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若緑の髪

 ケースを開けると、薄紙に包まれた鮮やかな若緑色が、青白い灯の下でやわらかくほどけた。


 久しく触れていなかった色だった。この国では忌むべきものとされる黒髪を隠すために、かつてかぶった色。守るためだったのか、閉じ込めるためだったのか、あの頃はまだわからなかった。


 王都へ入ったばかりの日、果実を並べていた女が小さく囁いた声を思い出す。


『――メービスさまの』


 潮を含んだ風が、白い石畳の上を滑っていた。水路のほうからは荷車の軋みと市場のざわめきが流れ込み、噂は人の息に混じって、見えない糸のように街角から街角へ渡っていった。


 あのとき、盾にしたはずの色は、別の物語の扉を叩いた。黒髪を隠すために選んだ若緑は、わたしを人目から遠ざけるどころか、王都の古い記憶へそっと結びつけたのだと思う。果実の甘い匂い。水の都をめぐる囁き。白い壁に跳ねる光。見知らぬ人々の視線は、警戒だけではなく、憧れと戸惑いをわずかに含んでいた。


 わたしはその街を歩いた。時には急ぎ足で、時には息を詰めながら。王都の水路沿いを抜け、市場の喧騒に紛れ、石畳に落ちる影の中で、少しずつ人々の声を拾っていった。


 恐ろしい場所だと思った都は、やがて、暮らしの匂いと小さな親切を持つ場所へ変わっていった。いつしかこの街を、そこに暮らす人々との繋がりを、宝物のように感じるようになっていた。


 だからこそ、若緑はただの色ではなかった。人々にとって、それは伝説の巫女メービスへ続く色だった。白銀の塔に閉じ込められた黒髪の巫女たち。その因習を破り、世界へ踏み出した王女。語り継がれるうちに痛みを削がれ、美しく整えられてしまった物語。


 その入口に、この色があった。


 グレイさん――お祖父さまが、メービスの緑髪は黒髪を隠すための偽装、あるいは後世の捏造だったのかもしれない、と語った日のことを思い出す。


 嘘から始まったものでも、そこに縋った人の願いまで嘘になるわけではない。ならば、いまだけは。この色を、わたしのほうから選んでもいいのかもしれなかった。


《《うわ、なんかなつかし。若緑ちゃんだよ。やっぱりきれいだよね》》


 茉凛の声が、軽く跳ねる。


《《言い方は変かもしれないけど、被ったら負け、じゃない。これは美鶴のためのものなんだよ。美鶴がちゃんと自分で選んで、前へ出るためのもの。だから、勇気が少し足りないときくらい、借りたっていいんじゃない?》》


 わたしは薄紙の端を押さえた。


 舞台に立つために、メービスの姿を借りる。喉の奥で、その言葉が小さく軋んだ。


 精霊の巫女。その名に託された祈りと、長い年月のあいだに積もった光。そのすべてが真実とは限らない。誰かの手で都合よく語り直されたものも混じっている。


 けれど、王都の人々はその物語を知っている。


 恐怖で手が伸びる前に。誰かを危険と呼ぶ前に。市民と難民が互いを疑い、怒号のほうへ流れかける前に。この若緑の髪が、ほんの一瞬でもその足を止める役目を果たすなら。精霊の巫女の再来という錯覚が、刃を収めさせるのなら。わたしは、その光を借りるしかないのかもしれない。


 ――この色は、きっと諸刃の剣だ。


 人々を鎮める力にもなる。けれど同時に、わたしをメービスの影へ閉じ込める檻にもなるだろう。


 若緑の髪は、指の下でひんやりしている。艶やかな繊維が灯を受け、淡い水草のように光を返した。


 ヴィルが地図から目を上げる。


「先王の配慮か。黒髪のグロンダイルを隠すためだな」


 責めている声ではなかった。目的を確かめる声だった。


 わたしは、少しだけ息を吸う。


「違うわ。近づくためよ」


 思いの外、語気が強くなった。薄紙を押さえた指先に、ほんの少し力が入る。


「王都にも、混乱している市民にも……それから、助けを求める声を上げる人の前にもね……」


 この状況下でこの色をまとえば、人はきっと、わたしの黒髪より先にメービスの影を見る。祈り、縋り、あるいは怯える。若緑に染められた髪は、掌の上でひどく軽い。かつて誰かの姿を飾るために整えられたものだと思うと、その軽さだけがかえって生々しく、指先には物語の重さばかりが残った。


 それは、わたしがいちばん嫌だったことだ。そんな存在になりたくなんてなかった。器にも、巫女にも、誰かが勝手に祈る偶像にも。


 演じることが苦手なわけではない。役柄をまとうこと。それはかつて、呼吸と同じくらいにわたしの身に馴染んでいたものだった。深淵の巫女として、望まぬ祈りを捧げ続けていた前世。あの頃のわたしは、解呪という名の強迫観念に取り憑かれ、色を失った日々のなかで、ただ透明な器として存在していた。弟の身体に囚われ、弓鶴として息をしていた時間もある。


