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月光の手前

 古い荷下ろし場の石畳が、足裏へ冷たく湿った感触を這わせてくる。


 魚市場の灯は背後へ遠のき、水路の口は近づくほど暗さを増していった。倉庫の壁は潮を吸って黒く沈み、靴先のすぐ手前では、崩れた石の隙間から水が滲んでいる。


 ぽつ、ぽつ。


 滴の落ちる音だけが、夜の奥へくっきり残った。その間隔が、妙に耳の内側へ染み込んでくる。


 合図の糸は、まだ切れていない。水面の下を這う細い拍が、古い継ぎ目へ沈むたび、一度だけ整え直される。人の手で撫でられるみたいに、乱れが消えていく。


 ――近い。あと数歩だった。


 そう思った瞬間、ヴィルの腕が横へ伸びてきた。


「止まれ」


 低い声に、わたしの足が濡れた石の上で止まる。靴底が小さく鳴り、その音だけが水路の奥へ細く伸びていった。


「ヴィル、そこなの。もう少し先で――」


「動くな」


 彼は剣を抜いていない。けれど視線だけは、月光の落ちる場所へ注がれていた。雲の切れ間から差した白い光が、倉庫の壁と水路のあいだへ薄く置かれている。逃げるには明るすぎ、隠れるには影が濃すぎる場所。濡れた石の上に、光と闇の境目が舞台の縁みたいに落ちていた。


 係留鎖は鳴らない。小舟があるなら、引き波で揺れるはずだった。逃げる支度があるなら、縄か木材が擦れる音がするはずだった。けれどこの一角だけが、不自然に静かだった。港側のざわめきはとうに遠く、残っているのは水の落ちる音と、ヴィルの呼吸だけ。


 わたしは足を止めたまま、水路の底を這う糸へ意識を向ける。輪郭は近い。近いはずなのに、震えの向きが一定すぎた。枝のほどけ方が、自然すぎる。さっきまでほどけては現れていた曖昧さが、ここへ来てから一度も乱れていない。


 ――まさか、これも囮? 釣られたということなの?


 その言葉が、胃の底へ重く沈んだ。


「……おいでなすったぞ」


 ヴィルが言った。その直後、暗がりが動いた。


 はじめは、布の揺れだと思った。倉庫の奥に吊られた破れた幌が、潮風に押されたのだと。けれど違う。黒い布は風ではなく、人の呼吸で形を変えていた。


 痩せた男だった。黒いローブをまとい、骨の浮いた手だけを袖の外へ出している。顔は深いフードの中に沈み、月光へ踏み出しても、その目だけはまだ見えなかった。


 男は逃げなかった。むしろこちらに見えるよう、ゆっくりと月の白い場所へ出てくる。足音はひどく小さく、石に落ちる影だけが先に伸びていった。


 水路の匂いが、一拍だけ変わる。古い水の底に沈んでいた粉っぽい重さが、男の呼吸を受け、わずかに散った。


「見事なり」


 古い紙を折るような、細く乾いた声だった。


「そこまで読むとは。想定以上」


 わたしは、マウザーグレイルを握る手に力を込めた。白い柄の硬さが、掌の湿りを静かに冷ましていく。


「あなたが起動源なの?」


 男は答えなかった。ただ、袖の中で指を合わせるような仕草をする。月光の中で、骨の浮いた指だけが白く見えた。


「あなた、ラウールの言っていた影の骸でしょう。だったら術式を、合図を止めなさい」


「問われて答える舌など持たぬ。吾は影ゆえ」


 穏やかな声だった。穏やかすぎて、奥歯の裏が鳴りそうになる。礼を尽くしているようで、こちらへ応じる気配だけがない。その形のよさが、そのまま壁になっていた。


「そこをどいて。急変しかけてる人がいるの!」


「であるか。されど」


 男は、わずかに首を傾けた。フードの影が、首筋を沿うように落ちていく。


「これより先は通せぬ」


 足が出かけた。靴底が石を蹴る前に、ヴィルの手がわたしの肩の前を塞いでいた。


「ミツル、見るな」


「でも――」


「そいつは見せ札にすぎん」


 低い声が、濡れた石の上へ落ちる。


「問うな。答えを待つな。奴の術中にはまるだけだ」


 ヴィルは男を見たまま、声だけをこちらへ向けていた。


「お前が見るべきは、影じゃない。その向こう側だろう」


 息が止まった。


 月光に立つ男の向こう。排水口。古い継ぎ目。合図が整え直されている、あの場所。わたしが行きたかった場所。この男が月光へ出てきたのは、そこから目を逸らさせるためかもしれない。


