王都を檻にしてはならない
王宮の最奥には、まだ香油の匂いが残っていた。
磨き上げられた床に灯が長く伸び、厚い絨毯は、人の足音も、焦りも、ほとんど吸い込んでしまう。外の泥も、煙も、怒号も、ここまでは届かない。届かないはずだった。
それでも、遠い警鐘だけが石壁を伝い、薄く、低く、喉の奥で鳴る不安のように震えていた。
侍従が回廊へ入ったとき、額には汗がにじんでいた。礼を整えようとした膝が、ほんのわずか遅れる。絨毯に沈む靴先が、迷いを隠しきれない。
「憲兵隊本部より急報。西門および南港方面にて、原因不明の魔術災害の可能性ありとのことにございます――」
奥の扉が、細く開いた。
国王ロイドフェリク二世の姿は見えない。見えるのは、扉の隙間から漏れる灯の筋だけだった。声だけが、厚い絨毯の上へ落ちる。
「些事である。ローベルトに任せておけばよい」
侍従が息を呑んだ。
その音は小さかったが、静まり返った回廊ではやけに脆く響いた。彼は報告書を握る手に力を込め、紙の角が指先へ食い込むのにも気づかないまま、もう一歩だけ踏み出す。
「陛下、市中では西方避難民をめぐる騒擾の恐れもございます。加えて、発生地点は一箇所に留まらぬとの――」
「ふん、シンシアリーナめ……」
その名だけが、少し苦く響いた。
王は、警鐘ではなく、その名に顔を向けた。扉の向こうで、衣擦れがかすかに鳴る。重い椅子に身を預け直すような気配がした。
「難民の受け入れだの支援だのと申すから、このように賊を紛れ込ませることになった。責は免れんな」
廊下の空気が、音もなく冷えた。
侍従は返事を失う。手の中の紙だけが、湿った指に吸いついていた。外では人が倒れている。門の方角では、火と悲鳴が混じっているはずだった。けれどここでは、乾いた紙をめくる音だけがした。
「西方大陸の小国風情が、こちらへ火の粉を飛ばしているだけであろう。たしかにクロセスバーナという名は王家にとって因縁浅からぬもの。だが、大仰な名を掲げようとも、所詮は辺境の新興国にすぎぬ」
遠い警鐘が、またひとつ鳴った。
石壁を伝って届いたその音は、薄い刃のように回廊を撫でていく。けれど王の声は、そこへ目を向けなかった。目を向けないことで、存在しないものにしようとしているようでもあった。
「紛れ込んだ者どもが多少騒いだ程度で王都の守備隊を動かしたなどと知れれば、各国の大使どもが何と言うか。まして近衛騎士団など論外だ。王宮が怯えたと物笑いの種となろう」
「しかし、陛下」
侍従の声は、言い終える前から細くなっていた。
扉の向こうの沈黙が、じっと彼を押し返す。香油の甘さが、急に濃く感じられた。外の煙を知らないこの匂いが、あまりに清潔で、あまりに遠い。
「ローベルトに処理させよ。あの男なら、泥の始末には慣れておる」
冷たい沈黙が落ちた。
泥、という言葉だけが、絨毯の上に残る。そこには血の匂いも、焼けた木材の粉も、逃げ惑う人々の足音も含まれていない。ただ、王宮の奥で遠ざけられたものとして、短く切り捨てられた。
「それより、本日は来訪した使節団との謁見であったな」
その一言で、廊下の空気がわずかに変わった。
外の鐘より、内の面子。
王宮では、その順番がまだ崩れていなかった。白い壁に映る灯の揺れさえ、何事もなかったように整って見える。
「宰相」
「は。万事ぬかりなく」
すぐ脇に控えていた宰相の声は、低く、滑らかだった。深く頭を垂れる所作に乱れはない。まるで、警鐘も、報告も、ただ予定表の余白に書き込まれた小さな注記にすぎないと言うように。
「それと、ミツル・グロンダイルには、動くこと罷りならぬと伝えよ。あれは何をしでかすかわからん。制御できぬ駒は留め置くが上策。下手に事を広げられて、王家に災いをもたらされても困る」
その名が落ちた瞬間、回廊の柱の陰で、シンシアリーナの指先が袖の内側でわずかに強張った。
絹の裏地が、爪の先にきしむ。
彼女は息を止めたまま、扉の隙間から漏れる灯を見つめていた。外の警鐘はまだ鳴っている。けれど、その音よりも、いまは「制御できぬ駒」という言葉のほうが、胸の奥で冷たく残った。
扉は、それ以上開かなかった。
シンシアリーナは、回廊の陰からそのやり取りを聞いていた。
顔色は変えない。怒りも失望も、声にしてしまえば王宮の石壁に吸われて終わる。けれど、声にしない言葉にも力はある。形を変えれば、人の動きは変えられる。
彼女は静かに自室へ戻った。
