名づけは、刃になる
わたしは、息を忘れていた。
――違う。
胸の奥で声がした。
――魔獣になったのではない。魔獣にされたんだ。
けれど、噂はきっと、もう走り出している。
西門で見た者が、南港で聞いた者へ。南港で聞いた者が、魚市場で、見知らぬ誰かへ。急変した者の名前も、意思も、そこに至るまでに何をされたのかも、すべて置き去りにして。
――足りない部分を、恐怖が埋めていく。そうなったら、人は怖れに衝き動かされて動き出す。もう、止められなくなる。
わたしは講壇に置いた手を、ゆっくり握った。木の縁が掌へ食い込み、痛みがようやく呼吸を戻してくれる。
「お祖父さま……いえ、総長閣下」
声は小さかった。けれど、静まり返った講義室の中では十分に届いた。
お祖父さまがこちらを見る。
その目は、祖父のものでもあり、王立魔術大学総長のものでもあった。見抜くが、押し潰さない目。答えを急がず、けれどもう遅れは許されないと知っている目。
「ミツル。君には、何が見えているのかね?」
「見えている、というよりは……感じています」
喉の奥が、ひどく乾いていた。
それでも、ここで言葉を曖昧にしてはいけない。わたしが感じたものは、恐怖ではない。恐怖だけなら、講義室にいる誰もがもう飲み込まれかけている。
「この魔素の歪みは、通常の魔術災害とは言い難いです。感じたままを率直に申し上げれば、王都西側だけで収まっているとは思えません。ほぼ同時に、複数の地点で歪みが立ち上がっているように感じます」
舌の裏に残る金属めいた苦さが、言葉の端を細く冷やした。
「魔法陣が外側で開いた感じでも、魔道具が暴走した感じでもない。発動点そのものが、人の身体の内側にあると推察します」
言った瞬間、自分の声が冷えた。
胸の奥で、さっきから同じ感覚が軋んでいる。王都の西側。そこから滲んできた歪みは、地面でも、建物でも、魔石でもなく、もっと柔らかいものを起点にしていた。
「だから、急変した人たちは原因ではありません。少なくとも、わたしはそう感じます。彼らは何かを起こした者ではなく、何かを起こす場所として使われた人たちです」
講義室の空気が、音もなく沈んだ。
誰かが息を吸いかけ、途中で止める。羽根ペンの先に溜まっていたインクが、紙の上へ小さく落ちた。
喉の奥で、遠い記憶が冷えて戻ってくる。
西方大陸から逃れてきた人々の証言。あのときは、遠い海の向こうの話だった。まだ紙の上にある報告で、声を通してしか触れられない地獄にすぎなかった。
ラウールが告げた言葉が、喉の裏側でひどく鮮明に蘇る。
『クロセスバーナは虚無のゆりかごにまつわる情報、とりわけあの穴の向こう側に潜む何かへ手を伸ばそうとしている。もし彼らが任意の場所に虚無のゆりかごを呼び出せるのだとしたら、敵対する国家や都市を一斉に混乱へ陥れることなど、たやすいはずだ』
あのとき、ヴィルの掌がわたしの肩に置かれていた。ローベルト将軍の目が、硬く光っていた。そして、ラウールの赤紫の瞳の奥で、凍てた憂いがひと筋だけ光を残していた。
けれど今、その地獄は海を越え、王都の内側で口を開いている。
「いま怖れるべきなのは、西方大陸から逃れてきた人々ではありません。恐怖に駆られて、その人たちをひとつの名で括り、危険なものとして扱ってしまうことです」
言った瞬間、講義室のどこかで誰かが息を呑んだ。
お祖父さまは、すぐには答えなかった。小型観測具の硝子面は、彼の手の中でまだ灰黒く沈んでいる。そこへ一度目を落とし、それから、わたしの顔へ視線を戻す。
「……続けてくれたまえ」
「以前、西方へ向かう可能性について、ある方に相談したことがあります。そのとき、わたしはひとつの嫌な仮説を口にしました。クロセスバーナが目論んでいるのは、人と魔石を術式とは別の形で繋げること……融合させることなのではないか、と」
カテリーナの家で、酒と紙の匂いが混じっていた夜のことだ。言ってしまってから、自分でぞっとした。根拠の薄い思いつきにすぎなかったはずなのに、その言葉だけが、今になって胸の底へ冷たく戻ってくる。
