印を問う者②
古い荷下ろし場の水路には、まだ男の声の冷えが沈んでいた。濡れた石は月光を薄く返し、魚市場の奥から漂う塩と血の匂いが、喉の奥へざらりと残っている。
その上を、刃みたいな声が、いまも耳の奥で滑っていた。
できない、と言ったはずだった。欠けている、と。届かない、と。なのに男は、その空白を宝玉でも見つけたように見ている。わたしが境界の外だと思っていた場所を、鍵穴の形でも測るように、静かになぞっている。
ラウールの警告が、遠い紙擦れのように戻ってきた。
クロセスバーナは、ただリーディスの巫女が邪魔だから狙っているのではない。もっと深い目的のために、わたしと剣を必要としているのかもしれない。
戦力としてではなく、鍵として。
あのときは、まだ遠い言葉だった。黒い紙の上に書かれた警告のようで、肌に届くものではなかった。
けれど今、男は目の前で、わたしが欠落だと思っていたものを、欠落として見ていない。触れられないこと。従わせられないこと。一般の魔術師なら不足と呼ばれるはずのそれを、何かの輪郭を測るための線みたいに扱っている。
魔素の濃淡を拾うこと自体は、いまさら誰かの言葉で塗り替えられるような新しい力ではない。
エレダンの荒野で魔獣の気配を探ったときから、身体は先に揺れを拾ってきた。王都西側の歪みを読んだときも、そうだった。発動点が人の身体の内側にある。そう感じたとき、わたしは自分の感覚を疑わなかった。
知らない話ではなかった。
だからこそ、怖かった。
まったくの嘘なら、否定できた。けれど男の言葉は、わたしと茉凜が少しずつ拾い、まだ仮説として掌に載せていたものの輪郭を、別の冷たい名前でなぞっていた。
わたしたちが救うために見ようとしていたものを、この男は測るために見ている。
その名で縁取られた瞬間、ずっと自分のものだと思っていた感覚が、服の下から引き出されるような気がした。濡れた布をめくられるみたいに、隠していた場所だけが、夜気に晒される。
《《美鶴、息をして》》
茉凜が呼ぶ。
《《まともに受け取らなくていいからね》》
剣の内側から届く声が、いつもより近い。すぐ隣で、少し背伸びをして、わたしの顔を覗き込んでいるようだった。
《《あいつが勝手に言ってるだけ。勝手に決めつけてるだけ。何も返さなくていい。こんなわけわかんない話、無視! はい、息して》》
――でも。
喉の奥で、その言葉が詰まる。
勝手に決めつけているだけ。そう思いたいのに、男の言葉は、もう肌の上から離れなかった。触れられないこと。従わせられないこと。わたしが欠落として片づけようとしていた場所へ、男は「証」という名前を置こうとしている。
その名を受け取ってはいけないと分かっているのに、息はもう一度、喉の途中で止まった。
「……こう呼べば、そなたにもわかるか。精霊の巫女、メービスの再来と」
男の声が、また落ちる。濡れた石壁に触れ、湿りを含んで返ってくる。
「世はそう呼ぶであろう」
水音が遠くなった。
「だが、我らは違う名でそなたを見る」
息が詰まる。
「神代の御業にて刻まれしものを、もっとも色濃く残す者と」
その言葉が、湿った夜の中で、ひどく乾いて響いた。
禁書庫の石床の冷えが戻る。黒い記録媒体から溢れた光。ロスコーの苦い声。調製槽の中で眠る少女。白銀の翼が、灰の世界で音もなくひらく。システム・バルファという名の、感情を持たない巨大な喉。ラオロ・バルガス。完全統制の中枢。そこから零れ落ちた、空の器。
名前のひとつひとつが、知識ではなく、皮膚の裏へ戻ってくる。
生まれさせられたもの。兵器として調整され、やがて心を持ってしまったもの。後のリーディス王家の底に沈み、代々の巫女たちの影へ形を変えて残った存在。
その輪郭は、怒りだけでは掴めなかった。憎しみだけでも、救いだけでも足りなかった。あまりにも大きく、あまりにも近く、そして、あまりにも自分の内側へ食い込んでいる。
