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青い夜明けより先に

 魚市場の石畳に膝をついたまま、言わなければ、と思った。報告ではなく、見解でもなく。濡れた布の冷たさと、掌の下でかすかに返る拍のあいだで、ずっと息をしていたものを。


 この王都を、はじめて怖いと思った日のことが、血の匂いの中でふいに戻ってくる。


 知らない石畳の冷たさ。母の名を背負うことの重さ。どこにも属していないような心細さは、あの日の足裏から、いま膝の下にある濡れた石まで、細い糸のように続いていた。


 それでも、すべてが拒絶ではなかった。この街は、わたしを完全には外へ追いやらなかった。


 母がまだ幼い頃、若緑の髪でこの街を歩いた日があるのだという。黒髪を隠して、王女の名を隠して、ただの子どものように陽の下を。屋台の匂いに足を止め、知らない路地の奥へ目を輝かせ、困っている人を見つければ迷わず手を伸ばした。そんな日々が、母にもあった。


 掌の下で、弱い拍が一度だけ乱れた。


 その小さな震えに、わたしは市場へ引き戻される。血を吸った布の湿り。足もとに流れた水の冷たさ。薬草と魚と煤の匂いが、夜の底で混ざっていた。


 母は、罪の名前だけで語りきれる人ではなかった。黒髪の巫女として恐れられ、離宮に押し込められていた少女が、それでもこの王都のどこかで、ほんの少し自由だった日々がある。


 その足跡を、わたしは知らないまま、どこかでなぞっていたのかもしれない。


 民衆の声も、思い出される。


 若緑の髪へ落ちた視線。息を呑む沈黙。ひそめられた声。そこには怖れも、戸惑いも、怒りもあったはずだ。けれど、すべてが憎しみではなかった。


 店先で道を譲ってくれた人がいた。何も訊かず、紙包みを差し出してくれた手があった。


 名を呼ばなくても、そこにいることだけは許してくれるような、静かな視線があった。


 その視線の先にあった若緑を、わたしはいまも被っている。


 黒髪は、まだ陽の下へ出せない。けれど、その若緑のまま、わたしはこの王都の石畳にいる。


 ――なら。


 石の冷えも、血の匂いも、掌の下で返る弱い拍も、いまは全部、この王都の内側で起きていることだった。


 国を追われてきた人たちも、門をくぐったその日から、この空気を吸っている。怯えながら眠り、名前を呼ばれるのを待ち、朝の水を飲み、誰かの足音に身を固くしている。


 彼らを、外から来た人たちと呼ぶだけではもう足りない。この街の内側で震えている人たちだ。


「どうか、保護対象者を……難民や、急変の兆候のあったかたがたを、守ってください。敵の首魁が何をどこへ送ったのか、それはまだはっきりしません。だからこそ、今のうちにできるだけ早く……」


 喉が詰まり、最後の言葉だけが少し遅れた。


 息を吸う。市場の湿った空気が肺の奥へ沈み、腹の底で、かすかな熱に変わっていく。理屈で包もうとしていた言葉が、ひとつずつほどけていった。もう、隠せなかった。


「守りたいんです。何かが起きてからでは、たぶん、間に合いません」


 言葉にした瞬間、抑えていたものが湿った空気の中で崩れた。


 ――怖い。失うのが怖い。


 母が歩いた街を。わたしをここに立たせてくれた王都を。ここで今日を生きようとしている人たちを。


 ――奪われたくない。もう二度と。


 掌に爪の痛みが滲む。けれど、その痛みがあったから、声は逃げなかった。


「怖いんです……。母の故郷であるリーディスが、母の愛したこの王都が、炎と血に塗りつぶされてしまうことが。ここで朝を待つ人の声も、店の灯も、子どもの笑い声も、ただの灰になってしまうことが」


 息が震えた。


 泣きたいわけではなかった。泣いている暇もない。ただ、ずっと積もっていたものが、もう言葉の形を取らずにはいられなくなっていた。


「だってここは、わたしにとって、救いだったから。黒髪の巫女として恐れられ、離宮に遠ざけられていた母が、ひとりの、ただの子どもとして歩けた街なんです。わたしが、ここにいていいのかもしれないと思えた、大好きな街なんです」


