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起動の痕

 西門。南港。運河沿い。


 三枚の紙を同じ向きへ揃えると、紙縁が指の腹に薄く触れた。左の端から目で追っていく。地点番号、時刻、段階値、灯信で届いた符号。余白には、発動の前に走る揺らぎだけを書き出すための欄を、自分の手で引いておいた。


 線はまっすぐなはずなのに、灯火の揺れで少し震えて見える。


 記録具の先を、紙の上へ滑らせる。


 西門の点と、南港の点。そのあいだへ、ほんの一筋だけ線を渡そうとした。


《《だめ。そこ、まだ線を引かないで》》


 指が止まった。


 記録具の尖端が、白い余白の手前で浮いたまま動かなくなる。紙の繊維が、冷たい灯りの下で細かく立っていた。


 それは耳に届く声ではなかった。剣の芯で震える精霊子の細い流れを伝い、思考の奥へそっと触れてくる。音よりも近く、けれど自分の考えではない、よく知った温度だった。


 ――茉凛?


 塔へ上がってから、彼女はずっと黙っていた。気配が消えていたわけではない。腰の白い剣は同じ重みでそこにあり、剣を通る細い流れも、ずっと途切れていなかった。


 ただ、わたしが自分の声で言わなければならない場所を、彼女は知っていたのだと思う。


 卓の向こうで、ヴィルが顔を上げた。


 地図から目を外し、わたしを見て、それから腰の白い剣へ視線をひと撫でだけ落とす。咎めるためでも、探るためでもない。ただ、そこに何かが揺れたことを見落とさなかった目だった。


「なんだ……マリンか?」


 息が、喉の途中で細く止まった。


「えっと……ヴィル、あなたにも聞こえていたの?」


「いや」


 ヴィルは短く答えた。


「声なんて聞こえんさ。ただ、剣の周りの空気が動いたような……そんな気がしただけだ。それに、お前の顔が急に変わったからな」


「そ、そうよね。わたし、すぐ顔に出ちゃうから。まったく茉凛ったら、黙り込んでたかと思えば、急にびっくりさせるんだから。困ったものよ」


 軽口を返しながら、口元だけを笑わせる。けれど、掌の内側はじわりと汗ばんでいた。


 ――彼には聞こえないはず。きっと気のせい。そうに決まってる。


 けれど、あの「白亜のテラス」から戻ってきてから、ヴィルはときどき、以前なら拾わなかったものへ目を向ける。音になる前の気配。言葉になる前の間。剣の周囲をかすめる、ごく薄い揺らぎ。


 それに名前をつけてしまうのが、こわかった。


 いまは、そこへ踏み込めない。紙の上には、次の誰かが、まだ人のまま立っているかもしれないのだから。


 わたしは柄へそっと手を寄せた。金属の冷えの奥で、いつものあたたかさが細く返る。小さな脈のような、けれど肉体とは違う応答。


「で、その“欲望姫”はなんと言っている?」


「西門と南港を、まだ結ぶなって」


 ヴィルは静かに、地図へ視線を戻した。


「後で聞こう。今は紙だ」


 問い返したいことは、たぶんいくつもあった。茉凛が何を見たのか。なぜ、その線が早いのか。けれどヴィルは、そのどれも今の卓へ持ち込まなかった。


 卓の上で、革手袋の擦れる音が小さく鳴る。


《《ノンノン。ずっとつながってたよ。ただ黙ってただけ。さっきまでは、美鶴が自分で言葉にする時間だったから、邪魔するわけにはいかないと思っただけ》》


 茉凛の声は軽かった。


 いつもの、少し呆れたような、それでいて決して手を離さない温度が、そこにあった。冷えた観測室の空気の中で、その声だけが、灯火のそばに立つ湯気のようにやわらかい。


《《でも、ヴィルの言う通り、今は紙の番だよ。……あと、焦ると数字にのまれて、頭の中がわちゃわちゃしちゃうから。注意してね》》


 息の入口が、ちくりと痛んだ。


 ――気が急いていた。


 指摘されてはじめて、その焦りが背中に張り付いていたことに気づく。見たい答えのほうへ、紙を寄せて読みかけていたのだ。


《《ほら、深呼吸して。それと一人じゃないんだから、周りのひとにも頼って》》


 言われたとおりに空気を吸うと、観測室の冷えが肺の奥へ細く入ってきた。紙とインクと、わずかに焦げた灯芯の匂いが混じっている。頭の中で膨らんでいた数字の列が、少しだけ距離を取り戻した。


