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ひとつではない

 西門の警鐘は、鳴り止まなかった。


 一打目は遅かった。二打目は乱れ、三打目になってようやく、王都の内側へ向けて、まだ名を持たない異変の音が走りはじめる。鐘楼の金属音は濡れた空気に滲み、石壁と路地の奥へ、冷たい波のように広がっていった。


 仮設救護区画の外では、人の波が泥を蹴って崩れていた。裂けた天幕の布が風に煽られ、食べかけの椀が踏まれ、名を記した札がぬかるみへ沈んでいく。誰かが落とした子どもの靴が、片方だけ横倒しになっていた。もう片方は、泥の中のどこかへ呑まれたのだろう。


 ラウールは、もう男の名を呼ばなかった。


 名を呼べば、風が乱れる。風が乱れれば、逃げ道が潰れる。そうわかっていたから、喉の奥に残ったものを噛み殺し、懐の緋朧天石へ触れた指先だけで呼吸を整えた。


 石の熱が脈のように返ってくる。火と風と水、三つの気配が薄い金属越しに揺れ、指の骨まで、不均衡な震えを伝えていた。


 風の障壁は、ただ遮るための壁ではない。背後へ向かう面は厚く、正面だけをあえて薄くする。押し返すのではなく、力の向きをずらす。難民の列へ伸びる動きを、自分の側へ引き寄せるための、細く歪んだ誘導路だった。


 男だったものが、また動く。


 泥を蹴る音はない。足が沈み、次の瞬間にはもう角度が変わっている。人間が身を起こし、踏み込み、跳ぶ。その順序をすべて省いて、形だけがこちらへ滑ってくる。関節の位置はすでに人の理を離れていた。肩の角度も、指の長さも、ほんの数分前の旧友の輪郭とは重ならない。


 ラウールは肩をひねり、風の膜を斜めにずらした。黒ずんだ腕が、逃げ遅れた少年のいた場所を掠める。空気が裂け、帽子だけが跳ね飛び、泥の上で小さく転がった。


「列を崩すな」


 低い声が落ちる。自分の声だと思えないほど乾いていた。


「倒れた者は二人で引け。子どもを先に逃がすんだ。行け!」


 若い憲兵が、ようやく動いた。顎に汗を浮かべ、槍を握る手が震えている。けれど彼は槍を横へ構え、人の流れを一方向へ押し出そうとした。


「右だ、右へ寄れ! 門へ戻るな! 倉庫側へ抜けろ!」


 叫びは荒い。けれど、それでよかった。いま必要なのは整った号令ではない。泥と悲鳴の中でも届く、肺の底から裂ける声だった。


 ラウールの風が、倒れた天幕の裾を持ち上げる。布の下にいた女が這い出し、胸に抱いた赤子をさらに強く掻き抱いた。煮込みの鍋からこぼれた熱い泥まじりの煮汁は、細い風に押され、避難路の外へ流されていく。焦げた豆と薬草の匂いが、湿った土に混じって鼻を刺した。


 救護区画の奥で、老人が胸を押さえて膝をついた。


 ラウールの視線が動く。


 咳ではない。息切れでもない。喉の奥から、濡れた金属を擦るような音が漏れている。その隣にいた若い女も、片耳を押さえたままよろめいた。首すじの血管が内側から黒ずみはじめている。肌の色が、生きた人間の青白さをさらに越えて、鈍い灰へ寄っていく。


 西門だけで、もう三人。


 数ではない。これは仕込まれた深さだ。


 彼は知っていた。クロセスバーナが、魔石と人体をつなぐ禁忌へ手を伸ばしていることを。


 特殊な術式を刻んだ魔石核片を、生きた人間へ融合させ、虚無側の魔素を呼び込む媒介へ変える――そんな研究が、実用の入口に立っていることも、とうに疑っていた。ソミン共和国を一夜で乗っ取った、あの異様に手際のよい侵食の中に、すでにその萌芽はあった。


