人ならざるもの
ローベルトが王立魔術大学総長への直通伝令を命じるより、少し前。西門の仮設救護区で、ラウールが最初の発動を感じ取った、そのすぐ後のことだった。
王立魔術大学の大講義室では、わたしの講義が始まったばかりだった。
高い天井の下には、さっき見せたばかりの水の気配が、薄い膜のように残っている。〈場裏・青〉の内側で、水をいくつもの珠へ分け、光を透かし、最後には器へ戻して見せた。その余韻が、石床の冷えと混ざり、講義室の空気をほんの少しだけ澄ませていた。
学生たちは、まだ息を呑んだままだった。
誰かの羽根ペンが紙に触れ、かり、と小さく鳴る。前列のソレイユは、手元の覚え書きへ目を落としながらも、視線の端でこちらを見ている。お祖父さまは講壇の脇で静かに腕を組み、ヴィルは壁際に立って、講堂全体を見渡していた。
わたしは、ゆっくり息を吸った。
「いま見ていただいた通り、精霊魔術は、力をただ外へぶつけるものではありません。まず、現象の振る舞いを定める〈場裏〉という領域を作る。そこに性質を与える。そして、必要なだけの現象を――」
言いかけたその瞬間、窓硝子が微かに震えた。
音というほどではない。けれど、細い爪で玻璃の縁を撫でたような、いやな震えだった。講義室の空気が一段だけ沈み、さっきまで残っていた水の清らかな匂いの下へ、焦げた金属に似たものが薄く混ざる。
わたしは言葉を止めた。
この感覚は、知らないものではなかった。
エレダンにいたころ、魔獣狩りをしていたころから、わたしは魔素の濃淡や流れの乱れを肌で拾っていた。魔獣が近づく前の空気の重さ。森の奥で淀む、息苦しいほど濃い魔素。キカロス大森林地帯で覚えた、見えない流れの揺らぎ。
あのころのわたしは、それを魔術適性の高さなのだと思っていた。
けれど、違った。
魔石の命の灯火は、これまで何度手を伸ばしても、わたしを内側へ入れてはくれなかった。そこにあるとわかるのに、触れられない。硬い硝子の奥で燃える小さな火を、外側から見ているような感覚だけが残る。
それでも、空気や地脈に滲む魔素の濃淡なら、肌でわかる。
いま、その流れが王都の西側で、内側から裂けるように乱れていた。水面の下に黒い油が流れ込むような、触れてはいけないものが、世界の薄い膜の裏から滲み出してくる感触だった。
腰の白きマウザーグレイルが、冷たく脈を打つ。
《《美鶴……》》
茉凜の声が、いつもの軽さを失っていた。
《《いま、嫌な感じしてるでしょ?》》
答える前から、彼女には伝わっていたのだと思う。わたしの皮膚に走ったざらつきも、喉の奥へ残った金属めいた苦さも、胸の下で浅くなった呼吸も。茉凜はそれらを、マウザーグレイルの奥で別の形へ置き換えている。温度、匂い、震え、息苦しさ。その断片を束ね、波形のように見ているのだろう。
講義室のあちこちで、ごく小さな反応が生まれていた。
後列の研究者が、胸元の魔石へ手を当てる。学生のひとりが顔を上げ、唇の色を失う。王宮側の文官は何も感じていないのか、周囲の異変に遅れて目だけを動かした。
お祖父さま自身が、それを肌で拾ったわけではないのだと思う。
けれど、わたしが言葉を止めたことも、魔術適性の高い者たちの反応も、彼は見逃さなかった。
同時に、お祖父さまの手が、胸元の内ポケットへ伸びた。
取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな魔道具だった。銀の外枠に薄い硝子板が嵌め込まれ、その奥に、米粒ほどの魔石と、細い触媒片が組み込まれている。
それは、魔術適性を測る器具の原理を応用した携帯用観測具だった。魔石の命の灯火から引き出された魔素が内部の触媒片と反応し、周囲に流れる魔素の偏りや強度を、ごく狭い範囲で色として示す。赤なら火、青なら水、白なら風、黄なら土。色が濃いほど反応は強く、真っ黒に沈めば、その器具では測れないほどの異常を意味する。
触媒片が、淡く光った。
最初は白。次に青。けれどすぐ、その色は濁った。赤でも、青でも、白でも、黄でもない。複数の色が混ざり合ったのではなく、色そのものが食われていくように、灰黒く沈んでいく。
お祖父さまの瞳が、ふっと鋭くなる。
「静粛に」
その一言で、講義室のざわめきが止まった。
お祖父さまは、小型観測具の硝子面を見つめたまま、低く告げる。
「これは、大学内の反応ではない。外だ。かなり遠い……王都の西側から来ていると見ていいだろう」
複数の学生が、息を呑んだ。
触媒の黒ずみは、完全な黒ではなかった。だが、濁った灰の底で、細い光が乱れている。通常の魔術発動なら、属性に応じた色が立つ。強ければ濃くなる。だがこれは、色が定まらないまま、触媒の反応限界へ近づいていた。
わたしの背筋を、細い冷えが走る。
お祖父さまは、指先で装置の側面をひとつ押した。硝子面の端に、淡い線が浮かぶ。方位と強度を示す簡易の刻線だ。講義用の玩具ではない。長年研究者として、そして先王として、多くの異常を見てきた人が、念のため肌身離さず持っている道具なのだと分かった。
けれど、それはあくまで小型のものだった。
拾えるのは、異常の気配と、大まかな方角だけ。
王都全域を見渡すには足りない。
《《あの子たちに推論させてみたけど……これって、西だけじゃないかもしれないね》》
茉凜の声が低い。
《《たぶん普通の魔術じゃない。魔石から魔素を引き出してる反応に似てるけど……なんか、内側から一気に破れてるみたいっていうか。普通じゃないよ》》
――内側から?