 ――わたし、またひとりで結論へ走ろうとしていた。


 西門、南港、運河沿い。三つの地点を同じ目で追えば、どうしても見たい形へ寄せてしまう。けれど、この部屋にはわたし以外の目がある。灯信を受けた者。時刻を記した者。段階値の変化を、震える手で紙へ移した者。


 わたしは記録具を置き、手のひらに残っていた硬さを膝の上でほどいた。


 卓の向こうに立つ青年へ顔を上げる。


 彼はすでにこちらを見ていた。声をかけられる前から、次の指示を待つように背筋を正している。その律儀さに、背中に張りついていた焦りが、ほんの少しだけ薄まった。


「パウエルさん」


「はい」


 パウエルの返事はすぐだった。記録板を抱えたまま、彼は余計な視線を向けない。わたしが一人で何かを聞き、何かに答えているように見えているはずなのに、詮索する気配を一切見せなかった。


「……念のため確認します。これは南港の初回受信分で間違いありませんか」


 記録具を握る手に、かすかな震えが残っている。


 パウエルは記録板を確かめ、すぐに頷いた。


「はい。お手元のものが南港の初回受信分です。二段階目の灯信記録は別紙に分けております。第一波の詳細値は、大学棟から紙便で届きます」


「わかりました。ありがとうございます」


 紙面の角を、もう一度だけ押さえる。さっき取り違えたばかりのものを、さらに疑うことが恥ずかしくなかったと言えば嘘になる。けれど、見たい結論へ記録を寄せるより、その恥ずかしさのほうがずっとましだった。


 呼吸を整え、もう一度並べる。


 今度は線を引かない。西門の時刻を起点にして、南港、運河沿い。距離と人の流れを思い浮かべると、南港から運河沿いまでの差は不自然ではない。ただ、西門だけが、ほかの二点より早い。


 発動のあとに残った濁りは、別の隅へ避ける。


 ――捨てない。捨てれば、見えなくなるものがあるから。


 現場の恐怖。逃げる人々のざわめき。火災のあとの空気の乱れ。救護区へ向かう人の流れ。そういうものをひとつずつ横へ置いて、紙の真ん中には、発動の前に出ていた値だけを残した。


 残ったものは、細かった。けれど、向きが揃っている。三つの地点で、同じ方向へ、同じ細さの揺れが、似た間隔で走っていた。


 魔素測定器の針が、静かに震える。その音はとても小さいのに、鼓膜の奥では妙に大きかった。まるで、この部屋にいる全員が言葉を潜め、同じ細い線の先を見ているようだった。


「まだ、断定はできないけど、ここだけは同じ癖があるように見える」


 声がひとりでにこぼれた。


「言い切れるのか?」


 ヴィルの低い声が、灯の揺れる卓を渡ってくる。


 褒めるでも、否定するでもない。戦場で使えるかどうかを測る声だ。わたしは、その冷たさに少しだけ救われる。


「いいえ、言い切れないわ。だから、発動後の記録も残す。火災由来の乱れも、群衆の移動も、全部捨てない。でも……」


 記録具の先で、三つの点を順に示す。


「この三つは、同じ癖を持っている。それだけは確かね」


 ヴィルは少し黙っていた。


 窓の外で、大学棟の灯が短く瞬く。パウエルが目だけで追い、記録板へ印を足した。光は短く、長く、また短く切られ、王都の夕暮れに青白い縫い目を残していく。


「戦術的見地から言えば、やはり起爆前の爆弾に近い。小規模な騒乱で撹乱しつつ、これほど念入りに下準備をされたとなれば、尚の事厄介だ。……さて、どうすれば敵の本丸を、引き摺り出せるか」


《《出た。ヴィルの戦バカ。その言い方じゃ駄目。……助ける手が、止まっちゃうでしょ》》


 内側で響いた声は、短く、けれど逃がさない強さを持っていた。


 わたしは記録具を置く。卓へ落ちた小さな音が、思ったより硬く響いた。


 相手の思惑に、乗ってはいけない。言葉ひとつで、対象の扱いは変わる。扱いが変われば、救えるはずのものまで、救えなくなる。


「ヴィル。その言葉は、使わないで」


 ヴィルの眉が、わずかに動いた。


「あなたの言うことは、戦術上はきっと間違っていないわ。でも、それが記録に残れば――意味が変わる。救うための言葉ではなく、切り捨てるための理由になってしまうでしょう?」


 言いながら、舌の裏に苦みが広がる。


 爆弾。潜伏者。危険個体。


 そう書かれた紙を、現場の誰かが読む。その瞬間、差し出される手の角度が変わるかもしれない。呼びかける前に、押さえつける手が先に出るかもしれない。相手の名を尋ねる一拍が、靴音と号令に踏み消されてしまうかもしれない。