 黒ローブの男は、笑ったのかもしれなかった。フードの奥で、影だけが少し深くなる。


「その緑髪。翡翠の瞳。そなたがミツル・グロンダイルか。傍らの男は、雷光と呼ばれしヴィル・ブルフォードだな。なるほど、噂通りよき護り手をお持ちだ」


 その声が、水路の黒へ細く沈んでいく。


「ならば、なおのこと上々なり」


 男の手が、ゆっくりと下がっていった。袖の中へ、指が引かれていく。その動きだけが、月光の中で妙にはっきり見えた。急がない。脅さない。ただ、時間だけが静かに、確実に使われていく。


 黒い水の下で、拍がまた重なった。けれど今度は、さっきより間が開いている。天幕の方角へ伸びた枝が、薄く濁っていく。あの濁りを、わたしは知っていた。ジョルトの身体の中で見たもの。同調しかけた術式化魔石片が返してくる、いやな淀み。それと同じ質のものが、遠い天幕の方角から細く返ってきていた。


 ――繋がっているのか。誰かが、苦しみ始めているのか。


 身体が先に反応した。喉が狭くなり、白い柄が掌の汗でわずかに滑る。足が天幕の方へ向こうとする。それを、ヴィルの手が止めていた。


《《美鶴。本命はこの人じゃないかも》》


 茉凛の声が、剣の奥から低く届く。


《《これみよがしの口上って感じだけど、きっと見せたくないものが別にあるはず。排水口の下。まだ見えてない場所とか》》


 ――わかっている。


 分かっているのに、男の声が耳に残る。穏やかで、乾いていて、人を工程として扱う側の声だった。問われても答えない。名前を捨てている。死を恐れていない。


 ――茉凛の言う通り、これは単なる時間稼ぎだ。


 そう思った瞬間、男の声ではなく、水路の底の拍のほうが耳へ残った。わたしが問い、ヴィルが止め、男が答えない。その一巡のたびに、天幕側の拍が濃くなる。けれど今度は、その拍の合間に、別の細い震えが混じり始めていた。まるで誰かが、意図的に間をずらしているように。


 男は、それを知っている。


「ふふ、お急ぎかな?」


 細い声が落ちた。足もとの水の奥で、何かが揺れる。けれどその揺れは、さっきより深く、排水口の底から這い上がってくる気配だった。


「既に糸は繋がり、拍は重なりつつある」


 その一語が、口の奥へ錆びた味を残していった。意味を、身体が知っている。拍が重なる。全身の術式化魔石片が同じ拍へ揃えられ、術式がひとつに繋がる。そのあとに来るのは、ジョルトが怯えていたもの。西門で、ラウールが止めるしかなかったもの。人が、人でなくなるということ。


 男はそれを、時候の挨拶みたいに言った。あまりにも自然で、あまりにも薄い声だった。刃を向けられているわけでもないのに、首筋の皮膚だけが先に冷えを覚える。運河の水は黒く、灯の残りを細く引き伸ばしながら、石壁の下で息を殺していた。


 指先が、白い柄の上で震えていた。


「……ヴィル」


「ああ」


「この男に構っている暇はないわ」


「当然だ。ここは俺に任せろ」


 即座に返った声は、濡れた石の上へ低く沈んだ。ヴィルは黒ローブの男から目を離さない。けれど、その肩からは、ほんの少しずつ余分な力が抜けていく。怒りでも、焦りでもない。もっと静かで、もっと冷たいものが、呼吸の底へ沈んでいく。


 殺すための身体ではなかった。踏み込めば斬れる。抜けば終わる。それを知っている人間が、あえて終わらせないために、身体の置き方だけを変えていく。斬らず、砕かず、逃がさず、留めるための姿勢へ――長い年月を剣に預けてきた者だけができる、静かな切り替えだった。