「王家は長く、それを薄め、飾り、神話へ変えた」
男の声が、なおも続く。
「……おやめなさい」
声が震えた。
自分でも分かった。男は、その震えを逃さない。
「だが、そなたの中でそれは薄まっておらぬ。消えるために置かれた微かな拍。その消えたあとの空白を拾えることが証だ。代々の巫女では届かぬ精度で、歪みだけを読む。これを、ただの魔術適性とは呼ばぬ」
代々、と男は言った。
まるでリーディスの巫女たちを、長く標本のように並べてきた者の口ぶりだった。湿った石壁の匂いの中に、古い紙と薬液の気配が混じったような錯覚が走る。
「違う……」
「違うと申すか」
男が、はじめて一歩こちらへ出た。
月光の縁が、フードの影を浅く照らす。顔はまだ見えない。ただ、頬のあたりに、袖の奥で見た黒紫の硬い線が走っていた。
――この男。やはりただの人じゃない。
息の通り道が、ひやりと狭くなる。
隠れているのではない。隠しているだけだ。あの硬いものは、腕の奥だけではなく、顔の皮膚の下にまで馴染んでいる。
暴れるために崩れた身体ではない。人としての輪郭を残したまま、必要なところだけが硬く、必要な分だけ速く動く。整えられた異常、とでも呼ぶべきものが、かえって肌を粟立たせた。
魔獣を前にしたときとは違うものが、背を這い上がってきた。
「では問おう、ミツル・グロンダイル」
濡れた石畳に、水滴が落ちた。
ぽたり。
「そなたの身体の何処かに、印はないか?」
腹の奥が、遅れて熱を持った。
ジョルトたちの内側に仕込まれていたものとは違う。
あれは外から埋め込まれたものだった。誰かの身体を、発動の場所へ変えるための、ひどく冷たい仕掛けだった。
けれど、わたしのこれは違う。
服の下。旅の初めから、ずっとそこにあった赤黒い痣。輪郭の定まらない幾何学の崩れ。湯気の中で見た、不吉な色。お祖父さまが静かに確かめ、偶然と片づけるには符合が多すぎると告げた、あの印。古い拓本の紙肌に沈んでいた、不具、という文字。
――不具なる紋様。
繰り返される虚無の悪夢と、紡ぎ出される意味不明な呪詛のような文字列。
指先が、知らないうちに腹へ向かっていた。
《《だめ、美鶴。意識しない》》
茉凜の声が、剣の奥から落ちた。
叱る声ではなかった。急かす声でもない。ただ、震える手の上へ、自分の手をそっと重ねるような声だった。
指が、途中で止まる。
触れてしまえば、答えたことになる気がした。けれど、触れなくても、身体はもう先に答えている。そこにある。熱がある。男の言葉に呼ばれたように、服の下の痣だけが、薄く疼いていた。
男は、わたしのためらいへ刃を差し込むように、沈黙を置いた。
ヴィルが息を殺すのが分かった。
たぶん、わたしの指が腹へ向かいかけた、その一瞬を見たのだ。
男も、見ていた。
笑わなかった。笑わないことが、いっそう恐ろしかった。
「正統ならざる紋章。リーディス王家の巫女に浮かぶものではあるまい。薄く継がれたものでは、そのようには出ぬ」
見えていないはずなのに、この男は、すでに形を知っている。
服の下の熱が、また薄く脈を打つ。見られているのは痣ではない。わたしがそこを隠そうとする、その反応そのものだった。
「黙れと言った。それ以上言えば、たたっ斬るぞ」
ヴィルの声に、初めて怒りの芯が混じった。
けれど、その怒りは熱くない。刃を抜くための怒りではなく、男の言葉がわたしへ届く道を断つためのものだった。彼は鞘をわたしと男の間へ差し込み、視線の角度まで塞ぐように立つ。
「勝手に名を押し付けるな。ミツルはミツルだ」
男は首をかしげる。
「押し付けるとな? これは心外」
ヴィルは答えなかった。
濡れた石を踏む靴音だけが、半歩ぶん低く鳴る。彼が古代史のすべてを知っている顔ではなかった。けれど、男がいま何をしようとしているのかだけは見抜いている。
名で縛るな。そう言うかわりに、彼はそこへ立っていた。
