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細い流れの行方

 担架の足音が、内陸側へ遠ざかっていく。


 布を擦る低い音と、衛生班の若い女が押し殺した声でかける指示が、夜気を細く渡って、すぐに篝火の煙の向こうへほどけた。ジョルトは、ゆっくりと、けれど確実に運河から離れていく。水辺ではない場所へ。発動の合図から外した、内陸二本目の古い空き家へ。


 わたしとヴィルは、その反対へ歩き出していた。


 救護対象は水辺から遠ざかる。観測者は、水の匂いへ近づいていく。同じ夜気の中で、二つの足音が逆方向へ分かれていくのが、背中で聞こえていた。


 手綱を兵に返してもらい、スレイドへ乗り直す。鞍の革が、まだ自分の体温を覚えていた。馬は短く鼻を鳴らし、湿った石畳の上で蹄を一度だけ踏み替える。


「行くぞ」


 ヴィルの声は、低い。


 彼は前を見ている。運河沿いから、魚市場の裏手へ抜ける細い路地のほう。馬の歩幅を絞り、提灯の届かない影の縁を選ぶように進路を取った。急がない。けれど、止まらない。


 わたしは横を見る。


 水面。倉庫の黒い口。係留索の鳴る位置。岸壁の苔。それから、空気の沈み方。観測室で読んだ細い揺れの向きを、視覚ではなく、皮膚のすぐ下にある感覚で追っていた。


《《美鶴。前はヴィルに任せて、あなたは横と後ろ》》


「うん」


《《わたしは、見えてる範囲でヤバいところだけ拾う。死角は……嫌な感じくらいしか渡せないかもしれないけど……》》


 茉凜の声は、いつもより細かった。軽口の形を取っているのに、そこへ笑いを混ぜるだけの余白がない。


「わかってる。“あのとき”みたいなへまはしないわ。ふたりで手分けして視ましょう」


《《うん》》


 路地へ入ると、運河の匂いが変わった。


 藻と泥の濁りはそのままで、その奥に、別の冷たさが薄く混じる。乾いた金属粉を口に含んだような、舌の根に残る冷え。風の流れているはずの場所だけが、なぜか沈んで動かない。蹄の音が石畳に跳ねるのに、その跳ね返りだけが、ある一線で吸い込まれて消えていく。


 水面の反射が、半拍だけ遅れる。


 夜灯の光が水へ落ちて、揺れる。普段なら、揺れの戻りは光と同じ速さで返ってくるはずだった。けれど、いま、その戻りが、ほんのわずかに遅い。気のせいかもしれない。気のせいだと言うには、肋の内側が細く冷えすぎている。


「……何かが、おかしい」


 わたしは小さく呟いた。


 断定ではない。見つけたとも言わなかった。何かがおかしい。それだけだった。観測室の紙の上で線を引きかけた指を、もう一度、寸前で止める感覚に近かった。


「言え」


 ヴィルは前を向いたまま、短く促した。


「水面の戻りが遅い。風が、ある場所だけ動いてない。匂いの奥に、金属の冷えが混ざっている」


「わかるのか?」


「ええ。前に通ったときと違うの。水の匂いも、風の戻りも……うまく言えないけど、ずれているように感じられるの」


「方角は」


「右前方。倉庫の影、もう少し奥。……たぶん、魚市場の裏手へ抜ける路地のほう」


 ヴィルの視線が、ほんの一拍だけ右前方を切る。けれど顔は動かさない。馬の進路も変えない。気づいていないふりをしながら、進む。観測室の符丁とは違うやり方で、彼は彼の流儀でそれを伝えた。


