表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
403/454

まだ人のまま

 塔を降りる石段は、上るときよりも狭く感じられた。


 足音が、石の内側を伝って下へ落ちていく。ひとつ、またひとつ。螺旋の壁は夜の冷えを含み、掌を添えると、古い井戸の底に触れたような湿りが返ってきた。


 若緑の髪が、頬の端をかすかに撫でる。


 ――この色を選んだのは、わたしだ。


 黒髪を隠すためではない。自分を守るためだけでもない。混乱の中で、人々の足をほんの一瞬でも止めるため。まだ人でいる誰かへ、近づくため。


 そう言い聞かせても、首筋のあたりは落ち着かなかった。


 ――この色は、わたしではない名を呼ぶ。


 メービス。伝説にうたわれる精霊の巫女。祈られる者。物語の中へ閉じ込められる者。


 それは、わたしがずっと避けてきたものだった。


 けれど運河沿いには、まだ発動していない揺れがある。まだ人でいる誰かが、そこにいるかもしれない。そう思った瞬間、嫌だとか怖いとかいう言葉は、石段の途中へ置いていくしかなかった。


 前を行くヴィルの背が、細い灯りに一瞬だけ浮かぶ。彼は急がない。急いでいるのに、足取りが乱れない。剣を抜いていなくても、その背中はもう戦場にいた。


「ミツル」


 低い声が、石壁に短く返る。


「無理に走るな。足を取られるぞ」


「わかってる」


 返事は、少しだけ息に削れていた。


《《若緑ちゃん、階段だとちょっと邪魔だね。かんざしでもあればよかったんだけどな》》


 茉凜の声は、こんな時なのに軽かった。


 わたしは思わず唇の端を押さえそうになり、すぐにやめる。笑っている場合ではない。けれど、その軽さがなければ、胸の内側の冷えに足を取られていたかもしれなかった。


《《でも大丈夫。ずれてないよ。なんたって、ミースさんが精魂込めて、あなたのためだけに作ったものなんだから》》


 その一言だけ、少しやわらかかった。


 塔下の扉が開く。


 夕闇よりも濃い夜気が、階段の内側へ流れ込んできた。石と馬の匂い。革具の油。遠くの煙。運河の湿り。観測室に残っていた紙とインクの匂いとは違う、地上の匂いだった。


 空には宵の星が、まだ薄く滲んでいる。日が落ちきってから、それほど時間は経っていない。けれど暮れ色の底には、もう夜の濃さが沈み始めていた。


 塔下詰所の前に、スレイドがいた。


 鞍は外されていない。黒い首を静かに上げ、こちらを見る。手綱を取っていた兵が、ヴィルへ向かって姿勢を正した。


 見覚えのある顔だった。


 最初にここを訪れた日に、鋭い声でわたしを呼び止めた、あの衛兵だ。あのときは、灰色の塔の門がとても遠く見えた。油と鉄の匂い。許可証を求める硬い声。胸の奥へ沈んだ焦り。ほんの少し前のことなのに、別の人間の記憶みたいだった。


「ブルフォード卿。即応準備、整っております」


 兵の視線が、わたしの髪へ一瞬だけ落ちる。


 ほんの一瞬だった。けれど、そのわずかな間に、詰所の前の空気は確かに変わった。


 若緑。


 灯りの下で、その色は隠しようもなく浮いていた。兵の喉が小さく動く。隣にいた若い職員が、息だけで何かを呟いた。


 聞こえた気がした。


 メービスさまの、と。


 胸の内側が、鈍く痛む。


 以前のわたしは、王都を駆けまわる、少し妙な子供でしかなかったのだと思う。黒髪を隠し、若緑をかぶっていても、それはせいぜい、どこか目を引く変わり者の娘にすぎなかった。向けられる視線の中には、怪訝さや好奇心があり、それでもまだ、人ひとりを見る温度が残っていた。


 けれど、いまは違う。


 生まれの素性が明らかになってしまったあとでは、この色はただの偽装ではいられない。人々は若緑の奥に、わたし自身ではなく、王都が磨き上げてきた伝説の影を見る。祈りに似たもの。畏れに近いもの。手の届かないもの。


