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狼煙は上がった

 魚市場の奥に、人々の息がまだ残っていた。


 若い衆が震える腕で担架を持ち上げ、濡れた木の軋みが水音に混じる。ラウールは緋朧天石(ひろうてんせき)を握りしめ、赤の濁りが完全に消えるまで目を逸らさなかった。ヴィルは切っ先を下げきらないまま、崩れた男の残骸を見下ろしている。


 勝った、とは思えなかった。


「これでは、何の証拠にもならない。ほんと、うまくできているわ……」


 残された外郭片。焼けた核片。石畳に刻まれた四つの属性痕。水路の上に薄く漂う黒紫の膜。そして、どこかへ走った狼煙。


 焦げた魔素の苦みだけが、湿った空気の底に残っていた。


「……ラウール」


 呼びかけると、彼はゆっくりこちらを見た。緋朧天石(ひろうてんせき)を包む指の関節が、まだ白い。


 いつもの穏やかな王子の顔ではなかった。亡国の名を背負い、古記録の奥に眠っていたものを、現実の市場で見てしまった人の顔だった。


「狼煙、って言ったわよね。あの男。……ということは、これで終わりじゃない、ってことよね。でも、わたし……魔素の糸も、流れも、何も見えなかった。どういうわけか、マウザーグレイルがきしんだ。それだけだったの。あなたは、何か掴めなかった?」


 訊いてから、答えを聞きたくないと思った。


 舌の裏に、焼けた魔素の苦みが戻ってくる。


 ラウールは、短く息を吐いた。緋朧天石(ひろうてんせき)から指を離した瞬間、彼の肩がわずかに落ちる。


 ほんのわずか。


 けれど、その疲労は深かった。


「……外へ知らせた、というのとは、たぶん違うと思う」


「どういうこと?」


 水路を渡る風が冷たかった。彼の声の低さだけが、濡れた石畳の上にしばらく残る。


「あれが完成個体だったとしても、ここから西方大陸の本国まで届かせるのは、そう簡単じゃない。距離はもちろん、間に挟まる魔素帯にだって干渉されるはずだ。ましてや――」


 ラウールは、崩れた残骸へ視線を落とした。


「制御主核を構成していた四つの魔石は、ヴィルによって砕かれていた。残っていたのは、体内に散らばり定着した術式化魔石核片だけなはず。あれが最後に何らかの合図を放ったとしても、おそらく海を越えるほどの強度はないだろう」


「では……外に向けたものではない。そういうことなの?」


「うん。少なくとも、クロセスバーナ本国へ届くようなものじゃないと思う」


 その否定は、安堵よりも先に、別の怖さを連れてきた。


 胸の奥で、何かが水路の暗がりへ沈んでいく。


 ――外ではない。ならば、内だ。王都の内側。


 水路の向こうには、まだ薄い煙が残っている。魚市場の屋根、濡れた荷下ろし場、奥へ続く暗い通路。その先には救護区がある。仮設天幕がある。まだ動けない人たちがいる。


「まさか……まだ、救護区に残っている兆候者へ向けて……?」


 自分で言って、指先が冷えた。白い剣の柄に触れたところだけが、やけに硬く感じられる。


 難民ではない。


 救護対象者だ。


 敵が、保護されるべき人の身体に仕掛けを入れた。それでも、発動前の人たちはまだ名を持つ。まだ、誰かの手で抱え出されるべき身体だ。その輪郭だけは、言葉のうえで間違えてはいけなかった。


 ラウールの表情が、さらに硬くなる。


「今のところはだけど、その気配はない」


「なぜ、なぜそう言い切れるの?」


「西門での一件のあとで、灰月を通して軍と侍医司とで取り決めたんだ。救護区で急変の兆候が出たら、すぐに信号弾を上げて知らせる、と」


「信号弾……」


「赤と白、二発続けて。軍の緊急符号だ。……でも、今のところ、魚市場側からも、西門の救護区からも、まだ何も上がっていない」


 濡れた石畳の匂いが、少しだけ近くなった気がした。水路の冷えが、裾から膝へ上がってくる。


「では……発動を促す合図は届かなかった……? 不発だったということ?」


 その言葉は、安堵ではなく祈りに近かった。


 ラウールはすぐには頷かなかった。緋朧天石(ひろうてんせき)を包む掌に、細い水滴がひとつ落ちる。


「不発、に見える、というだけかもしれない。それとも、これまでとは別の、何か特別な仕組みが隠されているとしても不思議じゃない。けど、術式化魔石核片のサンプルが得られない以上、解析もできないのがね……」


