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潮の手前で糸を探る

 港町は、まだ遠かった。


 けれど、匂いだけが先に来ていた。潮、古い油、濡れた縄。運河を渡る風の底には、魚箱に残った水の青臭さが沈んでいる。そのさらに奥で、かつて胸を弾ませた焼き網の脂の匂いが、ほんの一瞬だけ息をしていた。


 最初に思い出したのは、港の明るさではなかった。


 砂塵だった。


 口の中へ入り込んで、奥歯の裏でざり、と鳴った砂。魔獣の群れが地鳴りのように押し寄せ、冷たい風が頬を打ち、わたしはスレイドの背で息の仕方さえ忘れていた。


 そのただ中を、巨きな影が裂いていく。


 天を突くような髪。岩のような肩。両手の斧が空気を巻き込み、地面ごと戦場を揺らしていた。笑っているのに、恐ろしいほど強い。魔獣の群れを前にしても、あの背中だけは少しも退かなかった。暴風が人の形を借りて地に落ちたら、きっとああ見えるのだと思った。


『バルバロードの戦士』


 ヴィルの声が、砂のざらつきと一緒に戻ってくる。


 そのあとで、王都の魚市場の光が差し込んでくる。


 陽を吸った石畳。氷の匂い。木箱を片腕に抱え、腹の底から響く笑い声。魚屋の女将たちにやかましいと叱られても、少しも堪えた様子がなく、それすら市場の音のひとつにしてしまう人。


『重いものなら儂に任せろだ! ガハハ、これでもこの市場では一番頼りにされているのだぞ!』


 胸を張っていた彼は、荒野の暴風ではなく、市場の柱みたいだった。


 どちらも、同じ人なのだ。


 戦場で道をひらく背中も、市場で荷をどかす腕も、恐怖で固まりかけた場をひと息で動かす力も。バルグは、そういう人だった。


 今夜、その声はまだ届かない。


 魚市場へ続く路地は、倉庫の肩越しに遠く見えている。濡れた石壁の向こうで、橙色の明かりがいくつも揺れていた。けれど、包丁が板を叩く音も、荷を運ぶ若い衆の掛け声も、バルグの大声も、ここまでは来ない。


 遠い。ほんの少し前まで、あれほど近く感じていた場所なのに。


 ――まだだ。まだ、あそこへ入ってはいけない。


 行けば、敵を追う足のままで、人の暮らしの中へ踏み込むことになる。あの明るかった場所へ、今夜の恐怖を持ち込むことになる。そう思うと、喉の奥に潮とは違う苦さがひろがった。


 スレイドの蹄が、濡れた石畳を低く打つ。


 水路沿いの道は狭かった。右は黒い水面。左は石造りの倉庫の壁。積み上げられた木箱の影が、夜の湿りを吸って重く沈んでいる。馬一頭が向きを変えるにも苦労しそうな幅で、ここを塞がれたら、逃げるにも戦うにも一拍遅れる場所だった。


 ヴィルは、ただ前を見ていた。


 片手で手綱を取り、もう片方の手は低く保たれている。剣の柄へはまだ触れない。けれど、肩から腕へ落ちる線だけが、抜かれない刃のように張っていた。


「この先で分かれる」


 潮風が、彼の低い声を倉庫の壁へ薄く返した。


「左へ抜ければ魚市場だ。右は南港裏手と船着き場へ落ちる」


 わたしは、倉庫の向こうの明かりを見た。


「ラウールは?」


「来ていれば、この手前だろう」


 その言葉が、濡れた石の匂いと一緒に息の奥へ沈んでいく。


 逃げたのは一名だった。魚市場へ入られてからでは遅い。けれど、ここは人が多すぎる。逃げ道も、目も、多すぎた。バルグがいるなら、なおさらだ。港の人間を巻き込む前に、この水路口で止める。そのために、ラウールは港町側から先回りしているはずだった。