 その視線は、やさしいだけではない。静かであるぶん、皮膚のすぐ下へ薄い刃のように入ってくる。


 けれど、わたしは顔を伏せなかった。


 この色を選んだのは、わたし自身だ。いまだけは、この色に宿る物語を借りると決めた。恐怖で手が伸びる前に。誰かが誰かを危険と呼ぶ前に。ほんの一拍でも、人の足を止めるために。


 ヴィルがこちらを一度見た。言葉はない。似合うとも、平気かとも言わない。ただ、目的を忘れるなとでも言うように、短く目を合わせただけだった。


「乗れ」


 差し出された手を取る。


 革手袋の硬さが、掌へ現実を返してくれた。スレイドの背へ上がると、鞍の革が太腿を受け止める。続いてヴィルが後ろへ跨がり、手綱を取った。


 体温が近い。


 こんなに近いのに、今はそこへ気を取られている余裕はなかった。胸の奥では、まだ人、という茉凜の声が小さく灯り続けている。


「揺れるぞ」


「うん」


 スレイドが石畳を蹴った。


 塔下の灯りが後ろへ流れ、王都の夜が前へ開く。


◇◇◇


 ヴィルは大通りを選ばなかった。


 大学棟の裏手から、職人街の細い路地を抜け、運河の北岸沿いに南へ折れる。最短ではない。けれど、人の流れを避けながら、運河沿い南端へ近づいていく道だった。


 石畳の継ぎ目で、蹄の音が小刻みに変わる。


 路地の窓辺から、ひとりふたりと顔を出す者がいた。誰かが声を上げかけ、誰かが手を引っ込める。若緑の髪が、街灯の下を流れていく。


「メービスさま――?」


 誰かが、囁いた。


 別の窓では、母親が小さな子の口を塞いでいた。あれは祈りではなかった。怯えだ。古い物語が、嬉しい記憶ばかりではないことを、その手の動きが教えていた。


 わたしは顔を伏せない。けれど、勝ち誇るような顔もしない。


 風向きが変わった。西から、焦げた匂いと、人の声の遠い塊が運ばれてくる。


 肩がはねた。


 手綱を握るヴィルの腕に、ほんの一瞬だけ力が入る。けれど、馬の向きは変えない。彼は迷わなかった。


 わたしは、振り返らない。振り返れば、足が向かう。


《《美鶴。前を見てて》》


 茉凜の声は、責めなかった。


《《あなたの手は、ひとつしかないんだ。どんなに無理したって、いま掴めるのはいちばん近いほうだけなんだから》》


 わたしは唇を噛む。


「わかった」


 声に出した瞬間、苦みは、少しだけ運べる重さに変わっていく。


 路地の角を抜けると、運河の匂いが濃くなった。


 水面に夜灯がぽつぽつと反射している。荷を運ぶ船はもう動いていない。係留索だけがかすかに鳴り、藻と泥の混じった匂いが肌へ纏わりついた。普段なら酒場の声が漏れるはずの一帯が、嘘みたいに静かだった。


 南端の手前で、ヴィルが速度を落とした。


 仮設の篝火が見えてくる。低い柵で囲われた一画。天幕。粗い毛布。湯気の立つ鍋。子どもの泣き声。誰かが小声で歌っている。子守歌のようでもあり、祈りのようでもあった。


 救護区の外縁。


 西方大陸から逃れてきた人たちが、ここまで辿り着いている。灰月の制服と、侍医司の徽章を肩に縫いつけた者たちが、混じり合って動いていた。


「ここから先は、歩きだ。目立つとまずいからな」


 ヴィルが手綱を引いた。スレイドの蹄が、湿った石畳の上で短く止まる。馬の影が篝火に揺れ、近くの衛生班がこちらを見た。


 わたしはすぐに降りなかった。


 馬上で、一度だけ目を閉じる。


 観測室で読んだ細い揺れの向き。発動の前にだけ走る、ほとんど見えない波。針が拾った、けれど数字にすると消えてしまいそうな細さ。それを、紙ではなく自分の感覚へ重ねていく。