 その冷静さが、いまはありがたくも、ひどく痛かった。彼の掌から落ちた水滴が、緋朧天石(ひろうてんせき)の表面を細く曇らせる。


「はっきりしているのは、首魁の身体そのものが送信器だったということだ。外へ放った、というより……死ぬ瞬間に崩れた魔素の波形を、どこかが拾えるように設計してあった。僕は、そう見ている。だから、ふつうの遠距離通信の理屈で測ると、たぶん見えない。糸も、流れも残らないんだ。……君が見えなかったのは、君のせいじゃない」


 その一言だけ、彼は診断ではなく、赦しのように置いた。


 わたしの肩から、知らずに張っていた線が、ほんの少しだけ緩んでいく。気づかないうちに止めていた息が、喉の奥で小さく擦れた。


「完全に崩れ切る前に、核片全体の反応を押さえ込めていれば……あるいは、止められたかもしれない。でも、それは結果論だ。ヴィルが砕いてくれなければ、あの合図はもっと遠くまで届いていた。僕は、そう見ている。これは、いまの僕たちにできる、最良の形だったんだと思う」


 ラウールはそこで一度、目を伏せた。


「ただ、それでも吐き気がする。自壊は証拠隠滅で、同時に狼煙だ。極めて合理的で……だからこそ、許せない」


 穏やかな声に、芯のところだけが冷えていた。夜気よりも低い温度が、言葉の端に触れている。


 彼の怒りは、いつもこういう温度で立つのだとわたしは思う。怒鳴らない。なじらない。それでも、誰よりも深いところで、その仕組みを憎んでいる。


 バルグが、低く唸った。


「死してなお狼煙とは、まこと胸くそが悪いのぅ。これでは、勝った気がせぬわ」


 斧の柄が石畳を打った。重い音が、水に濡れた市場の床へ低く沈んでいく。


「あれは戦士の死に様ではないわ。あやつ、自らの命を握っておらなんだ。命を握らぬ者の散り際を、誉れと呼ぶ気にはなれん」


 その言葉に、肋の裏が静かに詰まった。


 自分の命を握っていない。


 あの男は、最後まで任務を遂げた。自分の意思で、それを誇っていたようにも見えた。声にも、目にも、敗北を悔いる色は薄かった。


 それでも、その死に方さえ仕組みにされていたのなら、どこまでが彼の意思だったのだろう。


 焦げた魔素の苦みが、舌の奥にまだ残っている。


 ――わたしは、どうだった?


『この命は、もともとそのためにあります。躊躇などありえません』


 柚羽美鶴として死した瞬間が過った。頭蓋の内側で鐘が乱れ鳴り、歯が無意識に噛み合った。


 かちん。


 金属が鳴った。


 ヴィルが、銘無しの聖剣を静かに納めたのだ。音は小さかった。それなのに、その小ささが市場の喧噪の中をひどく鮮明に通っていく。


「ミツル」


 名を呼ばれ、わたしは顔を上げる。


 ヴィルは、こちらへ来なかった。距離を保ったまま、わたしの足元と、背後の人々と、刃のない白い剣と、顔色を順に見ている。ちゃんと見られている。そう思うだけで、今さら膝が震えそうになった。踏みしめた石畳の冷たさが、足裏へ遅れて戻ってくる。


「怪我はないか?」


 濡れた革と鉄の匂いが、彼の半歩手前で立ち止まっていた。


「どこも。……だいじょうぶよ」


 答えた声は、思ったより細かった。濡れた夜気に触れた途端、自分の声ではないみたいに頼りなくなる。


 ヴィルはほんの少しだけ目を細め、それから頷いた。何か言いたげだったけれど、言葉にはしなかった。彼は、口より先に判断が動く人だ。いまは、言葉より先にやるべきことがある。それを、たぶん、わたしより早く飲み込んでいる。