机の上には、カテリーナから届いた便箋がある。
『名づけは、刃になる』
その一文を読み、シンシアリーナはしばらく目を伏せた。灯りの下で、便箋の白だけがひどく静かに光っている。
すぐに、指示書を書きはじめた。
西門および南港方面の原因不明の魔術災害につき、王宮備蓄より清潔な布、毛布、水を搬出。侍医司へ負傷者受け入れを要請。憲兵隊および将軍府への文書において、「西方避難民による騒擾」の表現を禁ず。急変していない者は、出自にかかわらず保護対象と明記すること。
そこで一度、ペン先が止まる。
ミツル・グロンダイルに関する伝達は、王立魔術大学総長を経由すること。
王命を破るわけではない。
けれど、王の言葉を、そのままミツルの首へ縄として掛けさせるつもりもなかった。
文字は乱れなかった。乱れれば、文は弱くなる。弱い文は、別の者に書き換えられる。
封を施し、灰色の上衣をまとった男へ託す。
「これを将軍府へ。誰にも預けず、直接渡してください」
「御意」
「止められたなら、わたくしの名を出してかまいません。責は、こちらで負います」
「御身の名に懸け、必ずやお届けいたします」
男が出ていく。
そのあとで、シンシアリーナは部屋の隅へ目を向けた。
そこに、彼女とよく似た背丈の少女が控えている。髪の結い方、衣の色、遠目の輪郭。王宮の廊下であれば、誰もが一度見ただけでは疑わない。
シンシアリーナは何も言わなかった。ただ、目を合わせた。
少女は小さく頷き、王女の外套へ手を伸ばした。
王宮には、王女シンシアリーナの姿が残る。
市井へは、侍女シンシアが行く。
その入れ替わりは、扉の外の誰にも知られない。
「最初の言葉を誤れば、次に流れるのは血です。ならば、王位継承第一位の名において、わたくしはわたくしの責で動きます」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、その声だけは静かに、王都のほうを向いていた。
◇◇◇
将軍府の作戦図室では、昨日置いた赤い印が、もう予兆ではなくなっていた。
西門、南港、運河沿い、魚市場、北東街区。伝令が走るたび、地図の上には新しい札が重ねられていく。赤は不審火。黒は急変。青は封鎖。細い紐で結ばれた線が、王都の内側を不快なほど静かに横切っていた。
副官は唇を結び、書記官は息を詰めて記録を続けている。墨の匂いと封蝋の匂いが、低い天井の下で混ざっていた。扉が開くたび、外の廊下から泥と汗の匂いが入り、部屋の空気を一段重くする。
ローベルト将軍は、重ねられた札の並びを見下ろしていた。
火災ではない。暴動でもない。病でもない。昨日までは、まだ点だった。いまは、線になっている。
「これは市中騒擾ではない」
低い声に、部屋の全員が顔を上げる。
「火災でも、暴動でも、疫病でもない。周到に配置されていたのだ。王都の内側に、あらかじめな」
沈黙が落ちた。
西方で進む、人の道を踏み外した魔石研究。その輪郭は曖昧なままだった。曖昧だからこそ、ずっと警戒していた。特殊術式を刻んだ魔石核片を人体へ融合させ、宿主を虚無側の媒介へ変える。言葉にすれば短い。だが、その短さの中に、人を人として扱わないすべてが詰まっている。
「ラウールの読みが当たったということだ。忌々しいが、認めねばならん」
ローベルトの視線が、地図の西側へ一度だけ流れた。
ラウールの入国。西方避難民の増加。リーディスが大国としての面子から、救いを求める者たちを門前で完全には拒めないという現実。敵は、そこまで読んでいたのかもしれない。
いや、読むだけではない。そう動くよう、少しずつ押していたのか。
王都で続いた不審火。小さな騒乱。掴みどころのない噂と、尻尾を残さぬ工作。どれも決定打にはならず、けれど人の目と兵の手を少しずつ散らしていく。門を閉じるほどではない。だが、内側の警戒を薄くするには足りる。
そうして生まれた人の流れの中へ、異物を混ぜた。
地図の上に置かれた赤と黒の印が、妙に整いすぎて見えた。整いすぎた災厄ほど、偶然の顔をしている。
ローベルトは、青の札をひとつ取った。
それを、王都の門の上ではなく、西門から南港へ伸びる救護線の上へ置く。
閉じるべきは、王都ではない。
人の流れそのものでもない。
敵が、その流れの中へ忍ばせた線のほうだ。
厚い指先が、地図の上で短く止まる。青い札は小さい。けれど、そこに置かれた意味だけが、低い天井の下で確かに重みを持ちはじめていた。