 だが、いつ、どこで開くかまでは掴めなかった。


 警戒はしていた。灰月にも伝えていた。ローベルトにも、あの夜、地図の前で告げた。偶然にしては、位置が揃いすぎている、と。


 だが、いま足もとの泥の冷えの中で、別の線が浮かび上がる。


 見せられていたのだ。


 火災も、焼き付きも、異臭も、散らばる赤い印も。王都の目をそこへ向けさせるための、浅い傷だったのかもしれない。深い傷は、もっと柔らかい場所に隠されていた。飢え、疲れ、言葉を失い、疑われることにも抵抗できない者たちの、身体の内側へ。


 発動の一拍前には届かなかった。


 ラウールは、読んでいたはずの線を、読まれていた。リーディスに接触したことも、灰月が組織されたことも、おそらく敵の耳へ届いていた。


 だからこそ、彼らは時間と手間を掛けた。こちらの視線を不審火と残留魔素へ縫い止め、そのあいだに、少しずつ難民の列へ被験体を潜り込ませていたのだ。


 喉の奥で、潰れた声がこぼれた。


「僕は……何のために、ここまで来たんだ。ソミンの悲劇を繰り返させないと、あれほど誓ったのに……」


 その声は、泥と警鐘に削られ、誰にも届かなかった。


「くっ……」


 ラウールは奥歯を噛む。足もとの泥が冷えを増し、緋朧天石の熱だけが、指先で薄く脈を打っていた。


 ――もはや、ここは避難所ではない。


 起動させるために選ばれた場所だ。


◇◇◇


 南港へ続く細い通りでは、まだ誰も、全体を見てはいなかった。


 けれど噂だけが、足よりも先に来ていた。


 荷車の馬方が、広場の端で息を切らしている。積み荷の麻袋を直す手もそこそこに、声を落としきれないまま、まわりへ言葉を投げていた。馬の鼻息が白く濁り、石畳にはこぼれた穀物が点々と散っている。


「西門で出たってよ」


「何がだよ?」


「難民の中から、急に倒れたやつが出て、それから……いや……」


 最後まで言わない。その言い切らなさが、かえって人の顔色を変えた。見ていないものを語るとき、人の声はしばしば断定に近くなる。見た、ではなく、聞いた、が先に走る。聞いたものが次に語られるときには、もう別の形をしている。


「誰が見たってんだい?」


「港の荷運びが言ってたぞ」


「その荷運びはどこにいるってんだ」


「知らねえよ。けど、魚市場のほうでも騒ぎだってよ」


「じゃあ、本当なんじゃねえか。あそこは『鉄壁』のバルグがいるんだろ」


「そこまで騒ぎになってるってことは……おい」


 言葉はそこで途切れた。


 けれど、途切れた先を、誰も否定しなかった。魚市場にはバルグ・キーンがいる。荷車も、喧嘩も、火事騒ぎも、あの大男がいれば最後には収まる――そう信じている者は少なくなかった。だからこそ、その名が噂の中へ混じった瞬間、通りの空気は一段冷えた。


 強い者がいる場所でさえ危ない。ならば、弱い者たちだけが身を寄せる天幕はどうなるのか。誰も、そこまでは口にしなかった。ただ、視線だけが先に動いた。


 通りの向こうで、刺繍布を売っていた女が手を止めた。昨日まで異国の香りの布を並べ、子どもたちへ小さな鈴を鳴らしてみせていた女だった。いまは布包みを胸に抱いたまま、一歩も動けずにいる。足もとには、まだ売り物の布が広げられていた。赤い糸も、青い糸も、濡れた夕風に沈んで見えた。


「あれって、西方から来たやつだろ……」


「近づくんじゃねぇ。何が起きるかわからねえぞ」


「井戸に近づけるなよ。毒でも放り込まれたら洒落にならねぇぞ……」


「おい、待て。まだそうと決まったわけじゃないだろ」


「決まったも同じだろ。西門でも南港でもだぞ。そのうちここだってどうなるか」


 誰かが一歩退いた。


 それが合図になった。通りの端にいた者が、その女から距離を取る。荷車の脇にいた少年が、母親の袖を引かれて後ろへ下がる。布の上に落ちた雨粒が、赤い刺繍の糸へじわりと染み込んだ。


