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白い紙の上の細い光

 スレイドの蹄が、乾いた土を一度だけ踏み替える。


 魚市場の濡れた石畳とは違う、硬く、粉っぽい音だった。ヴィルが手綱を短く絞り、わたしの体が鞍の上でかすかに揺れる。背中越しに伝わってくる彼の体温だけが、夜明け前の冷えの中で、まだ現実の輪郭を保っていた。


 城壁の上を渡ってきた風が、薄く頬を撫でていく。鼻の奥には、血と煤と、湿った魚市場の匂いが残っていて、息を吸うたび、喉の内側がざらついた。


 けれど、誰も急変していなかった。


 誰かが叫ぶたびに、心臓が遅れて跳ねる。誰かが膝をつくたび、次の急変ではないかと体が強ばる。それでも、東門を越えて運ばれてきた人たちは、ひとり、またひとりと、練兵場に設けられた保護区画へ入り、侍医司の灯の下で名を聞かれていった。


 暴れる者はいなかった。


 人としての応答を失う者もいなかった。


「よかった……」


 その言葉は、安堵というより、破れずに済んだ薄い膜のようだった。向こう側に何もないと決まったわけではない。けれど少なくとも今、この保護区画へ運ばれてきた人たちは、自分の名を持ち、自分の声で返事をし、誰かの手に支えられながら朝を待っている。


 わたしたちは、それを確認していた。


「これで、ひとまずは……」


 思わずこぼした声は、風に掠れた。


 ヴィルが、わたしの後ろでわずかに身じろぎする。手綱を持つ手は揺れない。ただ、声だけが、戦場の中で聞いたものより低く、朝の冷えに馴染んでいた。


「今のところは、な」


「ええ……終わったとは思えない。むしろ、これからなのかもしれないって」


「同感だ。勝ったと思った夜ほど、二度目の刃が飛んでくる。気の緩んだ側から先に倒れるんだ。……今の状況もそれと同じだ」


「……あなたらしい言い方ね」


「らしいで済ませるな。覚えておけ、こういうときの希望的観測は、むしろ毒にだってなるんだぞ」


 叱り方が、なぜか肩のこわばりをほどいた。


「わたし、少し悲観に寄りすぎているのかも、とは思うんだけど」


「それくらいがちょうどいい。『見る者』としてはな」


 彼の言葉は時々、骨の近くまで届いてしまう。冷えた風の中で、スレイドの鬣がかすかに揺れた。手綱は短く握られたまま、これ以上は緩まない。


 練兵場の端では、銀翼騎士団が縄を張り、暫定の保護区画へ続く簡易の通路を作っている。担架で運ばれた人たちは、侍医司の者たちによって毛布の上へ寝かされ、歩ける人たちは、番号ではなく名前で呼ばれながら、列へ導かれていた。


 番号ではなく、名前。


 そのことだけで、夜の底に小さな灯が置かれたように見えた。


「水をこちらへ。幼子のいる家族は左側の天幕へ。歩ける者は、先に名を告げてください。急がなくていい。押さないでください」


 侍医司の若い女性が、ひび割れた声で繰り返していた。


 何度も同じことを言うせいか、その唇は白く乾いている。それでも、彼女は声を途切れさせなかった。怯えた人たちは、その声を目印に、少しずつ列へ移っていく。土を踏む靴音と、毛布の擦れる音が、細く重なっていった。


 ラウールは、その道の少し先にいた。


 緋朧天石を布に包み直し、侍医司の現場責任者らしい男と低い声で言葉を交わしている。傍らの小箱には、回収された微細な術式化魔石片が分けて置かれていた。


 灯を受けても、もう禍々しく光ることはない。


 その沈黙のほうが、かえって不穏に見えた。


 彼はもう、仕事に入っていた。


 わたしが聞きたいことも、言いたいことも、きっと山ほどある。けれど、それは昨夜の魚市場で、すでに彼が引き受けてくれたことだった。今ここでわたしが近づけば、彼はまたこちらを見て、説明し、安心させようとしてしまう。


 それでは、邪魔になる。


 そう思ったとき、東門の外側から、別の音が流れ込んできた。


 馬車の軋み。


 それも一台ではない。乾いた土を踏む蹄の音と、木箱同士が触れ合う鈍い響きが、夜明け前の練兵場へ少しずつ近づいてくる。


 振り返ると、城門の影を抜けて、荷を積んだ馬車の列が入ってきていた。王宮の印を押した木箱。布の束。毛布。水樽。湯を沸かすための釜。炊き出しに使うらしい穀物の袋。まだ空の端に青も差していないというのに、荷台の上には、誰かが夜のうちにかき集めたものが、きちんと積まれている。