「……お前は、よくやった」


 短かった。


 たぶん、それ以上は言わないつもりだったのだと思う。けれど、付け足すように、彼は低くこう加えた。


「ちゃんと守ったんだ。誇っていい」


 胸の奥で、何かがほどけそうになる。それを堪えるために、わたしは奥歯の裏で湿った息を噛んだ。


「……うん。でもね、ヴィルが守ってくれたから、なんとかなったのよ。ほんとうに、ありがとうね」


「気にするな。これが俺の役目だ」


「あと……」


「何だ?」


「父さまの剣を、ひさしぶりに見れた気がした」


「そうか。ま、所詮は真似事に過ぎんがな」


 そう言って、彼はほんのわずかだけ目を逸らした。照れではない。もっと奥のほうにある、盟友の名を呼ぶときだけ浮かぶ、あの硬い柔らかさだった。灯の端が、彼の横顔を短く撫でて消える。


 革の擦れる音とともに、巨きな影が背後から近づいてくる。両刃の斧を肩に乗せたバルグの足が、濡れた石畳を低く打った。水たまりが、小さく震える。


「ヴィルはミツルの一の騎士じゃからのう。さすがは、叔父貴の眼鏡にかなった男よ。一打にも、引きにも、一分の迷いもなかったわ」


 太い声が、魚市場の濡れた空気を押し広げるように通っていく。


「それに、ラウール殿の魔術も実にみごとであった。無詠唱でひと息に組み上げる業など、儂の長き旅路でも滅多に拝めたものではない」


 讃えるためだけの声ではなかった。同じ場に立てた者だけが渡せる、低い目礼のような響きだった。


 ヴィルは振り返らず、剣帯の金具を指でひとつ確かめてから、その視線だけをバルグへ寄こした。


「お前の大技も効果的だった。見せ技で招きこみ、足元を崩し、あとは背後を取ればいい。獲物を狩る詰みの手順だ。だが、事前の打ち合わせもなしに、こうもうまくいくとは思いもしなかったがな」


「そこは戦場の勘とでも申しておこうか。儂らはみな、それぞれ死線を渡ってきた身よ。互いの間合いを、刃を交わすより先に肌が覚えておったのだ」


「まぐれかもしれんがな。そういうことにしておこうか」


「ガッハッハッハッ!」


 笑いはからりと乾いていた。けれど、その乾きの裏に湿ったものが薄く沈んでいる。命を懸ける場へ立つ者だけが、戦のあと、こんなふうに笑うのだとわたしは知った。


 バルグの暴風は、道を作った。ラウールの読みは、捕縛のために足場を折った。ヴィルの剣は、殺さずに終点を残した。


 ――それでも止められなかった。狼煙は上がってしまった。


 道筋は間違っていなかった。けれど結末だけが、誰かの冷たい手の中で先に決められていた。そう思うと、濡れた市場の空気が、もう一度喉へ重く戻ってくる。


 無意味ではなかった。


 バルグの暴風がなければ道は開かなかった。ラウールの術がなければ、あの光る核片をここまで追い込めなかった。ヴィルの剣がなければ、首魁はもっと遠くへ、もっと深く、何かを放っていたかもしれない。


 だから、これは敗北ではない。


 けれど、勝利とも呼べなかった。


 その間にある名のないものが、魚市場の水の匂いと一緒に、喉の奥へ沈んでいく。


 わたしは白い剣の柄へ指を添えた。マウザーグレイルはもう鳴らない。ただ、さっき軋んだ場所だけが、掌の内側に薄く残っている。痛みではない。熱でもない。けれど、忘れようとすればするほど、そこだけが硬くなる。


 上がってしまった狼煙は、どこへ届いたのか。誰が受け取ったのか。何を呼ぶのか。何もわからない。


 わからないまま、わたしたちは生きている人たちのほうへ戻らなければならない。倒れた桶から水が落ちる音も、奥で担架を運ぶ若い衆の息も、まだここにある。崩れた男の灰よりも先に、そちらへ目を向けなければならなかった。