声が震えている。それでも、止まれない。
「その方は、それを『人間そのものを生きた魔術の触媒にする』ことだと言いました」
あの部屋の薄暗い灯りと、紙をめくる乾いた音が、一瞬だけ講義室の静けさへ重なった。
特殊な術式を刻んだ魔石核片。虚無側の魔素を呼び込む媒介。
そういう言葉は、まだ形になりきっていない。けれど、身体が先にその輪郭を知っていた。
「いま感じている歪みは、その言葉に近いものだと思えるのです。外側から浴びせられた術でも、魔道具の暴走でもない。人の身体の内側に置かれた何かが、そこから裂けている。そういう反応です」
茉凜の声が、白い剣の芯からそっと届く。
《《間違いない。美鶴の感覚と、わたしの走査が一致してる。外部からの魔素流入じゃない。発動点が、人の身体そのものの位置にあると見ていい》》
その言葉を、声には出さないまま受け取った。
講義室の中で茉凜の存在を明かすわけにはいかない。けれど、彼女の情報だけが、わたしの推論に裏づけを与えてくれていた。
「魔石は自然には産出しません。魔獣の中核にしか存在しない。魔獣は虚無のゆりかごからしか生まれない。それが、この世界の理です」
お祖父さまの瞳が、ほんの少し鋭くなった。
それは、わたしの言葉に対してではない。わたしの言葉の先にあるものを、もう見ている目だった。
「それなのに、人の身体の中で、それが起きようとしている。いえ……起きているのではなく、起こされているんです。何者かの手によって」
講義室が、静まり返った。
前列の研究者のひとりが、唇を噛んでいた。後列の学生が、筆記板を膝から滑り落としかけて、慌てて押さえた。王宮側の文官は、伏せた筆記板の上に手を置いたまま、微動だにしない。
お祖父さまは、庶務官の持ってきた報告紙と、自分の手の中の小型観測具を、静かに見比べた。
「たしかに、君の見立ては筋が通る」
低い声だった。
柔らかいのに、逃げ道を与えない声だった。
「だが、いま断じるには早い。そこを踏み違えれば、私たちもまた、名づけの刃を握ることになる」
その言葉に、背筋が冷えた。
お祖父さまは、答えを奪わない。けれど、わたしの焦りがどこで危うくなるかを、先に見ていた。
わたしは一度だけ息を吸った。舌の裏に残る金属めいた苦さが、まだ消えない。
「急変し、暴走している人を止めることは必要でしょう」
声が、自分のものではないように細く響いた。
「ですが、避難民全体を敵として扱えば、敵の仕掛けに乗ることになります。恐怖が、人を殺す理由になってしまう」
窓の外の警鐘が、石壁を伝って低く震えた。吸い込んだ空気の冷たさが、胸の奥へ細く沈んでいく。
「そうなれば、わたしたち自身の手で王都を内側から壊していくことになる。それこそが、敵の狙いなのだと、わたしは思います」
講義室の静けさが、さらに深くなった。
お祖父さまは何も遮らない。ただ、わたしの次の言葉がどこへ向かうのかを、静かに待っている。
「だから、わたしを現場へ行かせてください。何が起きているのかをこの目で確かめたいのです。ここにいるだけでは読みきれません。魔素の流れなら、わたしには読めます。どこで、何が、どう歪んでいるのか。観測具では拾いきれない質感が、わたしには届くんです」
言い終えた瞬間、壁際でヴィルが動いた。
腕を解き、半歩だけ前へ出る。石床を踏む音は小さいのに、講義室の空気がその一歩へ引き寄せられた。
「ミツル」
低い声だった。
護衛騎士としてだけではない、仲間としての声だった。けれど、その底に別のものが沈んでいるのを、わたしだけが知っている。
「お前を外へ出すわけにはいかん。ラウールの警告を忘れたか」
忘れるはずがなかった。
『クロセスバーナの狙いはミツルである可能性が高い』
あの赤紫の瞳が、そう告げた。そして実際に、一度は攫われた。白い剣ごと奪われかけた、あの夜の冷えは、まだ肌の奥に残っている。