 女は何かを言おうとした。


 言葉は出なかった。


 唇だけが動き、やがて視線が足もとへ落ちる。その肩が小刻みに震えている。恐怖なのか、寒さなのか、怒りなのか。誰も尋ねなかった。


 誰も、最初の発生を見ていない。誰が倒れ、何をされたのか。本人に意思があったのか。そういう問いは、通りのざわめきの中で置き去りにされる。


 足りない部分を、恐怖が埋めた。


 そのとき、路地の奥で青年が倒れた。


 西方風の刺繍布を肩へ掛けた、痩せた青年だった。荷を運ぶ途中だったのか、腕に抱えていた木箱が石畳へ落ち、中の乾いた豆がばらばらと転がった。鈍い音。跳ねる豆。すぐそばにいた女が短く悲鳴を上げる。


 青年の口が開く。


 声は出ない。


 唇だけが何かを言おうとしている。額から汗が流れ、肌の色が灰に寄っていく。肩の関節が、人の動きとは違う角度で浮いた。指が石の目地を引っ掻き、爪の先が白くなる。


「あれだ……」


 誰かが震える声で言った。


「西門のと同じだ。間違いねぇ」


 本当かどうか、誰にも確かめようがなかった。


 けれど、確かめる前に、人の足はもう離れていた。倒れた青年からではない。同じ刺繍布を肩へ掛けた者たちから。同じ言葉を話す者たちから。同じ船で来たと聞いた者たちから。一歩。また一歩。石畳の上で、距離だけが音もなく広がっていく。


 青年の喉から、細い黒い気配が漏れた。煙ではない。もっと薄く、もっと冷たい、目に見えるか見えないかの境にあるもの。


 それを見た瞬間、通りはようやく本当の悲鳴を得た。


◇◇◇


 魚市場には、昨夜貼られた紙がまだ柱に残っていた。


 糊を吸った端が湿気で波打ち、墨の黒は少し滲んでいる。それでも、灯の下へ近づけば、未確認の風聞、私刑の禁止、最寄りの詰所へ届けること――短い文言はまだ読めた。魚の腸の生臭さと潮の冷えの中で、その白い紙だけが、ひどく頼りなく見えた。


 夕の片づけを終えきれない桶が並び、濡れた縄が石床に這っている。誰もが手を動かしているのに、音はどこか噛み合っていなかった。包丁が板を叩く拍も、樽を転がす足音も、いつもより半拍ずつ遅れている。


 市場の中央では、荷車が斜めに噛んだまま道を塞いでいた。濡れた溝へ沈んだ車輪が抜けきらず、若い衆が三人がかりで肩を入れても、木枠は鈍く軋むばかりだ。力が足りないというより、息が揃わない。焦りだけが、濡れた石床の上で先に滑っていた。


 バルグ・キーンは、そこへ歩み寄った。


 濡れた前掛けの裾が脚に貼りつく。彼は転がりかけた樽を足先で止め、荷台の脇へ立つと、若い衆の顔を順に見た。叱るより先に、場の乱れを測るような目だった。


「重いものなら、儂に任せればよい。お主らは道を空けよ」


 腹の底から落ちた声に、止まりかけていた若い衆の目が戻る。


「水桶を持て。縄を切れ。裏門までの道を作るのだ。荷を惜しむな。命より高い魚など、この世にはないぞ」


 命じられると、人の手は迷いより先に動いた。ひとりが縄へ駆け、ひとりが桶を抱え、もうひとりが荷台の後ろへ回る。バルグは轅へ手を掛け、肩をひとつ前へ押し出した。木が低く鳴り、車輪が石の溝から半寸だけ浮く。そのわずかなずれへ、若い衆の力がようやく噛み合った。


