まだ人のまま
塔を降りる石段は、上るときよりも狭く感じられた。
足音が、石の内側を伝って下へ落ちていく。ひとつ、またひとつ。螺旋の壁は夜の冷えを含み、掌を添えると、古い井戸の底に触れたような湿りが返ってきた。
若緑の髪が、頬の端をかすかに撫でる。
――この色を選んだのは、わたしだ。
黒髪を隠すためではない。自分を守るためだけでもない。混乱の中で、人々の足をほんの一瞬でも止めるため。まだ人でいる誰かへ、近づくため。
そう言い聞かせても、首筋のあたりは落ち着かなかった。
――この色は、わたしではない名を呼ぶ。
メービス。伝説にうたわれる精霊の巫女。祈られる者。物語の中へ閉じ込められる者。
それは、わたしがずっと避けてきたものだった。
けれど運河沿いには、まだ発動していない揺れがある。まだ人でいる誰かが、そこにいるかもしれない。そう思った瞬間、嫌だとか怖いとかいう言葉は、石段の途中へ置いていくしかなかった。
前を行くヴィルの背が、細い灯りに一瞬だけ浮かぶ。彼は急がない。急いでいるのに、足取りが乱れない。剣を抜いていなくても、その背中はもう戦場にいた。
「ミツル」
低い声が、石壁に短く返る。
「無理に走るな。足を取られるぞ」
「わかってる」
返事は、少しだけ息に削れていた。
《《若緑ちゃん、階段だとちょっと邪魔だね。かんざしでもあればよかったんだけどな》》
茉凜の声は、こんな時なのに軽かった。
わたしは思わず唇の端を押さえそうになり、すぐにやめる。笑っている場合ではない。けれど、その軽さがなければ、胸の内側の冷えに足を取られていたかもしれなかった。
《《でも大丈夫。ずれてないよ。なんたって、ミースさんが精魂込めて、あなたのためだけに作ったものなんだから》》
その一言だけ、少しやわらかかった。
塔下の扉が開く。
夕闇よりも濃い夜気が、階段の内側へ流れ込んできた。石と馬の匂い。革具の油。遠くの煙。運河の湿り。観測室に残っていた紙とインクの匂いとは違う、地上の匂いだった。
空には宵の星が、まだ薄く滲んでいる。日が落ちきってから、それほど時間は経っていない。けれど暮れ色の底には、もう夜の濃さが沈み始めていた。
塔下詰所の前に、スレイドがいた。
鞍は外されていない。黒い首を静かに上げ、こちらを見る。手綱を取っていた兵が、ヴィルへ向かって姿勢を正した。
見覚えのある顔だった。
最初にここを訪れた日に、鋭い声でわたしを呼び止めた、あの衛兵だ。あのときは、灰色の塔の門がとても遠く見えた。油と鉄の匂い。許可証を求める硬い声。胸の奥へ沈んだ焦り。ほんの少し前のことなのに、別の人間の記憶みたいだった。
「ブルフォード卿。即応準備、整っております」
兵の視線が、わたしの髪へ一瞬だけ落ちる。
ほんの一瞬だった。けれど、そのわずかな間に、詰所の前の空気は確かに変わった。
若緑。
灯りの下で、その色は隠しようもなく浮いていた。兵の喉が小さく動く。隣にいた若い職員が、息だけで何かを呟いた。
聞こえた気がした。
メービスさまの、と。
胸の内側が、鈍く痛む。
以前のわたしは、王都を駆けまわる、少し妙な子供でしかなかったのだと思う。黒髪を隠し、若緑をかぶっていても、それはせいぜい、どこか目を引く変わり者の娘にすぎなかった。向けられる視線の中には、怪訝さや好奇心があり、それでもまだ、人ひとりを見る温度が残っていた。
けれど、いまは違う。
生まれの素性が明らかになってしまったあとでは、この色はただの偽装ではいられない。人々は若緑の奥に、わたし自身ではなく、王都が磨き上げてきた伝説の影を見る。祈りに似たもの。畏れに近いもの。手の届かないもの。