 先頭にいたのは、真紅の外套を纏った銀翼騎士だった。


 濃紺ではない。


 右翼。


 濃紺の外套なら、先ほど魚市場で見た。闇の中で、銀の片翼の徽章とともに浮かび上がった、あの静かな色。あれは左翼だった。


 真紅は、はじめて見る色だった。


 けれど、その色の意味はもう知っている。父がかつて背負った翼。ヴィルがその隣で走った翼。パンフレットの明るい紹介文や、彼の何気ない説明の中にだけあった赤が、いま、冷たい土の上へ降りてくる。


 馬車の横では、近郊の駐屯地から来たらしい兵たちが、銀翼騎士の指示を受けながら荷を下ろしていた。首都防衛隊でも、壮麗な近衛騎士団でもない。肩章も、鎧の磨きも、王都の兵とは少し違う。けれど動きは迷いがなかった。


「毛布は幼子のいる天幕へ。水樽は侍医司の右手側に置け。釜は急いで炊き出し場へ回せ。腹を減らしたものたちも多い。あと、灰月の記録係、数を取れ。迅速に正確にだ」


 真紅の外套の男が、短く命じている。


 声は大きくない。だが、命令は通った。兵たちが一斉に動き、灰月の者らしい影が、運び込まれた物資の数を素早く書き留めていく。侍医司の白い制服を着た者が水樽の栓を確かめ、別の者が毛布の束を抱えて、幼子の泣き声がする天幕へ走った。


 紙の上にあった命令が、布と水になって届いていた。


 肋の裏で、張りつめていた息がかすかに動いた。


「……こんなにも早く対応できるなんて。想像もしていなかったわ」


 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 真紅の外套の男は馬を降り、ローベルトのもとへ歩いていった。土の上で踵を揃え、深く頭を下げる。


「右翼第一即応班。王宮非常備蓄庫および第二駐屯地より、第一便を搬入しました。毛布三百、布束八十、水樽二十、薬湯用の釜四、穀物袋四十。第二便は半刻以内に到着予定です」


「よろしい」


 ローベルトの声は低い。


「現場の導線は銀翼が見ろ。兵たちを荷下ろしと天幕の設営へ回せ。必要なら増員を回す」


「はっ」


 男は短く答え、それから、ふとこちらを見た。


 視線がまず、ヴィルへ行く。


 一瞬だけ、男の目元が変わった。驚きではない。懐かしさでもない。もっと軍人らしい、古い名札を見つけたような静かな反応だった。


「副長……いえブルフォード卿」


 真紅の外套の男は、わずかに頭を下げた。


「お久しぶりです。ご健勝のようで、なによりですな」


 ヴィルの体が、ほんの少しだけ強ばった。


 ほんの少しだけ。


 けれど、背中越しに分かった。


「……お前もな」


 返事はそれだけだった。


 男は深く踏み込まなかった。視線をわたしへ移し、何かを言いかけたように唇を動かす。けれど、言葉にはしない。ただ、小さく頭を傾けた。


 礼でも、哀悼でも、好奇でもない。


 わたし――ユベル・グロンダイルの娘がここにいることを、知っている者の沈黙だった。


 そのあと、彼はほんのわずかに微笑んだ。


 すぐに顔を戻す。


「では」


 踵を返し、真紅の外套はまた物資の列へ戻っていった。朝の冷えの中で、その裾が一度だけ揺れる。


「……いまの人、ヴィルの知り合い?」


 訊ねると、ヴィルは少しだけ間を置いた。


「なに、昔俺の部下だった男だ」


「それだけ?」


「それだけだ」


 それ以上は言わない声だった。


 わたしはもう一度、真紅の外套を見た。


 彼は兵たちを怒鳴りつけることなく、荷の置き場を変え、天幕の入口を空けさせ、子どものいる列へ毛布を回している。馬車の車輪が練兵場の土を噛む音。水樽を転がす鈍い響き。布を抱えた兵の息。侍医司の女性が名を聞く声。


 それらが、ばらばらではなく、ひとつの流れになっていた。


 紙の上にあった命令は、もう紙ではなかった。


 毛布を抱えた腕になり、水樽の栓を確かめる白い袖になり、冷たい土へ膝をつく侍医司の姿になっていた。


「これもすべて、シンシアが――」


 彼女の名前が、喉の奥へ静かに浮かんだ。


「ちゃんと、届かせてくれたからなのね」


「ああ」


 ヴィルの返事は短かった。否定も茶化しも、そこにはなかった。


「俺は王宮のことはよく分からん。だが、第一王女だからって、何でもかんでも動かせるってわけじゃないんだろう。ここまで手を尽くしてくれるとは、正直驚いている」


 荷馬車の脇で、若い兵が毛布の束を抱え直していた。重さに足を取られかけたところを、真紅の外套の男が片手で支え、置き場を短く指し示す。水樽の栓を確かめる白い袖。数を書き留める灰月の影。誰かの手から誰かの手へ、必要なものが渡されていく。


