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英雄の余韻

 風が抜け、煙幕がほどけていく。白んだ空気の層が薄皮のように退き、景色に色温度が戻っていった。


 地に伏したオブシディアン・アラクニドの巨体が視界の中心に横たわる。黒紫の甲殻はまだ鈍く光り、尾の刃は冷ややかな反射を残す。動きは絶えたのに、圧だけが空気に残滓のように漂い、うなじの産毛がざわりと逆立った。


 側眼は赤い光を失い、虚ろな暗の窪みだけが残っていた。音がない。乾いた殻の匂いだけが鼻腔に残る。


「動きが、止まった。……終わったの? これって、つまりヴィルが仕留めた……とどめを刺したということ?」


《《美鶴。まだ油断はできないよ》》


 魔獣から滲む魔素が完全に途切れるまでは、止まったと決めつけられない。息を吹き返すみたいに、もう一度動くこともある。


「そ、そうね。けど——」


 息が詰まり、足が先に動いた。口の中が乾く。名前を呼ぶ前に、冷たい風が頬を撫でていく。


「ヴィルは、彼は……」


 呼気が攫われても、口の中の渇きだけが引かない。


《《しっ。声は小さく、慎重にね》》


――どうなったの? 無事なの? もし……。


 死んでしまったら。


 考えたくもない言葉が、鼓膜の裏で不吉な音を立てる。足元から氷水がせり上がってくるような錯覚。膝の力が抜けかけ、わたしは自分の腕を強く抱いた。


 血液の温度が下がる。世界が、遠のく。


――わたし、また失うの? そんなの嫌だ。


 近づいた分だけ『さよなら』の影が濃くなる。そう思ってしまう癖が、骨の奥にこびりついている。息を吸っても、胸の奥まで届かない。


――やっぱり、わたしのせいなの?


 わたしの存在が、誰かの不幸の引金になる。それなら、幸せなんて望む資格はないのか。せっかくヴィルは……わたしのことを『相棒』と呼んでくれた。なのに……。


《《美鶴……震えてる》》


 思考は伝わらずとも、彼女は誰よりもわたしを知っている。五感を通してすべてお見通しだった。


《《悪い方に考えたらだめだよ。彼なら、きっと生きてる。信じてあげなきゃ。それが相棒ってもんでしょ?》》


「うん……」


 煙が晴れ、視界の奥――瓦礫の向こうに彼の輪郭が現れる。


「あ……」


 崩れた土煉瓦の間にかがみ、土と血に汚れた顔。露出した肌に擦過傷、革のない部分からは滲む赤。


――間違いない。彼だ。


 小さく呼べと言われたのに、息が先に外へ弾けた。


「ヴィルーっ!」


 足が止まらない。砂粒を弾く音だけが、先へ先へと走っていく。肩は微かに上下し、荒い呼吸が間近で揺れている。わたしを見上げた彼は、痛みを押しやるみたいに笑った。


「よう、ミツル。無事だったか……?」


 硝煙と鉄の匂いに混じり、掠れた低音が胸に沁みる。問いの形を借りた安堵が、やさしく響いた。


「何を言ってるの? わたしの心配なんかより、あなたの方が問題よ……」


 差し出した手が震える。彼は一拍ためらい、ゆっくりと握り返した。掌越しに熱が伝わってくる。


「なーに、大丈夫だ。俺からすりゃあ、これくらい何てことはない」


 笑った瞬間、唇の端の乾いた赤が割れ、彼は息を飲み込むみたいに肩を揺らした。


「こんなにぼろぼろになってて、言うこと……?」


「だが、約束通りちゃんと勝てただろうが。ん?」


「そうだけど……」


 強気の笑みの奥に、疲労の影。刃を振り切った後の沈黙が、瞳の底に溜まっている。わたしは黙って肩を支えた。問いは胸にしまい、礼だけを手の温度に託す。


「……あーっ……」


「ど、どうしたの?」


 言葉より先に息が笑う。


「いや、これだけの大仕事をしたら、そりゃあ酒が欲しくなるってものだろう?」


《《それ言う? ほんともう……》》


「まったく、ヴィルったら……」


 わたしも茉凜も、肺の底から息が抜ける。乾いた土と血の匂いに、遠くの風が混ざり、ほっとした温度が頬へ戻る。


 そこへ、砂を蹴る複数の足音が近づいた。カイルたちが駆け寄り、息を呑む気配が一斉に膨らむ。巨躯の亡骸は、山影のように地面へ長く影を引き、不気味な静けさで空気を抑え込む。