 倉庫と水路のあいだ。狭い喉元。人の暮らしへ入り込む直前の、いちばん薄い場所。


 そこへ、淡い赤がひとつ灯っていた。


 緋朧天石の光だった。


 ラウールは倉庫の影に立っていた。外套は夜の湿りを吸い、裾だけが風に小さく動いている。赤紫の瞳がこちらを捉えたとき、安堵より先に、静かな苦さがそこに見えた。


「来たね」


 ヴィルがスレイドを止めた。


 蹄の下で、水を含んだ石が鈍く鳴る。


「敵の姿は?」


「いないようだ」


 ラウールはすぐに答えた。


 その短さに、指先が鞍の縁を少し強く掴んだ。


「いないだと?」


「予測が外れたよ。先回りすれば、ここで挟み撃ちにできると思ったんだけどね」


 魚市場の灯が、倉庫の肩越しに揺れている。まだ笑い声は聞こえない。ただ潮風だけが、濡れた髪の先を撫でていった。


 ヴィルの眉がわずかに寄る。


「俺もそう読んでいた」


「来るならここだった。魚市場へ入られる前に止めるのが、一番やりやすいからね」


「だが、来ない。向こうも馬鹿じゃないってことだ」


「そういうことだね」


 ラウールは水路の奥へ視線を投げた。


 そこには、倉庫裏へ沈んでいく細い道と、さらに右へ落ちる石段があった。暗がりの向こうには、船着き場の方角がある。風が抜けるたび、どこかで係留鎖がかすかに鳴った。水に濡れた金属の音は、夜の中で妙に硬い。


「倉庫筋にいた連中は手練れだ。おそらく『影の骸』だろう」


「初めて聞く。クロセスバーナの隠密か?」


「ああ、クロセスバーナ軍というよりは、バルファ正教の最奥から伸びた影。少なくとも、昨日や今日に王都へ入った連中じゃない。ずっと前から、目立たぬように少しずつ数を増やしていたと見ていい」


 その言い方に、背筋の奥が強張った。


 軍の影なら、まだ輪郭がある。命令系統も、補給線も、動かした者の痕跡も、どこかに残る。けれど、ラウールの声が示したものは、もっと細く、もっと古い。王都の賑わいの下で、石壁の隙間へ根を入れる蔦のように、少しずつ息を潜めてきたものだった。


 昨日今日ではない。


 その言葉が、潮風に混じって肌の上を滑った。


 ――なんてこと。


 わたしたちが王都の市場を歩き、大学の書架のあいだで息を潜め、離宮の回廊で夜明けを待っていたあいだにも。


 ――ずっと以前から、彼らはどこかに潜んでいた。


 人の声に紛れ、荷車の影に沈み、屋根裏や水路や倉庫の暗がりで、この都の呼吸を測っていたのかもしれない。


 気づかなかった。


 気づけなかった。


 その事実が、足もとの石を一段深く沈めたように思えた。


 ヴィルが低く息を吐く。


「道理で気配がなかったわけだ。さんざん王都を歩き回ったってのに、何ひとつ掴めなかったからな」


「そういう連中さ。だからソミンは落ちた。気づいたときには、もう手遅れなんだ」


 ラウールの声は穏やかだった。けれど、緋朧天石の縁を押さえる指だけが硬い。


 ソミン。


 その名が夜の水路へ落ちた瞬間、遠い国の話ではなくなった。クロセスバーナに名前を奪われ、国の輪郭ごと塗り替えられた場所。そこにも、こんなふうに静かな前夜があったのかもしれない。


