一歩前へ
蹄の音が、乾いた土に吸い込まれていく。革具の擦れる微かな音と、スレイドの背の温かい揺れだけが続き、魔獣の気配はもう遠い。わたしの意識は、揺れにほどける糸みたいに、少しずつ輪郭を失っていった。
まどろみの縁で、重力がふいに優しくなる。傾きかけた身体を、背後のヴィルが腕の中に引き寄せ、抱え直してくれたのだ。背中が広い胸板に触れ、腕が腰を確かに支える。骨の硬さと布越しの熱が、揺れのたびに位置を変えて、わたしの肩のこわばりを一枚ずつ剥がしていった。
こんなふうに、誰かの腕に身を預けるのはいつ以来だろう。瞼の裏へ、遠い午後の光がするりと差し込む。
◇◇◇
前世、茉凜に膝枕をしてもらっていた、あの時間が思い起こされる。あの頃のわたしは、第一次解呪に失敗して美鶴としての肉体を失い、結果として弟に憑いてしまった、輪郭のあいまいな存在だった。解呪という言葉だけを握りしめた、亡霊みたいなものだった。
「弓鶴くん、よく眠れた?」
優しい声に、薄く開いたまぶたの先に茉凜の顔が映る。笑みの形だけが柔らかく、逆光に透けた髪から甘い匂いが落ちてくる。吐息がかすかに頬へ触れた瞬間、息が一拍だけ詰まった。
照れを名指しする前に、耳たぶが熱くなっていくのがわかった。動きたくない。そう思うほど、太腿のやわらかさが世界の全てだった。
膝枕なんて、男の子が抱く淡い願望だろうに、と一瞬だけ思った。けれど、わたしはもっと切実な場所で救われていた。茉凜の膝に頭を預けているあいだだけ、水底で固まっていた呼吸がほどけ、肺の奥まで空気が届く。
その頃の彼女は、弓鶴の中にわたしがいることなど知る由もなかった。それでも、言葉にしなくても伝わってしまう体温が、わたしの存在を繋ぎ止めてくれていた。
――生きていたい。消えたくない。もっと、茉凜と一緒の時間を過ごしたい。
罪深いわたしにとって、許されざる願いだと知りつつも。
◇◇◇
スレイドの揺れが、現実へ戻ってくる。ヴィルの腕はまだ腰を支えていて、風の冷たさだけが頬を撫でていった。
今のわたしも、どこかで同じ熱を探しているのかもしれない。
この世界での父を失い、母は行方知れず。行き先もわからぬまま、剣の中に転生させられてしまった茉凜と歩いてきた。そんな旅路の途中でヴィルの腕に支えられると、張りつめていた背中の筋が、音もなくほどけていく。
――これってつまり……お父さんみたいな感覚なのかな……?
けれどヴィルのそばは、熱く押しつけてくるのではなく、ただ冷えない場所を作ってくれる。風は冷たいのに、身体の芯だけが不思議と冷えなかった。
◇◇◇
やがて、分厚い門をくぐり抜けると、夕暮れのエレダンの街が広がっていた。
壁は煤け、角は欠け、魔獣狩りの最前線らしい荒さが残っている。それでも今日は、門の内側に人が集まり、無事に届いた物資を迎えるために手を振っていた。
荷の中には、遠く離れた家族からの贈り物や言葉も混じっている。その定期便は、交易の一環であると同時に、街の暮らしをつなぐ細い橋だった。布袋の結び目がほどけかけ、受け取った指が慌てて結び直す。
人々の安堵が湯気のように立ち上り、肌を撫でた。歓迎の声に包まれながら、わたしたちはその熱気を抜け、急ぎ足でハンターギルドへ向かう。無事の報告を先に通さなければ、やっと戻ってきた実感が落ち着かない。
ギルドの扉を開けると、インクと古い紙の匂いがした。外の冷えを含んだ外套が、肩でかすかに鳴る。床板は乾いていて、靴底の音がいつもより硬く返った。
カウンターの奥で待っていたのはベルデンさんだった。わたしたちの姿を認め、眼鏡の奥で目尻がわずかにゆるむ。
「第二部隊の皆さん、護衛任務の遂行ご苦労さまでした。第一部隊から報告がありましたが、大変だったそうですね。全員無事での帰還、何よりです」