その言葉に、喉の奥がひどく乾いた。
遠い西方の話だったはずのものが、胸の内側で一気に近づく。
あの夜、自分で口にした仮説。ラウールや灰月が持ち帰った、難民たちの聞き取りの断片。西方で進む、禁忌の魔石研究。人体実験。人と魔石を、術式とは別の形で繋げること。融合させること。
――まだ断定してはいけない。
そう思ったのに、身体のどこかはもう先に知っていた。
大講義室の空気は、もう講義のものではなかった。ざわめきが席の奥から広がり、羽根ペンの音が止まる。胸元の魔石を押さえる者、隣の顔色を窺う者、窓の外へ目を向ける者。誰もまだ、何が起きたのかを知らない。
けれど、何かが起きたことだけは、もう誰にも否定できなかった。
講義は、そこで一時中断となった。
◇◇◇
状況もわからぬまま、半刻が過ぎた。
お祖父さまの判断で、大講義室にいた聴講者たちは、しばらくその場に留め置かれることになった。退室を禁じる、という強い言い方ではなかった。けれど、王都の西側で何かが起き、魔素の反応がまだ収まらない以上、誰も軽々しく外へ出せないのだと、誰もが理解していた。
漂う空気は、もう講義のものではなかった。
学生たちは席に戻っていたが、羽根ペンの音はほとんどしなかった。研究者たちは低く言葉を交わし、王宮側の文官は伏せた筆記板の端を指で押さえたまま、何度も扉のほうを見ている。窓の外からは、遠い警鐘が時折、石壁を伝ってかすかに響いてきた。
わたしは講壇のそばに立ったまま、まだ喉の奥に残る金属めいた苦さを飲み込めずにいた。
さっき感じた魔素の歪みは、もう最初の鋭さを失っている。けれど、消えたわけではなかった。薄い膜の裏側で、何かがまだ息をしている。そんな嫌な感触だけが、王都の西側から細く残っている。
そのとき、講義室の扉が強く叩かれた。
リズムは乱れていた。礼を尽くすためのノックではない。急報を抱えた人間が、扉の向こうで呼吸を乱している音だった。
お祖父さまが振り向く。
「入りたまえ」
扉が開き、大学庶務官のひとりが駆け込んできた。顔色は紙のように白く、外套の裾には細かな埃がついている。彼は講義室の視線を浴びて一瞬だけ足を止めたが、すぐに総長席へ向かって深く頭を下げた。
「総長閣下。将軍府より、魔導兵団観測班を通じて至急の照会です」
お祖父さまの手の中で、小型観測具の触媒が、また一段暗く沈んだ。
「続けなさい」
「はっ。魔導兵団の広域観測装置が、王都西側一帯にて原因不明の魔術反応を捕捉。西門仮設救護区、南港、運河沿いに、ほぼ同時の反応ありとのことです。属性判定不能、触媒反応は黒化傾向。現地詳細は、なお確認中です」
現地詳細は、なお確認中。
その一文のほうが、かえって怖かった。
まだ名のない異常だけが先に届き、誰が倒れたのか、何が起きたのかは、講義室の誰にもわからない。けれど、わたしの身体だけは、もうその歪みの質を知っている。
魔導兵団の広域観測装置。
それは、お祖父さまの持つ小型観測具と同じ原理を、遥かに大きく、精密に組み上げたものだった。
魔術適性測定に使われる触媒反応を応用し、街区ごとの魔素反応を拾い、属性の色と強度を地図上へ返す。どこで、どの属性の魔術が、どれほどの規模で発動したのか。通常なら、火は赤く、水は青く、風は白く、土は黄に近い揺らぎとして示される。
だが今、庶務官の手にある報告紙には、墨で急ぎ書きされた一文があった。
触媒反応、属性判定不能。黒化傾向あり。
その文字を見た瞬間、講義室の空気が凍った。
お祖父さまは、庶務官へ静かに目を戻した。
「現地の状況について、何か断片でも入っているかね」
「憲兵隊本部からの未整理報告が、ひとつだけございます」
庶務官の喉が鳴った。
「西門仮設救護区にて、西方避難民の一部に急激な肉体変質と暴走が確認された、とのこと。ただし、現場は混乱しており、詳細は未確定です」
西方避難民。
肉体変質。
暴走。
その三つの言葉が、講義室の中で硬く凍った。
人が、人ならざるものへ変わる。
誰も、まだそれを「魔獣化」とは言わなかった。けれど、その場にいる者たちの顔色は、その言葉だけを先に思い浮かべたように見えた。
クロセスバーナにまつわるきな臭い噂は、王都にももう広まっている。
誰もすぐには動かなかった。さっきまで水の光を見ていた学生たちの顔から、ゆっくり血の気が引いていく。紙の上を走っていた羽根ペンは止まり、インクの先だけが小さな黒い点を広げていた。




