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印を問う者①

 黒ローブの男の笑いは、水路の奥へ沈んでいった。


 湿った石壁を撫で、錆びた鉄柵のあいだで薄く割れ、最後には濁った水の匂いへ溶けていく。声だったものが消えたあと、古い荷下ろし場には、ぽたり、ぽたり、と雫の落ちる音だけが戻ってきた。


 その音が、いやに明るかった。


 笑いが消えたからではない。静かになったからでもない。さっきまで水路の底を這っていた拍だけが、返ってこなかったからだ。


 わたしは排水口の縁に片手をついた。


 鉄の冷えが掌へ吸いつく。ぬめった石の感触が指の腹に残り、胃の底へ落ちた冷たさが、遅れて喉まで上がってくる。白い柄を握る手に力が入り、爪が掌の内側へ細く食い込んだ。


 ――消えてしまった。


 そう思った瞬間、身体のほうが先に否定した。


 ――違う。不発ではない。壊れたのでもない。消されたのでもない。


 いま否定したのは、力ずくで潰された痕跡だった。


 水路の底には、破れた導線の濁りがなかった。燃え尽きた匂いもない。断ち切られたなら残るはずの乱れが、あまりにもない。水はただ、水として流れている。泥は泥として沈み、泡は泡として割れていく。


 終わるために置かれたものが、役目を終えて、跡だけを閉じた。


 その何もなさが、かえって不自然だった。


「……途切れたんじゃない。断ち切られたなら、乱れが残るはず。残らないように、終わる仕組みなんだわ」


 声にした途端、唇の乾きがはっきりした。


 月光の縁で、黒ローブの男がわずかに首を傾ける。


 笑みは見えない。けれど、フードの奥でこちらの息の浅さだけを拾ったような間があった。濡れた石壁に水滴が落ちる。ぽたり、と小さな音がして、その余韻が消えきらないうちに、男の声が落ちた。


「ほう。では、何が残っていないというのだ?」


 問いの形をしていた。けれど、答えを待つ声ではなかった。


 視界の端で、ヴィルの鞘が低く鳴った。


「答えるな」


 短く、低い。わたしへ向けられているのに、視線は男から外れない。


「こいつは、揺さぶって足を止める気だ」


 ヴィルはまだ銘無しを抜いていない。黒ローブの男との距離は、剣なら届く。殺そうと思えば踏み込める。けれど、踏み込めば、わたしの視線が水路から剥がれる。そのわずかな遅れを、彼は避けていた。


 月光の縁で、黒ローブの男が半歩だけ退く。


 逃げるための動きではなかった。退避というより、位置を変えるだけの、静かな作業に似ている。濡れた石畳へ落ちた袖の影が、ゆっくり細くなった。


 その袖の奥で、何か硬いものが月光を鈍く返した気がした。


 ――いまの、なに?


 皮膚の光ではなかった。金属の反射にも見えない。けれど、次の瞬間には黒い布が揺れ、その違和感はフードの影へ沈んでいた。


 ジョルトの身体の奥で見た、硬い異物の気配が喉の奥へ冷たく戻ってくる。けれど、まだ見えたとは言えなかった。見えたと思った瞬間に、見せられたものなのかもしれない。その気味の悪さだけが、湿った石の匂いに混じって残った。


 顔はまだフードの奥に沈んでいる。目も、口元も見えない。それなのに、空気だけが少し緩む。役目を終えた者が、使い終えた道具の刃先を、最後に確かめるような気配だった。


「よい。よい、実に良い。だが、ブルフォード殿はいささか断ずるのが早すぎるようだ」


「お前こそ、急に饒舌になったな」


「物事には段取りというものがあろう? そなたらがここまで来たことで、こちらの手間はひとつ省けた」


 その声は、さっきまでより近かった。


 水路の奥ではなく、耳の内側へ直接入ってくる。湿った石の匂いと一緒に、細い針みたいに。


 逃げるために話しているのではない。


 この男は、まだ測っている。水路の底で消えた拍ではなく、わたしがどこまで見えているのかを。


「さて、グロンダイルよ。そなたはいま、何が残っていないと見た」


 今度は、名をつけさせるための声だった。


 わたしの口から、見たものの輪郭を引き出し、その言葉ごと、こちらの呼吸を縛ろうとしている。水滴の音が、ひとつずつ遠のいていく。


「ふむ。線ではない、残らぬものをなお見るか」


 男は続ける。


 これまで沈黙で視線を縛っていた人間とは思えないほど、声がほどけていた。けれど、その饒舌さは熱ではない。言葉を重ねるたび、核心の手前だけを撫でて、わたしの中へ冷たい跡を残していく。