 そのとき、右後ろの水面に、ありえない白い筋が映った。


 運河の灯でも、提灯の揺れでもない。ほんの一瞬だけ、細い線が水面を斜めに裂いて、次の瞬間には消える。


《《美鶴、右後ろっ!》》


 茉凜の声が、刺さった。


 刺さると同時に、首筋の右側だけが冷えた。まだ何も触れていない。けれど、そこへ何かが来ると、身体の奥が先に知っていた。


 見えたのではない。水面に映った白い筋と、茉凜が拾った嫌な気配が、同じ場所で結ばれる。


 考える前に、息を吸っていた。


「場裏・白――白屏障(エア・バスティオン)!」


 声にしたのは、詠唱ではない。恐怖でほどけかけた意識を、白の一点へ縫い止めるための楔だった。


 名は屏障でも、ここで立てるのは壁ではない。


 ――逸らすだけでいい。


 かつてのように、視界を覆う白い壁を組む必要はなかった。いま欲しいのは、盾ではない。矢の行き先を、ほんの少し狂わせるだけの流れだった。


 領域部分解放。


 大気を厚い壁として掴むのではない。流れだけを撫でる。首筋の右後方、矢が走るはずの線へ、薄い風の歪みを斜めに置く。向きを、ほんのわずかにずらすために。


 石壁に、硬い音がひとつ鳴った。


 矢羽根の震えが、石の表面を細く擦って、すぐに止んだ。首筋の右、革の襟をかすめた感触だけが、皮膚の上に冷たく残っている。


 ヴィルは止まらなかった。


 手綱を絞り、スレイドの体を斜めに流す。馬体でわたしの右側を覆いながら、進路を路地の影へ滑らせた。次の射線へ、こちらの背中を置かないための動きだった。


「掠りはしなかったか?」


「ううん、逸らしたわ。問題なしよ」


「上出来だ」


 短い肯定だった。褒める語調ではない。ただ、いま要る情報を取りに来た声だった。


 わたしは振り返らなかった。振り返れば、矢を射た者を追ってしまう。それは違う。首筋に残る冷えだけを受け取り、目はもう前へ戻していた。


 ――射手が、待っていた。


 誰かが、わたしたちをここで止めたかった。


 ――わたしたちを、止めたかったということは……。


「ヴィル」


「ああ」


「この先に、どうしても“見られたくないもの”がある。そう考えて間違いない」


 ヴィルの口の端が、ほんのわずかに動いた。


「とんでもない賭けだとは思ったが……当たりだな」


 馬の蹄が、石畳を低く打つ。彼の声に、戦場の乾きが薄く戻っていた。


 わたしは横へ目を戻す。


 矢で乱れた魔素の流れを、わずかに拾った。矢そのものではない。矢が空を切ったとき、押しのけられた魔素の薄い波。それが立ち上がりかけて、すぐにほどけた。けれど、ほどけたあと、その波が向こうへ流れ込んでいく方向に、もう一筋の細い流れが走っている。


 ――糸のように細い。けれど、鋭い。


 わたしは息を詰めた。


「違う……これ、人を集めてる流れじゃない」


「なんだ?」


「合図を……届かせるための線といったらいいかしら」


 声にして、肋の内側がさらに冷えた。


 観測室で見た、発動の前にだけ走る揺れ。あの細さ。あの向き。あれは、人を呼び寄せる流れでも、魔素を集積する流れでもない。届けるための通り道。誰かの身体の中に散らされた、微細な術式化魔石片へ、合図の拍を染み込ませるための細い道だった。


「あれを……」


 声がかすれた。


「あれを、ジョルトさんへ届かせちゃいけなかったんだ。だからあんなに苦しんで……」


 言葉にした瞬間、カテリーナが組んでくれた線が、いまの線と重なった。運河筋から外す。南港筋へは出さない。魚市場の細道も切る。内陸へ二本入れる。あの判断の意味が、いま、自分の感覚で裏づけられていた。


 けれど、胸の奥で別の痛みも目を覚ましていた。骨の内側をゆっくり削られるような、あの遠い夜の痛み。自分の身体が、自分のものではなくなっていく気配だけが、喉の奥へ砂みたいに戻ってくる。


