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水路の底の糸

 ラウールの赤い光が水路の奥へ消えてから、夜はいっそう深くなった。倉庫の壁は湿りを吸い、黒く沈んでいる。肩越しに遠い魚市場の灯が揺れていたが、包丁の音も、荷を運ぶ若い衆の掛け声も、バルグの笑い声も、ここまでは届かない。


 届かないからこそ、いまは見失えなかった。


 灰月から派遣された連絡役の男は、倉庫の角に残っていた。顔は影に沈み、伝令札を握る指だけが白い。彼がここにいる理由は、もう聞いている。わたしはそこへ意識を割かず、水路へ目を戻した。


 黒い水面は、灯を呑み込みながら静かに揺れている。音はない。けれど、底のほうで細いものが震えていた。


 ――さっきより、右へ寄っている。


 水路の壁、鎖、倉庫の鉄、船着き場へ向かう枝、魚市場へ薄く流れる偽の震え。それらをひとつずつ手の外へ置いていく。見ないのではない。触れたまま、中心へしない。糸の端ではなく、引かれている方向を見る。


 指先に力がこもり、マウザーグレイルの白い柄が掌へ冷たく食い込んだ。自分ではただ握り直しただけのつもりだったのに、柄の奥が、ほんのかすかに応えた気がした。


 視界の端へ、淡い補助線が浮かぶ。


 それは、目の前の壁や水路を透かして見せる線ではなかった。王都へ入ってから何度も目を通した街区図。パンフレットに載っていた港の略図。大学で見た古い水路の記録。それから、わたしたちが実際に歩いた道筋。茉凛がマウザーグレイルの奥で整理し直していた断片が、倉庫街の輪郭へ薄い膜のように重なっている。


 見えるのは、古い荷下ろし場、水路の口、魚市場の方角、天幕のある救護区。その程度だ。倉庫の中は見えない。石壁の向こうに何が置かれているのかも分からない。小舟が本当にあるかどうかなど、地図には載っていない。


 それでも、合図の糸は地図の右側へ引かれていた。


 見えている地形と、見えない震えが、同じ場所でかすかに重なる。


 線と呼ぶには、まだ頼りない。水路の輪郭をなぞってはいても、答えそのものではない。ただ、わたしの呼吸が乱れた場所だけ、薄く滲む。古い倉庫のさらに先。そこへ視線を向けた瞬間、体の奥が小さく縮むのを、わたし自身より先に剣が拾い上げていた。


《《ねえ、美鶴?》》


「なに」


《《いま、右奥で嫌な感じしたでしょ》》


 息が一拍、浅くなった。


 茉凛は、わたしの考えていることを読んでいるわけではない。けれど、視線が戻る先も、指先のこわばりも、喉の小さな詰まりも、彼女には届いている。そこへ、マウザーグレイルの奥で生まれる淡い引っかかりが重なった。


「……わかるの?」


《《そりゃあ、以心伝心ってわけにはいかないよ。でも、わかることもある。視線が、さっきから右に戻ってるし、体がそっちへ傾いてる。指がぴくって動いた。喉も、きゅって狭くなった》》


 軽い声だった。けれど、いつもの茶化しとは少し違う。まだ形にならない違和感を、そっと指で囲ってくれるような言い方だった。


 白い柄の奥で、淡い補助線が一度だけ滲む。


《《マウザーグレイルのほうでも、そこだけ少し引っかかってるかんじ。答えじゃないよ。ただの引っかかり。でも、いまはそれでいいと思う》》


「引っかかり……」


《《うん。全部読もうとしなくていい。合図のぜんぶじゃなくて、美鶴の体が嫌がったところ。逃げてるほう。そこだけ拾えばいい》》


 水路の黒が、ゆっくり揺れた。


 この場で、発動合図の構造をすべて解く必要はない。いま必要なのは、わたしが無意識に反応した場所。見逃したくないと、体が先に知っていた方向。茉凛が答えをくれたのではなかった。わたしが拾っていたものを、拾い直せる形へ戻してくれただけだ。


《《落とし物探しみたいにさ。道ぜんぶを掘り返すんじゃなくて、落としたものが引きずった跡だけ見るの》》


「落とし物って例えが……」


《《たぶん、向こうは何かを持ち出そうとしてる。発動鍵か、それに近い何か。だったら、その何かが引きずってる糸だけ見ればいい。……美鶴がさっき、嫌だって思ったところから》》