 息を、深く。


 夜の運河の湿り。篝火の煙。粗布の繊維の匂い。汗。涙。誰かの寝息。


 それから、その下に。


 ――……ある。まず一点。


 向きが揃っている。観測室で見た三地点と、同じ向き。同じ細さ。同じ癖。


 肋の内側がきゅっと冷えた。


 まだ発動していない。けれど、兆候が出ている。完全に眠っている仕掛けなら、わたしには見つけられなかったと思う。けれどこれは、もう眠りの縁をほどきかけている。だから息が乱れ、指が震え、身体の表面近くへ、あの細い揺れが滲んでいる。


「ヴィル……」


「ああ」


「いるわ」


 短く言った。


 揺れではなく、人がいる。そのことを、声にしてから遅れて受け取った。喉の奥が、薄く痛む。


 ヴィルはそれだけで、地面へ降りる。手綱を兵の一人へ渡し、若緑のわたしへ手を差し出した。


 降りる。革靴の底が湿った石畳を踏む。


 髪を、もう一度だけ整えた。ずれていない。茉凜が黙っているのは、そういうことだ。


◇◇◇


 救護区の手前で、灰月の兵が誰何の声を上げかけ、ヴィルの顔と紋章で止まった。


「ブルフォード卿ですね。お連れの方は……」


 兵の目が、若緑へ落ちる。


 その先の言葉を、彼は呑み込んだ。膝が折れかけて、すぐに立て直す。畏まるべきか、警戒すべきか。その判断を一瞬で迫られて、結局は職務へ戻った。


「グレイ総長の名義で、王立魔術大学からの観測補助が入ると伝令がございました。……失礼ながら、あなたの御身分は?」


「申し訳ありませんが、名乗らせないでください」


 わたしは静かに言った。


「どうか、それでお願いします。名は、あとで。今は急を要します」


 兵は息を呑み、それから深く頷いた。


「承知いたしました。ブルフォード卿の付き添いであれば、問題ありますまい」


 その短い従順さに、若緑の重さがまた肩へ乗る。


 わたしの言葉が通ったのは、わたしの言葉のせいではない。この色のせいだ。それを忘れてはいけない。借りているのだ。返せないものを、借りている。


 救護区の中へ入る。


 粗布の上に、人々が腰を下ろしていた。痩せた肩。布で包まれた腕。膝で眠る子供。誰かの手が、別の誰かの手を握っている。


 わたしの髪が篝火の光を返した瞬間、近くにいた老女が、声もなく口を開けた。彼女は何も言わなかった。ただ、皺の刻まれた手を、自分の胸の前で組んだ。祈る形だった。


 通り過ぎる。


 通り過ぎなければならない。


 ――揺れは、もう少し奥にある。


 区画の端に、ひとり用の小さな天幕があった。布の隙間から、細い灯りが漏れている。


 近づくと、息の音が聞こえた。浅い。速い。けれど規則的ではない。何かを我慢しているような、けれど我慢が長くは続かないような、そういう息だった。


 天幕の前で、衛生班の若い女が膝をついていた。鍋の湯を布へ含ませている。彼女はわたしを見て、若緑を見て、息を吸いかけ、止めた。


「……あの、あなたは確か……」


 若い女は言いかけて、言葉を飲み込んだ。鍋から立つ湯気が頬へかかり、彼女の睫毛に細かな湿りを置く。わたしはその先を待たず、小さく首を振った。


「今は、そんなことより――」


 なるべくやわらかく言ったつもりだった。けれど、自分の声は篝火の煙を吸ったせいか、少しだけ掠れていた。


「中の患者さんの様子を診させてください。それと、容態について知る限りを教えてください」


 若い女は、はっとしたように濡れた布を握り直した。指先から湯が一滴落ち、石の上で小さく弾ける。祈りに似た視線が消え、仕事をする人の目に戻るまで、ほんの一拍だけかかった。


「……熱が高くて。けれど、熱だけじゃ、ないみたいなんです。さっきから、指先が、震えていて」


 声が、震えていた。彼女自身、何が起きかけているかを、もう半分だけ察している。


「ですが、感染症や伝染病の疑いはないと思います」


「ですよね。難民受け入れにあたり、検疫は徹底されているはずですし、衛生面についても、最低限度は保たれているはずです」


 言いながら、彼女の手元を見る。湯に浸した布は清潔で、薬草の匂いも薄く立っていた。天幕の周囲に置かれた水桶。使い分けられた布。汚れ物を避けるための籠。急造の救護区にしては、手順は乱れていない。


