響いていく。東門から王都の内側へ戻る道には、もう人影があった。夜明けを待てなかった者たち。噂に怯えて戸口へ出てきた者たち。水桶を抱えた女、店先を確かめる老人、眠たげな子ども。


 けれど、街は壊れていなかった。


 少なくとも、そう見えた。


 倒れた木箱を起こす者がいる。割れた瓶の欠片を箒で寄せる者がいる。濡れた布を井戸端で絞り、焦げた煤を戸口から洗い流す者がいる。声はまだ小さく、顔色も悪い。それでも、手は動いていた。


 奪うために伸びる手はなかった。


 誰かを追い立てるための刃も、見えなかった。


 恐怖はまだそこにある。人々はその恐怖を抱えたまま、朝の仕事へ戻ろうとしている。湿った石畳の上に、暮らしの音がぽつぽつと置かれていく。


 見慣れた商店街の庇があった。中央市場へ続く角の看板も、中央公園の低い柵も、折れたままではなかった。噴水の水は止められているのかもしれない。それでも、朝の薄い光の中で、白い石の縁はまだそこにある。


 あの公園で、買い物帰りの荷を足もとに置き、噴水のしぶきを眺めたことがある。中央市場で、果実の甘い匂いと香辛料の刺激に包まれながら、若緑の髪へ落ちてくる視線を感じたこともある。


 潮を含んだ風が、通りの奥からかすかに戻ってきた。王都へ入ったばかりの日、白い石畳の上でまぶしさに目を細めたことを思い出す。水路の匂い。花箱の甘さ。市場の声。誰かが小さく落とした「メービスさまの」という囁き。


 そのどれもが、まだ朝の街に残っていた。


 ――よかった。


 その言葉は声にならず、喉の奥で細くほどけた。


 通りの角に、掲示板があった。


 そこには、紙が何枚も重ねて貼られていた。端が湿気で波打った古い紙。墨が少し滲んだ紙。隣に貼り足されたばかりの、まだ白さの残る紙。釘の頭が朝の光を鈍く返し、紙の端が風に震えている。


 『未確認の風聞を流布することを禁ず』


 『私刑を禁ず』


 『発見時は最寄りの詰所へ』


 『子どもと老人を先に退避させること』


 『夜間の不用意な集団行動を避けること』


 その他にも、時を追って追加されたらしい細かな通知が、いくつも並んでいた。どれも頼りないほど薄い紙の上にある。それなのに、その薄さが昨夜、刃より先に人の手へ届いていたのかもしれなかった。


 灰月の者らしい男がひとり、掲示板の前で紙の端を押さえている。別の若い者が、新しい文面を隣へ貼り足していた。


 ――ああやって、最新の情報を更新しているんだ。


 彼らは眠っていない目をしている。けれど、その手つきは乱れていなかった。


「……掲示板があんなことになってるの、初めて見たかも」


「どうせ、カテリーナの仕事だろう」


 ヴィルの声は、わたしの背中のすぐ後ろから短く落ちた。


「紙一枚で止まる足もある。声ひとつで下がる刃もある。あいつは、そういうものをよく心得ている」


「……情報って隠すだけのものではないのよね。守るためには、伝えなければならないこともある」


「そうだ。騒ぎになると、一番厄介なのは噂話の類だ。都合が悪いからといって、隠すばかりが能じゃない」


「でも、言葉を間違えれば、それも刃になってしまうでしょう? とても難しいことだと思う」


「ああ。だから、誰がどう書くかが大事なんだろうな」


 その声は低かった。責めるでもなく、誉めるでもない。ただ、通りの先にある紙の群れを見ている声だった。


「カテリーナが長でなければ、こうはいかなかったかもしれん」


「そう思うわ。ローベルト将軍が置いた目と足は、彼女の手で、こうして意味を成したのね」


「そういうことだ」


 街は、勝手に無事だったわけではない。


 喉の下に残っていた硬い息が、かすかに動いた。


 ――街の情報屋さん、大活躍だったわね。さすがはカテリーナ。


 人知れず、どこかの狭い部屋にこもり、文面を削っていたのだろう。灰月の者がそれを持って走り、憲兵が読み上げ、市場の者が聞き、井戸端の女たちが広げた。南港や魚市場では、バルグのような人が、人の手から刃を下ろさせた。