 わたしは異邦人だった。


 母の名を背負い、黒髪の影を若緑の髪で隠してこの王都へ入った。受け入れられなくても仕方がないと思っていた。疑われても、怖れられても、当然だと思おうとしていた。


 そしていまも、黒髪は若緑の下にある。


 この街の中に立っていながら、わたしはまだ、ほんとうの髪を陽の下へ出せないでいる。それでも、いま、ここにいる。


 なら、あの人たちを外へ押し戻す言葉を、わたしは選びたくなかった。


「だから……外から来た人たちだって、もうここで息をしているんです。ここで怯えて、ここで傷ついて、ここで朝を待っている。危ないかもしれないからって、外へ押し戻すなんて、そんな言葉を、わたしは選びたくないんです」


 傷口を押さえた掌の下で、弱い拍がまた返ってきた。細く、頼りない。けれど確かに、ここにある命の音だった。その音に合わせるように、わたしはもう一度だけ手に力を込める。


「敵に利用されるかもしれないからって、あの人たちを、敵みたいに見ないでください。故郷を追われて、なおも敵の影に脅かされている。怖い人たちじゃないんです。怖がっている人たちなんです」


 血を吸った布の冷たさが、指の腹へ戻ってきた。


 ――死にたくない。まだ生きていたい。明日を迎えたい。


 茉凛が教えてくれた、ちゃんと生きるという言葉の意味が、いまになってほどけた。


 朝を迎え、温かいものを食べ、くだらないことで笑って、誰かの声に返事をする。そういう小さなことを欲しがることが、どれほど大切で、どれほど怖いことなのかを、わたしは知っている。


 わたしがそれを願うことは、甘い毒だった。罪でもあった。


 それでも、願ってしまった。


 けれど、あの人たちは違う。


 何も悪くない。ただ故郷を追われ、敵の影に脅かされ、それでも今ここで息をしている。明日を望むことまで、奪われていいはずがなかった。


「死にたくない。まだ生きていたい。明日を迎えたい。そんな当たり前のことだけを、いまは必死に抱えている人たちなんです。だから……どうか守ってください」


 言い終えたあと、唇がまだ震えていた。


 ――どうして、こんなふうにしか言えないんだろう。


 恥ずかしさより先に、苦しさが来た。こんなふうに王都を自分のもののように呼んでしまったことに、みぞおちの内側が追いつかない。守るべき場所、では足りない。母の故郷、でも足りない。わたしを受け入れてくれた場所。わたしが、いつの間にか帰りたいと思っていた場所。その事実が、痛いほど温かかった。


 ローベルトはすぐに答えなかった。


 市場の奥で、水桶が置かれる音がする。どこかで子どもが短く咳をし、侍医司の者が静かに名を尋ねていた。彼の視線は、その声の方角を一度だけ追ってから、わたしへ戻った。


「西方避難民たちを、東門外の第一練兵場へ集めよう。──全員だ」


 低く告げられた言葉に、背筋の奥がひやりとした。


「城門の外へ、ですか?」


「ああ、そうだ」


 ローベルトの声は低く、少しも揺れなかった。市場の奥で置かれた水桶の音だけが、石の上を薄く跳ねた。


「そんな……あんまりです。練兵場って……あそこは人を寝かせる場所じゃありません。見てわかりませんか? 負傷者だって出ているんです。子どもだっているんですよ」


 唇から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。


 東門外。練兵場。


 かつて、ヴィルとの手合いで使った場所だ。


 広く、平らで、何もない場所。剣を構え、土を踏みしめ、何度も息を乱したあの場所。あのときは、王都の壁が背にあった。壁の向こうに、守られている街の気配があった。


 けれど今、そこへ運ばれるのは、国を追われ、ようやく門をくぐった人たちなのだ。


 ――王都の外へですって?


 ようやく門をくぐった人たちを、また壁の向こうへ戻してしまうの。監視の兵たちに囲まれて、あんな寂しい場所に置かれてしまうというのか。


 まだ見ていない光景なのに、冷たいものが体の内側へ刺さってくる。


 ローベルトの視線が、わたしの手元の血のついた布から、魚市場の奥の天幕へ移った。彼はすぐに否定しなかった。けれど、その目は冷たくなかった。


「ミツル、よく聞いてくれ。今、王都の内側へ留めれば、私たちは彼らを守りきれなくなる可能性がある」


「守りきれない、とは……どうしてですか?」


「それは、ふたつの意味で、だ」


 彼は短く息を整えてから、ゆっくり続けた。


「ひとつは、彼らを疑う者たちからだ。今宵の騒ぎはもう、王都の路地の隅々まで走っている。西方避難民が魔獣化した、あれは異教の徒だ、井戸に毒を撒くつもりだった――そういう根も葉もない噂がな」


