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模倣体の入口

 息が止まった。


 ――読みが当たった。いいえ、最悪な予感が当たってしまった。やっぱり、わたしが目当てだったんだ。


 そのために、どれほどの人が使われたのか。どれほどの人が、名前を奪われ、病人から証拠へ、証拠から危険物へ、危険物から討伐対象へと置き換えられていったのか。


 喉の奥が、冷たい水を飲み込んだみたいに痛んだ。


 胸の奥で、手紙の紙の白さがふいに蘇る。


 ラウールの筆跡。


 やわらかいのに、どこか急いでいる文字。書き切れないものを、それでも傷つけない形へ削って、削って、渡してくれた言葉。


『君が背負うものは、君ひとりのものじゃない』


 あの時は、優しい励ましだと思っていた。


『そこには君の知らない悲劇も、希望も、幾重にも折り重なって眠っている』


 そう書かれていた。


『鍵を握るのは、君の剣と、その剣に宿る魂だ』


 その一文も、いまになって胸の底へ沈んでくる。


『心が折れそうな時は、どうかこの言葉を思い出してほしい。「欠けた翼の中に眠る真実。それは悲しみの中に輝く灯火を守る」』


 ソミン王家に伝わる古い一文だと、ラウールは書いていた。


『僕にも意味のすべてはわからない。けれど、きっと君のために遺された言葉だと思う。どうか、ひとりで抱え込まないでほしい。君は孤独じゃない。必ず味方がいる。それだけは忘れないでいてほしい』


 その文字が、濡れた魚市場の空気の中で、いまさらのように重さを持っていく。


 ラウールは、ただ心配していたのではなかった。


 彼には見えていたのだろう。少なくとも、わたしがまだ見ないで済んでいた地獄の縁を、先に見ていた。だから、あんなふうに書いたのだ。あんなに優しく、けれど逃げ場のない言葉で。


 みぞおちの奥が、鈍く軋んだ。


 痛いのに、涙は出ない。水路の臭いが強すぎるせいかもしれない。魚の脂と、泥と、冷えた石と、人の汗。現実の匂いが、悲しむ余裕まで濡らしていく。


「王都各所へ、糸を幾重にも走らせた。強く張る糸も、弱く垂らす糸も置いた。当然、王立魔術大学の観測に向けても、な」


 男は、そこでほんのわずかに声を沈めた。


「虚と実。時間差。接続の途絶。継ぎ替え。その中から、そなたは本筋を見極めてみせた」


 濡れた石の上を、水滴がひとつ落ちていく。


 音は小さいのに、ひどく遠くまで響いた気がした。


「ただの精霊の巫女ではこうはいかぬ。メービスの再来というだけでは足りぬのだ。貴様は、膨大な糸の強弱を読み、われらの根城を探り当てたのだからな。それを可能とするのは、ソミン王家の亡霊のほかに、一人しか思い浮かばぬ」


 ラウールが一歩前へ出ていた。


 その動きは速くない。けれど、止めるには遅すぎた。


 男の言葉は、もう放たれている。


「ミツル・グロンダイル。貴様は、デルワーズの再来である」


 その名が石畳へ落ちた瞬間、世界が音を失ったように思えた。


 水路の泡も、荷車の軋みも、遠くの声も、ぜんぶ薄い膜の向こうへ押しやられていく。腹部の印が、服の下で細く熱を持った。焼けるほどではない。けれど、身体の内側から誰かに見つけられたみたいな熱だった。