「でも……」


 声が、喉の奥で細くなった。彼が手を抜こうとしているわけではない。それはわかっている。けれど、目の前の男からは、名も、意図も、手口も、何ひとつ読めない。


 ――それに、一度剣を抜けば……。


 ヴィルの視線だけが、月光の中に立つ男を縫い留めていた。


「安心しろ。“銘無し”は抜かん。こいつなら鞘付きで十分さ。いいか、手出しは無用だ。それよりお前は見ることだ。そして、見極めろ。この騒動の元凶をな。俺はこいつを押さえる。重要参考人の確保は、最優先だからな」


 王都警備の手順へわざと落とし込むような言い方だった。軽んじているのではない。むしろ、刃を抜かないことのほうが難しいのだと、その低さが告げていた。殺すより、留めるほうが手間が要る。終わらせるより、終わらせないために支えるほうが、ずっと神経を削る。


 それでもヴィルは、その面倒なほうを選んでいる。


「わかった。あなたに託すわ。信じてる」


 そう言いながらも、胸の奥が冷えた。銘無しの聖剣は、抜けば終わる。斬れぬものはないという白い刃を、この距離で人の身体へ向ける意味を、ヴィルは知っている。刃が夜気へ触れた瞬間、問いも、名も、男が抱えているはずの情報も、血の匂いと一緒に途切れてしまうかもしれない。


 それに、さっきの運河の水音が、まだわたしの中に残っている。喉の奥へ戻りかけたあの冷たい記憶を、わたしが呑み込むより早く、ヴィルの左手が腰へ落ちた。


 抜かない。


 親指は、鞘口の留めを押さえたままだった。鍔を固定する短い革は外さず、かわりに腰の吊り具だけが乾いた音を立てて外れる。


 かちり。


 その小さな音が、水路の底へ沈んだ。次の瞬間、銘無しの聖剣は鞘ごとヴィルの手に収まっている。白い鞘は、芯に硬いものを沈めた鈍い重みを持ち、刃はまだ夜気へ触れていない。けれど低く構えられたその一本は、ただの棒ではなかった。鞘の内側で、抜かれない刃が眠っている。それを知っているからこそ、かえって恐ろしい。


 黒ローブの男の指が、袖の内側でかすかに動いた。何かを結ぼうとしているのか。何かを砕こうとしているのか。それとも、口に含んだ毒へ届かせるための、たった一拍の仕草なのか。


 ――分からない。あいつからはなにも読めない。


 けれど、ヴィルはもう踏み込んでいた。濡れた石を蹴る音は、ほとんどない。雷鳴の前に光だけが走るように、鞘の先が月光を細く裂く。振ったようには見えなかった。肩が動いたと思ったときには、もう男の袖口へ届いている。


 雷光。


 その名を、わたしは遅れて思い出した。道を削らず、迷いも置かず、ただ一点へ落ちる剣。雷鳴めいた突進から放たれる一閃で敵を仕留める、“点”の剣。鞘付きであっても、ヴィルの剣はそういうものだった。


 鈍い音がした。


 男の指が、結ばれかけた形のまま跳ねる。


 ――取った。


 そう思ったのは、わたしのほうだった。けれど次の瞬間、月光の中で黒い袖がねじれる。打たれたはずの手首が、折れたように見えた角度から、するりと抜けた。逃げたのではない。受けたのでもない。ヴィルの一閃が届く、その一点だけを、半寸ずらしている。


 黒い布が月光を吸い、衝撃の音だけがひどく浅くなった。手首を砕いた音ではない。骨へ届いた音でもない。何か硬いものの表面を、鞘の重みが薄く滑ったような、不快な軽さがあった。


 ――ばかな。


 背中に冷たい汗が浮く。人の腕なら、あの一撃で落ちる。落ちなくても、指はもう使えないはずだった。なのに、男の袖はまだ生きているみたいに揺れている。


 ヴィルの鞘が追う。男は退かない。半歩だけ身を沈め、鞘の腹を肩ではなく布で受けた。布の下には骨があるはずなのに、そこだけ人の形を失ったみたいに、衝撃が薄くほどけていく。


 ヴィルの口元が、ほんのわずかに引き締まった。油断ではない。速さが足りないわけでもない。ただ、相手もまた、その速さを知っている。


「ほう」


 黒ローブの男が、初めて愉しげに息を漏らした。


 その声はまだ細い。けれど、さっきまでの乾いた作法とは少し違っていた。古い紙を折る音ではない。刃を鞘から半寸だけ抜いたような、薄い冷えが混じっている。


 ヴィルは返事をしない。


 二度目の間合いが、すぐに詰まった。鞘は、今度は真っ直ぐには走らない。月光を避けるように低く、斜めに、男の足首へ向かう。立つ場所を奪い、殺さず、倒し、手を封じるための一手だった。