 喉の奥が、薄く凍る。濡れた布を押さえる指先に、弱い拍がまだ返っているのに、その人の名より先に、そんな言葉が街へ走っている。


「そんな……ひどいです。怖がるのは分かります。でも、それで誰かを決めつけていいわけじゃない。人なんですよ。そんな言葉で呼んでいいわけがない」


「その通りだ」


 ローベルトは低く答えた。肯定なのに、声の底には重いものが沈んでいる。


「こちらとしても、憲兵だけではなく、銀翼を回して治安維持に努めているが、それだけでは足らん」


 カテリーナが、丸眼鏡の奥で目を細めた。


「やれることはやってるさ。けどね、こういう時ってのは、そうはうまくいかないもんさ。怖がってる人間は、確かな話より、怖さに形をくれる噂のほうへ飛びつく。夜が明けるまでに、もっと厄介な顔へ変わるかもしれない。市民が刃を取るまで、猶予があると思わないほうがいい」


 石畳の冷えが、わたしの足裏へ上がってくる。


 ――前世のわたしは、その怖さを知っている。


 路地の奥で、誰かが井戸、と囁く。店を守ろうとした指が、台所の刃物の柄へかかる。確かな知らせが届かない夜ほど、噂は早く姿を変え、次の角を曲がるころには、もう誰かを傷つける理由になっている。


 最初は、ただ怖いだけなのだと思う。


 家族を守りたい。店を守りたい。井戸を守りたい。明日の朝を、いつも通り迎えたい。その小さな願いが、間違った名を信じた瞬間、誰かの足音を追い詰める。


 だから、先に呼ばなければならなかった。


 危険な者たちではなく、保護対象者なのだと。敵に利用されるかもしれない者たちではなく、故郷を追われ、この王都の内側で怯えながら、それでも名を持って朝を待っている人たちなのだと。


 ローベルトは説明を続けた。


「もうひとつは、敵が、彼らの身体に残したかもしれない仕掛けからだ。首魁の狼煙がどこへ届いたかは、現段階では誰にも断じきれない。届いた先が王都の内側にあれば、人の暮らしの中で次の発火が起きるかもしれん。それだけは、絶対に避けなければならない」


「だから……外、なのですね」


「これは隔離ではない。保護移送だ。そのように理解してもらいたい」


 彼は、はっきりとそう言った。


 言葉の違いだけではないのだと、わたしには分かっていた。それでも、理解することと、飲み込めることは、いつだって同じではなかった。


 ローベルトは、わずかに目を伏せた。


「これは、私一人の判断ではない。王宮からは、本件の処理を将軍府へ委ねるとの通達が下りている。実務の筋は、宰相にも通してある。いま選びうるなかでは、これが最も犠牲の少ない形だと、承認を得た」


 処理、という言葉が、濡れた石畳の上へ硬く落ちた。


 掌の下には、まだ弱い拍がある。呼吸もある。名前もあるはずの人を、紙の上ではそんなふうに呼べてしまうのだと、舌の奥が苦くなる。


「宰相に、ですか? 王様は……?」


「残念ながら、王は市井に興味を示されない。君もよく分かっているはずだ」


「はい……」


「こうした事態ほど、実務は宰相から将軍府へ流れるものだ」


 ローベルトの声は低かった。怒りではない。ただ、長く同じ場所を見てきた人の硬さがあった。


「宰相について言うなら、彼は損得を読むことに長けた人物だ。リーディスは中央大陸屈指の大国だ。その大国が、身を寄せた者たちをぞんざいに扱ったとなれば、国の威信に傷がつく」


 濡れた市場の空気の中で、彼の言葉だけが乾いた刃物のように輪郭を持っていく。


「逆に、クロセスバーナが何をしたのかが明らかになれば、我々は保護する側として大義を得られる。王宮備蓄を一部回し、侍医司を動かし、公式記録の名を誤らせない。


 大掛かりな国家動員ではない。だが、それだけで救える者がいる。国として得るものもある。宰相にとっては、最小の手当てで、より大きな損を避ける策でもある」


「……国とは、そんなふうにしか動かせないんですね」


「その通りだ」


 短い返事だった。


 その一音で、政治というものが、正しさだけでは動かない場所なのだと分かった気がした。けれど、正しさではなく損得で動いた手が、それでも誰かの毛布になり、水になり、名前を守る文書になることもあるのだと、同時に思い知らされる。