 断定ではない。けれど、その曖昧さが、かえって胸へ入ってきた。


 五感を共有しているから、と言ってしまえば簡単だった。けれど、たぶん、それだけではない。思考までは届かない。それでも茉凛は、わたしの癖を知っている。視線が逃げる先。息が浅くなる瞬間。指先に余計な力が入る場所。言葉が少し遅れる、そのわずかな間。


 そういう小さなものを、彼女はずっと見てきた。


 だから、言えるのだ。そこを見て、と。全部ではなく、美鶴がもう嫌がっている場所を、と。


 意識は右奥、古い荷下ろし場の先、水路の口へ細く絞られていく。視界の端で、薄い地図の線がわずかに傾いた。


 古い水路図では、そこはただの行き止まりのように描かれている。今の港が広がるより前に使われていた、小さな荷下ろし場。けれど、現地の輪郭は地図より少し複雑だった。石壁の陰に細い水の逃げ道があり、係留に使えそうな低い杭も、記録の上ではただの黒い点にすぎない。


 そこに小舟があるかどうかは、見えない。


 ただ、糸が引かれている先は、その点の近くで一度だけ強く沈んだ。船ではなく、鎖でもなく、もっと小さなもの。留め具か、金具か、あるいは水面のすぐ下に隠された何か。地図の線ではなく、魔素の震えのほうが、そこを嫌がっていた。


 石壁、鎖、倉庫の鉄扉、船着き場へ向かう枝、魚市場へ薄く流れる偽の震え。


 それらをひとつずつ手の外へ置いた、そのときだった。


 水面の奥で、細い光の筋のようなものが逃げた。見えた、と思うより先に、胃の底が冷える。古い荷下ろし場。そのさらに先で、一度だけ糸が強く引かれた。まるで、誰かが水面の下で細い紐をたぐり寄せたみたいに。


「……いた」


 声が、思ったより小さく落ちた。


 ヴィルが振り返る。


「見えたのか?」


「まだ姿は見えない。でも、糸が引かれたような。そんな感じがした。右奥。古い荷下ろし場の先。そこに逃走用の小舟があるのかもしれない」


「伝令!」


 ヴィルの鋭い呼び掛けに、倉庫の角で控えていた灰月の男が駆け寄ってきた。


 わたしは喉を湿らせた。潮の匂いは濃いのに、舌の裏だけが砂を含んだみたいに乾いている。


「ラウールへ伝達を。古い荷下ろし場の先。小舟。以上です」


 灰月の男は一度だけ頷いた。聞き返さなかった。ただ受け取った言葉を落とさないように、唇の内で短く繰り返したように見えた。次の瞬間、男は踵を返しかける。


「信号弾は使うな。ラウールに直に伝えろ」


 灰月の男の指が止まる。


 ヴィルの視線が、影の中の男へ向いた。


「王都には、他にも敵が潜んでいるかもしれん。こちらの動きを掴まれるのはまずい」


「承知しました」


 灰月の男が深く頷く。


 その一拍のあいだに、糸が強まった。水路の底で、細いものがきゅっと引かれる。さきほど沈んだ重さが、さらに奥へ落ちた。わたしは反射的に息を詰める。


「待って。いままた強まった。それも伝えて」


 灰月の男は、踏み出しかけた足を止めた。


「伝えます」


 それだけを受け取ると、男は踵を返し、濡れた石を蹴って倉庫の影へ走った。足音が三つ、四つと続き、すぐに木箱の陰と水音へ紛れていく。


 伝わるかどうかは、もう確かめようがない。言葉だけが、人の足に託されて遠ざかっていく。その頼りなさが、湿った夜気の中へ残った。


 わたしは水路へ意識を戻した。


 発動鍵から伸びようとしている合図が、さっきよりはっきりした形を持ち始めていた。右奥へ逃げる本線が濃くなる。その一方で、枝のひとつが、難民たちのいる天幕のほうへ細く首を伸ばしている。


 ――届かせようとしている。


 息が薄くなった。


 ――天幕の中にいる誰かを急変させるために。


 ひとりでも変じれば、叫びが走り、押し合いが起こり、救護の列は崩れる。誰が患者で、誰が逃げるべき人で、誰が次に倒れるのかも分からなくなる。敵は、その混乱を煙幕にするつもりなのだ。