 男の爪先が、濡れた石の上で小さく鳴った。


 こん。


 ひどく軽い音だった。それだけで、鞘の軌道がずれる。男が蹴ったのは石ではなく、石に溜まっていた薄い水だった。


 跳ねた水滴が月光を受け、鞘の縁へ一瞬だけ散った。


 ヴィルは取られない。


 けれどわたしは、ほんの刹那、視線を奪われた。


 白い柄の奥で、茉凛の気配が鋭く震える。


《《美鶴、見とれてないで。下》》


 息が詰まった。


 男の足元ではない。排水口の下。月光から外れた場所で、別の拍が薄く返っている。さっきまで天幕の枝に紛れていたものが、ヴィルと男の一合ごとに、ほんの少しずつ形を変えていた。


 しかも今度は、その拍の合間に、別の細い脈が割り込んでくる。水底で息を潜めていたものが、ゆっくりと浮上し始めたように。


 この男は、ただ時間を稼いでいるだけではない。わたしたちの視線と、呼吸と、意識の向きを測っている。そのあいだにも、天幕側の拍は濃くなっていく。遠い誰かの喉が詰まる。膝が落ちる。名を呼ぶ声が、天幕の布へ吸われる。


 そんな像が勝手に走りかけ、わたしは奥歯を噛みしめた。


 見てはいけない。想像に沈んではいけない。けれど、時間は沈んでいく。


「ヴィル……」


 声が漏れた。


 返事はない。そのかわり、ヴィルの鞘が三度目に動いた。今度は速さではなかった。間合いそのものが、急に狭くなる。男が退こうとした先に、すでに鞘の腹がある。肩、肘、手首。その三つを同時に押さえるような位置だった。


 黒ローブの男の袖が、ぴたりと止まる。止まった、と思った。けれど、その袖の奥から、骨ばった指が一本だけ伸びる。人差し指だった。それが、鞘の表面を、こつ、と叩いた。


 軽い音。


 たったそれだけで、ヴィルの鞘が半寸だけ沈む。力で押されたのではない。支点をずらされたのだ。鞘を握る手首、肘、肩、踏み足。そのどこにも無駄はなかったはずなのに、男の指一本が、力の通る道のいちばん嫌な場所へ触れていた。


 鞘が、わずかに流れる。


 ヴィルの身体がそれを即座に殺す。けれど、殺したその一拍ぶんだけ、男は息を残した。


「剣を抜かぬとは――」


 男の声が、フードの奥で細く笑った。


「もったいなきこと。雷光と謳われし本領は、鞘に収めたままではあるまい」


 喉が細くなる。


 ――これは挑発だ。


 抜け、と言っている。抜けば、終わる。けれど終わるのは、男の命だけではないかもしれない。情報も、導線も、天幕へ届いている合図の根も、全部がそこで閉じる。


 だからヴィルは抜かない。抜かないから、決めきれない。決めきれないから、時間が削られる。その理解が胸へ落ちた瞬間、安堵ではなく、冷たい刃が肋の裏へ差し込んだ。


 ヴィルは、決めないのではない。倒せないのでもない。この男が手練れだと見抜いた上で、あえてここへ縫い留めているのだ。殺さず、逃がさず、術を進ませず、そのうえで、わたしの視線を水路の下へ戻すために。


 胸の奥で、何かが音もなく軋んだ。


 ヴィルの剣は、ただ敵を倒すためだけにあるのではない。殺せる相手を殺さずに留める。その難しさを、彼は見せつけるでもなく、言葉にするでもなく、ただ当然のように引き受けている。


 鞘が月光を裂くたび、黒い袖がほどけるたび、その一拍一拍が、わたしのために削り出されていく。


 ――ヴィル。あなたって人は。


 一度剣を抜けば、すべてを終わらせられる。そのことを知っていて、それでも彼は終わらせない。わたしがまだ何も掴めていないから。水路の底へ沈んだ拍を、わたしが見るしかないから。