「君が望むような、誰も傷つけない道は、今の王都にはもうない。それを承知のうえで、私が決めた」


 彼は、軍人の顔のまま、深く頭を下げる前のような間を置いた。けれど、頭は下げなかった。下げてはならない場所にいる人だった。


「すまない」


 その一言だけが、低く落ちた。


 ラウールが、静かに口を開いた。


「これが最善だとは、言いたくありません。けれど……いまは必要なのですね。ローベルト将軍」


 その声は低かった。慰めるためではなく、同じ痛みを呑み込むための声だった。


「状況に終わりが見えない以上はな。やむをえん」


「狼煙がどこへ届いたのか、僕たちはまだ知らない。少なくとも、その先が見えるまで、人の流れと、敵が仕込んだ流れを分けて、別の場所で追えるようにしたほうがいい。西方から逃れて来た人たちを守るためにも……」


 その一言で、わたしの中に残っていた抗議は、喉の奥へ戻った。


 ――そうだ。まだ終わっていない。


 だから、今はきれいな形だけを選べない。誰も傷つけない方法がないなら、せめて傷を少なくする方法を選ぶしかないのだ。


 わたしは、血のついた布を押さえ直す。掌に湿りが戻り、視線が少しだけ下がった。


「……分かりました」


 そう言うまでに、少し時間がかかった。


「お願いします。あの人たちを、敵みたいに扱わないでください。番号でも、個体でも、ましてや実験体でもなく……ひとりひとり、名前のある人として」


 あの男の口にした言葉が、まだ耳の奥に残っている。番号。個体。実験体。口にしたくないのに、その冷たい形だけは、もう忘れられなかった。


 ローベルトの目が、ほんのわずかだけやわらいだ。


「心配はいらない、と軽々しくは言わん。だが、決して荒野に野ざらしになどしない。そう誓う。それと、難民という名だけで済ませるつもりもない」


「ローベルト将軍……」


「いまの彼らは保護対象者だ。故郷を追われ、このリーディスへ身を寄せた、守るべき者たちだ。少なくとも、私の指揮下にある兵たちには、そう呼ばせる」


 彼は、東の空へ目を向けた。まだ夜明けには遠い。それでも、石畳の端には薄い白さが、ほんの細く滲みはじめている。


「それと、シンシアリーナ王女が、すでに手配の筋を作っている」


「シンシアが……?」


 思わず、そう呼んでしまった。


 ローベルトは一瞬だけ口元を緩ませた。けれど、そのやわらぎはすぐに消え、濡れた市場の空気の中で、ふたたび実務の顔へ戻っていく。


「第一王女としての名で、将軍府と宰相府へ緊急建議が届いている。王宮備蓄から布、毛布、水を出すこと。侍医司へ負傷者の受け入れを要請すること。急変の兆候がありながら未発動の者を、保護対象者と明記すること。そして、今宵の出来事を、『西方避難民による騒擾』と公式記録に残させないこと。宰相が承認し、将軍府が執行する。そういう形だ」


 肩のあたりが、わずかに揺れた。


『誰かに与えられるのを待つのではなく、自分から動くということです』


 いつか、彼女がそう言っていた。その声が、濡れた石畳の冷えの中で、ふいに耳の奥へ戻ってくる。


 ――シンシアも、戦ってくれている。


 剣ではなく、文書で。声ではなく、王女の名で。けれど、それは誰かを従わせるための名ではなかった。人を傷つける刃が走る前に、宰相と将軍府が動ける道を、紙の上で先に開いてくれている。


「練兵場は、こちらで救護区として設える。天幕を張る。湯を沸かす。炊き出しを出す。産婦と幼子は別に守る。王女殿下の文は、そのための名と足場を、すでに私たちへ与えてくれている。宰相が認め、私が受けた以上、あれはただの願いではない」