 誰かが日々を続けているあいだに。誰かが市場で笑い、荷を運び、鍋の火を見ているあいだに。影は、街の骨へ入り込んでいた。


 白い柄へ添えた手に、いつの間にか力がこもっている。


 ラウールは、わたしを見た。


「ここへ来ないとすれば、向かう先は……」


 ヴィルの目が細くなる。


「だとすれば船だな。逃げを打つつもりだろう」


「その可能性が高い。小舟でも確保できれば、風魔術か水魔術の補助で港外へ抜けられる。たとえ本人にその術がなくても、魔導船外機さえ確保できれば、逃走は十分に可能だ」


 マウザーグレイルの柄へ添えた指に、白い硬さが戻ってくる。


「今回の実証実験の結果を、持ち帰るために、ね……」


 口にした途端、潮風が舌の裏へ苦く触れた。


 影の骸は、目的のためには手段を選ばない。足止めのために五人を犠牲にしてでも、残る一人へ持ち帰らせたいものがある。今回の実証実験の結果。王都で発動合図がどこまで通るのか。救護と警備がどう動くのか。人々の恐怖が、どのように広がるのか。そのすべてを、彼らは命と引き換えにするだけの価値があると見ていた。


 理屈としてはわかる。


 信念。忠誠。教義。命に代えてでも果たせと命じるものを、彼らは持っているのだろう。けれど、どうしたってわたしには納得できなかった。


「止めなきゃ。できれば無傷で……」


 口にできるのは、それしかなかった。


 ラウールは、魚市場の方角を一度だけ見た。


「僕は港へ向かい、敵の逃走経路を塞ぐ。それと、バルグへ報せる」


 その名に、息の底が小さく揺れた。


「この一帯は、バルグの持ち場だ。彼に報せ、難民たちを速やかに退避させる」


「わたしも、それが最善だと思う」


「ああ。急変などさせてたまるものか」


 緋朧天石の赤が、彼の指のあいだから水路へ淡く落ちた。


 静かな声だった。


 けれど、その静けさの底に、譲らない熱があった。ラウールは決して声を荒げない。怒鳴らない。だからこそ、言葉の底へ沈んだものが、余計に深く見えた。


 ヴィルが短く息を吐く。


「あいつなら任せられる。なんたって、体はでかいし、声もでかい」


 低い声に、ほんの少しだけ乾いた笑いが混じっていた。けれど、そこに疑いはない。


「魚市場の連中を動かすなら、あいつ以上に適した奴はいない」


 その言い方に、足もとの石がようやく確かさを戻す。


 バルグは、ただ陽気な巨漢ではない。砂塵の中で魔獣の群れを叩き割った背中と、魚市場で木箱を抱えて笑っていた腕とが、胸の内で重なる。あの声はたしかに大きい。怒鳴れば路地の端まで届くし、笑えば市場の天幕まで揺れそうだった。


 けれど、その大きさは、人を怯えさせるためのものではなかった。立ちすくんだ者の背を押し、散りかけた人の流れをひとつへ戻し、塞がった道を開けるための声だった。


 ――そうだ。あの人がいるなら。


 そう思えたことが、今は救いだった。


 ラウールは緋朧天石を一度だけ指で押さえた。


「灰月の連絡役がこちらに来ているはずだ。一人、こちらへ回す。“合図”の向きが変わったら、そのまま伝えてほしい」


「強まったときは?」


「『強まった』。そう言えばいい。それで十分だ」


「途切れたら?」


「そのときは、たぶん僕が戻る」


 実務だけを置いていく言い方だった。


 怖くないわけではない。けれど、こちらが迷わないように、必要な線だけを結んでいく。ラウールのそういうところは、静かな夜の水路によく似ていた。見える部分は穏やかなのに、底では速い流れを抱えている。


 潮風が倉庫の壁を撫で、濡れた縄の匂いを細く運んでくる。市場の方角の明かりはまだ遠く、けれど水路の奥へ落ちる闇だけが、すぐ足もとまで近づいているようだった。


「ところでお前、本当に一人で行くつもりか?」


 ヴィルの声は低かった。


「もちろんだとも」


「増援が来たらどうする。敵は倉庫街にいた連中だけとは限らんぞ」


「わかってるさ」


「わかってるって顔じゃないな」


 ラウールは小さく笑った。


 その笑みは、いつものように柔らかかった。相手の棘を真正面から受けず、少しだけ斜めに流していく。そういう呼吸を、彼はよく知っている。


「ヴィル。君って、意外に心配性なんだね。僕のことが、そんなに心配かい?」


「ふざけるな。俺は戦術上の穴を気にしているだけだ」


「そんなへまはしない。僕は戦術的な判断をしているつもりだよ」


 言いながら、ラウールの指が緋朧天石の縁を押さえていく。


 赤い光が、指の隙間でひとつ沈んだ。潮の匂いの奥に、古い油と濡れた石のにおいが混じる。彼の笑みはまだ残っているのに、その目の底だけが、少しずつ別の色へ変わっていった。