 逃走の準備が進んでいるのか、こちらの探る気配に気づいたのか。あるいは、もともとこの時間に同調を強める予定だったのか。


 どれでも同じだった。合図は濃くなっている。猶予は、減っている。


 伝令は走った。けれど、届くまでにどれだけかかるのかは分からない。ラウールが男を見つけるまで。そこからバルグへ声が渡るまで。避難の列が動き、天幕の人たちが守られるまで。その間にも、合図は止まらない。


 水路の底で、細い震えがまた濃くなった。震えの芯は、ますます右奥へ寄っている。その脇から、難民たちのいる天幕のほうへ、細い枝が伸びていく。けれど、分かるのはそれだけだった。


 まだ薄い。まだ遠い。


 水の下を泳ぐ影のように、こちらが掴もうとするたび輪郭がほどけてしまう。発動鍵がどこにあるのか。誰がそれを抱えているのか。どこから合図を送っているのか。その奥までは、まだ届かない。


「……まだ、届かない」


 自分の声が、潮風の中で乾いた。


 ヴィルがこちらを見る。


「何がだ?」


「本命の位置よ。それが首魁なのか、設置された発動鍵なのか、起動源なのかさえも、まだ曖昧で……。たしかに糸は見える。でも、細すぎるのよ。枝分かれしてて、どれが本線なのかわからない」


 水路の黒が揺れる。


 その奥で、合図だけが何度も同じ拍を刻んでいた。爆ぜるための、一度きりの命令ではない。もっといやなものだった。何度も、何度も、体内に散った術式化魔石片へ触れて、同じ拍へ揃えようとしている。眠っているものを、少しずつ起こすように。


 だから、今はまだ曖昧なのだ。合図が対象へ届ききっていない。術式化魔石片が、まだ十分に同調していない。兆候で済んでいるあいだは、糸も薄い。水路の底へ指を伸ばしても、泥と水の違いを探るような、わずかな手触りしか返ってこない。


 ――もっと濃くなれば、読めるのに。


 症状が出るほど、接続が密になれば。その瞬間なら、起動導線の輪郭はきっとはっきりする。


 そう理解した途端、胃の底へ重いものが落ちた。


 ――わたし、何を考えてるの?


 それは、誰かが苦しみ始めるまで待つ、という意味だった。


 天幕の中にいる誰か。さっきまで人として座り、息をして、誰かの声に返事をしていた人。自分の体の奥で何が揃えられているのかも知らないまま、喉を押さえ、息を詰まらせ、痛みに膝を折るかもしれない人。


 その人の苦しみが濃くなったとき、わたしには、ようやく糸が見える。


 ――それはだめ。救ってあげられない。もしかしたら手遅れになるかもしれないのに。


 足裏の石が、急に冷たくなる。


 行かなければ、と思った。天幕へ。いまなら、まだ兆候で済んでいる。発動する前に、誰の中で同調が強まっているのか確かめられるかもしれない。急変へ落ちる前に、その人の身体から合図を外せるかもしれない。


 けれど、古い継ぎ目の奥で糸がまた沈む。


 発動鍵と、小舟と、逃走。その三つが、指を切りそうな形を持って並んだ。ここで本線を見失えば、天幕の一人だけでは終わらない。次の場所で、同じことが起こる。もっと遠くで、もっと見えないところで。誰かがまた、知らないまま合図を受け取る。


 行けば、目の前の誰かを救えるかもしれない。待てば、もっと多くを止められるかもしれない。どちらも正しい顔をしていて、どちらも手に取れば指を切りそうだった。


《《美鶴……行きたいよね。今すぐにでも駆けつけたいよね》》


 返事ができなかった。


 右足が、半歩だけ天幕のほうへ出かけていた。気づいた瞬間、足裏の冷えがひどくはっきりした。呼吸が乱れた。視線が天幕へ逃げた。指が柄へ食い込んだ。それだけで、茉凛には十分だった。


 水面の黒が、天幕の灯を細く引き伸ばしていた。行きたいのに、右奥から目を離せない。その二つの力に引かれて、体の中心が小さく裂ける。茉凛は、その裂け目を見ている。思考ではなく、息で。言葉ではなく、震えで。


 だから、言えるのだと思った。


 いま、行きたいんだよね、と。


《《でも、掴めてないうちはだめ。掴めたなら、迷わず行こう。それまで我慢して》》


 やさしい言葉ではなかった。けれど、冷たい言葉でもなかった。


 茉凛は、わたしの衝動を否定しない。行きたいと思ったことを責めない。ただ、まだだと告げている。逃げるためではなく、届かせるために。誰かの苦しみを見捨てるためではなく、その苦しみが急変へ落ちる前に、確かに掴むために。