その視線は、やさしいだけではない。静かであるぶん、皮膚のすぐ下へ薄い刃のように入ってくる。
けれど、わたしは顔を伏せなかった。
この色を選んだのは、わたし自身だ。いまだけは、この色に宿る物語を借りると決めた。恐怖で手が伸びる前に。誰かが誰かを危険と呼ぶ前に。ほんの一拍でも、人の足を止めるために。
ヴィルがこちらを一度見た。言葉はない。似合うとも、平気かとも言わない。ただ、目的を忘れるなとでも言うように、短く目を合わせただけだった。
「乗れ」
差し出された手を取る。
革手袋の硬さが、掌へ現実を返してくれた。スレイドの背へ上がると、鞍の革が太腿を受け止める。続いてヴィルが後ろへ跨がり、手綱を取った。
体温が近い。
こんなに近いのに、今はそこへ気を取られている余裕はなかった。胸の奥では、まだ人、という茉凜の声が小さく灯り続けている。
「揺れるぞ」
「うん」
スレイドが石畳を蹴った。
塔下の灯りが後ろへ流れ、王都の夜が前へ開く。
◇◇◇
ヴィルは大通りを選ばなかった。
大学棟の裏手から、職人街の細い路地を抜け、運河の北岸沿いに南へ折れる。最短ではない。けれど、人の流れを避けながら、運河沿い南端へ近づいていく道だった。
石畳の継ぎ目で、蹄の音が小刻みに変わる。
路地の窓辺から、ひとりふたりと顔を出す者がいた。誰かが声を上げかけ、誰かが手を引っ込める。若緑の髪が、街灯の下を流れていく。
「メービスさま――?」
誰かが、囁いた。
別の窓では、母親が小さな子の口を塞いでいた。あれは祈りではなかった。怯えだ。古い物語が、嬉しい記憶ばかりではないことを、その手の動きが教えていた。
わたしは顔を伏せない。けれど、勝ち誇るような顔もしない。
風向きが変わった。西から、焦げた匂いと、人の声の遠い塊が運ばれてくる。
肩がはねた。
手綱を握るヴィルの腕に、ほんの一瞬だけ力が入る。けれど、馬の向きは変えない。彼は迷わなかった。
わたしは、振り返らない。振り返れば、足が向かう。
《《美鶴。前を見てて》》
茉凜の声は、責めなかった。
《《あなたの手は、ひとつしかないんだ。どんなに無理したって、いま掴めるのはいちばん近いほうだけなんだから》》
わたしは唇を噛む。
「わかった」
声に出した瞬間、苦みは、少しだけ運べる重さに変わっていく。
路地の角を抜けると、運河の匂いが濃くなった。
水面に夜灯がぽつぽつと反射している。荷を運ぶ船はもう動いていない。係留索だけがかすかに鳴り、藻と泥の混じった匂いが肌へ纏わりついた。普段なら酒場の声が漏れるはずの一帯が、嘘みたいに静かだった。
南端の手前で、ヴィルが速度を落とした。
仮設の篝火が見えてくる。低い柵で囲われた一画。天幕。粗い毛布。湯気の立つ鍋。子どもの泣き声。誰かが小声で歌っている。子守歌のようでもあり、祈りのようでもあった。
救護区の外縁。
西方大陸から逃れてきた人たちが、ここまで辿り着いている。灰月の制服と、侍医司の徽章を肩に縫いつけた者たちが、混じり合って動いていた。
「ここから先は、歩きだ。目立つとまずいからな」
ヴィルが手綱を引いた。スレイドの蹄が、湿った石畳の上で短く止まる。馬の影が篝火に揺れ、近くの衛生班がこちらを見た。
わたしはすぐに降りなかった。
馬上で、一度だけ目を閉じる。
観測室で読んだ細い揺れの向き。発動の前にだけ走る、ほとんど見えない波。針が拾った、けれど数字にすると消えてしまいそうな細さ。それを、紙ではなく自分の感覚へ重ねていく。
息を、深く。
夜の運河の湿り。篝火の煙。粗布の繊維の匂い。汗。涙。誰かの寝息。
それから、その下に。
――……ある。まず一点。
向きが揃っている。観測室で見た三地点と、同じ向き。同じ細さ。同じ癖。