 革手袋の縫い目が、卓の端でかすかに軋む。


 ヴィルは反論しなかった。低く息を吐き、卓の端へ置いた手を一度だけ握る。乾いた音が、小さく鳴った。


「それもそうだな」


 短い肯定だった。叱られたから退いたのではない。言葉の向こうで何が変わるかを、彼も知っている。戦場で何度も、人の扱いが呼び名ひとつで傾くのを見てきた声だった。


「……すまない。俺は、現場の脅威としてしか見ていなかった。だが、ここにあるのは脅威だけではないな」


 ヴィルは地図へ視線を落とし、言葉を選び直すように少し黙った。


「『人のまま、救える可能性が残っている対象』。……そう、扱うべきだ」


 その言い直しに、胸の奥へこもっていた力が、ほんの少しだけゆるむ。


「うん。少なくとも、記録上はそうしてほしい」


《《よかよか。修正できるなら、まだえらい。ま、そこがヴィルのいいところではあるよね。うん》》


 茉凛の声が、少しだけ得意そうに弾んだ。


 わたしは笑いそうになって、すぐ唇を噛む。笑える場所ではない。けれど、その軽さがなければ、わたしはきっと紙の上の数字に呑まれていた。


「それで、どう呼ぶ?」


 ヴィルが問う。


 問いはわたしに向けられているようで、同時にこの部屋にいる全員へ向けられていた。


 わたしは紙の余白を見る。まだ線を引いていない白い場所。そこに、次の誰かの呼吸が残っているかもしれない。


「……“急変者”。ということで、いいと思う。変質とか、変容とか……そういう言葉で呼ぶのは、嫌」


 声にすると、少しだけ頼りない言葉だった。


 けれど、その頼りなさが必要だった。断定しすぎない。敵にも魔獣にも閉じ込めない。まだ変わりうるものとして置くための名。


 それは、まだ広すぎる名だった。だからこそ、ここから分けなければならない。


「すでに急変した場合は、“急変個体”。けれど、前駆期までは“急変兆候者”。……救護対象として扱う。記録と伝達では、この区別を徹底して」


 パウエルが息を呑んだ。


 灯信の光を追っていた目が、こちらへ戻る。彼は一度、記録板を抱え直し、背筋を伸ばした。


「承知しました。急変兆候者、急変個体。救護対象として区別。記録欄に追記します」


 紙へ走る筆先の音が、細く硬く鳴った。


 その音を聞きながら、わたしはもう一度空気を吸う。焦げた灯芯の匂いと、紙の乾いた匂いが肺に入ってくる。部屋の空気は冷たいのに、喉の奥だけが熱い。


「それと、パウエルさん」


「はい」


「灯信記録で、発動前の揺らぎがあった場所だけを、もう一度分けてください。火災、不審な魔素滞留、目撃証言、急変者の発生地点を、同じ紙に重ねないで」


 言いながら、わたしは三枚の紙を少しずつ離した。


 西門。南港。運河沿い。


 三つの名前が、卓の上でそれぞれの距離を取り戻す。


「一枚に重ねると、わたしが“見たい形”へ寄ってしまう。……それじゃだめだから。別々に、見たいんです」


 自分の弱さを口にするのは、少し恥ずかしかった。けれど、パウエルは笑わなかった。彼はただ、真面目な顔で頷いた。


「では、灯信受信順、現地報告順、魔素観測順の三系統に分けます。時刻差も別欄に」


「お願いします」


 ヴィルが地図の端を押さえた。


「俺は現場の動きで見よう。パウエルは灯信と時刻。ミツル、お前は『揺らぎ』の前後だけを見ろ。……敵の本丸を探すのは、そのあとでいい」


「……うん」


 短く答えると、胸の底で、さっき消えかけた一拍が戻ってきた。


 助けるために見る。敵を探すためではなく、まだ間に合う誰かを見落とさないために。


《《いい感じ。ちゃんと、いつもの相棒の呼吸になってきた》》


 茉凛の声が、冷えた呼吸の奥でやわらかくほどける。


 わたしは記録具を取り直した。今度は線を引かない。まずは、点のまま見る。


 尖端が紙へ触れる直前、冷たい灯りの下で繊維が白く立っていた。そこに、まだ名前のつかない痕跡を、ひとつずつ拾い上げていく。


 ヴィルは、しばらく地図を見ていた。それから、ほんの短く息を吐く。


 名を決めただけでは、現場には届かない。灯信で渡る符丁になり、記録欄の見出しになり、誰かの手順へ落ちて、はじめて人の扱いを変える。だから、もう一度、切り分けなければならなかった。