 白い柄が、掌の中でひやりと沈む。


「……わかってるって」


《《わかってるのに、足が動いた》》


「……うん」


 言い返せなかった。救いたい、という言葉より先に。考えるより先に。体が勝手に、天幕へ向かおうとしていた。それが怖かった。怖いのに、まだ右奥が怖い。


「ミツルよ」


 ヴィルの声が低く落ちた。


「まだ動くな」


 命令の形だった。けれど、怒りではない。わたしの震えを見ている声だった。


 その声を、体が覚えていた。


 砂の匂い。鞍革の冷たさ。馬車列の端で上がった叫び。オブシディアン・アラクニドが砂の向こうで身じろぎした、あの夜のこと。あのとき、ヴィルはわたしに馬車を守れと言った。理屈では分かっていた。脅威を分けるためにも、逃げ遅れた者を守るためにも、その命令は正しかった。


 それなのに、わたしは走った。守るなら、先に折るしかない。そう思った瞬間、体が先に動き、黒い翼が背の奥から湧き上がった。救いたいという気持ちが、行くべき場所と待つべき場所の区別を踏み越えてしまったのだ。


 けれど、そのあとで、わたしはもう一つのことも知った。


 力をぶつけるだけでは届かない。硬い甲殻を正面から叩いても、守れない。ヴィルが見ていたのは、魔獣の大きさでも、わたしの焦りでもなく、ただ一箇所――胴体の下面に生まれる、ほんの短い隙だった。


 彼の合図を待って、わたしは地の棘を突き上げた。その瞬間だけ、力は道を持った。ヴィルはそれを知っていた。だから、わたしに撃たせた。


 そのとき、水路の底で、また拍が沈んだ。


 回想の火が、いまの夜へ縫い戻される。水面は黒く、倉庫の壁は湿っていた。父の名へ触れる前に、わたしは足裏で濡れた石を確かめる。


 あのあと、火の前で彼は言った。


『そうでもしなければ、あの長いいくさは勝ち抜けなかった。今回の事例にしても同じだ。無謀でも無茶でもなく、冷静に探って、勝機があるなら危険を引き受ける。……それを教えてくれたのが、俺が敬愛してやまない、銀翼騎士団のリーダーだったんだ』


 ユベル・グロンダイル。


 その名を、声には出さなかった。けれど、奥でだけ、そっと触れた。父の言葉が、ヴィルの声になって、いま水路の闇へ落ちている。そう思った瞬間、足裏の石の冷えが、少しだけ現実を取り戻した。


「……ヴィル」


「俺から言えることはただ一つ。狙いを見定めたなら迷わず突っ走れ。それだけだ」


 その言葉に、胸が小さく跳ねた。


 止められたのだと思った。違った。いま走るな、と言われているだけだ。


 走るな、ではない。見定める前に動くな、ということだった。父が、かつて戦場でそうしたように。ヴィルが、その背中から学んだように。いまのわたしも、ただ焦って手を伸ばすのではなく、届かせるために待たなければならない。


 ヴィルの視線は、水路の奥へ向いたままだった。剣にはまだ手をかけていない。けれど、半歩前へ出た立ち位置が、わたしの逃げ道ではなく、わたしの衝動が走り出す道を塞いでいる。


「簡単なことだ。見定める前に動けば、相手の思う壺。戦場では珍しくもない」


 低い声が、潮風の中で硬く残った。


「俺が敵さんならこうする。ゆっくり囮をちらつかせて陽動し、こちらが引っ張られたところで本命を逃がす。情報を錯綜させた隙に離脱だ。発動鍵も、合図を送っている側も、まんまと逃げおおせる」


「でも、症状が出たら」


「ああ」


 ヴィルは短く答えた。


「出たら読むんだろう」


 あまりに静かな声だった。その静けさに、息が詰まる。


「そんな……出るまで待てっていうの?」


「違う」


 即答だった。


「出させないために、いま見ている。だが、見えないものを掴みに行っても、救えるものは増えない。最悪は考える。だが、起きる前からそれに呑まれるな。焦れば、相手に釣られるだけだ」


 風が倉庫の角を抜け、濡れた縄の匂いを運んできた。


「お前が走れば、天幕の者たちも少しは安心するかもしれん。だが、合図を送っている側は逃げる。次はもっと遠くで、もっと見えない場所で起こすかもしれん。小舟が本命か、囮かも分からんままな」