 その事実が、肋の裏を冷たく削った。


 わたしは今、ヴィルの背後で守られている。戦えないからではない。ここで戦えば、見失うからだ。彼が鞘を握る手にどれだけの重みを乗せているのか、呼吸をどれだけ静かに殺しているのか、それを肩越しに感じながら、わたしはただ、見る役目を渡されている。


 悔しい。けれど、その悔しさに沈んでいる暇もない。


 ヴィルが殺さず、逃がさず、術を進ませず、わたしが見るためにこの一拍を削り出しているのなら、わたしはそれを取りこぼしてはならない。


 胸の奥に、冷たいものがひとつ落ちた。


 ――男を見るな。ヴィルを見るな。道を見ろ。


 黒い水の下に沈む拍を、そこに隠された本命を、いま、この目で掴まなければならない。


「あ……」


 その底で、拍がまた重なった。天幕側へ伸びていた枝が、どろりと濁る。粘つくような淀みが、一本、また一本と染まり、遠くの誰かの身体へ沈んでいく。


 喉の奥が、きゅっと縮んだ。


 ――まだだ。まだ、急変そのものは起きていない。


 そう言い聞かせる。けれど、その手前の苦しみはもう始まっている。息が詰まり、膝が落ち、声にならない声が天幕の布へ吸われていく。そんな像が、見てもいないのに胸の奥へ走った。


 わたしは奥歯を噛み、排水口の下へ意識を沈める。


 ――そこだ。拍の底を見るんだ。


 そう思った、その瞬間だった。


 濃くなっていたものが、ふっと消えた。音が消えたのではない。気配が薄れたのでもない。そこにあったはずの拍が、まるで最初から存在しなかったみたいに、水路の底から抜け落ちた。


「……え?」


 声が、自分の喉から漏れたのかどうかも分からなかった。


 黒い水は、ただ黒い水に戻っていた。排水口の奥で返っていた硬い拍も、天幕へ伸びていた濁りも、指先で掴みかけていた細い震えも、まとめて闇の中へ沈んでいる。


 ――消えた?


 白い柄を握る手から、力が抜けかけた。


 胃の底が、一瞬で冷たく落ちる。遅れて、鼓動が胸の裏を叩いた。ひとつぶん拍を取り戻そうとするみたいに、乱暴に跳ねて、喉の奥へ熱いものがせり上がる。指先はまだ柄に触れているのに、自分の手だけが遠くなったようだった。


 ――止まったの? 不発? 失敗した?


 一瞬だけ、そんな考えが胸へ滑り込んでくる。けれど、違和感のほうが早かった。


 ヴィルの鞘が、黒い袖を押さえ込む。その寸前、黒ローブの男の足が、濡れた石の上を半歩だけ退いた。逃げたのではない。押し負けたのでもない。役目を終えた者の、静かな退き方だった。


 ヴィルの肩がわずかに沈む。鞘の先が月光を切り、男の袖を追う。けれど男は、もうこちらを見ていなかった。フードの奥の影だけが、深く、深く沈んでいる。


 その奥で、ひゅ、と息を吸う音がした。


 笑う前の、静かな息だった。


 フードの縁がほんの少し持ち上がり、闇の中で、歯だけが白く細く光った気がした。


 次の瞬間、男は笑った。


 細い声ではなかった。乾いた紙を折るような声でもなかった。高く、澄んで、夜の水路を裂くような笑いだった。倉庫の壁に跳ね、排水口の黒へ沈み、遠い魚市場の灯までも一瞬だけ冷たく見せるような笑い。


 背中に汗が浮いた。


 失敗した者の笑いではない。逃げそこねた者の笑いでもない。すべてが、間に合った者の笑いだった。


 ヴィルが鞘を構え直す。


 わたしは、排水口の底をもう一度探った。何もない。何も返ってこない。さっきまで確かにそこにあった拍は、どこにもない。けれど、その空白だけが、かえって生々しかった。水路の底から消えたものが、別の場所へ移ったのだと、身体のどこかが先に知ってしまう。


 ――違う。不発じゃない。消えたんじゃない。消されたのでもない。


「ふふふ……」


 小さく喉の奥で転がしただけの笑いが、次の息で、もう一度夜の奥へ高くほどけた。


 水路の底で、糸は見えなくなった。


 ただ、その見えなさだけが、何よりも恐ろしかった。


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