 そう思ったのに、足はすぐには動かなかった。


 濡れた石畳の目地に、黒紫の滲みが細く残っている。水路へ流れ込むでもなく、乾くでもなく、ただそこに沈んでいた。


 夜の終わりを、信じていないみたいに。


 わたしは一度だけ、ヴィルの背を見た。


 剣を納めた彼の肩は、いつもよりほんの少しだけ低い。疲れではない。たぶん、彼も同じものを見ている。止めたはずなのに、止めきれなかったもの。斬らずに残したはずの終点を、敵のほうが先に焼いてしまったこと。


 言葉にすれば、きっと余計に重くなる。だから何も言わなかった。


 ラウールも、バルグも、ヴィルも、同じ沈黙の中にいた。魚市場の片隅で、三つの強さが、ほんの短いあいだだけ黙って並んでいる。誰も、勝ったとは言わなかった。


 その沈黙が、わたしには祈りのように聞こえた。


 誰のための祈りなのかは、わからない。死んだ男のためか。まだ生きている人たちのためか。それとも、狼煙の向こうでまだ名も知らずに震えている誰かのためなのか。


 答えは出なかった。けれど、答えが出ないままでも、動かなければならないのだと思った。


 水の音が、もう一度だけ落ちる。


 ぽたり。


 その小さな音に背を押されるように、わたしはようやく息を吸った。焼けた魔素の苦みが喉へ残る。その苦さごと飲み込んで、白い剣を抱き直す。刃のない白が、濡れた灯を鈍く返した。


 勝ったのではない。終わったのでもない。それでも今は、生きている人の名前を呼ぶところから、始めるしかなかった。


《《美鶴、右奥の方に人がいる。呼吸が浅いみたい。ちょっと診てあげようよ。まず呼吸と脈を診て、必要なら精霊子走査も使っていいから》》


「うん」


 わたしは頷き、柱の陰へ向かった。


 足元で、水滴がひとつ落ちた。


 ぽたり。


 その音は戻ってきたのに、もう、さっきまでの水音ではなかった。勝利のあとに残った音は、こんなにも冷たい。


 濡れた石畳へ膝をつき、倒れている人の肩に触れる。まだ温かい。呼吸は浅いけれど、ある。湿った布越しの体温が、掌へゆっくり移った。


 白い剣を膝の横へ置き、震える指で外套の端を裂いた。


 戦えなかったのではない。そう言い聞かせるには、まだ時間が足りなかった。ただ、斬れないからこそ守れるものもある。そう思わなければ、さっきの男の目が、いつまでも胸の奥に残り続ける気がした。


 ポケットから取り出した絹のハンカチを、わたしは躊躇いなく傷口へ当てる。押さえた掌の下で、弱い拍が返ってくる。その頼りなさに、ようやく呼吸が戻った。


 ここには、まだ死んでいない人がいる。まだ名前を失っていない人がいる。


 なら、わたしが見るべきものは、崩れた外郭の残骸だけではなかった。


「……ラウール。いまさら言うまでもないことかもしれないけど、この人たちは守るべき存在よ」


 声は小さかった。それでも、自分の中ではっきり聞こえた。濡れた布を押さえる指先に、まだ弱い拍が返っている。


「狼煙がどこへ届いたのかは、まだ分からない。だからこそ、今のうちに保護しないと。……誰かが、この人たちを『合図を受けた側』として見る、その前に」


 ラウールがこちらを見た。


 答えは、短かった。


「うん。僕も同じ意見だ。ローベルト将軍へ、僕からも伝えるつもりだ」


 その「同じ意見」という言い方に、なぜかわたしの肩から、もう一つぶん力が抜けていく。ひとりで言ったわけではないのだと、遅れて身体が知った。


 そのとき、魚市場の外側で蹄の音が重なった。


 濡れた石畳を、蹄の音が規則正しく打って近づいてくる。まず銀の片翼の徽章が灯に触れ、次いで濃紺の外套が闇の中から浮き上がった。馬の鼻息が白くほどけ、水路の冷えに混ざる。


