変わるもの、変わらぬもの
その夜は、勝利と無事の再会を祝うための、手のひらサイズの宴だった。荒野には獣の気配がまだ残り、風は乾いて冷たい。焚き火の周りに敷いた外套の端を踏み、皆で円を作る。
酒は各自一杯まで――そう決められ、ゴードンが密かに運んでいたワインの小樽の栓が、控えめな音を立てて抜けた。
樽口から甘い香りがふわりと立ち、冷えた夜気の角をやわらげていく。
先行掃討に出ていた第一部隊が順に戻るたび、輪の中の声がひと段、明るくなる。笑いが湯気になって焚き火の上を流れ、こわばった肩の線がほどけた。
小樽の底が早々に覗き、皆の杯に配られた量の少なさが、逆に今夜の節度を守っていた。わたしの呼吸も、ようやく深く入ってくる。
杯の縁を唇に当てる。葡萄の芯がゆっくり開く香りが、火に温められた革と金具の匂いに混じって漂い、舌に落ちた液はすべらかで、喉を過ぎたあとに小さな熱だけを残していった。粗い酒に慣れた舌ほど、違いはくっきり伝わるのだと思う。
輪から少し離れ、馬車の影に寄った。
火の届かない陰はひんやりとして、頭の奥のざわめきが静かに整っていく。――本当は、茉凜と二人きりで、ほんの少し話したかったのだと思う。
《《このワイン、すごくいい香りだね……》》
器の底がかすかに揺れて、果皮の渋みが夜の匂いに溶けた。
「気に入ってもらえてよかった。でも……考えてみると、わたしは換算上、一応二十歳過ぎてるけど、茉凜はまだ十八くらいじゃなかったっけ?」
《《それを言ったら、飲んでいるあなたの体は十二歳くらいでしょ?》》
木杯の縁が指腹に冷たく、火の爆ぜる音が一拍だけ遠のく。
「うるさいわね。だいたい、飲め飲めうるさいのはあなたの方じゃない」
《《うふへへ……でも、なんだかんだで、美鶴も好きなんでしょ?》》
「わたしの場合、味というよりは香りね。それだけでも不思議と満たされるし。あなたみたいに質より量みたいなのと違うんだから」
《《あ、大人ぶってる》》
口の奥が薄く渇いて、笑いを押し戻すのに少しだけ力が要る。
「うるさいな。身体がどうであれ、わたしは大人なの。お・と・な」
《《開き直った。ま、この世界じゃとやかく言われることはないけどね》》
「前世の倫理観や法律に当てはめれば、たしかに問題かもしれないわね。けど、この世界の事情はまた違うんだから。周りを見渡しても、子どもだって水代わりに薄めて飲んでるのが普通だし。それに、わたしは大人として、節度をもって味わっているつもりよ」
焚き火の光が遠くで揺れ、陰の中の杯だけが静かに冷えていく。
《《ま、エレダンじゃ水は貴重だもんねー。ならわたしも気にしないでおく。けどさ……》》
そこで言葉が途切れ、杯の中の影が揺れた瞬間、息が小さく鳴った。
《《……美鶴。さっきのこと》》
名を呼ばれただけで、指が杯を少し強く掴んでしまう。木肌がきしむほどではないのに、手の内が痛い。
《《ヴィルに、ちゃんと……言える?》》
答えは喉まで来て、そこで止まった。焚き火の輪のほうから笑いが一つ弾け、乾いた夜の空へ消えていく。こちらの影だけが、やけに静かだ。
わたしは杯を口元へ運び、香りだけをもう一度吸い込んだ。熱は小さく、逃げ場も小さい。
それから、しばらく沈黙だけが横たわった。
《《話は変わるけどさ、美鶴……》》
「どうしたの?」
《《考えてみたら、あなたはこれからどんどん変わっていくんだよね》》
「変わる? なにが?」
《《ほら、身体だってどんどん成長して、もっときれいになっていくんだろうなって……》》
「見た目とか別に……どうだっていいけど、早く大人になりたいとは思うよ。心と身体が釣り合わないのは、どうしたって辛いもの」
《《そっか。そりゃそうだよね。けど……わたしは変わらないんだ。体なんてないし、ずっと剣の中で、時がとまったまま……》》