 奇跡と呼ぶには、ひとつひとつが小さすぎた。毛布は届き、水は置かれ、必要なものは次の手へ渡っていた。


「彼女は、かつてこう言っていたわ」


 口にした途端、離宮の小応接室に差していた淡い光が、まぶたの裏へ戻ってきた。


 侍女の服を着ていたシンシア。王女という名を隠し、けれど王女であることから逃げきれずにいた少女。あのときの彼女は、硝子細工みたいに澄んでいて、だからこそ、内側にある決意が見えにくかった。


「王女としての立場では、できることに限りがあるって。けれど、何もしないでいることはできなかったって」


 ヴィルは黙って聞いていた。


 スレイドの体温が、鞍越しにじんわりと伝わってくる。夜明け前の冷えの中で、わたしの指先だけが、手綱の革ではなく、膝の上の布をそっと掴んでいた。


「シンシアは、たぶんずっとそうしてきたのだと思う。自分にできることを、少しずつ。侍女の姿を借りて白銀の塔へ来たことも、王女として言葉を選んだことも、文書に名を記したことも……全部」


 喉の奥が、少しだけ熱くなった。


 荷馬車の向こうで、布を抱えた兵が走る。水樽の濡れた木肌から、冷たい匂いが低く立っていた。


「自分ひとりでは届かないものがあると知っていたから、小さな道を何度も探していた。日々、小さなことを少しずつ積み重ねていた、そのひとつひとつが、いま、ここへ届いているのだと思う」


 真紅の外套が、荷馬車の列の向こうで揺れる。


 毛布が天幕へ運ばれていく。水が置かれる。侍医司の者が幼子の額へ手を当てる。泣き声が、完全には止まらないまま、少しだけ細くなる。


 それだけのことが、いまは胸に沁みた。


「……なるほどな」


 やがて、ヴィルが低く言った。


「道端の小石を、ひとつずつ積んでいたわけか」


「ええ。彼女はそうやって、届かない場所へ届く道を増やしていったのだと思う。王都にも、軍にも、王宮の中にも。少しずつ、彼女の言葉を受け取る人が増えていったのでしょう。あの宰相だって、損得を計算したうえで協力している。でもね、それはなにも野心ではないのよ」


「らしいといえば、らしいのかもしれん。小石ひとつじゃ、矢も止められん。だが、積み続ければ土を留める。土が留まれば、陣地になる。……城壁とまではいかんが、身を伏せる場所くらいは作れるものだ」


 少し意外で、わたしは顔を上げた。


「あいかわらず、へんな例えね」


「悪かったな」


「でも、間違ってはいないと思う」


「離宮ですれ違った程度でなんだが、あの娘は本物だ。できないことを嘆くより、できるところへ手を伸ばす。そんな腹の据わった顔をしていた」


 ヴィルの声には、わずかな敬意が混ざっていた。


 誰かを誉めるときの彼の声は、いつもこれくらい短い。短いのに、嘘がない。


「王女という名は、思っているより重い。剣ひとつでは動かせない門が、紙一枚で開くことだってある。だが、ただ名前を書けばいいわけじゃない」


「……名前の重さを、知っているからこそ、でしょうね」


「そうだ。自分の名前が何を動かすか知っている者が、自分の責で使う。だから武器にもなる。あの娘は、それをやった」


 風が、練兵場の端を低く渡っていった。


 土の匂い。煤の残り香。水樽の湿った木の匂い。その中で、シンシアリーナという名前だけが、白い紙の上に置かれた細い光みたいに思えた。


「……ええ。本当にすごい人だと思う」


 そのすごさは、誰かの上へ立つためのものではなかった。手の届かない場所へ、手を届かせるためのものだった。


 わたしはまだ、それを言葉では掴みきれない。ただ、その名で開かれた道が、いま、冷えた土の上へ毛布を運ばせている。そのことだけは、分かった気がした。


 わたしはもう一度、白い制服の列と、荷馬車から下ろされていく毛布を見た。


 昨日の夜、魚市場で聞いた泣き声が、まだ耳の奥に残っている。けれど、その声に向かって、いま水が運ばれている。毛布が運ばれている。名前を聞く人の手が届こうとしている。


 一目だけでも、来てよかった。きっと、意味があった。


 そう思った。


 けれど、その一目で十分なのだとも、ようやく分かった。

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