 デルワーズ。


 その名は、わたしの内側で、記憶ではなく傷の形をしている。


 憎んだ。


 消し去ってやると思った。


 それなのに、その名が、わたしの名前と同じ場所へ置かれている。


「黙れ」


 ヴィルの声が落ちた。


 短い。


 それだけなのに、濡れた空気が切れていく。


 ラウールの赤い光が、男の影を裂くように強まった。


「その名を、彼女へ押しつけるな」


「押しつけるだと?」


 黒ローブの男は、静かに首を傾けた。


「名は、すでに在る。われらは、それを照合し、確認したにすぎん。デルワーズの因子は、古代から連なる因果と強く結ばれている。切り離せるものではない」


「違う」


 声が、出た。自分でも驚くほど、低かった。マウザーグレイルを握る掌が冷たい。けれど、指は震えていない。たぶん、震えることさえ遅れているのだろう。


「わたしは……あなたたちに検分される対象じゃない」


 男は、わたしを見た。


 薄い影の奥で、口元だけがわずかに動いていく。


「ならば、何者だ? デルワーズの再来。いや、デルワーズの写し身と呼ぶべきか」


 問いは静かだった。


 けれど、そこには逃げ場がなかった。


 わたしは答えられない。精霊の巫女でも、メービスでも、デルワーズでもないと言いたいのに、では何者なのかと問われれば、言葉が喉の奥でほどけてしまう。


 その沈黙を、ラウールが受け取っていた。


 彼はわたしの前に立ちはだかるのではなく、ほんの少し横へ立つ。視界を塞がない位置。けれど、男の視線がまっすぐ届かない場所。


 その距離が、ひどくラウールらしかった。


「彼女をその名で呼ぶな……」


 ラウールの声は、深く沈んでいた。


 怒鳴らない。否定しない。けれど、譲らない。


「君たちは、観測したものへ名をつける。名づけたものを分類し、分類したものを使う。難民を個体と呼び、少女を再来と呼ぶ。けれど、それは君たちが定義した言葉に過ぎない」


 緋朧天石(ひろうてんせき)の赤が、彼の指の間でゆっくり揺れていく。


「彼女は、君たちの検分台に乗るために生きているわけじゃない。ましてや、鍵などではない」


 男の顔には、何も浮かばなかった。


 肯定も否定もない。ただ、ラウールの言葉をまたひとつ、測定値のように受け取っただけだった。


 ラウールは、わたしのほうを見ないまま、続ける。


「すまない、ミツル。僕は、真相を隠したかったわけじゃない。いや……そう言えば嘘になるね。隠したかった。君が知らずに済むなら、そのほうがいいと、何度も思った」


 その声が、濡れた市場の底へ沈んでいく。


 手紙の紙の白さが、また内側で揺れた。


「でも、それは君を子ども扱いしたかったからじゃない」


 ラウールの肩が、ほんの少しだけ落ちる。疲れた人の肩だった。すでに長い道を歩いてきた人の肩だった。


「この道は、知れば戻れなくなる。名前を知り、仕組みを知り、誰がどこで何をしたかを知れば、もう知らなかった頃には戻れない。君には……僕と同じ場所へ来てほしくなかった」