「流れる水というものは正直だ。消し方を知らぬ。だが、消えるために置かれたものは違う」


「黙れ」


 ヴィルが一歩、半身をずらす。


 鞘先が男の喉元へ向かう。だが男は避けない。袖の奥から出た指が、また鞘の腹へ添えられる。力を受けるのではなく、力が通る場所を知っていて、そこだけをずらす手つきだった。


 返った音が、肉を打つ音ではなかった。


 骨でもない。濡れた石でも、金属でもない。もっと内側の硬いものが、衝撃を受け止める前に逃がしたような、薄く乾いた響きだった。


 その拍子に、袖口が浅く裂れる。


 裂け目の奥で、黒紫の硬い光が覗いた。


 皮膚ではない。金属でも、鱗でもない。人の身体の内側へ、別の硬さを流し込み、そのまま冷やし固めたような外郭だった。


 ジョルトの身体の奥で見た、硬い異物の気配に似ている。けれど、こちらはもっと深いところまで馴染んでいる。肉が異物を抱え込んだのではなく、異物のほうが人の形を覚えてしまったようだった。


 ヴィルは押し負けたわけではなかった。


 彼はまだ刃を抜いていない。殺すためではなく、捕らえるための間合いを測っている。けれど、男の腕は人の腕のようにしなり、人の腕のように角度を変えながら、力の逃げ方だけが違っていた。


 骨で受けるのでも、筋で流すのでもない。もっと内側にある硬いものが、衝撃の通り道を半寸だけずらしている。


 ヴィルの目が、一度だけ細くなる。


 崩すべき支点が、人のものではない。そう読んだ顔だった。


 月光が砕け、石畳へ細い白が散った。


「雷光よ。そなたはよく躾けられた刃だ。抜かぬほうが長く保つと知っている」


「ふん、くだらん。それで挑発のつもりか? 耳を貸すなよ、ミツル」


 ヴィルの声は、わたしの名前だけ少し硬かった。


「こういう手合いの常套手段だ。札をちらつかせては、はぐらかす。話が通じると思うな」


 剣の奥で、茉凜の気配が震えた。


《《美鶴、だめだよ。こんなやつに返事なんかしなくていい》》


 責める声ではなかった。けれど、軽く流す声でもない。濡れた石の冷えの中で、肩にそっと上着をかけるみたいに、近くへ戻ってくる声だった。


《《あいつの言葉、なんか薄気味悪いよ。まともじゃない》》


 分かっている。分かっているのに、男の言葉は肌から離れなかった。


 水の話しかしていない。消えた拍の話しかしていない。真相らしいものは、まだひとつも渡されていない。


 それなのに、胸の奥で別の冷えが鳴る。


 この男は、拍の行方を語っているのではない。わたしが何を読んだのかを見ている。残るはずの乱れがないと、わたしが拾ったその欠落へ、男は「よい」と言った。


 褒められたのではない。


 ――採寸された。つまり、この男は、水路ではなく、わたしを見ている?


 指先が、白い柄の上でかすかに滑った。


 いやだった。


 水路の底ではなく、わたしの見方そのものを、濡れた石の上へ置かれたみたいだった。


「ミツル・グロンダイルよ」


 男が名を呼んだ。


 水路の底で拍が消えたときよりも、声はずっと近かった。


「そなたは、魔石の命の灯火には触れ得ぬのであろう?」


 指先が、柄の上で止まった。


「……なぜ、それを」


 問いは喉で擦れ、ほとんど息に近かった。


 言ってしまってから、その輪郭はもう、完全な秘密ではないのだと思い出す。


 講義で。観測で。王都西側の急変を読んだあの場で。わたしは、自分の感覚を何度も外へ差し出している。魔素の濃淡や流れの歪みを拾えることも、通常の魔石魔術とは違う系統に立っていることも、隠しきれるものではなくなっていた。