この男は、わたしを定義しているのではない。奪おうとしている。
《《だめだよ、美鶴》》
茉凜の声が、すぐそばへ来る。
《《いまのあなたは“ミツル”なんだ。それ以外の何者でもない。押し付けられた名前とか、役柄なんて、あなたぜったい嫌でしょ?》》
「……わかってる。わたしはわたしだ」
言えたのは、それだけだった。
でも、分かっていることと、傷つかないことは同じではない。
わたしは、呼吸を整えようとした。けれど、水路の湿りが喉の奥へ貼りつき、息がうまく通らない。足元の石の温度だけが、現実を薄く支えていた。
「ならば、なぜ手が動いた」
男は、わたしの腹部へ向かいかけた指を見ていた。
「なぜ、否定する声より先に、身体が答えた」
喉の奥が焼けた。
言い返したい。何かを言わなければ、いま押しつけられた名が、そのまま肌の下へ沈んでいく気がする。けれど言葉が見つからない。理屈は散っている。感情だけが先に膨らみ、形を持てない。
それでも、足は退かなかった。
濡れた石の冷たさを、爪先がもう一度拾う。男の言葉に絡め取られても、身体のいちばん深いところで、わたしはまだここに立っていた。
ヴィルが低く告げる。
「もういい、ミツル。すぐにこいつを捕縛する。手を貸してくれ」
その声は命令ではなかった。
守るでも、庇うでもない。けれど、怒っていない声でもなかった。低く押し殺した苛立ちが、鞘を握る手の硬さへ移っている。
男の言葉へ引きずられかけたわたしを、現場へ戻すための声だった。
「こいつは、お前の心を弄ぼうとする外道だ」
男が、静かに息を吐いた。
「よい騎士だ。だが、騎士とは所詮巫女の添え物にすぎぬ」
黒いローブが揺れる。
「我らが求めるものには、ただの巫女では届かぬ。王家の血でも足りぬ。もっと深きところにある」
水音が、また近づいてきた。
ぽたり。
ぽたり。
まるで時間を数えるように。
「印があるなら、それはただの痣ではない」
男の声が、そこでわずかに低くなる。
耳の奥ではなく、腹の底へ届く声だった。
月光の外で、赤いものが一度だけ揺れた気がした。
けれど、わたしには振り向く余裕がなかった。
「因子を、もっとも色濃く、もっとも歪みなく発現せしもの」
わたしの呼吸が止まった。
茉凜が、何かを言おうとした気配がした。ヴィルの鞘が、男の喉元へ届く寸前で止まる。それでも男は退かない。
鞘先と喉のあいだに、細い月光が挟まっていた。
常人なら、そこで喉が鳴る。唾を飲む。瞳孔が揺れる。けれど男は、ほんの少し顎を上げただけだった。喉元の布の下で、硬い線がひとつ、内側から形を変えたように見えた。
怖れていないのではない。
怖れる必要のある場所を、もう人と同じには持っていないのかもしれなかった。
「あるいは、我らがそう呼ぶべきもの。その名は――」
「やめろ!」
夜が裂けた。
その声がラウールのものだと分かったのは、一拍遅れてからだった。
いつもの静けさも、薄い皮肉もない。声は鋭く、濡れた石壁へぶつかり、こちらの胸へそのまま返ってきた。怒りというより、恐れに近い。言わせてはいけない名を、喉のところで力ずくで止める声だった。
月光の外、倉庫壁の影に、緋朧天石の赤が揺れていた。
ラウールが立っている。
片手に赤い光を握り、もう片方の手を壁へついている。肩が上下し、髪の端から雫が落ちた。走ってきたのだと、足元の濡れた跡だけが告げていた。
瞳は男ではなく、まずわたしを見た。
わたしの顔を。止まった指を。そして、服の下でまだ熱を持つ、見えない紋様の場所を、見てはいないのに知っているような目だった。
その背後で、重い足音が近づいてくる。
濡れた石畳を踏む音。桶の縁がぶつかる音。縄が引きずられる音。魚市場の奥から、人を動かすための低い声が押し寄せてくる。
バルグだ。
黒ローブの男が残しかけた名は、まだ肌の下で疼いていた。
その沈黙を破ったのは、水音ではない。
人を人のまま動かす声だった。