「茉凜……」
指に当たる杯の縁が冷たく、胸の奥で固い音がひとつ鳴る。
《《ごめんね、美鶴。こんな愚痴、わたしらしくないよね……》》
「そんなことない……。茉凜、わたしの方こそごめんね。あなたこそ辛いって、わかってるのに。いつも頼ってばかりで、愚痴ばかりぶつけてさ……」
火の粉がひとつ落ちて消え、言葉に乗った震えが喉の奥で初めて形になる。
《《うーん、ぜーんぜんかまわないよ。どんどん愚痴ってくれたらいい。あなたに寄り添うこと、それがわたしの願いなんだから》》
火の反射が杯の底でまたたき、指先の白みが戻らず、舌裏がかすかにひりつく。
やさしさの形は、こんなふうに無音で沁みてくるのだと思う。
《《ほんとうはね、わたしだって……体を持って、あなたの隣に立ちたかった。あなたに触れたいし、いっぱいぎゅーってしてあげたいって思ってるから……》》
息を飲んだ拍に頬の内側が熱くなり、夜風がそこだけやわらかい。
《《でもね、こうして一緒にいられるだけでもわたしは嬉しいの。あなたと同じ景色を見て、風を感じて、同じ時間を過ごせることが、何より幸せだから……》》
馬具がかすかに鳴り、遠い笑い声に彼女の言葉が静かに沈む。
「わたしがどんなに変わったって、茉凜……あなたへのこの気持ちだけは、変わらないから。それだけは絶対よ……」
言いながら、わたしの胸の中心をそっと押さえる。進む時間と、取り残される時間――その狭間で、細い糸を結び直すみたいに。
やがてわたしが歳を重ねても、茉凜の時間はあの瞬間のまま澄んでいる。置いていくのではなく、離れないために、何を差し出せるのか。考えるほど、胸の奥で小さな痛みが脈打った。
「おーい、ミツル。そんなとこで何してんだ? 飯ができたぞ!」
カイルの陽気な声が飛ぶ。
返事の前に指が外套の端をつまみ、夜風が喉をひやりと撫でる。
《《ほら、美鶴。いつまでもしょげてないで、元気出して。みんなのところに行こうよ?》》
「うん……」
杯を置き、外套の裾を払って立ち上がる。夜風が頬を撫で、冷たさの向こうで血が通っていく。
焚き火の輪が近づく。
薪の脂が甘く焦げ、火の粉が小さく跳ねた。
炎が仲間たちの横顔を一人ずつ浮かび上がらせ、笑い声が空の冷たさをやわらげた。
◇◇◇
簡素な夕食を済ませ、わたしたちは焚き火の暖を囲んで腰を下ろす。ぱちぱちと爆ぜる音が一定の拍を刻み、闇の内側に安心の明滅を作る。火の色に照らされると、言葉は少しだけやわらかくなって、皆の肩の高さがそろって見えた。
そんな中で、わたしとヴィルは、ゴードンや護衛の傭兵たちからしつこく質問を浴びていた。問いはひとつ――どうやって、あの巨大なオブシディアン・アラクニドを倒したのか。
わたしは隣のヴィルへ視線を送る。火影に切り取られた横顔はどこか気だるげで、余計な言葉を避けるように短く答えては、話をやわらかく流している。痛みをごまかす笑いだけが、時々、唇の端で揺れた。
実のところ、支援に回っていただけのわたしにも、あの瞬間、何がどう起きたのかは掴み切れていない。
恐ろしいほど速い踏み込み。巨大な躯がひと呼吸で伏せられた衝撃。輪の中の誰もが声を失い、焚き火の音だけが戻ってきた刹那。
けれど、彼に問うことはできなかった。包帯の白が滲むほどの傷だらけの身体と、力を飾らない気配が、言葉より先に「やめてくれ」と告げていたから。
夜が深くなる。輪は小さくまとまり、火の柱が低くなった。
灰の匂いが低く残り、遠い風の帯が火影を撫でていった。
やがて、ヴィルはふいに口を開いた。低い声の底に、過去の砂塵がまだ残っている。
「……オブシディアン・アラクニド。『超級』と位置づけられる魔獣の中にあって、特に恐れられた存在だ」
火が彼の頬の古傷を淡く拾い、その線に沿って影が落ちた。