「忘れてなどいないわ。だからこそ、物々しく護衛をつけて出るわけにもいかない。目立てば王宮側にも伝わるし、敵にとっても望むところになる」
「それがわかっているなら、なぜ――」
「でも、いまの王都で、この魔素の歪みの質をいちばん正確に読めるのは、わたしよ。魔導兵団の広域観測装置は、おおよその位置と強度、属性の傾向までは拾える。でも、その歪みが何を起点にしているのかまでは届かない。人の魔術なのか、魔獣の発生なのか、それとも……もっと別の、人を器にしたものなのか」
ヴィルの顎が、わずかに引かれた。
反論しようとして、けれど言葉が見つからない。わたしの言っていることが、ただの感情ではないと、彼も知っているからだ。
お祖父さまが、静かに口を開いた。
「ミツル。君の見立てを軽んじるつもりはないよ。むしろ、その感覚は、おそらく今この場にあるどの観測具よりも鋭いだろう」
「では――」
「だからこそだ」
お祖父さまの声は、そこで少しだけ硬くなった。
「その鋭さを、敵の前へ差し出すわけにはいかない。ヴィルの言うとおり、いま君を出すべきではない」
「お祖父さま――」
「落ち着いて聞いておくれ」
声はやわらかかった。けれど、その底にある静けさは、ただの穏やかさとは違っていた。
先王として、総長として、そして長く王宮の内側を見てきた人の声だった。
「市中の制圧と避難誘導は、将軍府の職分だ。リーディス軍には、対魔獣戦の蓄積がある。西部戦線を経た将兵たちもいる。それに、ローベルトなら王都守備隊ではなく、銀翼を選択するはずだ。ならば、防衛線と避難路の確保も任せられよう」
お祖父さまの手が、机の上で静かに開かれた。
こめかみの筋がかすかに引き、それから口もとがゆるむ。あの順番を、わたしはもう何度も見ている。
「加えて、魔導兵団には広域観測の目がある。どこで、どの程度の魔素反応が起きているか。属性の色がどこで濁り、どこで黒化しているか。それを追えるのであれば、制圧線と避難線を組み替えられるはずだ」
「でも、それだけでは……」
「もちろん、確定ではない。だからこそ、観測を重ねるのだ。いまの段階で君まで危険の中へ踏み込む理由にはならない」
お祖父さまの声は静かだった。けれど、その静けさは逃げではない。現場へ行かせないために理屈を積むのではなく、いま使える手を、ひとつずつ机の上へ並べている声だった。
「ローベルトなら、封じるべきものと守るべきものを取り違えまい。かつて閃光と共に、銀翼の片翼を担った男だ。信じたまえ」
その名が落ちた瞬間、ヴィルの表情がわずかに変わった。信頼と苦さが、同じ場所に沈むような目だった。
「だからこそ、ここで必要なのは闇雲に走ることではない。見えているものを、正確に渡すことだ」
膝の裏が、冷えていた。
理にかなっている。わかっている。お祖父さまの声は正しく、ヴィルの判断も間違っていない。
けれど、窓の外ではまだ警鐘が鳴っている。そして、わたしの肌だけが知っている魔素の歪みは、まだ収まっていない。
「お祖父さま」
「なんだね」
「では、せめて、ここでできることをさせてください。出られないのなら、ここから読めるものを読ませてください」
お祖父さまが、目を細めた。
その眼差しは、止めるためではなく、次に何を差し出すのかを待っているものだった。
「魔導兵団の観測記録の写しが届き次第、大学の解析班で照合します。その前に、お祖父さまの小型観測具の反応を、参照記録として残してください。属性の色が定まらず、黒化するなら、通常の魔術暴発とは考えにくいです。急変前に、何らかの兆候が出ているかもしれません」
言葉を重ねるほど、講義ではなくなっていく。
けれど、さっきまで話していた精霊魔術の基礎理論も、安全運用の考え方も、いまここで必要な知に変わろうとしていた。
「それと、侍医司へも伝令を。急変者に触れた人、近くにいた人の記録が必要です。避難民は、原則として拘束ではなく保護の対象として扱ってください。家族単位を崩さず、複数の保護区画へ誘導すること。観測、隔離、保護。この三つを混同してはなりません」
