夜の戦術講義 講師ヴィル・ブルフォード
焚き火の芯がくぐもってはぜ、油の甘い匂いが夜気にほどけていく。火影に縁取られた頬の陰影が深まり、息は白く細く漂った。
輪の誰かが杯を置く音がして、木の器が小さく震えた。その揺れが止まる前に、ヴィルが視線を火へ落とす。燃えるものを見つめる横顔は、戦場の話をする時だけ、少しだけ遠くなる。
「言うまでもなく、当時の我々にできることといえば遅滞戦闘しかなかった、無闇に挑み続けても犠牲は増えるばかりだからな。仕掛けては引き、仕掛けては引き、弓や魔術、投げ槍、さらには落石、崩落、放火といったあらゆる手段を試し、その効果と反応を探っていった」
誰も相槌を打てず、薪の爆ぜる音だけが急に近くなった。火粉がひとつ跳ね、闇の奥へ吸い込まれていくまでの間が、ひどく長い。
低い声が、濃霧の奥から少しずつ形を持ち、腹の底へ沈んでいく。戦術の列挙ではなく、手探りの夜を何度も越えてきた手の温度が、ことばの端々に残っていた。
カイルが口を結んだまま、焚き火の向こうを見ている。咀嚼を止めたままの横顔に、光だけが揺れていた。
「なるほど、至極当然の手順だの。勇猛果敢なだけでは戦には勝てぬからな」
レルゲンがヒゲを撫でる。エリスが膝の布を握り直し、指先のこすれる微かな音が火の拍に重なった。布の繊維が擦れる音は小さいのに、耳の奥へ入り込んで離れない。
「まぁな。どんなに強固な守りを持つ敵であろうと、必ずどこかに弱みや付け入る隙があるものだ。それを探り当てることをリーダーは最優先として命じた」
言いながら、ヴィルの声色にほのかな誇りが差す。仲間の顔と、命を預けた背中を思い返す時の、目の奥の光だ。
その「リーダー」という語が、火の匂いとは別の重さを連れてきた。
「大した御仁だ、そのリーダーとやら。普通なら恐れをなして逃げ出すか、あるいは『国のため名誉のため』などと口上を垂れて、死守ないし突撃を命じるところじゃろうて」
レルゲンが口角を上げる。焚き火の色が銀の髭先にちらついた。
「さすがは古強者のレルゲンだ」
ヴィルは笑いながらも、どこか慎重だった。重いものをそのまま焚き火へ落とさないように、笑みの端だけを軽くしている。
「何を言っておるか。その昔の軍医として、現実というものを嫌と言うほどこの目に焼き付けてきたまでのこと」
ヴィルとレルゲンの視線が合う。なぜ二人が意気投合したのか理解できる気がした。酒好きという共通項以上の、戦場で辛酸を嘗めた者だけにわかる痛みなのだろうか。
焚き火が一度沈み、次にふっと息を吹き返す。その明滅に合わせて、輪の空気も呼吸の速さを変える。
「話を戻す。まぁ、そうした数え切れない試行錯誤の末ついに俺たちはある弱点に気がついた」
薪がぱち、と鳴り、外套の擦れの奥で、過去の砂塵が瞳にひとつ戻って消えた。熱ではなく乾いた粉が、まぶたの裏にだけ積もる。
「ヴィル、それってもしかして……」
胃の奥がひやりと締まり、杯の縁が指腹に冷たく残った。脳裏に戦場の影と黒紫の甲殻の手触りが蘇る。握り直す力が遅れて追いつき、指先だけが白くなる。
「そうだ。オブシディアン・アラクニドの唯一の弱点。それは胴体の下面。すなわち腹部だ」
言葉は淡々として、なお重い。夜風が火の周りをひと巡りし、肩先の熱を奪っていく。奪われたはずの熱が、返ってくるみたいに背筋を細く撫でた。
「そうか。それで、わたしに地棘突を打たせたのね?」
頷く音の気配とともに火粉がひとつ浮いて、闇に消えた。落ちた赤い点だけが、しばらく目の奥に残る。