 それでも、同じ事実が、この男の声で語られると別の形をしていた。


 学術の言葉ではない。こちらを測るための札として、濡れた石の上へ置かれている。


 ヴィルが振り返りかける。けれど、男から目を離さない。戦場で聞いてはいけない言葉だと、彼はもう判断している。


 黒ローブの男は一歩も動かない。


「触れられぬ。従わせられぬ。術者が命の灯火を己の術式へ組み込めぬとすれば、一般の魔術師にとっては欠落であろう」


「それがどうしたというの?」


 わたしは反射的に言っていた。


 湿った風が、唇を冷やす。


「たしかに、わたしは魔石の命の灯火へ干渉できない。魔素を操っているわけでもない。わたしの術は、そこを使わない」


「精霊器接続式魔術。いわゆる精霊魔術であるな?」


 男の声が、薄く笑んだ。


 勝ち誇りではない。待っていた答えが、こちらから差し出されたことへの、静かな満足だった。


「そこが矛盾だ」


 矛盾ではない。


 魔術という名に収められていても、わたしの力は、あの灯火を従わせるものではない。現代の魔石魔術とは、根の張る場所が違う。けれど、その違いをここで説明すればするほど、男の指先へ新しい札を渡すことになる。


 言い返せるはずの言葉が、舌の奥で冷えていった。


 男は、正しい分類になど興味がない。


 触れられないのに読める。その一点だけを、冷えた指先でなぞっている。


 背筋が冷える。


「触れられぬから、混じらぬ。従わせられぬから、拍の異物性を読む。命の灯火を己が術へ組み込まぬまま、その周囲に生じた歪みのみを見分ける。それも、並外れた精度で。通常の魔術師では、そうはいかぬ」


 言葉の筋は追える。


 けれど、その先に何を置こうとしているのかが見えない。男は、わたしの弱さを数えているのではなかった。触れられないことを、混じれないことを、まるで別の価値へ置き換えていく。その手つきが、ひどく静かで、ひどく冷たい。


「……だから、なんだというの?」


 自分の声が、思ったより細い。


 ――この男の真意が読めない。なにを言ってるのかわからない。


 本能からの震えが走った。


 最初から、わたしの答えなど必要とされていなかったのだと、そこでようやくわかった。男はただ、わたしがどこで怯え、どこで考え、どこで否定するのかを見ている。まるで、命の灯火の周囲に生じた歪みを読むように。


「答えるなと言った」


 ヴィルの鞘が、今度は男の足元へ走った。


 男は下がらない。足首の角度が変わる。濡れた石に靴底が擦れ、粉っぽい匂いがわずかに立つ。鞘の軌道はまた半寸だけ逃がされ、壁際の石を打った。


 ヴィルの目が、そこでまた細くなる。


 怒りではない。苛立ちでもない。折るべき関節も、崩すべき重心も、人のものと少しずつ違う。その違いを、彼は怒鳴るより先に覚えようとしていた。


 鞘を握る指だけが、静かに締まる。


 男は、そこで沈黙した。


 その沈黙が、答えだった。


 濡れた石に落ちる水滴だけが、間を細く測っている。男は一歩も動かなかった。けれど、距離だけが縮まったように感じた。


「そなたは魔石を基盤とする魔術師ではない。魔素を扱える者でもない。命の灯火を操る者でもない」


 その声は静かだった。けれど静かすぎるぶん、湿った石壁の奥まで刃の腹で撫でられるような冷たさがあった。


 扱える、という言葉に、胸の奥がかすかに軋んだ。


 読むことと、従わせることは違う。わたしは魔素の濃淡や、流れの乱れを感じ取れる。けれど、一般の魔術師のように命の灯火を術式へ組み込み、魔素を手足のように動かしているわけではない。


 男はその差を知ったうえで、わざと一枚に重ねている。


「にもかかわらず、魔石術式の破綻を読む。虚無由来の拍を見分ける。魔獣の核に宿る異物性を、どんなに優れた魔術師より先に嗅ぎ分ける」


 息が浅くなる。


 言葉を返してはいけない。そう言われたからではない。返した瞬間、その震えまで拾われる気がした。


「それは、魔術適性の高低では説明がつかぬ」


 男の声は、濡れた石の上をすべる刃みたいに静かだった。


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