お祖父さまは、庶務官へ視線を移した。
「よろしい。では、将軍府へ返答を。王立魔術大学で解析班を編成する。魔導兵団の広域観測記録は写しを取らせ、伝令に持たせて総長室へ届けさせなさい。現時点で確認された西門、南港、運河沿いの反応は、すべて時刻順に整理する。可能なら、観測班の記録係を一名、こちらへ回すよう要請を」
「はっ」
「総長室で受けた記録は、必要な写しを灰色の塔へ回す。本学にある学生用測定具は使用しない。誤用を避ける。私の携帯観測具の記録を参照記録として添えなさい。侍医司へも伝令を出し、負傷者と接触者の記録を、できるだけ早く大学へ回してもらう」
庶務官が頷き、駆け出していく。
お祖父さまは、それからわたしを見た。
「ミツル。観測記録の集約と解析は、総長室で行う。だが、記録が届くまでのあいだ、君には灰色の塔の最上階で、王都西側を中心とする魔素の歪みを読んでもらいたい」
わずかに沈黙を置いて、お祖父さまは静かに続けた。
「君の鋭さと正確さこそ、いまは代え難い。だからこそ、いま君をその危険の中へ送り出すわけにはいかない。本学に留まり、塔の上から読んでくれたまえ。頼んだよ」
「……はい」
頷いた。
頷くしかなかった。
けれど、その一言を飲み込むのに、思ったより時間がかかった。
「それから、王立魔術大学構内への出入りを一時制限する。外へ出すのではない。外部からの聴講者は、大学内の控室へ静かに移しなさい」
お祖父さまが一度だけ目を伏せ、それから低く重ねた。
「帰してはならない、などという言い方はしないことだ。不安を煽る。安全確認が済むまで、大学が保護する。そう伝えるのだ」
使節筋の者も、王宮側の文官も、貴族院に近い顔ぶれも、まだ声を上げなかった。けれど、沈黙している者ほど、次にどの言葉を選ぶかで王都の空気を変えてしまう。
「いまは言葉が刃になる。だからこそ、ひとつの語も粗く扱ってはならない」
――名づけは、刃になる。カテリーナなら、きっとそう言う。
わたしは白きマウザーグレイルを抱え直した。剣は静かだった。けれど、その沈黙は空白ではない。
《《美鶴》》
「うん」
《《怖いよね》》
「……うん」
《《そういうときってさ、つい突っ込みたくなるんだよね。でも、いまは見よう。ここからでも、見えるものはある》》
「うん。見なきゃね」
《《真打ちってのは、最後の最後に出るもんだよ。条件が揃って、ここぞってときに一気に行く。焦って舞台袖から転がり出るのは、勝負師としては二流でしょ?》》
「さすがは、百戦錬磨の茉凜ね。……今回ばかりは、素直に従うわ」
中段の席で、ソレイユが紙束を膝の上で握りしめていた。まっすぐにこちらを見ている。その目が、震えていた。けれど、逸らしてはいなかった。
わたしは彼女へ向けて、小さく頷いた。
大丈夫、とは言えなかった。大丈夫ではないから。けれど、ここにいる、とだけ伝わればよかった。
ソレイユは、頷き返した。
紙束の端に、彼女の丸い字が見えていた。あの余白のメモ。講義のために、二人で積み上げてきた言葉の骨。
精霊魔術は、ただ戦うためだけの術ではない。
それはもう、別の言葉で口にしていた。
奇跡という名で遠ざけるためでも、破壊のための力として囲い込むためでもない。そう言ったばかりの言葉が、いま講義台の上を離れて、王都の現実へ引きずり出されている。
見せ物でもなく、抑止力でもなく。人を守るために、いまここで使わなければならないもの。
窓の外で、遠く警鐘がまた鳴った。
異変を感じ取ってから、まだ半刻ほどしか経っていない。それなのに、世界はもう、さっきまでとは違う形をしていた。
演壇の上には、まだ水の気配が残っている。虹を映した石畳の跡は、もう乾いてしまっただろう。けれど、この部屋の空気の中に、さっきまでわたしが伝えようとしていたものの痕跡だけが、かろうじて、まだ残っていた。
わたしはそれを手放さないまま、次の報告を待った。




