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一目だけの夜明け

 魚市場から東門へ向かう人の流れが、夜明け前の王都を細く揺らしていた。


 本当なら、わたしはその列を見送って、まっすぐ離宮へ戻るはずだった。


 ラウールにも、茉凛にも、ヴィルにも、そう言われていた。休むことも仕事だと。ここで倒れたら、この先を見届けられないと。わたし自身も、頷いたはずだった。


 それでも、担架に乗せられた人や、子どもを抱いたまま東門の方角へ歩いていく避難民たちを見た瞬間、足がどうしても離宮へ向かなかった。


 一目だけでも。


 東門外の第一練兵場に設けられた保護区画へ、ちゃんと入れたか。そこだけでも、見届けたい。


 そう言ったとき、ヴィルは本当に嫌そうな顔をした。眉間に皺が寄り、口の端がわずかに下がる。叱る前に、一度こちらの息を測っている顔だった。夜明け前の風が、彼の前髪をかすかに揺らして過ぎた。


「どう見ても、一目だけで済むって顔じゃないんだが?」


「済ませるわよ」


「嘘をつけ。そういう類の言葉を、俺は何度聞かされたと思っている。見ちまったら最後、歯止めが効かなくなるくせに」


「……ほんとうに一目だけよ。出過ぎたことはしないから。ほんとにだいじょうぶよ」


「その『ほんとう』も『だいじょうぶ』も聞き飽きた」


 返す言葉に、息が一拍遅れた。


 魚市場で吸い込んだ血と煤の匂いが、まだ喉の奥に薄く残っている。否定しようとしても、声より先に身体のほうが、見透かされたみたいに強張っていた。


「嘘じゃないわ。ただ……ちゃんと、あの人たちが保護されているんだってことを、確かめたいだけ。それだけよ」


「確かめてどうなるっていうんだ?」


「少しだけ息が楽になる、と思う……」


「息か。たしかに今にも窒息しそうな顔だな」


 ヴィルは短く吐き出すように言って、それから少しだけ間を置いた。手綱を持つ指が、革を一度だけ握り直す。乾いた音が、まだ眠らない王都の空気に小さく落ちる。


「あのな、ミツル。俺だって、お前の気持ちが分からんわけじゃない。戦場じゃ、傷ついた味方が運ばれていく先を、どうしたって目で追う。くだらない話をして笑い合った仲間なら、なおさらだ。……だがな、それと、お前がいま立ち続けることは別の話だ」


「……」


「お前は昨夜一晩中、寝ずに突っ走りっぱなしだったろうが。敵の垂らした糸を手繰るのに、どれだけ気を張り詰めていた? そばで見てた俺にはわかる」


 いまのヴィルは、戦術の鬼ではなく、平時の彼の声に戻っていた。叱る声ではない。困っている声だった。


 ――わたし、彼を困らせてる。


 気づいたとたん、喉の内側に薄い砂のようなものが張りついた。


「……ヴィル」


「ラウールには言ったのか?」


「言ったに決まってるでしょ」


「で、あいつは何て返した?」


「短時間だけなら、検査の邪魔をしないなら、って。確認できたら、すぐに離宮へ戻れって……」


「あいつめ……甘やかしにもほどがある。そういうところが気に食わんのだ。まったく」


 吐き捨てるような語尾の中に、本気で嫌っているのとは違う色がにじんでいた。夜風の冷たさの下に、薄い熱が残るみたいに。


「ヴィル……?」


「なんだ?」


「ラウールのこと……嫌いなの?」


「好き嫌いの問題じゃない。合う合わんの問題だ。もちろん、実力は評価しているさ。背負っているものの重さだってな……。共に戦ってみて、それがよくわかった。だが、それとこれとは別だ。お前のこととなるとすぐ甘やかす。余計なことをするなってんだ」


 ぼやくように言って、ヴィルはスレイドの手綱を取った。


「さあ、前に乗れ」


「後ろでいいわ」


「だめだ。寝落ちして振り落とされたらどうする?」


「ね、寝ないわよ。馬鹿にしないでちょうだい」


「意地を張ってる場合か? 休めるときに休む。頼れるときには頼る。旅の途中にも、一度あっただろう」


「あ……」


 キカロスの森で、濃すぎる魔素に身体を持っていかれた夜を思い出す。寒気を押し殺し、頭痛を隠して、それでも平気だと言い張った。結局、わたしは倒れて、焚き火のそばで目を覚ましたのだった。


「いまは、そういう時だ。いいか、戦うにしても、生きるにしても、臨機応変だ。ユベルにゃ、よく言われたものさ」


 ユベル、と。


 父の名がヴィルの口からこぼれた瞬間、肋骨の裏で何かが小さく位置を変えた。日常の中で、父は時折こうして呼び戻される。呼び戻されるたびに、わたしは父ではないのに、と思う。同じ場所に立たされたような心地になる。


「むぅ……父さまの言葉まで持ち出されたら、さすがに言い訳しても無理そうね」


「そういうことだ。いいから、ほら」


 反論しようとして、喉の奥で言葉が詰まった。


 自分でも分かっていた。体はもう限界に近い。指先は冷え、まぶたは重く、魚市場で染みついた血と煤の匂いが、まだ服の奥から抜けない。それでも、確かめずに帰ったら、眠りの中で何度も東門の灯を探してしまう気がした。