「そういうことだ。特に上腹部にあたるわずかな部分は、完全な無防備になる。この戦術は、地属性の魔導兵との連携によって見出されたものだ。俺はその経験を元に、ミツルに指示を出したというわけだ」
抑えた声音の下で、積み重ねた判断と検証の層がかすかに鳴る。手の甲に当たる夜の冷たさが、現実へ引き戻した。冷えは鋭いのに、ありがたい。夢へ引きずられそうな足首を、地面に縛り直してくれる。
「ちゃんとした裏付けがあったんだね……」
自分の声が、小さく震えたあと静かに落ちる。震えは胸ではなく、口の奥の乾きに似ていた。
「すまんな。あの時は、詳しく説明する暇はなかった」
ヴィルは火を見たまま言う。目を逸らしているようで、逃げているわけでもない。その距離の取り方が、彼らしい。
「ううん、それは仕方ないわ」
「ま、敵が強ければ強いほど、絶望的な状況であればあるほど、焦りは禁物ということだ。弱点を探り出し、機を見て突く。それが戦の本質というものだろう」
焚き火が呼吸するたび、言葉の芯が澄んでいく。理は、戦場でこそ武器になる。その温度が、火の揺れと一緒に伝わってくる。
「じゃがな……そなたが負った怪我を見るに、相手の懐に飛び込んだということであろう? いささか危険が過ぎはしないか?」
レルゲンの声がわずかに低く沈む。皆の視線が火の中心に集まり、外周の闇が濃くなる。闇の方が増えると、焚き火の輪は逆に狭く、親密になる。
「まぁな。だが、勝てる可能性と危険性を秤にかけて、後者を冒すだけの価値があるなら、そうするってだけの話だ。無論、無駄死には避けるべきだが、守りたいものがある限りは戦わなければならない場合もある。そして、それができるような力を持つ者が先頭に立てばいい。……当時の“頑固一徹”のリーダーや、俺のような“馬鹿”がな」
自嘲まじりの笑みが、炎の明滅にやわらいだ光を落とす。外套の合わせ目を押さえていた指がいったん緩み、次の瞬間にはまた自分を縛り直していた。ほどけることを許しそうになると、怖さが先に立つ。
「でも、相手は這いつくばっているわけでしょ? どうやって弱点を突けばいいっていうの?」
エリスの声に、わたしは無意識に外套を寄せる。指先の冷えが現実感を澄ませた。彼女の声は明るいのに、問いの先にある怖さを、ちゃんと見ている声だった。
「そこはだな、一瞬でいいからあの巨体の姿勢を崩して上体を反り返らせればいい。ミツルにはその仕事をしてもらった。例の地棘突でな」
火の光が瞳に射し、視界が澄む。澄んだぶんだけ、あの甲殻の黒紫も、痛いほど鮮明に戻ってくる。
「ちょっと待って、ヴィル」
呼吸を整え、理を並べる間をひとつ置く。舌が一度だけ乾いた音を立てた。
「たしかに地棘突は、普通の地の魔術とは違う。尖った形状に加えて、組成そのものを弄っているから、瞬間的な硬度は金属にも匹敵する。突き上げる速度と力についても、形成速度的についても、『槍』そのものといえるわ」
口に出してから、言い回しの硬さに自分で気づく。けれど今欲しいのは、飾りのない精度だ。焚き火の輪の中で、理屈が冷たい刃にならないように、声を細く整える。
火を映す彼の横顔が、わずかにほころぶ。
「だろうな。これまでの経験で、なんとなく理屈は理解していた。だから効果があると踏んだ。単に地面を揺らすだの崩す程度じゃ、まるで意味がないからな」
夜気が頬に触れる。胸郭が小さく上下し、言葉はさらに細く、しかし確かに出た。わたしの理屈を、彼が「わかる」と受け止めたことが、なぜか今いちばん怖い。