肋の内側がきゅっと冷えた。
まだ発動していない。けれど、兆候が出ている。完全に眠っている仕掛けなら、わたしには見つけられなかったと思う。けれどこれは、もう眠りの縁をほどきかけている。だから息が乱れ、指が震え、身体の表面近くへ、あの細い揺れが滲んでいる。
「ヴィル……」
「ああ」
「いるわ」
短く言った。
揺れではなく、人がいる。そのことを、声にしてから遅れて受け取った。喉の奥が、薄く痛む。
ヴィルはそれだけで、地面へ降りる。手綱を兵の一人へ渡し、若緑のわたしへ手を差し出した。
降りる。革靴の底が湿った石畳を踏む。
髪を、もう一度だけ整えた。ずれていない。茉凜が黙っているのは、そういうことだ。
◇◇◇
救護区の手前で、灰月の兵が誰何の声を上げかけ、ヴィルの顔と紋章で止まった。
「ブルフォード卿ですね。お連れの方は……」
兵の目が、若緑へ落ちる。
その先の言葉を、彼は呑み込んだ。膝が折れかけて、すぐに立て直す。畏まるべきか、警戒すべきか。その判断を一瞬で迫られて、結局は職務へ戻った。
「グレイ総長の名義で、王立魔術大学からの観測補助が入ると伝令がございました。……失礼ながら、あなたの御身分は?」
「申し訳ありませんが、名乗らせないでください」
わたしは静かに言った。
「どうか、それでお願いします。名は、あとで。今は急を要します」
兵は息を呑み、それから深く頷いた。
「承知いたしました。ブルフォード卿の付き添いであれば、問題ありますまい」
その短い従順さに、若緑の重さがまた肩へ乗る。
わたしの言葉が通ったのは、わたしの言葉のせいではない。この色のせいだ。それを忘れてはいけない。借りているのだ。返せないものを、借りている。
救護区の中へ入る。
粗布の上に、人々が腰を下ろしていた。痩せた肩。布で包まれた腕。膝で眠る子供。誰かの手が、別の誰かの手を握っている。
わたしの髪が篝火の光を返した瞬間、近くにいた老女が、声もなく口を開けた。彼女は何も言わなかった。ただ、皺の刻まれた手を、自分の胸の前で組んだ。祈る形だった。
通り過ぎる。
通り過ぎなければならない。
――揺れは、もう少し奥にある。
区画の端に、ひとり用の小さな天幕があった。布の隙間から、細い灯りが漏れている。
近づくと、息の音が聞こえた。浅い。速い。けれど規則的ではない。何かを我慢しているような、けれど我慢が長くは続かないような、そういう息だった。
天幕の前で、衛生班の若い女が膝をついていた。鍋の湯を布へ含ませている。彼女はわたしを見て、若緑を見て、息を吸いかけ、止めた。
「……あの、あなたは確か……」
若い女は言いかけて、言葉を飲み込んだ。鍋から立つ湯気が頬へかかり、彼女の睫毛に細かな湿りを置く。わたしはその先を待たず、小さく首を振った。
「今は、そんなことより――」
なるべくやわらかく言ったつもりだった。けれど、自分の声は篝火の煙を吸ったせいか、少しだけ掠れていた。
「中の患者さんの様子を診させてください。それと、容態について知る限りを教えてください」
若い女は、はっとしたように濡れた布を握り直した。指先から湯が一滴落ち、石の上で小さく弾ける。祈りに似た視線が消え、仕事をする人の目に戻るまで、ほんの一拍だけかかった。
「……熱が高くて。けれど、熱だけじゃ、ないみたいなんです。さっきから、指先が、震えていて」
声が、震えていた。彼女自身、何が起きかけているかを、もう半分だけ察している。
「ですが、感染症や伝染病の疑いはないと思います」
「ですよね。難民受け入れにあたり、検疫は徹底されているはずですし、衛生面についても、最低限度は保たれているはずです」