 ――あれが銀翼騎士団? はじめて見る。色から見て左翼かしら。


『真紅は右翼。濃紺は左翼』


 いつだったか、ヴィルからそう説明されたことがある。


 市場の口で、ローベルト将軍が手綱を引いた。濡れた石畳を削るように馬蹄が止まり、後続の騎士たちも音を揃えて散っていく。濃紺の外套が夜風に低く鳴り、人々と水路のあいだへ、静かに壁を作りはじめていた。


 さらに後ろから、硬い靴音が濡れた石畳を追ってきた。漆黒の軍服に走る銀のラインが、松明の灯を受けて細く光る。


「まったく、もう」


 カテリーナの声が、焦げと水の匂いに満ちた市場へ割って入った。その声だけで、張りつめた空気の端が少しだけ現実へ戻る。


「許可が下りてるってことも、手順を踏んでることも、わかっちゃいるがね」


 丸眼鏡の奥で、彼女の目がすっと細くなる。濡れた手袋の指先が、呆れを追い払うみたいに一度だけ振られた。


「この有り様を見せられれば、さすがに寿命が縮むってもんだ」


「カテリーナ! 来てくれたのね」


「来てくれたじゃない。あんたって子は、どうしていつもいちばん物騒のど真ん中へ首を突っ込むんだい……」


 言いかけて、彼女は崩れた外郭片を見た。


 次にラウールを見て、ヴィルを見て、最後にわたしの手元の血のついた布を見る。


 その視線が、そこでわずかに止まった。


「……その手は?」


「見てわからない? 出血を押さえているの。呼吸が浅いけど、まだ脈はあるわ」


 湿った布越しに、かすかな脈が掌へ触れた。カテリーナの視線が、倒れた人の顔へ移り、いつもの皮肉が、その瞬間だけ薄くなる。


「なら、そのまま押さえてな」


 短い言葉だった。


 けれど、そこには叱責ではなく、判断があった。わたしがそこに膝をついている意味を、彼女は余計な説明なしに受け取ってくれたのだと思う。


「すぐに侍医司をこっちへ回す。担架が来るまで、そこを動くんじゃないよ」


 守るべき人。保護対象者。まだ名前を失っていない身体。わたしがさっき自分に言い聞かせた言葉を、カテリーナは叱らず、ただ現場の言葉で支えてくれた。


 その言い方に、みぞおちのあたりが、静かに緩んでいく。


「うん。……ありがとう」


「礼はあとだ。今はその手を離さないことだけ考えな」


 カテリーナは低く息を吐いた。紙束を抱えた腕に、ほんの少しだけ力が入る。


「いろいろ心配をかけてごめんなさい。……でも、見過ごせなかったの」


「だろうね。あんたが見過ごせる子なら、こっちもこんなに駆けずり回らずに済んださ」


 カテリーナは口元を歪めた。笑ったのか、呆れたのか、夜の灯では判じきれない。


「まあ、顔色は悪いが怪我はないようだし、今はそれで十分だ。小言なら、あとで一ダースくらいまとめて聞かせてやるよ」


 その顔には、言い損ねた安堵がかすかに残っていた。


「そうね。落ち着いたら、そうして。わたしも、あなたに話したいことがたくさんあるし」


「ふん、せいぜい覚悟しときな」


 そう言ってから、カテリーナは崩れた男の残骸へ視線を戻した。目つきが、すぐに灰月のものへ変わる。


「それで、あれが首魁……だったものかい?」


 わたしは頷いた。


「たぶんね。でも見ての通り、証拠はほとんど残っていないわ。自壊して、核片も焼けてしまって……最後に、これは狼煙だ、って言い残したの」


「狼煙、ね……」


 カテリーナの声が低く落ちた。湿った紙の匂いと、焦げた魔素の苦みが、彼女の沈黙のまわりへ薄く降りてくる。


「ほんと、嫌な言葉ばかり選ぶ連中だよ。ちっとは品ってもんがあってもいいだろうに」


 彼女はローベルトのほうへ一度だけ目をやり、それから灰月の隊員たちへ短く指示を飛ばした。濡れた石畳の上で、黒い外套がいくつも動き出す。担架を通すための道が開き、侍医司の灯がこちらへ近づいてきた。


