灰色の塔の反対側
王立魔術大学の校舎群を背に、灰色の塔へ向かったとき、以前ここで足を止められた日の声が、石の冷えと一緒に戻ってきた。
灰色の塔は、王立魔術大学の正門側に立っている。王宮の白銀の塔が王権の光を集めるものなら、こちらは、知の重みを灰色の石に沈めた塔だった。
外から訪れる者にとって、あの塔は、大学へ入るための最初の境界だった。はじめてここへ来た日、わたしは重い鉄門の前で足を止められた。油と金属の匂い。灰を帯びた空の下で、鈍く光る肩章。
あのころのわたしは、紹介状と、答えがほしいという焦りだけを抱えていた。門の向こうには、母のことも、父のことも、白い剣のことも、ひとつ確かな形へ近づけてくれる何かがある気がしていた。
いまは、その反対側から塔を見ている。
正門側の鉄門は、ここからは見えない。けれど、記憶の中で鉄の合わせ目が風に薄く鳴り、それきり静まった。
魔術大学へ通うようになってからも、わたしが正門側へ出ることはほとんどなかった。離宮からの馬車は、お祖父さまが王太子時代から用いていた裏門をくぐり、人目の少ない道を抜けて、そのまま大図書館へ向かう。学生たちのざわめきも、講義へ急ぐ足音も、いつも壁の向こうで遠くほどけていくものだった。
今日は、校舎側から灰色の塔へ戻っている。誰も呼び止める者はいない。風だけが石壁を撫でて過ぎる。それなのに、足の裏は、あのときより重かった。
西門へ向かわないことは、もう決まっている。お祖父さまに持ち場を与えられ、茉凜に「いまは見よう」と戻され、ヴィルに止められた。理屈ではわかっている。
――ここから見ること。王都を俯瞰できる場所に立つこと。それが、いまのわたしの役目なんだ。これは戦略的な判断。論理的にも正しい。
けれど、正しさをいくつ並べても、胸に残った熱は静まらなかった。
灰色の塔の校舎側入口で、パウエルが待っていた。濃い緑のローブの裾が、塔の内側から流れてくる空気にかすかに揺れている。彼は以前と同じように、礼儀正しく頭を下げた。
あの日も、この人はわたしを待っていたのだ。告げられた特徴の少女が現れたら案内するように――きっと彼は、あの日もこの塔のどこかで、その時を待っていたのだろう。そのことに思い至ると、あのころの焦りまで、彼の整った一礼の中へ畳まれていたように思えた。
所作は変わらない。ただ目元には、今日の王都が置いていった疲れが、かすかな影になって残っていた。
頭を上げると、パウエルは片手をやんわりと内側へ向け、進む方角だけを示してくれる。声より先に、所作で道をひらく人だった。
「総長より、校舎側入口でお待ちするよう申し受けておりました。灰色の塔、最上階観測室までご案内いたしましょう。足もとは冷えますので、どうかお急ぎになりすぎませんよう」
パウエルの声は静かすぎて、遠くの騒ぎがここまで届かないことのほうが、かえって不自然に思えた。
「……お願いします、パウエルさん」
ヴィルは何も言わず、わたしの半歩後ろに立っていた。腰には銘なき聖剣。肩には記録具を収めた革鞄。片腕には地図筒。小型観測具を包んだ布袋まで抱えている。金具が触れ合うたび、硬い音が短く鳴った。
警護と荷物持ち。その両方を当然のように引き受けている姿は、少しだけ不格好だった。その不格好さに、わたしは息を整えられるのかもしれなかった。
塔の中へ入ると、外の風が背後で途切れた。
扉の重さが背中の向こうで落ち着いていく。音の消えた空気が、床からゆっくり沈殿してきた。石畳へ落ちる足音はひとつずつ硬く返り、青白い魔道ランタンの光が、壁に刻まれた古い文字と紋様を淡く浮かび上がらせていた。
乾いた紙の匂いがした。薬草の粉に似た苦み。その奥へ、今日はあるはずのないものが薄く混じっている。
煙。
鉄錆。
乱れた息。
ここまで届くはずがない。届くはずのないものばかりだった。それでも、ひとつずつ名づけた瞬間、息の通り道が細くなる。
パウエルの背中を追って、回廊を進む。彼は振り返らない。足取りは一定で、急がず、緩めず、ただ必要な場所へ向かう人の歩き方だった。
その後ろ姿を見ていると、あの日のグレイさんの背中が重なった。
いまなら、お祖父さまと呼ぶ人の背中。
『急がなくていい。ここは対話に向けた準備の為の時間だと思って上りなさい』
あの声が、石壁の奥から戻ってくる。
あのときは、誰かに会うために登った。知らない真実へ近づくために。自分の足元を揺らす言葉を、それでも聞きに行くために。
――今は、見るために登っている。見たくないものから、目を逸らさないために。
その意味を、まだ自分の言葉では受け止めきれていない。ただ、足裏へ返る段の硬さだけが先に身体へ届き、足を止めるなと告げていた。
螺旋階段の前で、パウエルが足を止めた。
塔の内側をぐるりと囲むように、石段が上へ伸びている。中央には大きな空洞があり、底の見えない暗がりから、古い塔の息のような空気がゆるやかに昇ってきていた。一定間隔の魔道ランタンが柔らかく灯り、光と影の縞が、階段の曲線に沿って流れていく。
――ここを上るんだ。あの日と同じように。けど、同じではない。