 張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけていく。


 東門外。練兵場。壁の外。


 その言葉の冷たさは、まだ消えない。けれど、そこへ運ばれる人たちが、ただ置き去りにされるわけではないのだと、ようやく身体が遅れて理解しはじめる。


 布がある。毛布がある。水がある。湯が沸く。天幕が立つ。名前を誤らせないための文書が、もう届いている。


 それだけのことが、こんなにも息をしやすくするのだと知らなかった。


「文面のすみずみまで、お気持ちが籠もっておられた。あれは、文字で人を救おうとする者の手だ」


 侍女シンシアとして市井へ出ていった彼女の横顔が、瞼の裏をかすめていく。


 名を隠して人の中へ入り、名を引き受けて人を動かし、いまは王女として、紙の上でも刃を止めようとしている。


 その強さに、少しだけ息ができた。できた、はずだった。


 市場の奥で、かすかな泣き声がした。


 人の声なのに、まだ言葉になる前の、小さな生き物の鳴き声みたいだった。濡れた石畳に吸われ、荷車の軋みと誰かの呻きのあいだへ沈んでいく。その細さだけで、足裏がすっと冷えていった。


 さっきまで握っていた理屈が、指の隙間からほどけていく。


 噂を先に押さえる。名を誤らせない。保護対象として扱わせる。敵に利用されそうになっている人たちだと伝える。やるべきことは、分かっている。


 わかっているのに。その声がひとつ聞こえただけで、全部が急に遠くなった。


 あの人たちを守りたい。でも、間に合うのだろうか。


 わたしの言葉は、ほんとうに人の足を動かせるのだろうか。


 喉の奥が細く縮み、息が少しだけ引っかかった。


「でも、そんなにうまくいくのかしら……?」


 声にした途端、自分の弱さが濡れた空気の中へ落ちた気がした。


 カテリーナは、すぐには笑わなかった。丸眼鏡の奥の目だけが、こちらを一度、細く測る。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ市場のざわめきの向こう側を見ているようだった。


 それから、鼻で短く息を吐いた。


「舐めんじゃないよ。王都の口がどこを通るか、あたしが何年見てきたと思ってるんだい。商人、荷運び、橋詰の屋台、夜番の憲兵。噂ってのはね、走る道があるんだよ。間違った名が広まる前に、こっちから先に置いてやる」


 荒い言葉なのに、足場のようだった。


 雨を含んだ市場の匂いの中で、わたしはようやく息を吸う。香辛料の辛さと、血の鉄臭さ。さっきから足もとにまとわりついていた果物の甘い匂いまで、ゆっくり肺へ落ちてくる。


 カテリーナは、わたしが怖がっているものを消そうとはしない。ただ、その怖さの上に、通れる板を置く。そういう人なのだと、遅れて思い出した。


「……そうね。あなたならできる。そうだったわ。ごめんなさい」


 カテリーナは丸眼鏡の奥で目を細めた。その目には甘さはない。けれど、見捨てる冷たさでもなかった。濡れた髪を払うように、彼女は顎をわずかに上げる。


「任せときな。こういう時のために、灰月は目と耳を持ってる」


 彼女の声には、いつもの棘があった。それでも、その棘は人を刺すためではなく、流れを切るためのものだった。恐怖が広がる前に。間違った名が、人を檻へ押し込める前に。王都の口という口へ、先に正しい言葉を置くためのものだった。


 市場の奥で、また小さく泣く声がした。わたしはその音に肩を揺らし、それから、傷口を押さえていた手にもう一度だけ力を込める。


 ――怖いことに変わりはない。


 けれど、怖いままでも、動いてくれる人がいる。わたしの声だけでは届かない場所へ、言葉を走らせてくれる人がいる。そのことが、いまは細い灯みたいに、呼吸の奥へ残っていった。


 カテリーナはすぐに視線を切り替えた。丸眼鏡の奥の目は、もう目の前の市場ではなく、王都の辻と橋を見ているようだった。


「灰月の聞き手は、今夜中に主要な辻と橋詰へ配る。あと、ラウールに頼みたいことがある」


「なんだい?」


「あんたの判断で構わないから、あんたの名で出す伝達文として、市民へ流す表現を一度、いまここで決めておきたいんだけど」


「ああ。任せる。僕の名と立場を使ってもらって構わない」


「いい覚悟だ。『西方避難民による騒擾』は使わない。これは決定でいい?」


「使わない。代わりに、『王都南部で発生した突発事象』。原因は調査中。負傷者は侍医司の保護下にあり、『西方避難民による騒擾』として扱わない。憶測による私的な制裁を禁じる。これでどうかな」