「――だとしても。あなた、それがどんなに危険なことか、わかってるの? たとえうまく下に潜り込んで剣を突き立てたって、それだけで倒せるわけないでしょ。たとえ倒せたとして……あの巨体が覆いかぶさってきたら、どうするの……?」
自分でも気づかぬうちに、指が盃の縁をなぞっていた。金属の冷えが、怖れの形を与える。胃の奥の冷たさが、そのまま指先まで流れてきたみたいだった。
「そいつはやばいだろうな。まあ、実際やばかったわけだが」
さらりと落ちる声。焚き火が軽く鳴って、輪の緊張がほどける。ほどけたぶんだけ、笑いの余地がひとつ生まれる。それでも、わたしの中の冷えは残ったままだ。
「そんな……ヴィル。あなた、なんて無茶をしたの?」
責める言葉の形をしているのに、声の底にあるのは別のものだと自分でわかる。言い切れないまま、息だけが白くなる。
「まあ、落ち着いて聞け。問題はその一瞬の隙をどう生かすかだ。ところで、お前は『魔獣の核』というものを知っているか?」
煤を含んだ温い空気を深く吸い、肺の奥がゆっくりひらく。温さが喉を通ると、言えなさの棘が少しだけ丸くなる。
「うん。そこを破壊できれば、魔石内部の力の均衡が崩れて活動を停止するってことくらいは……知ってる。魔獣狩りなら常識でしょう?」
言いながら、口の奥で小さな迷いが揺れる。知っているはずの言葉が、いまだけ少し遠い。
「そうだ。ようはそこを迅速に破壊すれば片がつくということだ。違うか?」
言葉の芯が、火の芯と重なる。芯があるからこそ、危うさも見える。
「だけど……核がどこにあるかなんてわからないでしょう?」
吐く息が白くほどけ、闇に吸い込まれていく。闇の方へ言葉を捨てるみたいに、声が小さくなった。
「それがわかるんだよ」
そこで皆が一斉にどよめいた。誰もが信じられないといった顔だ。火のそばの空気が一度だけ跳ね、熱が頬を撫でる。
「教えて? どうやって?」
エリスの瞳が火を映してきらりとする。好奇心と怖さが、同じところで揺れている。
「さっき説明した戦術を使って、リーダーと俺とで何度も打ち込みを繰り返した結果探り出した。それだけだ」
静かな自信。長い時間に磨かれた石の手触りのように、滑らかで硬い。言い切りの後に、余計な飾りが残らないのが、逆に重い。
「えーっ!?」
驚きが輪を駆け抜け、笑いと息の色が交じる。笑い声は軽いのに、その下に「もし失敗していたら」という影がちゃんとある。
「今回のオブシディアン・アラクニドの場合、その場所とは頭と胴体の隙間、首の付け根の部分だ。地面から槍が突き出したところで、奴は姿勢を乱し上体を持ち上げた。その隙に懐に入った俺は、煙幕で視覚を奪うと同時に下に潜り込み、斬撃を繰り出して、とどめに核に向けて双剣を突き入れた。簡潔に言えば、以上だ」
焚き火の明滅が一段落ち、音が戻る。遠くで馬具がかすかに鳴り、火の匂いに革の匂いが重なった。革の脂の気配が混じると、戦場がぐっと近づく。
「簡潔って……よく言うわ。それだけのことを、あの一瞬で? 信じられない……」
背筋の芯がひとつ鳴り、熱が静かに広がる。尊敬という名の重みが、ことばにならず落ちていった。胸ではなく、掌の内側がじんと熱を帯びる。
「ほっほっほっ。さすがは雷光の二つ名で呼ばれた男よ。お主以外にそんな芸当ができる者などおらぬだろう」
レルゲンの笑いが柔らかく輪を弾ませる。一方で若い隊員たちの頬には、恐れと昂ぶりが交互に走っていた。火の光が揺れるたび、その表情も揺れる。