 わたしは、その夜の手順を知らない。けれど、いくつもの小さな手順が、街を朝へ戻していたことだけは分かった。


 そのとき、視線が、次々とこちらへ留まった。


 最初は、息を呑む音だった。


 黒い馬。手綱を取る長身の金髪の男。その腕の内側に収まった、煤けたローブと若緑の髪。


 それから、誰かが小さく声を上げた。


「あ……あの子」


「緑の髪の……ほら、たしか」


 声は、恐怖ではなかった。


 彼らは昨夜のわたしを見たわけではないのだと思う。けれど、若緑の髪をした女の子の噂は、王都のあちこちに小さく残っている。人助けで走り回ったこと。選定儀式に乱入したこと。先王陛下の庇護を受け、離宮にいるらしいこと。母と父の名にまつわる、まだ形の定まらない噂。


 水の都をめぐる囁きの中で、若緑の髪はもう一度、誰かの記憶の端へ引っかかっていたのかもしれない。黒髪の巫女でも、伝説の再来でもなく、罪の子でもなく、白い石畳と水路の匂いの中で一度目にした、あの緑髪の少女として。


 そのどれもが、わたしを救ってくれるわけではない。けれど、完全な異物にもしていなかった。


 ヴィルは何も言わなかった。


 わたしの背中のすぐ後ろで、彼の息が一度だけ低く沈んだ。手綱を取る腕に力が入り、スレイドの歩みがゆるく保たれる。革の張りが変わるたび、彼の胸の硬さが背中へかすかに伝わった。人の目がある場所で、護る者として立つときの、静かな切り替えだった。


 市場へ続く角を曲がったところで、軒先の板戸を直していた恰幅のいい女が、ぱっと顔を上げた。片手には釘抜き、もう片方の手には曲がった釘が何本も握られている。


 焦げた戸口の奥に、焼いた粉と蜜の匂いがかすかに残っていた。


 思い出した。幾度か焼き菓子を買いに立ち寄った店だ。


 ヴィルが手綱をわずかに引くと、スレイドは女の前で歩みを緩めた。馬の大きな肩が朝の光を遮り、その影が軒先の石畳へ落ちる。


「あらまあ。ミツルちゃんじゃないかい」


「え……」


「あんた、顔が白いよ。いや、煤で黒いんだか白いんだか、もう分からないけどさ」


「あの……お騒がせして、すみません」


「なんだいそりゃ。謝るところじゃないだろう。そこは、おはようございます、だよ。朝なんだから」


 あまりに普通すぎて、呆気にとられた。


 焼け残った朝の空気の中で、その声だけが、昨日までの市場の匂いをしていた。魚の塩気、焼き菓子の甘さ、井戸水の冷たさ。名前を知っている人が、ただ近所の子へ声をかけるみたいに、わたしを呼んでいる。


「……お、おはようございます」


「はい、おはよう。声は出るね。じゃあ次は食べる番だ」


「え?」


「え、じゃないよ。そんな顔して馬に乗ってる子に、手ぶらで行かせたら、こっちが罰当たりみたいじゃないか」


 女は腰の籠をごそごそ探り、紙に包んだ小さな焼き菓子を取り出した。包み紙の端には、煤を拭った指の跡がついている。


「ほら。甘いの。口に入れば、少しは人心地が戻る」


「い、いえ。いただけません。お店も大変でしょうし」


「だから配るんだよ。戸板は直せるが、腹は空いたままじゃ直らない。はい、受け取った」


「あの、お代を……」


「いいから、財布より先に手を出しな。落とすから」


 女は言葉の終わりを待たず、軒先からスレイドの肩口へ身を寄せ、伸ばした手で、鞍の前側に座るわたしの膝の上へ包みをぽんと載せた。


 紙越しに、まだ温もりが残っている。焼いた粉と蜜の匂いが、煤の奥からやわらかく立った。夜通し張りつめていた喉が、その甘さにほどける。


「ありがとうございます」


「いいんだよ。うちの小さいのも、よく覚えてるよ。緑の髪の子は、前にも人助けで走り回ってたって。さっき馴染みの行商が言ってたけど、夜明け前に、魚市場のほうにいたんだって? 大人より顔色悪くしてたって聞いたよ」