「ま、詳しい話は、ローベルトの旦那に通しな。後始末と手配はあたしらの仕事だ……それからミツル」


「なに?」


「あんたは、あんたの大切にしたいものを見てればいい。残骸じゃない。目の前だ。いいね?」


 掌の下の体温が、ほんの少しだけ強くなった気がした。


「うん」


 カテリーナはそれを見届けると、もう何も言わなかった。


 ローベルトはそこで、まずヴィルへ目を向けた。


「ミツル。ブルフォード。両名とも無事なようだな」


 短い確認だった。けれど、ふたりの間で交わされたものは、その短さの倍以上、重かったのだと思う。戦場で生き残った者同士の、言葉にならない確認だった。


「……ああ。何とかな」


 ヴィルはわずかに顎を引いた。濡れた外套の端から、まだ水滴が石畳へ落ちている。


「こうなるであろう、可能性は見えていた。だが、ここまで早いとはな」


 ローベルトの声は低かった。責める響きではない。ただ、起きたことを逃がさず掴むための硬さがあった。


「何より、よくミツルを守り抜いてくれた……」


「役目を果たしたまでだ」


 ヴィルは短く返したあと、ほんの一瞬だけ市場の奥へ目をやった。


 担架を運ぶ若い衆、駆けつけた侍医司の灯、壁際に寄せられた子どもたち。そのすべてを確かめてから、ローベルトへ視線を戻す。濡れた外套の裾から、また一滴、石畳へ落ちた。


「あんたこそ、いい差配だった。信号弾が一発も上がっていない。西門も救護区も、まだ持ちこたえているということだろう?」


「今のところはな」


 ローベルトはそこで言葉を切った。馬の鼻息が白く漏れ、濃紺の外套が夜風に低く鳴る。


「だが、これで終息したとは思えない」


「同感だ」


「敵は何を残した?」


 その問いに、ヴィルの目がわずかに冷えた。


「首魁は、散る間際に言い残した。『これは狼煙だ』と」


「狼煙か……」


 ローベルトの眉間に、深い皺が刻まれた。


「どこへ報せた? 王都外苑にも、国内各地にも警戒は出している。だが、現時点で本隊と呼べる兵力は確認されていない」


「それなら、まだ話は読めるんだがな。だが、ラウールはそう単純じゃないと見ている。海を越えるほどの強度ではない、ともな。むしろ、王都の内側のどこかへ届いた可能性が高い」


 濡れた石畳の上で、その言葉だけがひどく冷たく響いた。


 王都の内側、という見えない方向が、足元から開いていく。


 ローベルトは一度だけ息を吐いた。短い吐息だったのに、そこには将軍府で積み上げてきた判断が、すべて押し込められているように見えた。


「だが、今のところ大きな変化はない」


「見えている範囲ではな。だが、このまま何も起こらんとは思えん」


「なら、対応を急ぐべきだな」


「ああ。ここで終わったと思った者から、次を見落とす」


「お前らしい言い方だ」


「いや。こいつは、ユベルの受け売りだ」


「そうか……なるほどな」


 その名が落ちた瞬間、ローベルトの目元に、ほんの短い影が差した。けれどそれは、濡れた石畳の灯に触れる前に消えていた。


 ローベルトはそこで軍人の顔へ戻った。安堵の名残はもうない。代わりに、濃紺の左翼を率いる将の目があった。濡れた市場の匂いの中で、その視線だけが乾いて見える。


「では、状況を聞かせてもらおう。ここに至るまでの経緯。敵首魁から得られた情報は、わかる範囲で構わん、すべて。保護対象の数。負傷者の状態。それと、ミツルからの――」


 報告、あるいは見解と言いかけたのかもしれない。


 けれど、わたしはその前に口を開いていた。


「ローベルト将軍。報告より先に、お願いしたいことがあります」


 ローベルトの視線が、こちらへ落ちた。


 背後で、銀翼の騎士たちの鎧が小さく鳴る。濡れた市場の匂いに、血と水と、踏み荒らされた果物の甘さが混じっていた。わたしは傷口を押さえた手に、もう一度だけ力を込めた。


 掌の下で、弱い拍が返ってきた。


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