「無茶と思えるかもしれんが、これは『できる』と計算した上での判断だ。ミツルという卓越した魔術師の存在。無詠唱かつ無遅延の術行使がなければ、到底成し遂げられなかっただろうな。本当に助かった。感謝しているぞ」
言葉が静まったあと、火の温度だけが残る。理解が、ひとつずつ輪の中に沈殿していく。
「ど、どうも……こちらこそ、助かったわ。その、いろいろと、ごめんなさい……」
やっとのことで溢れだした不器用な感謝と謝罪。こんな形でしか言えなくて、なんて情けない。杯の縁を離せずにいる指が、わずかに震えた。
けれどヴィルはかすかに口元を綻ばせるだけで、話を続けた。笑みは慰めではなく、ただの合図だ。ここから先は、個人の感情ではなく、積み上げてきたものの話だと。
「俺たち銀翼騎士団は、討伐した魔獣が崩壊を始める前に検分し、その資料をまとめて分析した。その結果、模倣する形態ごとに核の位置がだいたい決まっていることが判明した。その情報を、国家騎士団をはじめとする将兵全員で共有していったのさ」
ヴィルは火の前の地面を、指先で軽くなぞる。見えない図を描くみたいに、隙間と付け根の位置を確かめる仕草だった。熱で乾いた土が、指の腹に粉を残す。灰が風に煽られ、ひとつぶだけ火から離れて舞った。
前世でもわたしは軍事のことは門外漢だ。それでも、討伐のたびに検分して書き残し、比べて、次へ渡す。勝ち方を積み上げる仕組みなのだとわかった。
「そうでもしなければ、あの長い戦は勝ち抜けなかった。今回の事例にしても同じだ。無謀でも無茶でもなく、冷静に探って、勝機があるなら危険を引き受ける。……それを教えてくれたのが、俺が敬愛してやまない、銀翼騎士団のリーダーだったんだ」
にじむ信念。守るべきものの形が、火の明かりと同じ強さでここにある、とわかる。火の揺れが映すのは顔ではなく、背中の方だと思った。
わたしは黙って聞きながら、彼を見る目の焦点が少し変わっていくのを感じた。力だけの人ではない。戦う理と、諦めない心。その両方を、彼はずっと背に負ってきたのだ。
頭の片隅で、問いがひとつ芽を出す。彼の強さは、どこから来るのか。答えに触れそうで、指先がわずかに固くなる。固くなった指をほどく代わりに、わたしは息を一度だけ深く吐いた。
雷光のヴィル・ブルフォードは、閃光のユベル・グロンダイルに出会った。剣を交わし、肩を並べ、言葉より先に『信頼』が渡されていく。そんな場面を、わたしは何度も聞いてきた気がする。
田舎村を出て強者を求め彷徨った彼が、力だけでは越えられない局面にぶつかった時、父がそこにいた。師弟という言葉では足りない距離で、並んで立っていた。
だから――わかる。言葉にしないまま、肩の線だけで結ばれていくものがある。
ヴィルが薪を押し込み、火の色が一瞬だけ強くなる。その横顔に、父の背の残像が重なる。にこやかに、何も言わず、ただ見守る顔。誇らしげなまなざしが、炎の橙にまぎれていった。
胸に温もりが満ち、呼吸が静かに整っていく。夜は深く、炎は低く。わたしたちは同じ明滅を見つめていた。
《《いい話だったね、美鶴》》
周りの目もあり、わたしは頷くだけで返した。
《《ヴィルにとってのユベルさんってさ、素敵な相棒だったんだろうね。魂同士が呼び合うような、そんな感じ。なんだか、わたしたちと似てる? なんちゃって……》》
「ほんとね……」
小さな呟きは冷たい夜の気配に溶けていった。




