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まだ“人”であるもの

 天幕を出ると、夜気が頬に触れた。


 外の空気は湿っていて、運河の藻と泥の匂いが低く漂っている。篝火の煙が斜めに流れ、柵の向こうでは、救護区の人々が声を潜めてこちらを見ていた。若緑の髪に目を留めた者もいれば、天幕のほうを見つめて口元を押さえる者もいた。


 その視線が、また皮膚の下へ薄く入ってくる。けれど、いまは立ち止まれなかった。


 天幕の入口脇に、ヴィルが立っていた。


 剣は抜いていない。鞘の柄頭にも手はかけていない。ただ、そこにいる。こちらを見ているようで、実際には篝火の向こう、柵の影、運河沿いの路地、人の肩越しに流れる気配まで、目だけで切り分けていた。


 わたしが出てきた瞬間、彼の視線がほんの一度だけ戻った。


「中は?」


 短い問いだった。焦りも、責める響きもない。けれど、湿った夜気に混じる革の匂いみたいに、硬いものがその下に残っている。


 掌に残るジョルトの不自然な熱を振り払うように指を曲げ、わたしは呼気を一度だけ深く飲み込んだ。


「大丈夫よ。まだ、“こちら側”にいるわ」


 そう答えた途端、喉の奥がまた薄く痛んだ。


 視界の端で揺れる篝火が、網膜に橙の膜を残している。自分の声が硬く強張っていくのがわかった。


「彼は、ジョルトさんは急変兆候者よ。急変個体じゃない」


 ヴィルは一拍だけ黙った。


 篝火の揺れが、彼の横顔を薄く照らす。眉間の皺が、ほんの少しだけ深くなった。それは敵を見たときの険しさではなく、まだ救えるものを取り落とさないための顔だった。


「そうか――」


 低い声が、地面を伝ってこちらへ届く。


「ならば、囲ませてはならん。怖がらせてはならん。……その男は、まだ“人”なんだろう?」


 胸の奥に、細い熱が戻った。


 鎧の隙間から漂う古い革の匂いに、かつて父が纏っていた安らぎの記憶が一瞬だけ混ざる。霞んでいた視界が、わずかに晴れていく。


「ええ。紛れもなく人よ。だから……ヴィル、お願い」


 ヴィルがわずかに重心をずらす。硬い革と金具が触れ合い、この夜の縁へ、静かな境界が引かれた。


「わかった。お前がそう判断したなら、その扱いで通すまでだ」


「そうしてちょうだい」


 迷いのない彼の背中を見つめると、肺の奥に残っていた冷えが、ひと息ぶんだけほどけた。


「お前はお前の見るべきものだけを見ろ。それ以外の余計なものは、俺の領分だ」


「うん。頼りにしているわ」


「任せておけ」


 少し呼吸が戻った。


 彼はわたしの言葉を待たず、もう次に起こりうる混乱のほうへ意識を向けている。中で何を診たのかを問うより先に、診たものを守る場を作ろうとしている。そのことが、いまはありがたかった。


 けれど、天幕の中から漏れる浅い呼吸が、胸の奥をすぐに現場へ引き戻した。


 観測室で見た地図の線が、まぶたの裏に薄く浮かぶ。運河筋。南へ伸びる導線。魚市場へ抜ける細道。そこへ乗せたままではいけない。


《《地図、確認する? 意識すれば、視界に呼び出せるはずだよ》》


「あ、うん。それにしても、よく気が利くわね」


《《そりゃまあ、付き合い長いし。美鶴の求めてるものは、だーいたいわかってる》》


 視界に、灰色の線で編まれた王都の一角が浮かび上がった。運河の曲線、倉庫街、港へ向かう細道。わたしは指先でなぞるように虚空を見つめ、自分の声が震えないよう奥歯を噛んだ。


「すぐにでも、この場から遠ざけたい。できるだけ早く、できるだけ静かに」


「ああ。そうなると、人手が要るな。警備にあたっている兵たちの手を借りるか?」


 運河の藻が放つ澱んだ匂いが、風に乗って強まった。救護区を囲む沈黙が、いっそう薄く尖っていく。


「そうしたいけど、彼らだって持ち場があるでしょう。いざという時に穴が空くのは困るわ」


 そのとき、ヴィルの視線が篝火の向こうで止まった。


 黒い外套が、火の色を受けてわずかに揺れている。


 カテリーナだ。


 報告の紙束を片腕に抱え、もう片方の手で、灰月の小隊長と短く言葉を交わしている。指先の動きが速い。彼女が現場まで降りているということは、紙ではなく足で集めなければ追いつかない速度に、この一帯がなっているということだった。