 パウエルが、こちらへ目を上げた。


「では、観測記録と符丁では、どのように区分いたしますか」


 わたしは息を整える。


「急変した人。まだ急変していないけれど、兆しがある人。起動させている側。この三つを混ぜないで」


「承知いたしました。急変個体、急変兆候者、起動源。三分類でまいります」


「急変兆候者は、保護対象です。それ以外の扱いは、絶対にしないで」


「大学棟および救護区側の記録班へも、同じ分類で伝達いたします」


「発動後の記録も残してください。わたしの読みに合わせて、整理しないで」


「はい」


 通信窓のほうで、青白い光がまた走った。短く、長く、また短く。パウエルの筆だけが、暮れていく観測室の中で、確かな速度を持っていた。


 符丁が渡る。


 応答を待つあいだ、観測室には奇妙な静けさが落ちていた。


 紙の上では、西門、南港、運河沿いの点が、まだ線にならないまま置かれている。魔素測定器の針は細く震え、戻りきらない。窓の外では、大学棟の青白い灯がいったん沈黙し、暮れかけの王都に、小さな明かりがひとつずつ増えていった。


 その静けさを破ったのは、螺旋階段を上がってくる足音だった。石段に靴底が触れるたび、乾いた音が丸く響く。やがて扉の前で止まり、控えめな声が落ちた。


「失礼いたします。総長からの指示で、温かいお茶と軽食をお持ちしました。それから、離宮からの預かり物もございます」


 パウエルが短く応じ、職員が盆を運び入れる。


 湯気を立てる茶器。薄く切ったパン。塩気のあるチーズ。小さな果実。紙と石と魔素の匂いばかりだった部屋へ、不意に人の暮らしの匂いが差し込んだ。


 その瞬間、お腹の奥が小さく縮んだ。


 空腹だったのだと、そこで初めて気づいた。


 最後に食べたものがいつだったのか、すぐには思い出せない。王都西側の急変。講義の中断。灰色の塔。地図。灯信。記録。起動の痕。そんなものばかりを追っているうちに、自分の身体の声をどこかへ置き忘れていた。


《《ああ、だめだ。急に腹減り感が来た。わたし、もうしぬ……》》


 茉凛の声が、ひどく真剣に響いた。


 いつもなら、彼女のほうが先に気づいてくれる。そろそろ時間だから、食べに行こうよ、と明るく引き戻してくれるのに。今は茉凛も、紙の上の数字と灯信の光に、わたしと一緒に張りつめていたのだ。


「ごめんね、茉凛。……わたし、目の前のことに必死になると、空腹だってことすら、忘れちゃうのよね」


《《よーく、知ってる。……だから言ってるの。食べよ。いまは、一口でもいいから》》


 その真剣さが、かえっておかしくて、少しだけ肩の力が抜けた。


「まさに腹の虫とは、あなたのことね。……勝てません」


《《ふふん。好きなように言ってくれたまえ。儂は食欲に忠実なのであーる。汝、腹を満たせ》》


「はいはい」


 卓の向こうで、ヴィルがこちらを見た。茉凛の声は聞こえないはずなのに、わたしの顔でだいたい察したらしい。


「食える時に食っておけ。腹が減っては戦はできん。紙を読むのも同じだ」


 その言い方があまりに彼らしくて、かえって息が戻った。


「じゃあ、いただきましょう」


 わたしはパンを一切れ手に取る。食堂で供されているものとわかる。焼きたてなのだろうか。まだ少し温かい。指先に移った熱が、さっきまで数字と赤い印ばかり追っていた手を、人間の手へ戻していくようだった。


 口へ運ぶと、小麦の甘みが舌の上でゆっくりほどける。チーズの塩気を少し足すと、空っぽだった胃が遅れて存在を主張した。


 食べている。


 その単純な事実が、体の内側を妙に静かにした。温かい茶の香りが鼻の奥へ抜け、塩気が遅れて舌に残る。さっきまで紙の上ばかり見ていた手が、パンのやわらかさに少し戸惑っていた。


 茶の湯気は、情けなさも焦りも責めずに包んでいく。


 盆の横に、小さなケースが置かれていた。見覚えのある留め金だった。


「これって、離宮からですか……?」


「はい。中身については存じません。総長から伝言のみ、お預かりしております」


 職員は目を伏せ、静かに告げた。


「『必要とあれば。選択は君の自由』。以上です」


 喉の奥に、何かが引っかかった。


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