「おいおい……本当にこんなでかい魔獣がいたのかよ……」


 カイルの視線が彷徨い、エリスが言葉を失って頷く。


「なんて凄まじいんだ……。こんなサイズの魔獣なんて、目にするのは生まれて初めてだよ……」


 フィルの声に畏れと敬意が混ざる。レルゲンが甲殻へ手を置き、指先で硬さを確かめる。


「ふぅ……いかん、つい見惚れてしまうところであった。こんなものを前にしては、胃の腑が震えるのも仕方がない。まずは、儂の本分を全うせねばな」


 視線がようやくヴィルへ移る。歩み寄ったレルゲンが、目の端で傷を数えた。血と土の匂いが薄く残り、喉の奥がひりついて息が浅くなる。


「手ひどくやられたものだな、雷光の」


「この程度、俺にとってはかすり傷みたいなもんさ。それより、酒をくれないか?」


 乾いた笑いが混じり、舌に鉄の味がじわり戻ってくる。


「強がりはいかんぞ? ほれ、ミツルも心配しておるだろうが」


 布越しに寄る手の気配が、肩先をきゅっと固めた。


 肩鞄から取り出した小瓶が、薬草の複雑な匂いを立ち上らせる。琥珀色の液が布に染み、ひやりとした冷たさが皮膚へ滑った。


「ちぃとばかり染みるかもしれんが、我慢じゃぞ」


 布が擦れるかすかな音が、耳の奥をくすぐって落ち着かない。


 こめかみに当てられた布の下で赤みが引いていく。静かな手つき。痛みは、遅れてほどけた。


「傷は浅いようじゃな。よかったのう、ミツル」


 張りついていた肩の力が抜け、冷えた指がようやく動いた。


 わたしは、やっと息をつけた。

 

 回復術師は万能じゃない。生命の交感でできるのは、「ここが悪い」と当てる程度だ。脈と呼吸と皮膚の熱の揺れが、指先に答える。だから医術と薬学が必須で、いわばレルゲンは『従軍医』みたいなものだ。


 縫う、固定する、冷やす、煎じる。助けられるのは、崩れかけた身体を戻しきらずに支えるところまで。折れた骨は折れたまま、失った血は帰らない。


 それでも、布の冷たさが触れた瞬間、戦場の呼吸が一段戻る。レルゲンがいるだけで、足元が崩れにくい。


「レルゲン、彼のことは任せるわね。わたしはゴードンの様子を見に行ってくる」


 外套の端をつまみかけ、空を掴む。名残る指先の温度に後ろ髪を引かれつつ、わたしは一歩だけ離れた。


 振り返ろうとして、喉元が固まる。礼も謝罪も、形にならない。さっきの無茶と独断が、いま彼の傷として残っている――そう思っただけで、胃がきゅっと縮んだ。


 これは仕事だ、と自分に言い聞かせる。ゴードンと荷物の無事を確かめに行く――それが正しい。正しいのに、足取りだけが妙に急いでいく。


 指先の熱だけが、しばらく残った。


◇◇◇


 隊商主のゴードン・ハワネルは、口髭の下で営業の笑みを上手に作る人だ――それでも、今の笑顔は半分ほど本物に見えた。


「おーっ、誰かと思えばミツルではないか! きっと来てくれるものと信じておったぞ」


 荷の無事と、損失回避の計算が、その声音にさざ波のように混じる。


「久しぶりね。あなたも無事そうでなにより」


「お陰様でな。今回もまた君に救われた。感謝するぞ。それにしても、あんなデカブツを仕留めるとは、さすが黒髪のグロンダイルの名は伊達ではない」


「お世辞はいいから。それより、今回の食材も期待しているわよ」


 舌の上に思い浮かぶ脂の甘み。わたしの笑顔は、感謝と期待で少しだけ温度差がある。


「うむ、今回はかなり力を入れて揃えたからな、楽しみにしていてくれ。目玉は特別に仕入れたリーディス産の超級ランクの牛肉だ。それこそ舌の上でとろける美味さだぞ?」


「本当? それは期待しちゃう。ねぇ、ゴードン?」


「何かね?」


「いつも危険を冒してまでして来てくれて、ありがとう。あなたのお陰で、エレダンの人たちはものすごく助かってるし、喜んでいるわ」


 言い終えて、胸の内側が少しだけ落ち着く。彼は照れ笑いで受け止めた。


「いやいや、儂など所詮一介の商人にすぎんよ。これもリスクに見合う稼ぎがあるからこその選択だ。だがしかし、君のように喜んでくれる人々がいるからこそ、やめられないのかもしれないな……。無論稼ぎは重要だが、最終的には顧客の笑顔が何よりの報酬だ」


 損得の向こうに、街の顔が並ぶ。飾り気のない言葉が、意外と温かい。


「そう……。これからもよろしくね。美食の祝祭のために」


「任せておけ。明後日の夜には、街はきっと大騒ぎだぞ。はっはっはっ」


 豪快な笑いが木箱の間で反響する。乾いた木の匂い、麻縄のきしみ、遠くで鍛冶槌が一度だけ鳴った。街が、ほんの少し明るくなる気がした。

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