 その言葉を、ラウールは以前、自分の口で置いていた。


 あの時は、覚悟の言葉として聞いた。けれど、いまは違う。


 それがどれほど長く、暗く、戻れない道なのかを、黒ローブの男の言葉が、濡れた石畳の上へひとつずつ並べてしまっている。


 ラウールは、祖国を奪われたその日から、その道に立っていたのだ。


 血の匂いが染みついた場所に、穏やかな面立ちだけを残して。


 その奥に何が沈んでいるのか、わたしにはまだ見えない。


 けれど、彼がどれほど長くそこに立ち続けてきたのかだけは、肩の落ち方で分かってしまった。


 肩甲骨のあたりが、小さく強張る。


「せめて、敵が押し付けた名で自分を呼ばないでほしい。君が背負うものは、君ひとりのものじゃない。けれど、君を何者として呼ぶかは、君の側に残されているべきだ」


 胸の奥で、手紙の一文がもう一度、音もなく開いた。


『どうか、ひとりで抱え込まないでほしい。君は孤独じゃない。必ず味方がいる』


 その言葉が、いま、目の前のラウールの背中へ繋がっていく。


 紙の上では祈りだった。ここでは、刃だった。わたしを縛る名を、切るための刃。


「相変わらず、甘い。だからそなたは勝てぬ」


 黒ローブの男は言った。


「名を拒めば、構造が変わるとでも?」


「変わりはしないさ。それでも――」


 ラウールは即座に答えた。


「それでも拒み続けるんだ。人として。いや、人であるために」


 男は、わずかに黙った。


 ほんの短い沈黙。


 そこに、バルグの声が背後で太く飛んでいく。


「ラウールの言う通りよ。名は重い。名は尊い。だが、貴様の投げかける名に、その価値はあらず。キーンに伝わる風の加護がそう言うておるぞ」


 濡れた市場の空気が、その声に一度だけ震えた。


 魚の脂と泥の臭いがよどむこの場所で、バルグの言葉だけが、遠い北の山嶺から吹き下ろす風のように骨太だった。名を、分類や記録ではなく、生きた者の胸へ返す声だった。


 その響きに、わたしはようやく一度だけ呼吸を取り戻した。肺の奥へ入った冷たい空気が、遅れて喉の縁をひりつかせていく。


 黒ローブの男は、バルグを見なかった。


 けれど、無視したわけではなかった。


「風の加護か」


 男は、静かに言った。


「見えぬものが人を動かすなら、われらの合図と何が違う」


 バルグの斧の柄が、低く軋んだ。


「貴様……」


「名に価値があるかどうかなど、われらには不要だ。名は、届けばよい。動けばよい。黒髪のグロンダイル。その名だけで、雷光は動き、王家は欲し、侍医司は記録を開き、魔術大学は知を認めた」


 湿った風が、水路から吹き上がっていく。


 黒いフードの奥で、唇だけが淡く動いた。


「尊い名か。卑しい名か。救いの名か。呪いの名か。そんなものは、受け取る側が後から決めればよい。われらに必要なのは、その名がどの順で、誰を、どこへ動かすかだ」


 言葉が、冷たい水みたいに石畳へ落ちていく。


 バルグの風を、この男は風として受け取らなかった。


 人の胸へ届くものではなく、人を動かす流れとして見ている。名も、怒りも、祈りも、すべて導線に変えてしまう。そこに、この男の怖さがあった。


「ゆえに問う」


 男の視線が、わたしへ戻ってくる。


「ミツル・グロンダイルよ。そなたはその名を、どう扱う?」


 見られた瞬間、腹部の印がさらに薄く熱を持った。


「拒むか。守るか。救うか。切り捨てるか。そなたは、敵を見る前に人を見る。であるならば、吾はそなたに見せよう」


 水路の底で、何かが泡立っていく。


「名をつけてみるがよい」


 その一言だけが、湿った空気の中でひどく近かった。


 臭いが、変わる。


 魚の腐った匂いでも、泥の匂いでもない。焼けた石と、濡れた鉄と、苦い薬草を混ぜたような臭気が、男の身体の内側から滲み出してきていた。


 ヴィルが動く。


 踏み込むのではなく、わたしの斜め前へ入る。


「気配が変わった」


 それだけだった。


 けれど、その一言で十分だった。わたしは半歩退き、マウザーグレイルを胸の前へ引き寄せていく。


 男の身体の線が、変わっていた。


 大きくなったわけではない。背が伸びたのでも、筋肉が膨れ上がったのでもない。ただ、密度だけが、じわじわと別のものへ入れ替わっていく。


 最初に来たのは、音だった。


 こつ、ではない。ごり、でもない。


 湿った薄板を爪先で撫でたような、ぞり、と細い擦過音が、男の胸の奥から這い出してくる。そのあとを追うように、ぷつ、ぷつ、と小さな破裂音が続いた。水に濡れた薄皮の裏で、硬い粒がひとつずつ弾けていくみたいな、耳の奥へまとわりつく音だった。


 袖の下で、骨の噛み合わせがずれていく。


 肩の位置がほんのわずかに持ち上がり、胸郭の奥で、ぐ、ぎ、と噛み合わせの狂ったような硬音が鳴る。石を内側から割るような音なのに、どこか生々しく湿っていた。喉元の皮膚が波打ち、その下を何か細長いものが這うように動いていく。黒紫の線が、血管とも亀裂ともつかぬ形で、そこへ集まっていった。