 ――いつだって、わたしは自分以外の何かを演じることを強いられてきた。そうすることでしか生きられなかった。


 背筋を走る冷たい戦慄が、記憶の澱を揺り動かす。


 ――嫌だ。


 誰かの期待を押し付けられ、役割に魂を削り取られるあの感覚。二度と、あのような色のない監獄へ戻りたくはない。


 けれど、混乱の中で誰かの足を止められるなら。叫ぶ前に。逃げる前に。疑う前に。誰かを危険と呼ぶ前に。ほんの一瞬でも、こちらを見てくれるなら。


 伝説の巫女の色が、振り上げられかけた手を止めるなら。その一瞬で、まだ人のまま救えるかもしれない。


 ヴィルは短く頷いた。


「使うも使わないも、お前の自由だ」


 それだけだった。似合うとも、無理をするなとも言わない。選ぶ理由があるなら選べ。彼の言葉は、いつもそうやって余計な甘さを削ぎ落としてくれる。


「俺にとっては、黒髪のグロンダイルだろうが、メービスの再来だろうが変わらん。ただ傍で護るだけだ」


 低い声が、紙と石の匂いの中へ落ちた。


 張りつめていた息が、ひとつだけ浅くほどけた。


「ありがとう、ヴィル。あなたが傍にいてくれるなら、わたし、行けるわ」


「ああ、任せておけ」


 わたしはケースを閉じた。


 まだ、かぶらない。選択肢として、傍らに置く。お祖父さまの伝言の通り、必要とあれば、自分で選ぶために。


 そのとき、向かいの棟の窓に応答の光が灯った。


 パウエルが読み取る。記録具の先が、紙の繊維を削った。


「大学棟、受信。三分類を採用。救護区側記録班へも同一符丁で伝達するとのことです。発動後記録は保持。直前変動値のみ別欄へ抽出し、現地記録との照合に入ります」


 わたしは頷いた。


 茶の温かさが喉を通り、身体の内側へ落ちる。少しだけ手の震えが収まった気がした。


 紙を読むのも戦だと、ヴィルは言った。


 たしかに、これは戦なのだと思う。ただ、斬るための戦ではない。待つ。紙を待つ。光を待つ。次の誰かが人でなくされる前の、ごく細い痕を待つ。


 その数分が、ひどく長かった。


 ヴィルは地図の上を、目だけで歩いていた。切り取り、捨て、必要な道だけを残す。パウエルは通信窓の前に立ち、大学棟と塔下詰所の両方を見ている。


 わたしは、傍らに置いたケースの留め金から視線を離し、三地点の紙へ戻した。


 三地点の紙を見つめる。結べば、楽になる。形ができる。説明できる。作戦になる。


 けれど、そこにいるのは、まだ人かもしれない。


 次の灯信は、定時の応答ではなかった。向かいの棟の右端にある細い通信窓が、急に明滅を始める。短く、短く、長く。


 パウエルの肩がわずかに固くなった。記録板へ走る筆先の音が、さっきより鋭い。


「……大学棟より追加受信。救護区側記録班との照合あり。運河沿い南端、救護区の外縁寄りで、発動後の濁りではなく、直前と同じ向きの揺れが現時点で確認されている、とのことです。急変の報せは、まだ入っておりません」


 息が、勝手に止まった。


 紙の上に置かれていた三つの点が、急に遠いものではなくなる。西門。南港。運河沿い。その前にだけ走っていた、あの細い揺らぎ。


「……直前変動値が、運河沿いに出たのね」


 自分の声が、思ったより低く落ちた。


「これは発動後の濁りじゃない。前に三地点で見えた、起動の前の揺れと同じ向き。救護区側の記録と照合して、おおよその場所まで絞れた……そういうこと?」


 パウエルは記録板を抱え直し、緊張した顔で頷いた。


「はい。現地側も同じ符丁で確認しています。急変発生の報告は、まだありません」


《《きたね》》


 茉凛の声が、まっすぐに届く。


《《だったら、そこにいるのはまだ人だよ》》


 足の裏が、石床へ貼りつく。


 ――まだ、人。


 その言葉が、身体の内側で小さく灯った。人だったものではなく、まだこちら側にいるひと。恐怖も、名前も、家族も、明日の食事も、誰かを待つ気持ちも、切り捨てられていないかもしれないひと。