わたしは一歩進んで、ベルデンさんへ向き直る。唇が乾きかけて、舌先でそっと湿りを探した。
「はい。大切な荷は無事に守り抜けました。合流地点に規格外の大物が潜んでいたのは想定外でしたが、第一部隊がルート周辺の広域掃討と監視を徹底してくれたのが功を奏しました。ベルデンさんの采配あってこそです」
「それは大げさというものです。偶々ですよ。偶々」
「そんなことはありません。あれほどの魔獣なら、漏れた魔素に引き寄せられて周辺の魔獣が押し寄せます。第一部隊が網を張ってくれていたからこそ、任務を果たせたのです」
「さすがはミツルさんです。状況の分析が的確ですね」
インクの匂いが、ふっと濃くなった気がした。背後の空気が一拍だけ硬くなる。
カイルが腕を組み直し、マティウスの笑みがほんの一瞬だけ止まった。けれど誰も口にはせず、すぐに何事もなかったみたいに視線を戻していく。
「とんでもないです。むしろ、そこまで織り込んで動かれていたベルデンさんに頭が下がります。そして、隊商を守り抜けたのも第二部隊のみんなの協力があったからです。なにせ、わたしは後ろで見守っていただけですから」
言い終えるより早く、マティウスが笑ってわたしの肩を小突いた。
「おいおい、ミツル。その言い方はないんじゃないか?」
カイルも腕を組み、誇らしげに鼻を鳴らす。
「そうだ。虚偽報告も甚だしいぞ。お前とヴィルさんがいなかったら、どうなっていたか。あんなデカブツ、俺たちが寄ってたかったって歯がたちゃしなかったぜ」
エリスがこちらへ半歩寄って、茶化すように覗き込んでくる。
「そうそう。あなたのおかげで、ヴィルだってぴんぴんしてるんだしね」
「けど……」
からかわれて視線を落とす。頬の内側がじわりと熱い。
――わたしが独断専行さえしなければ、皆で協力して、もっと滞りなく。ヴィルだって、あんな危険な思いをせずに……。
床板の節目を見つめていると、フィルが手を叩いて場をまとめた。乾いた音が、散りかけた空気をひとつに寄せる。
「みんな、もうやめてやめて。ミツルが困ってるじゃないか。それよりも、ベルデンさん、これを見てください」
彼が大きな袋包みをカウンターの上にそっと置く。どすん、と重い音が、仕事の確かさを告げた。
「どうぞ、お確かめください」
包みを受け取ったベルデンさんが、慎重に紐を解く。
「今回得られた成果ですね。かなりの大きさだ。楽しみです」
布がめくられ、透明度の高い、しかしその奥に血のような輝きを秘めた魔石が現れた。
磨き抜かれた宝石のような光沢に、室内の空気が一段だけ硬くなる。あの巨大な魔獣――オブシディアン・アラクニドの核から採取された魔石だ。
目を細めたベルデンさんが、感嘆の息をこぼす。
「これはこれは……本当に見事なものですね。サイズといい純度といい申し分ありません。私の経験から言っても、なかなかお目にかかれるものではない。国家鑑定員の品質検査の結果次第では、もしかすると国宝級に匹敵するほどの値がつくかもしれませんよ」
その言葉が落ちた瞬間、喜びの熱に混じって、別の硬さが一瞬だけ走った。値段だけではない。扱い方まで変わってしまう重さだ。
エレダンには、国の認定を受けた鑑定員が常駐している。品質の高い魔石の価値は桁が違う。真贋を誤れば、街がひとつ傾きかねない。だから、まずギルドが預かる。鑑定員が封をし、国へ回すかどうかを決める。買い上げが確定すれば、代金はギルドを通して支払われる。掌に残る革袋の重みとは別の、もう一段深い重みがそこにある。
カイルが勢いよく拳を握り、短く口笛を吹く。
「おおっ、やったぜ!!」
弾んだ声に、わたしは肩をすくめた。驚きのせいで、指先が一瞬だけ固くなる。
ベルデンさんが真摯な口調で尋ねる。
「この魔石、わたくしどもでお買い上げしてもよろしいですか?」