 言葉は刃のようだった。けれど、切られた場所からこぼれたのは怒りではなく、息の細さだった。


「敵は、そこまでするというの?」


「ありうる。影働きってのは、悪いほうから考えておくものだ」


「……冷酷非情な手段を使う相手なら、綺麗な選択肢だけでは守れないってことよね。理屈ではわかるんだけど、わたしには到底受け入れられそうもないわ……」


「受け入れなくてもいい。そこまで背負うな。そういう汚い想定は俺の領分だ。ただ、重ねていうが、状況にだけは呑まれるな。必要な時は俺から言う」


「うん。ここで我慢する。今は、あなたの判断を信じるわ。茉凛もそう言ってる」


「そうか。いい相棒だな」


 その一言に、白い柄の奥で茉凛がほんの少し息を詰めた気がした。


《《……褒められちゃった》》


 いつもの調子に戻そうとしているのに、声の端が少しだけ照れている。こんな状況でなければ笑えたかもしれない。けれど、唇は動かず、かわりに指だけがマウザーグレイルの柄を握り直した。


 掌に収まる白い柄の硬さが、いまはありがたかった。荒れているものを、薄い氷の膜で押さえてくれるようだった。


 天幕へ行きたいという衝動は、まだ足裏に残っている。濡れた石を蹴れば、今すぐ走り出せる気がした。けれど、ヴィルの半歩前に出た立ち位置と、白い柄の奥で見ている茉凛の気配が、わたしの身体をここへ繋ぎ止めていた。


 救うために、ここにいる。


 その理屈は鋭すぎて、飲み込むたび喉を傷つける。


 ふいに、天幕へ伸びていた枝の先が濁った。光ではない。音でもない。合図が届いた先で、何かが同じ拍へ合わせられかけたときに返る、いやな淀みだった。水面に落ちた油膜みたいに、薄く、けれど確かに広がる。


 息が止まった。


「……来た」


 声にした瞬間、背中を冷たい汗が伝った。


 ヴィルがこちらを見る。


「読めたのか?」


「まだ。でも、さっきより輪郭が立ってる。どんどん強くなってる。たぶん、糸がつながった」


 天幕の中の誰かに。名前も知らない誰かに。その人の身体の奥で、術式化魔石片が合図へ引かれはじめている。


 まだ急変ではない。けれど、兆候のままでもない。苦しみの入口へ、足をかけさせられている。それを手がかりにしなければならないのだと理解した途端、吐き気に似たものが喉まで上がってきた。


《《美鶴、飲まれない》》


「……うん」


《《その人に苦しみをもたらす合図を。通ってきた道を。その根っこを見るの》》


 茉凛の声は、わざと少しだけ軽かった。けれど、軽さの下にある硬さを、わたしは知っている。


 彼女も嫌なのだ。わたしがこんなものを手がかりにしなければならないことを、嫌がっている。それでも、いまは引き戻してくれる。吐き気も、息の乱れも、握り込んだ指の震えも、彼女には届いている。


 だから、言える。そこへ沈むな、と。見なければならないものだけを見ろ、と。


 わたしは唇の内側を噛んだ。痛みが、小さく現実を戻す。水路の黒へさらに意識を沈めると、天幕へ伸びた枝の先から、わずかな返りがあった。同調しかけた身体から、合図が押し返されてくる。行きっぱなしではない。反応した分だけ、細い拍が逆流する。その戻りを辿れば、送られてきた道の癖が見える。


 石壁、係留鎖、濡れた木杭、倉庫の鉄扉。その全部へ一度ずつ触れながら、合図は右奥へ逃げていく。けれど、まっすぐではない。小舟へ向かう筋は、見えている。古い荷下ろし場の先。水路の口。逃げ道としてはあまりに分かりやすい。見えてしまうほど、そこへ目を引くようにできている。


 なら、そこだけを追えばいいわけではない。


 視界の端で、薄い地図の線がまた滲んだ。古い荷下ろし場の下に、途切れた短い線がある。記録では、排水溝とも、旧水路の名残ともつかない曖昧な印だった。王都の地図は、そこを詳しく語っていない。新しい港が整備される前の古い構造が、ただ消し残しのように紙の上へ残っている。


 それだけでは何も分からない。けれど、合図はそこを通るたび、ほんのわずかに拍を整え直している。天幕へ伸びた枝の返りも、右奥へ逃げる震えも、その印の上で一度だけ同じ癖を持った。