 ヴィルは何も言わなかった。けれど、こちらの顔の変化は見ている。


「ん、何を聞いた?」


「まだ、事は起きていない、でも――」


 声は小さかった。続きははっきり出た。


「発動したあとの痕じゃないのは確か。そう、これは起動する前に出る揺れなのよ。だから、まだ間に合うかもしれない」


 ヴィルの目が細くなった。地図へ落ちた視線の速さで、もう道を選んでいるのがわかる。それでも、ほんの一瞬だけ、その瞳に父の影が過ぎった気がした。理屈を積み、危険の輪郭を読む者へ向ける、古い信頼の色。


 けれどヴィルはすぐに、いまのわたしへ視線を戻した。


 応じるように、わたしはケースへ手を伸ばした。


 若緑の髪を取り出す。薄紙がかさりと鳴り、指先に昔の冷えが戻る。けれど、あのときとは違う。黒髪を隠すためではない。自分を守るためでもない。


 伝説に縋られるのはこわい。メービスの再来と呼ばれるのも、こわい。それでも、いまその名が刃ではなく、誰かの手を止める光になるなら。


 ――わたしは、あえてその偶像を使おう。


《《落ち着いてね。大丈夫、ずれてたら言うから》》


 茉凛の声が、少し笑った。


 その軽さに、息のこわばりが少しだけほどける。


 わたしは小さく息を吐き、若緑の髪をそっとかぶった。久しぶりの感触に首筋が少し落ち着かず、留め具を探る指が一度だけ迷う。茉凛がすぐに小さく指示をくれた。


《《そこ、もうちょい右。うん、そこ。はい、若緑ちゃん復活》》


 こんな時なのに、笑いそうになる。


 ヴィルがこちらを見る。


 ほんの一瞬だけ、昔の旅路の朝と同じ目をした。黒髪を隠すために若緑を整えた、あの日の気配が遠く重なる。


 今の彼の目には、過去の庇護ではなく、作戦へ立つ仲間への確認があった。


「問題ない」


 それだけだった。


 息の底に、静かな熱が残る。


 パウエルが通信窓へ向かう。光が、塔の下へ向けて走った。塔下詰所からの応答は、早かった。


「塔下詰所より受信。ブルフォード卿の馬、即応可能。伝令、一名控えております」


 ヴィルは短く頷いた。地図から手を離す。


「行くぞ、ミツル」


 わたしは、まだ線を引いていない三つの点を見た。


 西門。南港。運河沿い。線にすれば、紙の上で答えがひとつにまとまる。仮説が、図になる。けれど、そこに残っているのは、まだ人かもしれない誰かだった。


 ――だから、いま行くんだ。


 記録具を伏せ、椅子を引く。石の床に、短い音が落ちた。


「パウエルさん。記録は続けてお願いします。大学棟から、直前の値の追加があれば、すぐに」


「承知いたしました。どうか、ご無事で」


 彼が頭を下げかけた、その前に、わたしはもう一度だけ声をかけた。


「それから……総長へは、直接お伝えください」


 パウエルの目が、かすかに動いた。


「どのように、お伝えすればよろしいでしょうか?」


 喉の奥に、茶の温かさがまだ残っている。


 お祖父さまは、わたしに見ることを命じた。見たあとにどう動くかまでは縛らなかった。前へ出るなとも、待てとも、名をつけるなとも言わなかった。ただ、見なさい、とだけ告げた。


 それはきっと、逃げ道ではなく、信頼だった。見れば、わたしが何を選ぶか。何を見落とせず、何を放っておけないか。お祖父さまは、その奥までたぶん知っている。


 グレイさんは、いつもそうだった。


 答えを押しつけず、けれど何も知らないふりもしない。扉だけを開けて、その向こうへ進むかどうかを、わたしの手に残してくれる。やさしさというには少し厳しく、命令というにはあまりに温かい。


 その余白に、何度も救われてきた。


「……見つけた、と」


 わたしは静かに言った。


「そのうえで、まだ間に合う可能性があると判断しました。だから、動きます。そう、お伝えください」


 パウエルは一瞬だけ息を止め、それから深く頷いた。


「わかりました。必ず、総長へ直接お伝えします」


 その返事に、肩の奥へ入っていた力が少し抜けた。


 許しをもらったわけではない。けれど、お祖父さまの信頼を裏切っているわけでもない。そう受け取るしかなかった。


 職員の置いていった茶は、まだ薄く湯気を立てている。食べかけのパンの端に、指の跡が残っていた。その匂いを背に置いたまま、わたしはヴィルの後ろに続く。


 螺旋の入口へ向かう前に、一度だけ振り返って、暮れていく窓の外を見た。


 灯が、ひとつ増えている。またひとつ。まだ発動していない揺れが、どこかで誰かの身体の内側に、置かれたまま息をしている。


 若緑の髪が、頬の端へかすかに触れた。


 それは盾でも、檻でもなく、いまはわたしが選んだ色だった。


 線にしないまま、わたしは塔を降りる。

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