 ヴィルの手が、わたしの腕を取る。


 強くはない。けれど、逃がさない手だった。


「一目だけだからな」


「しつこいのね」


「見終わったらすぐに戻るぞ」


「わかってるって、言ったでしょ。子どもじゃないんだから」


 声に出した言葉と、腕に残る温度は、少しずれていた。


 彼の心配は、傍から見れば過保護に映るのかもしれない。以前のわたしなら、きっと、口うるさい父親のようだと受け止めていた。苛立ちもしただろう。


 いまはもう、そう名づけて片づけることができなかった。


 ヴィルの目は、わたしだけを見ている時でさえ、時おり別の背中へ向いている。


 止めても止まらず、納得できるところまで自分の目で確かめなければ戻らなかった人。そんな父の頑固さを、彼はわたしより深く知っている。


 だから、止める。


 分かってくれるから。


 放っておけないから。


 ――そういうことね。


 それは救いの形をしていて、同時に、小さな寂しさを連れていた。


「仕方あるまい。無理にお前を引きずって離宮へ戻ったところで、お前の頭の中はずっとこの練兵場に置き去りになるだけだ。それじゃおちおち休んでなどいられんだろう」


「うん……」


 首を縦に動かすと、その振動だけが体の内側をゆっくり伝わっていった。


「なら行こう。自分の目で一度、大丈夫だと言えるところまでな」


「ごめんなさいね。いつも心配ばかりかけて」


「いいってことさ。それが俺の仕事だ」


 仕事。


 その短い言葉が、薄明の空気の中で、ことりと落ちた。


 専任の護衛騎士。ユベルへの誓いを、いまも律儀に抱えている人。


 そう言い聞かせれば、この腕を支える手にも、いま背けられない近さにも、きっと安全な名前をつけられるはずだった。


 けれど、ヴィルの手はまだわたしの腕にあった。革手袋越しの温度が、逃げ場のない確かさで残っている。


 ――わたしは父さまの代わり。きっと、それだけなんだよね。でも……。


 それだけでよかったはずなのに。


 鎖骨の下で、小さく向きを変えるものがあった。見ないふりをすれば消えてくれるのかもしれない。そう思うほど、かえって、そこだけが静かに痛んだ。


 ――わたしは父さまじゃない。


 飲み込んだ言葉は、薄明の底に小さな冷たさを残した。誰にも言ってはいけないものだった。言葉にした途端、いま辛うじて保たれている均衡が崩れてしまう。革手袋の温度が残る場所だけが、ひどく静かだった。そこへ触れたら、彼の中に沈む古いものまで揺らしてしまう気がした。


 それでも、ヴィルの手はまだわたしの腕を支えている。


 その確かさを、嫌だとは思えなかった。


 ずっと、後回しにしてきたのだと思う。彼が倒れた日も、あの白いテラスで同じものを見た日も、言葉にするより先に、次の出来事が押し寄せた。聞きたいことも、謝りたいことも、確かめてはいけないことも、胸の奥で、薄い布をかけたままだった。


 だから、こんなふうに腕を支えられただけで、どうしようもなく思い知らされる。


 ――このままじゃ、足らないんだ。


 父の影だけではないものが、誓いという言葉の隙間から、もう何度もこちらを見ていた。


 むしろ――そこから離れたくない、と、ほんの一瞬でも思ってしまった自分のほうが、ずっと怖かった。


 欲しがってはいけないものに、指先だけ触れてしまった。


 夜はまだ、明けきっていなかった。


「見終わったら、すぐに離宮に向かうからな」


「ええ」


 短く返した自分の声は、波打たずに済んでいた。ありがたかった。


 ヴィルはそれ以上は言わず、わたしを鞍の前へ乗せた。


 スレイドの体温が、鞍越しにじんわりと伝わってくる。背後にヴィルが跨がると、革と汗と馬の匂いが、冷えた空気の中へ静かに重なった。


 その温度を近くで感じてしまう自分を、わたしはまだ、許せていなかった。


 スレイドが、暗い石畳を踏み出す。


 魚市場の湿った匂いが、少しずつ背後へ遠ざかっていった。東門へ向かう人の流れは、細く、けれど途切れずに続いている。担架の軋み、子どもをあやす声、銀翼騎士団の短い号令。ひとつひとつが、まだ眠らない王都の呼吸のように聞こえた。


 ヴィルは急がせなかった。


 けれど、手綱を持つ腕は緩まない。わたしが少しでも後ろを振り返ろうとするたび、その腕の内側にある距離が、わずかだけ近くなる。


 東門外の第一練兵場へ着いたころ、空はまだ夜の色を残していた。


 練兵場の外縁には、杭が打たれていた。


 粗い縄で区切られた内側に、灯の少ない天幕が並んでいる。土の上には毛布の列があり、水桶のそばでは、膝をついた女が子どもの額を布で拭っていた。担架の脚が乾いた土を擦り、侍医司の白い腕章が、夜明け前の風に小さく揺れる。


 誰かが名を呼ぶ。


 別の誰かが、掠れた声で答える。


 それだけで、喉の下に詰まっていた息が、ようやく細く通った。


 あの人たちは、荷物のようには扱われていない。


 そのことを見た瞬間、体の奥に残っていた力が、ゆっくり抜けていくのが分かった。安堵というにはあまりに薄く、けれど確かに、息は通った。


 スレイドの背で、わたしは一度だけ目を閉じる。


 まだ終わっていない。


 きっと、終わってなどいない。


 けれどいま、この一目だけは、眠るために必要だった。


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