 濡れた石床に擦れる音が伸び、道を塞いでいた荷車がじり、と端へ寄る。跳ねた水が脛を打ち、魚の匂いと潮の冷えの中へ、湿った木の軋みが重く響いた。


 人ひとりぶんの抜けができる。


 それだけの細い空きなのに、市場の息は少しだけ戻った。桶を抱えた者が走り、縄を持った者が身を翻し、さっきまで宙ぶらりんだった手が、ようやく行き先を得る。


 バルグはできた道をひと目見て、にいと歯を見せた。


 その背後で、二人の若者が避難小屋の方角へ向かおうとしていた。


 片方の手には、魚を捌く小刀がある。刃は短く、薄く、よく研がれていた。魚の腹をひらくための刃が、濡れた灯りを受けて、人のほうへ向いている。


 バルグの目が細くなった。


「おい」


 若者の肩が跳ねた。


 市場のざわめきが、ほんの一拍だけ薄くなる。バルグは荷車から手を離し、ゆっくりとそちらへ歩いた。重い足音が石床を鳴らすたび、若者の手の中で小刀が細かく震えた。


「その手は魚を捌くためのものぞ。人へ向けるなら、この市場に立つ資格はない」


「で、でも、バルグの旦那……あいつら、敵なんじゃ」


「敵だと? 決めたのは誰ぞ」


 若者の喉が動く。


 市場の端で、避難小屋の戸がかすかに揺れた。中にいる西方の家族たちは、音ひとつ立てない。子どもの泣き声も、息を殺されているようだった。


 バルグは一度だけ目を閉じた。潮の匂いの下で、恐怖の酸っぱい臭いが漂っている。彼自身の掌にも汗があった。だからこそ、声は低く、太く落ちた。


「怖いのはわかる。儂も怖い。だがな、怖いからといって震える者に刃を向ければ、お主は人である前に、市場の者ではなくなる」


 若者の手の中で、小刀の先が半分だけ下がった。


「南の通りを閉じよ。裏門は開けておけ。小屋の者どもは表へ出すな。女衆は湯を沸かせ。若い者は水桶を運べ。刃物を持つ手があるなら縄を切れ。道を作れ」


 声が市場の梁へ響き、濡れた縄と桶と布の間を通っていく。人々は一瞬だけ顔を見合わせ、それから動いた。


「狼狽える暇があるなら、ひとりでも逃がせ」


 その言葉で、ようやく市場は市場に戻りはじめた。


 魚を運ぶ腕が、水桶を運ぶ腕へ変わる。値を叫ぶ声が、避難路を指す声へ変わる。濡れた縄を切る刃音が、石床の上で短く鳴った。


 避難小屋の戸が、ほんの少しだけ開く。


 中から顔をのぞかせた老人が、何度も頭を下げた。唇が震えている。礼の言葉は、潮の匂いの中でうまく形を持たなかった。


 バルグはそれを見て、顎をしゃくった。


「サム。裏の乾いた天幕を空けろ。子どもと年寄りから入れよ。湯と毛布を持っていけ。腹のことは、そのあとでよい」


「あいよ、バルグの旦那」


 サムと呼ばれた仲買の若者が、避難民たちへ手招きする。彼らは何度も頭を下げながら、ぎこちなく市場の奥へ入っていった。夕の冷えにこわばっていた子どもの肩が、天幕の入口をくぐった瞬間だけ、ほんの少しほどけた。


 市場の端で、また遠い鐘が鳴った。


 縄を切り終えた若者の手から、小刀が下がる。刃先にはもう、人の影ではなく、ほどけた麻縄の繊維だけが絡んでいた。


 魚市場は怯えていた。だが、昨夜貼られた一枚の紙と、いま動き出した無数の手が、まだその怯えを人狩りへ変えずにいた。


◇◇◇


 カテリーナの仕事場では、昨日の貼り紙の控えが机の端に残っていた。


 油灯の火は小さく、インク壺の影が紙の上へ長く伸びている。床には、乾ききらない文面と破った草稿が散っていた。路地裏の二階にある狭い部屋へ、伝令が次々に入った。西門。南港。運河沿い。魚市場。報告が来るたび、声の端に混じる焦りが少しずつ濃くなっている。