「それに、ヴィル」


「なんだ」


「相手がクロセスバーナなら、僕は手を緩めるつもりはない」


 静かな声だった。


 けれど、その静けさの底に、夜より暗いものが沈んでいるのが分かった。


「いざとなれば、修羅にもなろう。その覚悟はあるつもりだ」


 ヴィルは言い返さなかった。ただ、肩の線が少しだけ硬くなる。


 わたしは視線を下げた。


 濡れた石の匂いが、潮風に混じって足もとから上がってくる。ラウールの声は、荒れていなかった。いつもと同じように、低く、静かで、どこか柔らかい。けれど、その柔らかさの底に、刃のようなものが沈んでいるのを、いまさらのように思い知った。


 彼は、自分の過去を多く語らない。


 それでも、わたしに分かることはある。故郷を奪われたこと。肉親を奪われたこと。虐げられる人々を目の当たりにしながら、それでも生き延びてきたこと。そして、いままた、旧い友人までも、クロセスバーナの人体実験で奪われたこと。


 言葉にすれば、どれも短い。けれど、ひとつひとつは、人の胸を静かに壊していく重さを持っている。


 ――ずっと、奪われ続けてきた。わたしがそうだったように。


 胸の内側が、痛くてたまらなかった。


 同情ではない。そんな綺麗なものではなかった。ただ、失ったものの数を数えながら、それでも立っている人の横顔が、どうしようもなく苦しい。


「ミツル……?」


 不意にラウールに呼ばれ、わたしははっと顔を上げた。


 けれど、彼を見ることができなかった。


 目を合わせてしまえば、いま内側で疼いているものまで見られてしまいそうだった。ラウールの痛みを思っているはずなのに、その底で、自分の古い傷まで一緒に息を吹き返している。そんな自分が、ひどく狡いものに思えた。


「僕のことなら、心配しないで」


 その声は優しかった。優しすぎた。


 濡れた石道を渡る潮風が、彼の外套の裾をかすかに揺らす。緋朧天石の赤はもう強くは灯っていない。ただ、指のあいだで小さく沈み、夜の水路へ淡い色を落としていた。


「むこうにはバルグもいる。必要とあらば、彼の助力を仰ぐさ。バルバロードの戦士がいれば、百人力だ」


 その言葉は、救いだった。


 彼とわたしとは違う。背負うものがあっても、一人で抱え込むようなことはしない。必ず頼れる仲間を探す。任せるべき場所を見極める。バルグの名を出した声には、そのためらいのなさがあった。


 だから、ここまで戦って来られたのだと思った。


 かつてのわたしは、そうではなかった。一人で抱え込み、一人で突っ走ろうとしていた。助けを呼ぶより先に、間に合わせなければと足を出した。誰かに託すことを、逃げることのように思い込んでいた。


 けれど、急ぎすぎれば、見失う。見失えば、誰かが人のままいられなくなる。


 その答えが、潮風と一緒に胸の奥へ落ちていく。倉庫の向こうの灯はまだ揺れている。そこにバルグがいる。ラウールが向かう。ヴィルがここに残っている。茉凛が、わたしの内側で息を詰めていた。