「結構。それでいくよ」


 彼女は早口で言い切り、もう一度ヴィルへ目をやった。湿った灯の中で、丸眼鏡の縁が細く光る。


「ヴィル、あんたの最優先はミツルの護衛だ。絶対にこの子の側から離れるんじゃないよ。番犬として、しっかり張りついてな」


「犬扱いもたいがいにしろ、と言いたいところだが、それでいい」


「一段落したら、詰所で調書を取る。そんときゃ、秘蔵のとっておきを飲ませてやろうじゃないか」


「そいつは楽しみだ」


 ヴィルは短く返した。その口元が、ほんのわずかに緩んでいる。いつものカテリーナの調子が戻ってきたことに、彼もどこかで安心したのかもしれない。


 カテリーナはそれを受け流すように、すぐ市場の奥へ視線を移した。灯が丸眼鏡をかすめ、次の命令のための鋭さだけが残る。


「それと、バルグ」


 次に、彼女はそう呼んだ。


「あんたんとこの若い衆を借りるよ。担げる者は担架。歩ける者は東門へ誘導だ。荷は後回し。売り物も、帳面も、店の都合も今はあとだ。命が先だ」


「心得た」


 バルグは短く応じ、すぐに太い声を市場の奥へ飛ばした。


「聞けい。動ける者は立て。具合の悪い者を置いていくな。荷は捨てよ。命より重い荷など、この世のどこにもないぞ。儂が言うのだ、信じよ」


 その声に、人々が顔を上げていく。


 恐慌ではない。歓声でもない。ばらばらだった息が、ひとつの方向へ揃いはじめる音だった。担架の柄が肩に乗り、若い衆の濡れた額が灯を返す。女たちは赤子を布で巻き直し、誰かが落とした荷紐を、別の誰かが担架の端へ結び直した。


 バルグはそこで、もう一度声を張る。


「者ども、よう聞け。彼らをよそ者と呼ぶでない。魔獣と呼ぶでない。一度この市場へ身を寄せたからには、儂の客だ。儂の客に手を上げる者は、儂が許さぬ。よいか」


 太い声の奥に、不思議なほどの慎みがあった。


 彼は古代史を語らない。魔族のことも、神代のことも知らない。それでも、人をひとりの人として呼び戻すことなら、この場の誰よりもよく知っているように見えた。


 バルグの声が人の波の上を渡っていくあいだに、侍医司の灯が、ようやく膝元へ届いた。


 若い侍医がわたしの隣に膝をつき、血を吸った布の上から手を重ねる。袖口から、薬草と湯気の匂いがした。背後では担架係が布を広げ、濡れた石に膝をつく音が小さく重なる。


「代わります。呼吸は?」


「浅いけれど、あります。ただ、脈が弱いです。出血は、見えている範囲ではここだけです」


「分かりました。ここからは侍医司で受けます」


 その言葉を聞いて、わたしはようやく手を離した。


 掌に残った湿りが、夜気に触れて急に冷たくなる。離したはずなのに、弱い拍だけがまだ皮膚の奥に残っていて、指を握るまでに少し時間がかかった。


 ヴィルが、わたしの隣へ来た。


 何も言わなかった。ただ肩の近くに立ち、次に何が起きてもすぐ動ける距離にいる。その距離だけで、背中に張りついていた震えが少しほどけていった。


「ミツル」


 ラウールが、緋朧天石を布で包みながら言った。


「当面の方針と対策は決まった。君は、少し休んだほうがいい」


「何を言ってるの。こんな状況で、休んでいる場合じゃないでしょう。わたしにできることなら、なんだってしたいの。何がいけないの?」


 彼は首を横に振った。


「休むことも、君の仕事のうちだよ」


 穏やかな言い方だった。けれど、その目は逃がしてくれない。


「君がここで倒れたら、誰がこの先を見届けるんだい?」


「見届ける?」


「そうさ。君にしか見えないものがある。それを取りこぼさないために、休むべきだ。今の君がすべきことは、それだけだ」


 言い返せなかった。


 マウザーグレイルの柄を握る。白い剣は、まだわずかにきしむような余韻を残している。


《《ね、美鶴……帰ろ》》


 たった一言。茉凛はそれだけ告げた。


 いつもなら軽い調子で横から声を差し込む彼女が、このときばかりは、ずっと黙っていた。怖くないはずがない。それでも、わたしの呼吸を乱さないために、黙っていてくれたのだと思う。