言いながら、彼女の手元を見る。湯に浸した布は清潔で、薬草の匂いも薄く立っていた。天幕の周囲に置かれた水桶。使い分けられた布。汚れ物を避けるための籠。急造の救護区にしては、手順は乱れていない。
――少なくとも、ここで見えているのは病の広がりではない。
もっと別の、身体の内側から破れるようなものだ。
わたしは膝を折る。
「中へ入ってもいいですか?」
「は、はい」
布をめくる。
仮設の床に敷かれた毛布の上に、若い男が横たわっていた。二十歳前後だろうか。頬は削げ、乾いた唇には血の気がない。額に浮いた汗だけが篝火を受けて細く光り、開いた瞳は、こちらを見ているようで少しずれていた。
息が浅い。胸の奥で何かに引っかかり、そのたび呼吸が細く折れている。右手の指先が、毛布の上で小さく震えていた。震えは寒さのものではない。身体の奥から伝わってくる、もっと細い揺れだった。
わたしはそのそばへ膝をつき、声を低くした。
「お名前を、聞いてもいいですか?」
男の喉が、ひとつ動いた。
「……ジョ、ジョルト」
声はかすれていた。けれど、まだ彼自身の声だった。救護記録の端に書かれる符号でも、誰かがつけた分類でもない。喉の奥から、かろうじて押し出された一人の名前。
「ジョルトさん。少しだけ、そばにいていいですか?」
名前を呼ばれて、彼の瞳の焦点が、わずかにこちらへ寄った。
それで十分だった。
《《美鶴。周囲のこの揺れ、一人ぶんじゃ終わらないかも……》》
茉凜の声が、低くなった。
《《紙で見た向きと重なってる。近くに、まだいると思う》》
息が止まりかけた。
茉凜は外の指揮系統を知っているわけではない。観測室の紙で見た向きと、いまわたしが感覚で拾っているものを、剣の中で重ねただけだ。
けれど、その重なりは確かだった。
わたしはジョルトの胸元へ掌をかざした。
触れない。触れてしまえば、こちらの震えまで伝わりそうだった。
「茉凜。簡易でいい。精霊子共鳴走査をしてみたい。いける?」
《《もちろん、いけるよ。〈場裏〉でこの人の身体を丸ごと包みこんで、精霊子を均等に泳がせればいい。反応はこっちで拾う。でも急いで。一人じゃ済まなそうだし、ここは落ち着いて診られる場所じゃない》》
「わかってる」
息を細く吐き、意識を薄く広げる。
「場裏展開……」
色――目に見えるほどの現象は乗せない。ただ、身体の輪郭へ沿わせるためだけに〈場裏〉を立ち上げる。ジョルトの皮膚の上を、見えない膜が静かに覆っていく。布へ落ちた篝火の影が、ほんの少しだけ揺れた。
その内側で、精霊子を細かく泳がせる。
治療ではない。まだ、そんなことはできない。これは、物質の相違を拾うための暫定走査だ。組織、血液、骨、臓器。その中に紛れた異物。精霊子が触れたものの違いを、返ってくる揺れで判別する。
白い剣の奥で、マウザーグレイルが反応を束ねていく。見えない粒が、薄い光の網みたいに視界の裏へ並び、すぐにほどけた。
胸。喉。腹部。腕。脚。
探しているのは、ひとつの硬い異物だった。特殊術式を刻んだ魔石核片。そう呼べるような、取り出せる核。合図を受けて開くはずの芯。
けれど。
――ない。どうして?
呼吸が一拍、止まった。
ジョルトの首筋には兆候がある。指先の震えも、息の乱れも、観測室で見た直前変動と同じ癖もある。なのに走査の中には、核と呼べる塊がない。胸にも、腹にも、喉の奥にも、ひとつの異物として掴めるものは見つからなかった。
なのに、感じる。
そこに、あるのだと。
なのに、あるはずのものが、ない。
――この矛盾の原因は何? わたし、間違った?
冷たい水のようなものが、背中を落ちていった。