 わたしを見つけて、彼女の眉が一度だけ持ち上がった。若緑へ視線が落ち、すぐに戻る。驚きはなかった。あるいは、驚きを表に出さない訓練を、彼女はとうに終えている。


「ずいぶん派手な髪色だね、離宮のお嬢さん」


「カテリーナ……それ、皮肉にしか聞こえないんだけど?」


 彼女が肩の外套を直すと、乾いた紙の擦れる音と、微かなインクの匂いが湿った夜気を塗り替えた。


「そのつもりだがね」


 篝火の煙が、彼女の外套の裾を薄くなぞった。焦げた藻の匂いが喉へ残り、わたしは若緑の髪へ触れそうになる指を止めた。


「冗談はさておき、どうして出てきたんだい? 自分の価値と立場を理解できないあんたじゃないはずだ」


「この異常事態を前にして、指を咥えて見ていられるわたしだと思う?」


 カテリーナは短く息を吐いた。呆れたようでいて、目は少しも笑っていない。


「思わないさ。なんせあんたはユベルの娘なんだからね。ちゃんと手順を踏んでるんなら文句はないさ。先王陛下の許可は、得たんだろう?」


「もちろんよ」


「なら問題ない。あんたの好きなようにやりな。それと――」


「なに?」


 彼女は一歩だけ近づき、わざとらしくわたしの髪を指先で弾いた。


「偶像を借りるなら、とことん使い切ってみせな。中途半端に被ったら、その髪に笑われるよ」


 首筋に触れていた髪が、夜気を吸って冷たい。偽物の色なのに、いまはその冷たさまで、こちらを試してくるようだった。


「痛いところを突くわね。覚悟なら、とっくにできているわ」


 カテリーナはわたしの目を覗き、ほんの少しだけ頷いた。


「ならいい」


 彼女は紙束を抱え直した。腕の中で、資料が小さく鳴る。


「それから、離宮で動かないと決めた判断は、間違ってなかったと思うよ」


「……本当に?」


 胸の奥で、言葉が小さく引っかかった。


 動かなかった。見ていた。待っていた。


 クロセスバーナ、周辺諸国、王宮や貴族院。それぞれの思惑の中心に、わたしという存在があった。迂闊に動くわけにもいかなかった。


 ――でも。


 その間にも、誰かの身体の中で何かが進んでいたのではないかと、考えずにはいられなかった。


 カテリーナは、わたしの顔からその考えを読み取ったように、片眉を上げた。


「少なくとも、向こうの望んだ形じゃなかった」


「向こうの……?」


「ちらちら影をちらつかせれば、あんたが焦れて飛び出すと踏んでたんだろう。黒髪の巫女が、何を見るか。どこまで救えるか。どこで怒るか。どこで折れるか。好きな場所で測れたなら、向こうは楽だった」


 口の中が乾いた。


 測られる。その響きが、皮膚の下へ入ってくる。わたしの力だけではない。怒りも、判断も、迷いも、救おうとする手つきまでも、敵の目にかけられている。


「でも、そのせいでこんなことに……」


「結果論で自分を刺すんじゃないよ」


 カテリーナの声は冷たかった。けれど、その冷たさは突き放すためのものではなかった。


「あんたが先に動かなかったから、向こうは次の手を切った。だから、いま尻尾が出てる。こっちが見るべきものは、そこだ」


 その言葉が、胸の奥でゆっくり沈んだ。


 許されたわけではない。慰められたわけでもない。ただ、事実の置き場所を変えられた。罪悪感の中ではなく、地図の上へ。


「……わかった」


「ならいい」


 カテリーナは短く言って、ヴィルのほうへ視線を流した。


「それで、雷光。入口の番犬にしては、ずいぶん静かじゃないか」


 ヴィルは、天幕の脇から目を離さないまま答えた。


「吠えたら、中の患者が怯えるだろうが」


「いつでも噛みつく気はあるってことだね」


「必要とあればな」


「相変わらず物騒で助かるよ」


 短いやり取りだった。


 けれど、そのあいだには長い時間でしか生まれない呼吸があった。軽口の形をしているのに、ただ軽いだけではない。踏み込める距離を知っていて、踏み込みすぎない場所も知っている。古い傷には触れず、けれど互いの傷のありかだけは知っているような、そういう距離だった。