「……人の身体を、そんなふうに弄ぶなんて——」


 喉の奥が、紙みたいに乾いた。


「苦しませて、人でないものに変えようとして……どうして、そんなことができるの。人は使い捨ての道具なんかじゃないのよ」


 ヴィルは黙っていた。


 黙ったまま、進路を変えない。彼の目には、わたしの肩と、馬の耳と、路地の先と、影の濃さが同時に映っているのだろう。それでも、口を挟まなかった。観測者の視線を切らさないために、彼は彼の役を守っていた。


 路地が、もう一度折れた。


 空気の匂いが、変わる。


 運河の藻と泥の匂いが、ふっと薄らいだ。代わりに、塩、魚油、濡れた縄の繊維、古い木箱の樹脂、錆びた金具のひりつき。混ざりあって、舌の奥へ残る匂い。昼の市場のざわめきはどこにもない。片づけられたあとの、湿った夜の市場の静けさだけが、石畳の隙間に沈んでいた。


 魚市場の裏手。倉庫街。


 石造りの低い倉庫が、提灯のない暗がりに肩を寄せている。荷役のための車止め。錆びた鎖。畳まれて立てかけられた帆布。夜の店仕舞いの後、誰も歩いていないはずの場所に、いま、わずかな灯りが揺れていた。


 灯りは、倉庫のひとつから漏れていた。


 窓ではない。扉の隙間でもない。換気のための小さな格子の奥で、ごく弱い光が、規則的に、ほんの一瞬だけ強くなり、すぐ戻る。明滅していた。観測室のパウエルが扱っていた灯信符丁に、拍だけはよく似ていた。


 わたしはスレイドの背の上で、息を浅くした。


「ヴィル……」


「ああ。見えてるさ」


 ヴィルは馬を、倉庫からひとつ路地ぶん離した位置で止めた。降りる前に、進路と退路を一度ずつ目で確かめている。剣はまだ抜かない。けれど、いつでも抜けるよう、左手の位置だけが、さきほどとほんの少し違っていた。


 わたしも、そっと降りる。


 革靴の底が湿った石畳を踏むと、その湿りが格子の奥の灯りと、奇妙に同じ温度に思えた。冷えてはいない。けれど、生き物の体温でもない。


 倉庫の裏手は、入口とは別の場所にあった。


 古い問屋が使っていたのだろうか、表札の文字はもう読めない。ただ、扉の上には金属の輪と、すり減った彫刻の跡だけが残っていて、その下から、低い声がいくつか、断続的に漏れていた。


 声は荒げられていない。叫ばない。祈らない。


 ただ、確認している。


「――四。座」


「――薄。再査、不要」


「――次、半刻」


 わたしは肩を硬くした。


 熱狂ではなかった。狂信でもなかった。それなら、まだ理解できた。叫び声があれば、人がそこにいる。けれど、ここから漏れているのは、人を工程として処理する声だ。名ではなく数で呼ぶ。濃いか薄いかで測る。合図の間隔だけを残す。誰かの身体の中で、ジョルトと同じものが、いま、次の拍を待っている。


 膝の裏が、ほんのわずか冷えた。


 ――あれは魔術の呪文でもない。儀式の口上でもない。作戦の符丁か?