「最初に目撃されたのは、二十数年前にリーディス領内で起きた『西部戦線』でのことだ」
輪の空気が、じわりと締まる。薪が沈み、炭が崩れる音が一つだけ大きい。
「サソリを模倣したような外見が特徴だ。体長はゆうに二十メートルを超え、三十メートル近い個体も確認されている」
「……ヴィルさん、それってマジなんですか?」
カイルの声が裏返りかけ、焚き火の明かりが一瞬だけ揺れた。
「ああ、本当だとも」
短い頷きとともに、空気が一段、重く沈む。エリスが肩をすくめるように膝を寄せ、布の擦れる音が小さく鳴った。
「背は黒曜石めいた強固な外殻に覆われていてな、厄介なことに鋼の塊並みに硬い。爪も尾も刃物のように鋭く、たいていの武器は弾かれる。鈍重ではあるが力は抜群だ」
薪の脂が弾け、火の粉が一つ、闇へ飛んだ。フィルの喉が鳴ったのが聞こえ、レルゲンが無意識に指先を握りしめている。
「俺はこの目で見てきた。大地を埋め尽くすほどの群れが、町をひとつずつ呑み込んでいく一部始終をな……」
輪の誰かが、言葉もなく杯を置いた。木が石に触れる、乾いた小さな音。
「今でも思い出す。闇夜に赤黒い目が揺れて、巨大な尾を引きずりながら押し寄せてくるんだ。『死の行軍』って言葉しか浮かばなかった」
火の粉が風に散り、背筋に細い冷えが走る。見えない足音が砂を擦る錯覚――視界の端で黒紫の影が膨らみ、足もとをさらう感覚が、昔の熱と重なった。
「あんな大きさのが群れで? そんなの、いったいどうやって倒したらいいっていうのよ?」
エリスは両肩を抱き、膝を寄せる。指先が小さく震え、こすれた布の音が火の音に紛れた。
「言うまでもない。最初はもう完全にお手上げさ」
ヴィルの声が地面の方へ落ちていく。火の明かりの下で、影だけが濃くなる。
「押し寄せてくる群れを見た時、感じたのは絶望しかなかった。地平線まで続く暗い帯を前にして、正直どんなに足掻いたところで敵わないと思った」
言葉の重みが、輪の中央に置かれた石のように黙って座る。喉の奥が冷たく、指先の血がゆっくり引いていく。
「そんな魔獣がいるなんて、知らなかったわ……」
エリスの声はかすれて、火の明るさに追いつけない。わたしも同じ場所で立ち止まっていると感じた。
ヴィルは炎を見つめ続ける。瞳の底に、過去の影と、まだ癒えきらない痛みが交互に映った。
「それでもな、俺たちは諦めるわけにはいかなかったんだ」
声が少しだけ強くなり、焚き火の輪に戻ってきた熱が、言葉の輪郭を固める。
「民衆のために戦う。何が何でも守り抜く。俺たち『銀翼騎士団』は、それが仕事だ……。何より『リーダー』がそれを許さなかった」
ヴィルは薪の端を火の奥へ押し込み、炭が赤く息を吐いた。
こちらを見た彼の笑みには、懐かしさと誇りが薄く滲んでいる。意図的にぼかした理由は理解できる。そして誰を指すのかも、わたしにはすぐにわかった。胸の内でだけ名を呼ぶ――父、ユベル・グロンダイル。
「俺たちはありとあらゆる手段で時間を稼ぎ、結果として民衆を避難させることに成功した。当然のことながら、部隊の被害は甚大ではあったがな……」
言葉の端に、落ちきらない哀しみが引っかかっている。誰かの名を呼ぶ代わりに、火が小さく揺れた。
小さく息を整えてから、彼は続けた。
「あの時のリーダーの言葉は、今も忘れられん――『守るべきものが目の前にあるなら躊躇うな。最後の最後まで諦めず、どんな無様を晒そうとも守り抜け』とな。……まったく、無茶を言う。だが、それが今の俺を支えている」
みぞおちの奥がきゅっと狭まり、指先が膝の布をつまんだまま戻らない。
父がその日何を見て、どれほどの重さを引き受けたのか。まだ全部はわからない。けれど、ヴィルの瞳に宿った誇りと哀しみが、答えの端をそっとこちらへ向けてくれた気がした。