 カテリーナはすぐにこちらへ視線を戻した。眼鏡の奥に、篝火が小さく映っている。


「で。中はどうなってるんだい?」


「中に、ひとり。急変兆候者を確認したわ。急変個体ではない」


 カテリーナの目が、ほんのわずかに細くなった。


「兆候者、ね……」


「簡易走査はした。でも、想定していたような単独の魔石核片は見つからなかった」


「核がない?」


「ええ。でも、反応はあるの」


 声にすると、また喉が乾いた。


 血の巡りが耳の奥で脈を打つ。全身へ薄く散った粉のイメージが、冷たいもののように内側を撫でた。


「ひとつの塊じゃない。身体のあちこちに、薄く散っている。微細化された術式化魔石片の反応が、血流や神経の近くへ広がっている可能性がある」


 カテリーナの顔から、表情が一枚消えた。


「……粉にして撒いたってことかい」


「たぶん。少なくとも、外科的に摘出すれば済むようなものではなさそう」


 彼女が紙束を抱えた指に力を込める。紙の端が、わずかに歪んだ。


「だから検査にも引っかからなかったってわけか」


「そう見ているわ。検疫や定期観察で拾えなかった理由も、そこにあると思う」


 カテリーナは短く息を吐いた。


「胸糞が悪いったらありゃしない」


 その一言に、ヴィルの肩の線がわずかに変わった。


 怒りではない。怒りなら、もっと分かりやすい。これは刃を鞘の内側で確かめ直すような、乾いた沈黙だった。


 運河の向こうから吹く風が、泥の匂いをさらに色濃く運んでくる。わたしたちの立っている場所まで、濁った水のそばへ沈み込んだようだった。


「ここではまだ確定できない。安全な場所へ移して、詳細に調べる必要があるわ」


「移送が必要だね」


 カテリーナは短く返した。


 けれど、すぐには灰月の小隊長へ声を飛ばさなかった。眼鏡の奥の視線が、篝火の向こうではなく、もっと遠いところをなぞる。地図を見ている目だった。


「……ここは運河筋だ。南港倉庫裏へ伸びる線の上に近い。魚市場から港湾倉庫へ抜ける細道も、使わないほうがいいね」


 低い声が、煙の下をすべる。


「わたしも、そう思う。運河沿いに動かすのは危ない。そこは発動の合図を届かせるために作られた流れに近い。だから外したいの」


「だったら、内陸側へ二本入る。水路沿いでも港側でもない空き家がある。古い香辛料商の倉庫跡だ。窓は少ないし、裏口も押さえやすい」


 彼女の指が、空中でほんの少し動いた。見えない地図の上に、新しい導線が引かれていく。


「侍医司の出張班は? 動いているの?」


「ああ。こっちに呼ぶ。記録班も一緒に回す。表向きは衛生隔離。中は保護。そこまでは、あたしの名で無理やりにでも通す」


「あなたの権限で? 大丈夫なの?」


「ふん、あたしを誰だと思ってるんだい? 根拠があるから言ってるんだ」


 詰まっていた息が、少しだけ下へ落ちた。


 強引な言い方なのに、そこには実務の重みがある。無謀ではなく、通すための乱暴さだった。


「ありがとう、カテリーナ」


「礼はいい。まだ終わっちゃいない。いや、むしろこっからだろ。気を引き締めな」


 乾いた言い方だった。けれど、その乾きに救われる。湿りすぎた同情では、いまのわたしはたぶん崩れてしまう。


 カテリーナが素早く背を向け、小隊長へと顎を引いた。


「南港筋へは出すな。魚市場の細道も切れ。運河沿いに沿わせるなよ。内陸二本目、旧香辛料商の空き家へ回す」


 灰月の小隊長が、すぐに頷く。


「搬送名目は?」


「衛生隔離だ」


 カテリーナの声が、そこで少しだけ低くなった。


「ただし、中身は保護だ。決して見せ物にするな。急変兆候者は救護対象。剣へ手をかけたやつは、あたしがあとで蹴り飛ばす、いいね?」


 その言葉で、人の動きが変わった。


 兵の肩から余計な力が抜け、衛生班の者が布と担架を取りに走る。誰も声を荒げない。誰もジョルトの天幕を取り囲まない。篝火のそばにいた若い兵が、手を柄から離し、代わりに道を開けるため柵の一部を外しに向かった。