 声に出してしまえば、足がそちらへ動きそうになる。動かないために、わたしは石畳の硬さを、靴底の縁ですり潰すように踏みしめた。


《《美鶴。これ、ただの魔術師じゃないと思う》》


 茉凜の声が、低く戻った。


《《うちのお父さんが観てた時代劇DVDに、こういうの出てきた。御庭番とか、影働きとか……表に名前が残らない人たち》》


 うん、と内側で頷く。声には出さない。


 密偵。隠密。影に身を沈め、名を残さず動く者。


 茉凜は、声の質と、気配の整い方と、わたしが感覚で拾っている細い流れを、剣の中で重ねて、いまそう判断した。


 彼女の言うとおりだった。格子の奥にいる者たちは、物語の黒装束ではない。息を殺し、言葉を削り、短い符丁だけで人の身体を次の工程へ送るための、現実の影だった。


 ヴィルは、倉庫の壁に背を寄せた。


 息は乱れていない。けれど、肩の線だけがほんのわずか沈んだ。戦場で敵の名を聞いたときではなく、見慣れた汚れを踏んだときのような、うんざりするほど静かな反応だった。


 彼は扉の隙間と、屋根の縁と、路地の入口を、ゆっくり順番になぞっている。襲撃の判断ではなかった。包囲の有無と、退路の確保。もし踏み込むなら、どの順番で動くか。それを目で計っていた。


「……影働き、というわけか」


 唇だけが、ほとんど音にしないまま動いた。


 声にしたのは、それだけだった。けれど、その一語で、彼が何を見ているのかは分かった。魔術師でも、狂信的な信徒でも、暴徒でもない。名を残さず、短い符丁だけで動く者たち。この世界にも、そういう手はあるのだ。


 ヴィルの左手が、剣の柄からわずかに離れ、また戻る。抜くためではない。抜かずに済ませる距離を、測っている動きだった。


 そのとき、奥の路地から、馬の蹄が一度だけ鳴った。


 馬は走っていなかった。歩かせている。誰かが、こちらを警戒する速度で、近づいてきていた。


 わたしは反射的にマウザーグレイルの柄へ指を添える。


 冷えた金属の奥で、いつもの応答が薄く返った。茉凜は何も言わない。警告ではない、という沈黙だった。


 石畳の上に、白い影が見えた。月のない夜の中で、それでも目に届くやわらかな白。馬の毛並みではなかった。外套だった。月光ではなく、提灯のかすかな漏れ光だけを返して、その布は朝靄のように静かに揺れていた。


 ――ラウール……?


 彼は、思っていたより倉庫の近くで馬を止めた。鞍から軽く降り、手綱を路地の脇へ寄せる。所作のひとつひとつに、急ぎがない。けれど、遅れもない。足音は、湿った石畳をほとんど鳴らさなかった。


 わたしを見つけて、提灯の漏れ光を受けた赤紫の瞳が、ほんのわずか細くなった。


 驚きはなかった。あるいは、彼にとってわたしがここに辿り着くことは、想定の中にあったのかもしれない。


 わたしの隣で、ヴィルの肩の線が硬くなる気配があった。けれど、彼は声を上げなかった。倉庫の声がまだ漏れている。いまここで気配を立てれば、向こうに察される。それを彼も、ラウールも、わかっている顔だった。


 ラウールは、わたしと倉庫の格子の間に視線を一度走らせた。それから、声を落として、ほとんど吐息に近い音で言った。


「やはり、そういうことだったか」


 言葉は短かった。


 けれど、その短さが、彼が辿ってきた道の長さを背負っていた。彼は彼の経路で、ここへ向かっていた。けれど、確証までは届いていなかったのだろう。わたしが運河沿いから路地へ流れ込み、観測者として倉庫の前に立った瞬間、その確証が、線として閉じた。


 わたしはうなずきも、首も振らなかった。


 ただ、倉庫の格子の奥で揺れている明滅を、目だけで指し示した。


 ――四。薄。次は半刻。


 聞こえた符丁を、声にはしないまま、胸の内でなぞる。


 ラウールの瞳が、ほんの一拍だけ伏せられて、また上がる。赤紫の奥で、なにか冷たく重いものが、ゆっくり据わった。


 倉庫の中の声は、まだ続いていた。


 番号で人を呼ぶ声。半刻後の合図を確認する声。誰かの身体に向けて、いま、新しい一線を引こうとしている声。


 わたしは膝の裏の冷えを、踵でひとつ踏み締めた。


 あと、いくつ。


 その問いには、まだ答えが出せなかった。


 けれど、答えのある場所へは、いま、わたしの足が立っていた。


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