「それは……」


 何を返せばいいのか分からず、言葉が絡まる。


「わたしは、その……できることを、少ししただけで」


「少しねえ。はは」


 女は鼻で笑った。けれど、その目は笑っていなかった。板戸に打ちかけていた釘を一本、口の端にくわえ直し、馬上のわたしをまじまじと見る。


「子どもってのは聡いもんでね。怖いときに、誰が自分たちのほうを向いてくれたか、よーく覚えてるもんさ。そういうのを、ありがたいって言うんだ。あんたの言う『少し』ってのは、そういうことだったんだろ?」


 女の声は強かった。けれど、責める強さではない。朝の冷えで固くなった指を、ぬるい湯に浸すみたいな強さだった。


 背後で、ヴィルが何も言わないまま、息を吐いた気がした。


 笑っている。たぶん、笑っている。


 でも、振り返ることはできなかった。振り返れば、彼の口元が面白そうに緩んでいるのを見てしまう気がしたから。


 道端で、若い母親の袖を握っていた五つか六つの男の子が、目を丸くして指を差した。


「あーっ、緑のお姉ちゃんだ」


 その声に、店先の木箱の陰から、少し年上の女の子が駆け寄ってくる。遅れて、年の近い男の子も、大人たちの足もとをすり抜けてきた。


「ほんとだ。馬に乗ってる。かっこいい」


 女の子が、息を弾ませて言った。


 もうひとりの男の子は、ヴィルの腕の内側に収まるわたしと、その背後の金髪を見上げ、まぶしそうに瞬きをした。


「絵本のメービスさまとヴォルフみたいだね」


 喉の奥が、かすかに固くなった。


 ――違う。わたしはメービスじゃない。ヴィルはヴォルフじゃない。絵本の中の巫女と騎士じゃ、ない。


 そのことは、もう分かっている。分かっているのに、その名が朝の通りへこぼれた瞬間、身体の奥で別の影まで身を起こした。


 混乱した街には、きっと、怖くない名前が要るのかもしれない。顔を上げるための光。誰かを悪い名で呼ばずに済むための、やさしい呼び名。絵本の中で人々を救ったひとの面影を見つければ、昨夜の恐怖を、少しだけ別の形へ畳めるのかもしれない。


 ――なら、わたしはそれを受け入れたほうがいいのだろうか。


 ほんの一瞬、そう考えてしまった。


 けれど、すぐに冷えが戻ってくる。


 ――やっぱり、わたしはメービスみたいにはなれない。伝承の中で人々を照らす、精霊の巫女の面影には、きっと届かない。


 わたしの内側には、もっと暗い名が沈んでいる。


 デルワーズ。


 罪と祈りと血脈が、ひとつの音の中に折り重なった、古い名。


 その名を、敵はわたしへ押しつけた。再来だと。写し身だと。まるで、わたしの名前より前から、それが決まっていたみたいに。


 指先が、焼き菓子の紙包みを少しだけ潰した。


 ――王都があんな夜を迎えてしまったのは、わたしがここにいるせいではないの? わたしが災いを招き込んだんじゃないの?


 そう考えてはいけないと、頭では分かっている。悪いのは、人を兵器のように扱った者たちだ。名を奪い、身体を作り替え、怖れを撒いた者たちだ。


 それでも、思ってしまう。


 わたしを狙うものがいるから、この街は巻き込まれたのではないか。わたしがメービスではなく、デルワーズに近いものだから、こんな朝が来てしまったのではないか。


 煤とは違う苦さが、舌の奥に残った。


 スレイドが、石畳の上で蹄を一度だけ鳴らした。


 けれど、三人の子どもたちの声には、畏れも、責めもなかった。


 最初に声を上げた男の子が、首をかしげる。


「ねえ、メービスさまって、馬に乗るの?」


 少し年上の女の子が、考えこむように眉を寄せた。


「絵本では歩いてたんじゃないかな」


 もうひとりの男の子が、すぐに言う。


「じゃあ違うじゃん」


「でも髪が似てるよ」


 女の子はそう言って、わたしの髪を見上げた。朝の光が、その瞳の中で小さく揺れている。


 その隣で、最初に声を上げた男の子が、母親の袖を握り直した。


「お姉ちゃん、お名前なあに?」


 あまりにあっさりと、話はそこへ戻った。


 その軽さに、紙包みを握る指の力が、わずかにゆるんだ。


 たぶん、この子たちはそこまで考えていない。


 メービスの再来だとか、デルワーズの写し身だとか、そんな古い名を秤にかけているわけではない。若緑の髪をした、誰かを助けようとしていた子。きっと、それだけでいいのだ。