 カテリーナは、最初の文面を丸ごと破った。


 紙が裂ける音に、若い部下が肩を震わせる。


「班長?」


「こいつは使えないね。破棄だ」


「ですが、発生者の多くは西方大陸からの避難民との報が」


「だからこそだよ」


 丸眼鏡の奥の目が、灯りの下で鋭く光る。


 カテリーナは、紙面の端を爪で軽く叩いた。乾いた音が、机の上で小さく跳ねる。


「名を先に置けば、原因と犯人が同じ顔になる。そうなったら、あとは誰も読みゃしない。小さな波紋が取り返しのつかない大波になる。その先どうなるかなんざ、火を見るより明らかさ」


 ペン先に余分なインクが乗りすぎていた。布で拭い、一行目を置く。


 未確認の風聞を流布することを禁ず。


 次に、私刑の禁止。発見時の通報先。夜間の集合場所。子どもと老人の退避。急変者へ無闇に触れないこと。触れた者の名を記録すること。急変していない者は、出自にかかわらず保護対象として扱うこと。


 彼女は一度、ペンを止めた。


 最初の紙は、噂の足を遅らせるためのものだった。けれど今日は、それだけでは足りない。恐怖はもう形を持ち、誰かの肩に手を伸ばしている。止めるには、ただ「殴るな」と書くだけでは足りない。誰を守るのかを、先に言わなければならなかった。


 カテリーナは卓上に広げた紙束を、爪の先で一枚ずつ押さえていった。乾いた紙の端が、ランプの熱でわずかに反っている。外からは、遠い憲兵詰所の鐘が、間を置いて鳴っていた。


「読み上げ役を増やす」


「増やす、ですか?」


 若い書記の声が、紙の匂いの中で少しだけ硬くなる。カテリーナは顔を上げず、昨日貼り出した告知の写しを横へずらした。


「それと、これまで貼った紙を剥がすんじゃないよ。隣に貼るんだ。古い紙だけじゃ、今夜のことに追いつかない。情報ってのはね、推移を並べて比較するもんだ」


「承知しました」


 ペン先が走る。インクの匂いが濃くなり、狭い部屋の空気が一段、仕事の温度へ変わった。


「憲兵詰所ごとに二人。声の通る者を選びな。怒鳴るだけのやつは駄目だ。聞かせる声を持つ者にしな」


「わかりました」


 カテリーナはそこでようやく顔を上げた。眼鏡の奥の目は、紙ではなく、王都の通りそのものを見ているようだった。


「酒場は店主へ直接渡す。井戸端は女たちに任せる。市場はバルグへ。あの男なら、一度聞けば覚える。図体も声も、無駄にでかいからね」


 そう言ってから、カテリーナは別の白い便箋を取り出した。


 紙質が違う。上質の厚み。指先へ吸いつくようなめらかさ。誰に届くべきかを知る紙だった。


 文面は、もっと短い。


 西門、南港、運河沿いにて同時多発の急変。


 発生者は西方避難民に偏るが、原因とは断じ得ない。


 市中には難民を元凶とする流言が拡大。


 王宮文書における語の選定を誤れば、私刑を招く恐れあり。


 そこで、彼女の手が一度止まった。


 前にも、似た話をした。酒と紙の匂いが混じるあの部屋で、人間そのものを魔術の触媒にするのか、兵器の器にするのかと、冗談にしては寒すぎる仮説を口にしたことがある。ラウールの赤紫の瞳が、そのとき珍しく揺れた。


 冗談で済まなかった。


 カテリーナは、最後に一行を足した。


 『名づけは、刃になる』


 封をした。


「これを王女殿下へ。寄り道させるな。誰の手にも預けるんじゃないよ」


「はっ」


 部下は頷き、紙を懐へ入れて階段を駆け下りていった。靴音が路地のざわめきへ溶けていく。


 カテリーナは窓辺へ寄った。曇った硝子の向こうで、憲兵の灯が路地を曲がっていく。街はまだ燃えていない。だが、言葉のほうはもう火種を持っていた。


「まったく、紙の薄さってもんが恨めしいね」


 呟きは軽かった。けれど眼鏡の奥は、少しも笑っていなかった。


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