 茉凛は、そういうひとだ。


「わかったわ」


 わたしは小さく頷いた。


 ラウールはそれを見届けてから、もう一度、ローベルトのほうへ向き直る。


「ローベルト将軍。練兵場には、僕も同行させてもらいたい。彼らの中に、術式化魔石片の反応を示す者がいないか、一人ずつ確認したい。今回の件で得られた知見と、手元の古記録を照らし合わせれば、見えてくるものがあるはずだ」


「許可する。結果は私へ直接回せ。通常の報告経路には載せるな」


「もちろん。心得ています」


「……ブルフォード」


 ローベルトが、ヴィルへ目を向けた。


「お前はミツルの護衛に専念しろ。誰にも接触させるな」


「言われるまでもない」


 ヴィルは短く返した。それだけだった。けれど、その短さの中に、いつもより少し深い頷きが入っていた気がした。


 魚市場の外では、銀翼騎士団が移送の動線を作りはじめていた。灰月の者が残骸を囲み、侍医司が負傷者の名を聞き取る。カテリーナが誰かの肩を叩き、バルグの声が遠くまで届き、ローベルトが東門へ向かう騎士へ短い命令を下していく。


 魚市場の騒乱は、ひとまずの終わりを告げた。


 けれど、そう言い切るには、夜の匂いがまだ濃すぎた。


 煤けた風が、焦げた冬の葉のような苦みを運んでくる。濡れた石畳の目地には黒紫の細い滲みが残り、水路の水面は何事もなかったかのように暗い光を抱いて流れていく。さっきまで掌の中で荒れ狂っていたマウザーグレイルの反動だけが、まだ消えない。指先を丸めても、広げても、そこにだけ薄い霜が降りているようだった。


 東門のほうへ、人々の列がゆっくりと動き出していく。


 誰かが名前を呼ぶ。


 呼ばれた人が、かすかに震える手を上げる。


 その傍らでは、別の誰かが泥に汚れた膝をついていた。侍医司の回復術師が脈と呼吸の揺れを読み、記録係の筆先が湿った紙の上を走り、銀翼騎士の掲げる松明が、濡れた道に橙色の長い影を落としている。


 名前がひとつ呼ばれるたびに、夜の底へ、消え入りそうな小さな灯が置かれていくようだった。


 不意に強まった風が、松明の火の粉を散らした。ヴィルの広い肩先で、火花が小さく爆ぜて消える。半歩だけ前へ出た背中が、言葉より先に、守るということを示していた。


 名がある。


 その事実だけを、この痛みを伴う夜とともに刻んでおこうと思った。


 傷ついた人。運ばれていく人。まだ声を出せない人。手を上げられなかった人。逃げ遅れた人。恐怖の中で誰かの袖を握ったまま離せない人。そのひとりひとりに名があり、こちらが間に合わなかった人たちにも、それぞれの暮らしと、呼ばれるべき名があった。


 これから守らなければならない場所にも、きっと。


 遠くで、灰色の塔の鐘が一度だけ鳴る。


 勝利を称えるには、あまりに低く、沈痛な音だった。鐘の余韻は濡れた屋根を渡り、水路の暗い面に触れて、東門の向こう側へと薄く伸びていく。


 誰も歓声を上げなかった。剣を掲げる者もいない。ただ、誰かが名を呼び、誰かが答え、答えられない人の名を、別の誰かが震える指で紙に書き留めていた。


 その静けさの中で、最初の杭が打ち込まれる音が、どこかで聞こえた気がした。


 実際には、ここから東門は遠い。王都南部の港側まで、練兵場の土を打つ音が届くはずもない。それでも、濡れた屋根を渡っていく鐘の余韻と、名簿へ走る筆先のかすかな音が、まだ陽の光を知らない東門の土へ、わたしの意識を運んでいった。


 湿った土へ、乾いた音がひとつ落ちる。


 続いて、もうひとつ。


 夜明け前の土は骨身に凍みるはずなのに、その空耳のような杭音だけが、不思議と熱を帯びているように思えた。


 救護区が、作られていく。戦うためではなく、逃げるためだけでもなく、そこに運び込まれる人の名を、もう一度正しく呼ぶために。力が刃へ傾く前に、人の側へ戻すために。


 王都の朝は、まだ来ない。それでも、人を守るための場所だけが、青い夜明けより先に、静かに形を取りはじめていた。

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