一段目に足を乗せると、段の硬さが靴底から膝の裏へ返ってきた。手すりへ指を添える。年季の入った石はところどころ削れ、滑らかな場所と、粉塵の残るざらつきが混じっている。指の腹に残る細かな粉が、ここを通った多くの人々の時間を、言葉もなく留めていた。
前を行くパウエルのローブが、石段をかすめる。後ろでは、ヴィルの足音が続く。金具が一度鳴り、すぐに沈黙へ吸われた。
階段を上るうち、もうひとつの声が、古い石の反響の中から滲んでくる。
『この灰色の塔の真の役割は、その景色の向こう側を知ることにある』
あのとき、お祖父さまはそう言った。
景色の向こう側。その響きを思い出した途端、まだ見ていないものが、息の入口に冷たく触れた。
――お祖父さまは、怖いと言えることを、弱さとは呼ばなかった。
そのときのわたしは、ただ美しい景色を前にした不安の話だと思っていた。いま、同じ螺旋の途中で、その記憶だけが別の向きに光っている。
――人が魔獣化すること。
その事実を、頭の中で何度も分解しようとしていた。
――急変。暴走。接触者。避難導線。記録。観測……。
言葉をひとつずつ置くほど、石段の冷えだけが足裏へ残った。紙の上なら線が引ける。因果の端を掴める。どこかに、人を救うための手がかりが見つかるかもしれない。そう思おうとするたび、指先は手すりのざらつきを探していた。
――でも、その人はいつから人ではなくなったのだろう。ううん、違う。人でなくなるように、誰かの手で仕掛けられたんだ。
そう考えた瞬間、舌の奥に、冷たい石を含んだような重さが残った。
――魔石。
その語を、いまここで深く考えてはいけない。考えれば、階段の重さとは別の場所へ落ちてしまう。一度浮かんだ言葉は、湿った石の匂いの中で、なかなか消えてくれなかった。
小窓から、王都の白い屋根が一瞬だけ見えた。遠い。あまりに遠い。光に洗われた街並みは、ここからだと音のない模型のようだった。そこに悲鳴があったことも、逃げ惑う足音があったことも、信じられないほど。
窓枠の縁を、指で一度だけなぞる。冷たさが爪の付け根に短く沁みた。
変わる直前まで、その人たちは何を見ていたのだろう。自分の手が獣の爪へ変わっていくのを、感じたのだろうか。誰かの名を呼ぼうとして、呼べなかったのだろうか。
――彼らは、何を押し込まれたのだろう。
問いだけが、声にならないまま擦れた。
背中に、石段の硬さとは違うものが走った。呼吸が浅くなる。手すりを握る指に力が入り、粉塵が指の腹へ擦れた。痛いほどではない。ただ、その小さなざらつきだけが、考えすぎる頭をかろうじて階段へ戻してくれる。
もし、わたしが西門にいたら。もし、目の前にいたのが魔獣ではなく、かつて人だったものだとわかってしまったら。もし、その人の中に、まだ名前や声や恐怖の名残を見てしまったら。
わたしは、何をしただろう。
ふいに、昔のヴィルの声が戻ってきた。
『お前に人は殴れんだろう』
あのときのわたしは、弱さを見透かされたのだと思った。優しいのではなく、覚悟が足りないだけだと。傷つける勇気がないだけだと。だから悔しくて、言い返すこともできなかった。
人を殴れない。
人だったものを、斬れない。
そのあいだにある距離は、思っていたよりずっと短い。
足が、一段遅れた。
すぐ後ろで、ヴィルの足音も止まる。振り返らなくてもわかる。あの人は、わたしが崩れるかどうかを、声より先に見ている。
「大丈夫か?」
低い声が、螺旋の内側を小さく回って戻ってきた。
わたしは手すりを握り直した。石のざらつきが掌に残る。その感触を確かめてから、ようやく息を吸った。
「ええ、大丈夫よ」
短く答えた。
嘘ではない。けれど、全部でもない。ただ、今はまだ言えなかった。
なぜ止められてよかったのか。なぜ、自分があの場へ行ってはいけなかったのか。なぜ、斬れないことより、救えないと知ってしまうことのほうが怖いのか。
どれも、言葉にするには形が早すぎた。まだ、掌に残るざらつきの奥へ置いておきたかった。
パウエルは何も問わず、先を歩き出した。光と影の縞が、また身体の上を流れていく。階段は同じ弧を描き続け、同じような段が、同じように上へ伸びている。導きがなければ、いつまでも同じ場所を回っているのではないか。そんな錯覚が、一瞬だけ足裏を掠めた。
けれど、上からは光が滲んでいる。
まだ遠い。それでも、見えている。
――ヴィルが止めてくれなかったら。お祖父さまが、わたしに持ち場を与えてくれなかったら。茉凜が、怖いのだと教えてくれなかったら。きっとわたしは、前みたいに――。
そこから先は、考えられなかった。考えたくなかったのかもしれない。
螺旋階段の終わりが近づいていた。闇に浸されていた石の輪郭が、少しずつ柔らかな明度を帯びていく。パウエルが最後の踊り場へ上がり、観測室へ続く扉の前で鍵束を取り出した。
金属の輪が、かすかに鳴った。
その音が、塔の奥へ落ちていく。落ちていく先で、さきほど浮かんだ語の重さだけが、もう一度沈む。
今はまだ、そこに触れてはいけない。触れれば、この階段の先にある景色が、別の顔をしてこちらを向く気がした。
わたしはまだ誰にも渡せない言葉を、声の手前で押さえたまま、最後の一段へ足をかけた。