 なら、わたしのすべきことも決まっている。


「わかったわ。わたしも、わたしのすべきことをする。かならずこの糸の先を探し出し、押さえてみせる」


 口にした瞬間、指先に白い柄の硬さが戻った。


 強がりではない。怒りだけでもない。何かを切り捨てるための決意ではなく、これ以上、人を道具にさせないための線だった。


 ラウールは、ほんの少しだけ目を細めた。


「それでいい。力は、戦うためだけにあるんじゃない。君は、そうあるべき人なのだと、僕は思うよ」


 返事の前に、白い柄を握る指が少しだけ遅れた。


 褒められたのだと分かる。励まされたのだとも思う。けれど、その言葉はあたたかい布のようでいて、同時に、肩へそっと置かれた重みのようでもあった。


 そうあるべき人。


 わたしは、本当にそうなのだろうか。


 何かを救うために力を使いたいと願うたび、別の何かを壊してきた気がする。守りたいと手を伸ばすほど、指の間から大事なものがこぼれていくようで、呼吸が浅くなっていった。


 けれど、ラウールの瞳は静かだった。


 責めてもいない。押しつけてもいない。ただ、そう見ている、と告げているだけだった。その静けさが、かえって逃げ場をなくしていく。


「うん……」


 返事は、ひどく小さくなった。


 濡れた石道を、潮風が抜けていく。倉庫の肩越しに、魚市場の灯が揺れていた。まだ声は届かない。バルグの笑い声も、荷を動かす怒鳴り声も、ここまでは来ない。


 けれど、届いていないからこそ、守らなければならない場所があるのだと思えた。


 ラウールは、それ以上何も言わなかった。


 緋朧天石を指先で押さえ、港の方へ身体を向ける。その動きには、もう迷いがなかった。外套の裾が夜の湿りを吸い、倉庫の影へ少しずつ溶けていく。


「ヴィル。くれぐれも、彼女を頼むよ」


「しつこい。俺はこいつの騎士で、相棒だ。言われなくてもやることはやる」


 そのぶっきらぼうな響きに、かえって足元が戻ってくる。甘やかされているのではなかった。戦う場所を、分けられているのだと分かった。


 ラウールは一度だけ、こちらを振り返る。


 赤紫の瞳が、潮の匂いを含んだ夜の中で、ひどく静かに光っていた。


「合図の向きが変わったら、すぐ知らせて」


「わかったわ」


 今度の返事は、さきほどより少しだけ息が通った。


 ラウールは頷き、倉庫の影へ消えていく。緋朧天石の淡い赤が、水路の黒へ一度だけ細く映り、すぐにほどけた。


 その先に、港がある。


 その先に、バルグがいる。


 そして、敵が伸ばした糸もまた、きっとそこへ向かっている。


 倉庫の角には、灰月の男が一人残っていた。顔は影で見えない。けれど、こちらの呼吸を邪魔しない距離を、正確に測って立っている。声を出す必要があるときだけ、動く人なのだろう。


「ミツル。俺が前を見る。お前は水路を見ろ」


 低い声だった。命令ではなく、いつもの役割を確かめる声だ。濡れた石道に落ちた彼の影が、わたしの足もとへ静かに伸びている。


「敵が何を仕掛けてきても、気にするな」


「うん。頼んだわ」


「ああ。俺の背中から離れるな」


「離れない。わたしは見る。そして、探し出す」


 彼が前衛。わたしが後衛。それが、いつものわたしたちの呼吸だった。魔獣の気配を読んでいた頃と、何も変わらない。違うのは、いま追っているものが獣ではなく、人の身体に仕込まれた見えない合図だということだけだった。


 わたしはマウザーグレイルを握り直した。


 白い柄の奥で、茉凛の気配が細く身じろぎする。


《《美鶴。コンセントレーションだよ。頭はクールに、体はホットに。肩に力を入れないこと》》


 いつもの声だった。けれど、その奥に、小さな緊張がある。


「うん」


 わたしは水路へ視線を落とした。


 黒い水面は、灯を呑み込みながら静かに揺れている。音はない。けれど、その底で何かが細く震えていた。


 合図。


 魔素の糸。


 急変兆候者の体内に散った術式化魔石片へ、同じ術式司令を送り続ける、見えない命令の流れ。


 それを見つける。


 戦うためではなく。人を、人のまま留めるために。


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