 ――そうだ。わたしは緑髪の女の子で、ただのミツルなんだ。


 そのことが、思いがけないほど嬉しかった。


 店先の女は焼き菓子をくれた。子どもたちは名を聞いた。煤をかぶったままのわたしへ、誰も石を投げなかった。


 喉の奥に残っていた苦さが、少しだけ薄くなる。


 ――わたし、ここにいていいのかもしれない。


 その思いはまだ頼りなく、朝の風にさらわれそうなほど薄かった。けれど、たしかに息の底へ灯った。


「わたしは、ミツルよ」


 どうにか笑って、そう言った。


「ミツル?」


「ええ。そう呼んでくれると嬉しいわ」


「ミツルお姉ちゃん?」


「ええ、そう」


 最初の男の子は少し考えるように唇を尖らせ、それから母親の袖を握ったまま、大きく頷いた。


「ミツルお姉ちゃん!」


「うん……ありがとう」


 胸の奥が、ひどくやわらかく痛んだ。


 さらに別の声が、通りの向こうから重なった。


「あら、離宮のお嬢様ね」


「やっぱり、メービスさまに……」


「そうね。王宮庭園の彫刻と、顔立ちが似ていらっしゃるわ」


「お髪の色も、まるで古い絵のまま……」


 また、反射のように体が身構える。


 そんなふうに軽く口にしないで、と胸の奥のどこかが言いかけた。けれど、その声を外へ出す前に、わたしは焼き菓子の包みを握り直した。


 いまは反論しない。


 紙包みの温もりを、指先の中へ押し込める。喉まで上がった言葉も、そのまま飲み込んだ。


 この騒乱のあとに、人々がようやく差し出してくれているやさしい形を、わたしの正しさで折ってはいけない。彼らもまた、夜の底で怯えていた。誰かを悪い名で呼びそうになる恐怖から、かろうじて戻ってきたばかりなのだ。


 それは、わたしが思うほど大きなものではないのかもしれない。


 店先の女がくれた焼き菓子。子どもが呼んだ名前。魚市場のほうにいた子だという声。


 小さなものばかりが、朝の街に残っていた。


 だから、わたしは顔を上げた。


 ――フードはかぶらない。汚れたままでいい。煤けたままでいい。この若緑の髪を朝の光へ晒すんだ。


 そして、できるだけ静かに微笑んだ。


 店先の女が、釘抜きを持ったまま手を振る。老人が帽子を胸に当てる。三人の子どもたちが、ぱたぱたと手を振り返してくる。


『顔を上げろ、立ち上がれ、そして前だけ見て進め。ユベルが、かつて戦場で俺にくれた言葉だ』


 エレダンにいた頃、ヴィルが投げかけてくれた言葉が、じわりと熱になって広がる。指先の冷えがほどけた。


 声よりも、所作のほうがはっきりと届くことがある。


 ――わたしは黒髪を隠した、若緑の髪の、風変わりな女の子。


 それで、今はよかった。


 その呼び方が、人々の恐怖を少しでも柔らかくするなら。


 昨日の夜の名づけが刃にならず、朝の街へ戻っていくための細い道になるなら。


 今は、それでいい。


 けれど、喉の奥には、もうひとつ別の灯が残っていた。


 ――この街は、わたしを受け入れてくれている。


 そう言い切るには、まだ怖かった。明日になれば、別の噂が流れるかもしれない。人の声は、あっという間に刃になる。


 それでも、今朝のこの通りには、刃ではない声があった。


 ミツルちゃん。


 緑のお姉ちゃん。


 ミツルお姉ちゃん。


 そのひとつひとつが、煤けた髪の上へ、朝の光みたいに落ちてくる。


 嬉しい、と思った。


 その思いがあまりに素直で、少しだけ泣きたくなった。


 けれど泣くわけにはいかない。こんな場所で泣いたら、またヴィルに何か言われる。スレイドにまで、呆れたように鼻を鳴らされるかもしれない。


 だからわたしは、焼き菓子の包みを胸の前で抱え直し、空いた手で、もう一度だけ、通りの向こうへ手を振った。


 若緑の髪が、朝の風に小さく揺れた。


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