 地図が教えてくれたのは答えではない。疑うべき古い継ぎ目だけだった。


 水路の底で、もう一度、拍が沈んだ。


 今度は、天幕側の枝ではなく、右奥へ寄っていた震えの内側がわずかに裂ける。黒い水の中に、細い縫い目が現れたようだった。見えた、と思った瞬間には、またほどける。焦れば消える。怖がれば、天幕の枝へ意識が引き戻される。


 わたしは息を細くした。


 ――逃がさない。


 白い柄の奥で、茉凛が黙った。


 何も言わない沈黙が、かえって支えになる。いま言葉を重ねられたら、その言葉へ縋ってしまう。だから彼女は黙っているのだと思った。


 ヴィルも動かない。視界の端で、彼の肩がごくわずかに上下する。剣へ手をかけてはいない。けれど、倉庫の影から何かが飛べば、その瞬間に動ける位置にいる。わたしを見るのではなく、わたしが見ている先を守っている。


 その沈黙の中で、天幕側の反応がもう一段濃くなった。


 誰かの息苦しさが、奥をかすめた気がした。わたしのものではない。でも、完全に他人のものとして切り離すには近すぎる。喉を押さえる手。膝を折る重さ。周囲の誰かが名を呼ぶ気配。そんな像が勝手に走りかけて、わたしは奥歯を噛みしめた。


 ――道を見ろ。合図が、その人へ届いた道を。


 指先の冷えが、すっと白く澄んだ。水路の底にあった曖昧な震えが、突然、ひとつの傾きを持つ。右奥、古い荷下ろし場、水路の口、小舟へ抜ける線。その手前で、一度だけ拍が曲がっていた。


 それは水でも、船でもなかった。石の陰。荷下ろし場の下、古い排水口のあたり。そこを通るときだけ、合図の冷えがわずかに増す。まるで、水路の底に隠された細い針が、拍を整えて送り直しているみたいに。


「……見つけた」


 声が、自然に落ちた。


 ヴィルの気配が鋭くなる。


「どこだ?」


「小舟そのものじゃない。小舟へ抜ける手前。古い荷下ろし場の下。排水口みたいな場所で、合図が一度、整え直されてる」


 言いながら、胸の奥が静かに締まっていく。首魁の顔までは見えない。発動鍵を抱えている人物の姿も、まだ輪郭にはならない。けれど、起動導線は掴めた。少なくとも、天幕へ届いている合図が、どこを通って濃くなっているのかは分かる。


「起動源か」


「そこまでは断定できない。でも、ただの枝じゃない。あそこを押さえれば、合図の流れは乱せると思う」


 ヴィルは短く息を吐いた。


「狙いは見えたな」


 その言葉に、膝の奥がかすかに震えた。


 見えた。その事実が、怖かった。ここから先は、待つ理由がなくなる。行ける。行かなければならない。天幕で苦しみ始めた誰かの時間も、小舟へ逃げようとしている何かの時間も、同じ場所へ向かって細く結ばれている。


 わたしはマウザーグレイルを握り直した。掌の汗で、白い柄が少し滑る。


《《さてさて、美鶴殿よ》》


「うん」


《《ようやっと掴めたのう》》


「うん」


《《いざ参る》》


 古い芝居をまねるような声が、白い柄の奥で小さく弾んだ。


 ふざけているようで、ふざけてはいない。怖いものを怖いまま抱えたわたしの背を、ぽん、と軽く叩いてくれる声だった。


 ヴィルが半歩、前へ出る。水路の濡れた石が、靴底の下で鈍く鳴った。


「走れるか?」


「走る」


「遅れるようなら抱えていくが」


「遠慮しておくわ」


「なら遅れるな」


 短いやり取りなのに、胸の奥にあった硬いものが少しだけ動いた。


 わたしは天幕の方角を一度だけ見た。灯は遠い。声も届かない。あちらで何が起きているのか、今のわたしにはまだ全部は分からない。けれど、分からないからこそ、掴んだものを離してはいけない。


 濡れた縄の匂い。黒い水面。倉庫の影。遠い灯。掌に収まる白い柄。ヴィルの背中。


 全部が、一つの細い道へ揃っていく。


 水路の底で、合図がまた震えた。今度は迷わなかった。


「古い荷下ろし場の下よ。そこへ行く」


 ヴィルが頷く。


「ああ」


 その低い声を合図に、わたしたちは濡れた石を蹴った。


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