 ――少なくとも、ここで見えているのは病の広がりではない。


 もっと別の、身体の内側から破れるようなものだ。


 わたしは膝を折る。


「中へ入ってもいいですか?」


「は、はい」


 布をめくる。


 仮設の床に敷かれた毛布の上に、若い男が横たわっていた。二十歳前後だろうか。頬は削げ、乾いた唇には血の気がない。額に浮いた汗だけが篝火を受けて細く光り、開いた瞳は、こちらを見ているようで少しずれていた。


 息が浅い。胸の奥で何かに引っかかり、そのたび呼吸が細く折れている。右手の指先が、毛布の上で小さく震えていた。震えは寒さのものではない。身体の奥から伝わってくる、もっと細い揺れだった。


 わたしはそのそばへ膝をつき、声を低くした。


「お名前を、聞いてもいいですか?」


 男の喉が、ひとつ動いた。


「……ジョ、ジョルト」


 声はかすれていた。けれど、まだ彼自身の声だった。救護記録の端に書かれる符号でも、誰かがつけた分類でもない。喉の奥から、かろうじて押し出された一人の名前。


「ジョルトさん。少しだけ、そばにいていいですか?」


 名前を呼ばれて、彼の瞳の焦点が、わずかにこちらへ寄った。


 それで十分だった。


《《美鶴。周囲のこの揺れ、一人ぶんじゃ終わらないかも……》》


 茉凜の声が、低くなった。


《《紙で見た向きと重なってる。近くに、まだいると思う》》


 息が止まりかけた。


 茉凜は外の指揮系統を知っているわけではない。観測室の紙で見た向きと、いまわたしが感覚で拾っているものを、剣の中で重ねただけだ。


 けれど、その重なりは確かだった。


 わたしはジョルトの胸元へ掌をかざした。


 触れない。触れてしまえば、こちらの震えまで伝わりそうだった。


「茉凜。簡易でいい。精霊子共鳴走査せいれいしきょうめいそうさをしてみたい。いける?」


《《もちろん、いけるよ。〈場裏〉でこの人の身体を丸ごと包みこんで、精霊子せいれいしを均等に泳がせればいい。反応はこっちで拾う。でも急いで。一人じゃ済まなそうだし、ここは落ち着いて診られる場所じゃない》》


「わかってる」


 息を細く吐き、意識を薄く広げる。


「場裏展開……」


 色――目に見えるほどの現象は乗せない。ただ、身体の輪郭へ沿わせるためだけに〈場裏〉を立ち上げる。ジョルトの皮膚の上を、見えない膜が静かに覆っていく。布へ落ちた篝火の影が、ほんの少しだけ揺れた。


 その内側で、精霊子を細かく泳がせる。


 治療ではない。まだ、そんなことはできない。これは、物質の相違を拾うための暫定走査だ。組織、血液、骨、臓器。その中に紛れた異物。精霊子が触れたものの違いを、返ってくる揺れで判別する。


 白い剣の奥で、マウザーグレイルが反応を束ねていく。見えない粒が、薄い光の網みたいに視界の裏へ並び、すぐにほどけた。


 胸。喉。腹部。腕。脚。


 探しているのは、ひとつの硬い異物だった。特殊術式を刻んだ魔石核片。そう呼べるような、取り出せる核。合図を受けて開くはずの芯。


 けれど。


 ――ない。どうして?


 呼吸が一拍、止まった。


 ジョルトの首筋には兆候がある。指先の震えも、息の乱れも、観測室で見た直前変動と同じ癖もある。なのに走査の中には、核と呼べる塊がない。胸にも、腹にも、喉の奥にも、ひとつの異物として掴めるものは見つからなかった。


 なのに、感じる。


 そこに、あるのだと。


 なのに、あるはずのものが、ない。


 ――この矛盾の原因は何? わたし、間違った?


 冷たい水のようなものが、背中を落ちていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