買い上げ、と言ってもギルドは窓口だ。国庫へ回すための手続きとして受け渡す。
「もちろんです」
「では、代金は評価が決まり次第、お支払いいたします。とりあえず、今回の契約の残り分をお納めください」
革袋の重みをそれぞれ掌に受ける。
その後、ギルドを後にして、静かな酒席を設けることになった。今日は、成功を祝う小さなひととき――それだけで十分だった。
◇◇◇
酒場の店先で別れの挨拶を交わす。カイルが手を大きく振った。
「じゃあな、ミツル。また組もうぜ!」
ふらつく足取りを仲間たちが支え、笑い声が石畳に流れていく。わたしはその背を見送り、夜気に白い息を落とした。
そこへエリスが並び、わたしの手をそっと握る。掌にしっとりした温もりが広がり、指の力が勝手に抜けた。
「ミツルちゃん、今度休みの時に一緒に遊ぼうよ。ね?」
不意の誘いに言葉が詰まり、視線の置き場を失う。
「えっ!?」
酒場のざわめきが一瞬遠のき、耳の奥で小さく警告音が鳴った。
《《ブーッ!》》
苦笑いをこぼしつつ、わたしは頷く。
「あ、うん……そうだね。エリスにはいろいろ教えてもらいたいこともあるし」
「よかった。楽しみにしているわ。じゃあね」
手を振るエリスが人波の中へ消える。わたしはしばらくその姿を見送って、ぽつんと立ち尽くした。口の奥で、知らなかった芽が小さくほどけるみたいに動いた。
《《みぃ・つぅ・るぅ……》》
茉凜の警戒心は相変わらず鋭い。けれど、わたしにとってエリスとの関係に特別な色はない。彼女もきっと、わたしを妹のように思っているだけなのだ――そう自分に言い聞かせると、脈拍はゆっくり落ち着いていった。
その時、背後から低い含み笑いが聞こえた。
「ふふっ」
振り向くと、ヴィルが口元をゆるめていた。目にうるみが差し、どこか楽しげだ。
「なによ。なにかおかしいの?」
彼はまっすぐにわたしを見る。
「いや、今回の遠征は得るものが大きかった。それがなんだか嬉しくてな」
「それって、どういう意味?」
問い返すわたしへ、ヴィルは一拍おいて真剣な眼差しを向けた。
「前にも言ったと思うが、最初に会ったときのお前は、なんていうか……鋭すぎて脆い刃みたいで、いつか折れるんじゃないかって、気になったものでな」
心の柔らかい場所を見透かされたみたいで、唇の内側が乾く。あの頃のわたしは、本当にひとりで、そうでもしなければ自分を保てなかった。
彼は言葉を継いだ。
「だが、いまは違うぞ。カイルやエリスたち、仲間たちとも打ち解けて、よく笑うようになった。俺としては一安心というところだ」
――なんか、まるで親目線ね……。
わたしは照れ隠しに視線をそらし、夜風に熱を逃がす。
「……そういえば思ったんだけど、いつも離れたところでお酒を飲んでたのは、わたしのことを観察するためだったのかしら?」
ヴィルは屈託なく笑った。
「それもあるにはあるが、レルゲンが持ち込んだ秘蔵の酒が、格別に美味かったからだな。あいつとは気が合う。いい飲み友達になれそうだ」
彼が差し出した大きな手が、ぽんとわたしの頭に乗る。
置かれた掌の温度が、ふいに「居場所」を作ってしまう。そこに甘えてしまいそうで、指先に力が入った。その力が、すぐ胃の冷えに引きずられる。あの瞬間にヴィルが潜り込んだ影が、まだ目に残っている。
子ども扱いが嫌なわけじゃない。ただ、それだけで終わってしまうのが怖い。だから、礼と詫びの形を選びたくなる。言葉で返すより、席を用意して、同じ高さに座りたい。
懐の革袋が、歩くたびに鈍く鳴った。さっき受け取った重みが、まだ掌の形のまま残っている。
――決めた。指先に残る重みを、今度は返しにいこう。茉凜も喜ぶだろうし……。
風が凪ぎ、街灯の炎が丸く揺れた。同じ明かりの下で並ぶ歩幅を、わたしはそっと確かめた。