 男はゆっくりと息を吐いた。


 その呼気の終わりに、喉の奥で、から……り、と乾いた音が鳴る。


 人の喉が立てるには硬すぎる、小さな鉱物めいた音だった。


「見届けよ。神代の御業からもたらされた奇跡、そのひとつの到達点。影の骸たる吾の真の姿を」


 ローブの合わせ目が、内側から押し上げられていく。


 布が破れる音はしなかった。切り裂かれたのではない。黒い布の下から、硬い外郭が淡々と形を押し出し、縫い目を静かに裂いていく。


 みし、……みし、と、糸が耐えきれず引きつる。


 そのすぐ下で、かち、かち、かち、と小さな噛合音が続いた。肩。胸。肘。膝。首筋。喉元。指先。ひとつずつ、黒紫の殻が噛み合っていくたび、湿った殻同士が擦れるような、耳障りな薄音が遅れて重なっていく。


 それは鎧を着る音ではなかった。


 肉の奥へ、あとから固い形が生えてきて、身体そのものを上書きしていく音だった。


 これまで相対したどの魔獣よりも濃厚な魔素が、男の身体から漏れ始めている。


 周囲の空気が反応していった。濡れた石畳の表面に細かな波紋が走り、水路の水が逆撫でられたように震える。吊るされた古い鎖が、触れられてもいないのに、ちり……ちり、とかすかに鳴った。


 その微かな金属音の下で、まだ鳴っている。


 男の胸の奥で、硬い何かが回り、噛み、ずれ、また噛み合っていく。


 けれど、外から何かを吸っているのではなかった。


 空気が痩せる感じはない。周囲の魔素が奪われる冷えもない。むしろ逆だった。男の内側から溢れたものが、場に染み出している。濃すぎる液が布へ染み出すように、魔素が皮膚の裏からじわじわと漏れていた。


《《これ、外からじゃないよね?》》


 茉凜の声が、今度は少し速かった。


《《どんどん中から溢れてくる感じ。なにこれ……にんげんじゃなくて魔獣? 変身? もう、いみわかんないよ》》


「術式化、魔石、核片……」


 言葉が、喉の奥でばらばらに散っていった。


 ひとつずつなら知っている語のはずなのに、目の前で起きていることへ繋がってくれない。観測室で読んだ同調信号も、ジョルトの身体の中で見たものも、いまここに立っているものとは、もう別の段階だった。


 男のフードが、外郭に押されて後ろへ落ちる。


 顔が見えた。


 人の顔だった。痩せた頬。年齢の読みづらい皮膚。薄い唇。けれど、頬骨の下から顎へかけて、黒紫の殻が半ば皮膚へ食い込むように走っている。片目の白目には、細い亀裂みたいな黒い線が浮かび、瞳孔の周囲で赤、青、白、黄の小さな光が順に瞬いていた。


 人の顔なのに、目だけが、もう人のものではなかった。


 ラウールが息を呑む。


「……なんということだ。まさか、実用化に漕ぎ着けていたとはな」


 その声は、ほとんど風に消えていった。


 男の背で、何かが開く。


 翼ではない。


 そう呼ぶには、あまりに未完成だった。背骨の左右から黒紫の張り出しが押し出され、刃にも骨にも似た薄い板が三枚ずつ、ぬめった音を立てながら重なっていく。羽ばたくためのものではない。威嚇と制御、それに、熱を逃がすためだけに無理やり生やされたような器官だった。


 それでも、一瞬、首筋がぞっと冷えた。


 ――黒い翼。


 そう呼びたくなる形だった。


 けれど、違う。


 黒鶴とは違う。精霊子の余剰が形を取ったものではない。祈りでも、怒りでも、願いでもない。もっと硬く、もっと乾いている。人の身体を材料にして、その上へ魔の意匠だけを縫いつけたものだった。