 怖れが消えたわけではない。


 けれど、怖れは手順を得て、少しだけ人の動きへ戻った。


 ヴィルが低く言った。


「ツケは俺に回せ」


 カテリーナは鼻で笑う。


「ごめんだね。何年も連絡を寄越さない流浪人の帳簿なんて、誰が信用するもんか」


「まったく、人聞きが悪いな」


「事実だろ。あんたの借りは踏み倒すまでが一式だ」


「言ってくれる」


「言わせるほうが悪い」


 短い火花みたいな会話だった。篝火の煙が二人のあいだを細く流れ、すぐに夜へほどけていく。


 わたしは、そのやり取りを少しだけ不思議な気持ちで見ていた。


 軽口なのに、どこかで互いを信じている。信じているから、遠慮なく刺せる。けれど、本当に痛いところまでは刺さない。父と、ヴィルと、カテリーナが、かつて同じ時間の中にいたのだということが、こういう一瞬にだけ、匂いのように立ちのぼる。


 カテリーナは小隊長へさらに二つ、三つ、短く指示を出した。担架の経路、目隠しの布、侍医司への伝令。言葉は少ないのに、地図の上で人が動き出す音が聞こえるようだった。


 それから、彼女はわたしへ視線を戻した。


「ミツル。あんたの仕事は、あの人を運ぶことじゃないだろう?」


 眼鏡の奥に、篝火が小さく映った。


 彼女の視線は、わたしが逃げたい言い訳だけを、まっすぐ見ていた。


「次の揺れを見つけることだ。それはあんたにしかできない、あんたがやるべきことだ」


 胸の奥に、重さが戻る。


 そうだ。


 ジョルトを運ぶのは、わたしではない。運んでくれる人たちがいる。布を用意する人、担架を支える人、記録を取る人、道を開ける人。地図の上で線を切る人。それぞれが自分の手で、いま人を助けようとしている。


 なら、わたしは。


「うん。わたし、行くわ」


 短く言うと、喉の奥に残っていた震えが、少しだけ下へ沈んだ。


 カテリーナはわたしを見ず、ヴィルへだけ視線を投げた。


「あと、雷光。いまのミツルは探る目だ。あんたの命は、その目を守るために使いな」


「言われるまでもない」


 低い返事だった。けれど、その短さだけで十分だった。


 カテリーナは踵を返した。


「ああ、とっとと行きな。振り返らず、突っ走れ」


 その言葉に、背中を押される。


 天幕の中から、担架の脚が布を擦る音が聞こえた。衛生班の若い女が低い声でジョルトへ話しかけている。大丈夫です、ゆっくり動かしますね、と。嘘をつかない声だった。慰めではなく、手順を伝える声。だからこそ、少しだけ安心できた。


 風の向こうを、ヴィルはもう警戒していた。


 さっきまでカテリーナと言葉を交わしていた男の顔ではない。救護区の端、運河の対岸、篝火の影。そのどれにも、目だけで先に触れている。揺れそのものではない。けれど、わたしの呼吸が変わったことも、意識が対岸へ向いたことも、彼は見落としていない。


 そういう立ち方だった。


 ――なら、わたしは隣に立つ。


 若緑の髪が、夜気でかすかに揺れている。首筋には、まだその色の落ち着かなさが残っていた。けれど、さっきよりも少しだけ、重みに耐えられる気がした。


 ジョルトは、まだ人の側にいた。


 ほんの一歩ぶん、こちら側へ抱え戻せた。けれど、揺れはひとつではない。


 ――あと、いくつある?


 その問いには、まだ答えが出せなかった。


 答えが出せないまま、わたしは運河の匂いのする夜へ、次の視線を向けた。


 水面の反射が、篝火の橙を細く砕いている。そこにはまだ、人の声も、足音も、見えない合図の気配も残っていた。


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