 バルグが即座に腹から声を張った。


「退避せい! 柱の裏へ回れェ! 水路側を空けい! 荷車を倒し盾にせよ!」


 その声で、現場が動いていく。市場の男たちが顔色を失ったまま、それでも手近な荷車へ取りついた。


「既に伝令を走らせておる。銀翼が来るまで、ここは儂らが支える。決して近づくでない!」


 恐怖で凍りついた者の肩を、別の者が掴んで引いていく。荷車が軋みながら倒され、積まれていた木箱が割れていった。魚の臭いがさらに強くなり、濡れた縄が石の上で跳ねる。


 それらの生活の音の中で、男だけが違う律動を刻んでいた。


 胸の奥から、こつ、こつ、こつ、と硬い音がしている。


 心臓ではない。複数の核が、一定の間隔へ揃っていくみたいな音だった。


「第二次制限機構、解除。武装外郭、接合。硬化率、最大」


 男は、祈りのように言った。


 次の瞬間、黒紫の外郭が一斉に噛み合っていく。


 音は、鎧を着る音ではなかった。


 骨が外へせり出し、皮膚と外郭と魔石片の境目を失っていく音だった。肘から先が硬化し、指の節が長くなる。爪ではなく、薄い刃が指先の延長として生まれていった。膝の外側には小さな突起が並び、踏み込むための支点になる。胸部には、肋骨をなぞるような外郭が重なり、喉元へ黒紫の輪が巻きついていた。


 身長はほとんど変わっていない。


 けれど、立っているものが変わった。


 さきほどまで人が立っていた場所に、もう人ではない密度だけが残っている。その重さが、濡れた石畳の上から、ゆっくり空気を押し返していった。


 ラウールは、緋朧天石(ひろうてんせき)を握ったまま、男の外郭を見つめていた。


 その顔に浮かんだのは、恐怖だけではなかった。もっと古いものを見つけてしまった人の、深い沈黙だった。


 水路の音が、遠くなっていく。


 逃げ遅れた水滴が石を打つ音さえ、膜の向こうへ退いていった。黒紫の外郭はまだ動かない。ただ、濡れた石の上で、光だけが薄く沈んでいる。


 なのに、ラウールの沈黙だけが、それを先に知っているようだった。


「ラウール。あれはいったいなんなの? 魔獣じゃない。人なのに。人のはずなのに、どうしてあんな姿に。あれじゃまるで……」


 ――悪魔……。


 その言葉は、声にならなかった。


 声にしてしまえば、何かを決めてしまう気がした。人ではない、と。救えない、と。斬ってよいものだ、と。


 あれはもう、斬れば終わる肉ではない。討てば倒れる獣でもない。人の形を借りたまま、別の理へ片足を踏み入れている。


『名をつけてみるがよい』


 さっき男が投げた言葉が、水路の底から泡みたいに戻ってきた。


 魔獣。


 人。


 悪魔。


 どの名も、舌の上で崩れていく。


 わたしは何かを答えなければならない気がした。けれど、名をつけるということは、境目を引くことだった。境目を引けば、その向こう側へ、まだ人だったものを押し出してしまう。


 喉の奥に冷たいものが溜まる。


 唇だけが、小さく震えた。


 ――こんなものに、どんな名をつければいいというの……。


 その答えられなさを、ラウールが受け取った。


「ミツル。これは伝承に記されている魔族ではないよ」


 ラウールの声が、湿った空気の中で乾いていた。


「魔族を模倣した存在を作り出す……人体と、術式化された魔石核片を融合させ、外見だけではなく、組織そのものを根から作り替える技術だ」


 緋朧天石(ひろうてんせき)を握る指が、わずかに白くなる。


「彼らの言葉で言えば、『融合兵』。……その完成個体だ」


 『融合兵』という一語が、濡れた石畳の上へ静かに落ちていく。


 わたしの指先から、温度が抜けていった。


 技術。


 模倣。


 実用化。


 その三つの語が、遅れて意味を持ちはじめる。誰かが設計し、誰かが工程を組み、誰かが繰り返した、ということだった。古い伝承を、人の身体で何度も試したのだ。失敗のたびに、誰かが消えていったのかもしれない。成功のたびに、誰かが人でなくなっていったのかもしれない。


 外郭の黒紫は、それでも答えを待つみたいに動かなかった。


 湿った光だけが、石畳の上で静かに残っている。


 ただの人ではなかった。そして、ただの魔獣でもなかった。

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