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見えない門の呼吸

 もう遅い、と言葉になる前に、男の胸の奥で、まだ開ききっていない何かが、こちら側の空気を測るように、もう一度だけ脈打った。


 その拍が、ラウールの腕へ直接伝わった。


 毛布越しに抱えているはずの身体は、もはや人ひとりの重みではない。中身だけが先に抜け落ち、皮と骨の形ばかりを辛うじて繋いでいる、ただの抜け殻のようだった。


 皮膚は冷え切っている。冬の外気に晒された冷たさではない。熱が芯から失われたあとに残る、乾いた石のような冷えだ。額には汗が浮いているのに、そこへ指を触れれば、体温だけが妙に遠い。生きた肉へ触れているという確信が、指先からじりじりと摩耗していく。


 男の喉がひくりと鳴る。


 呼吸が乱れているのではない。吸うたびに、この場の空気とうまく噛み合えていないのだ。肺とは別の何かが、身体のもっと深い場所で勝手に息をしはじめているみたいな、妙な途切れ方だった。


 その瞬間、ラウールは知った。周囲に薄く満ちていた魔素の流れが、変わっている。


 さっきまで泥と藁と人いきれの中を均一に漂っていたはずの気配が、いまは目の前の男の内側、その一点へ、細い糸を寄せるように曳かれていた。匂いも、音も、冷気さえも、その場所へ向かってゆっくり傾いでいく。


 吸われている。


 煮込みの脂の匂いが、不意に遠のいた。湿った布の蒸れた臭気も、泥の濁りも、鼻腔へ届く寸前で薄い膜を隔てられたように鈍る。代わりに、乾いた鉄錆とも焦げた石ともつかない、無機質な臭気だけが喉の奥へ細く刺さった。


 耳の奥でも、音が遠ざかっていく。


 子どもの泣き声は、もう泣き声として届かない。鍋をかき混ぜる柄杓の金属音も、荷車の軋みも、名を確かめる声も、輪郭ばかりを残して芯が剥がれ落ちていく。世界そのものが水底へ沈み、そこへ自分だけが取り残されたような、ひどく息苦しい遮断だった。


「……みんな、下がって」


 ラウールの声は低かった。だが、自分の耳にさえやけに近く響いた。


「すぐにここから離れるんだ」


 近くの列にいた配給係の男が、何を言われたのかわからない顔で振り返る。抱えられた子どもが、ようやく不安そうに首を巡らせた。誰もまだ、目の前の異変を現実の危険として理解していない。


「いいから、離れろ!」


 その一喝で、ようやく何人かが身をすくめた。天幕の端にいた女が子どもを胸へ抱き寄せ、列の後ろの若い男が半歩退く。けれど、その半歩では足りない。


 毛布の隙間から覗く鎖骨の下が、内側から押し返されるようにゆっくり持ち上がる。鼓動でも呼吸でもない。何かがこちら側の厚みを測るみたいに、人のかたちを内側からなぞり直している動きだった。


 男の指が痙攣する。ラウールの袖を掴んだままの爪先が白く強張り、次の瞬間、その力が不意に抜けた。


「あ……っ、ぁ……」


 声にならない。


 喉はたしかに震えている。唇も動こうとしている。けれど、意味を形にする機能が先に壊れ、濁った吐息だけが裂け目のような口から漏れていく。


 目は開いていた。だが、もう誰も映していない。


 さっきまでそこにあった、照れ隠しの苦さも、悪態の熱も、やっと会えた旧友を前にしたぎこちない安堵も、ひとつ残らず焦点ごと霧散していた。見ているのに、見ていない。人の顔でも、天幕でも、雪に汚れた地面でもなく、もっと遠い何かの縁だけを、空虚に探りあてようとしている眼だった。


 ラウールの脳裏に、いくつもの断片が一度に返ってくる。


 記憶の欠損。胸のつかえ。耳の遠のき。色の異常。夢遊病者のような徘徊。王都の不審火。現場に残る魔素の澱み。焼損。回収しきれなかった遺物片。途中で切れた証言。灰月がいくら探っても掴めなかった起点。


 それが、いま、目の前の身体の中でひとつに繋がっている。


 だが、その名を彼はまだ口にしない。


 口にするより早く、男の皮膚が変わりはじめたからだ。


 汗に濡れていた額から、まず艶が消えた。青白かった肌はさらに色を失い、鈍い灰へと沈んでいく。指で押せば戻るはずの弾力が失われ、皮膚の下で何か硬質なものが、肉の領分を奪いながらせり上がってくる。


 首すじの血管が、ふいに黒ずむ。


 膨らむのではない。逆だった。細い筋だけが内側へ焼きつくように沈み、周囲の色を食っていく。見えない刻印が皮膚の裏から浮かびかけ、途中で肉ごと呑み込んでいるようだった。


「……お、おい! あんた」


 配給係の男がようやく声を上げた。


 その声で、まわりの視線が一斉に集まる。列の後ろで誰かが悲鳴を噛み殺し、子どもを抱いた女が遅れて一歩、二歩と後ずさった。だが恐怖はまだ形になりきらない。人は、目の前のものが「もはや人ではない」と悟るまで、残酷なほどのタイムラグが生じる。


 その遅れが、致命傷になる。


 男の肩が、不意に沈んだ。崩れたのではない。関節の構造が、目には見えない鈍い圧で歪んでいく。肩の角度が、人の重さを支えるための理を失う。肘がひくりと曲がり、指の長さまでが別の規則へ引き直されていく。皮膚に裂け目はない。骨の突出もない。それなのに、輪郭だけが人のかたちから外れていく様が、恐ろしいほど鮮明だった。


 もう、戻せない。


 その絶望的な実感だけが、ラウールの喉の奥へ冷たく落ちた。


 指先が、まだ人の肩を探るようにわずかに宙へ残る。引き戻せるのではないかという、愚かだと自分でもわかっている期待が、骨の奥で最後まで離れない。けれど、そのためらいを嘲るみたいに、変質はもう次の段へ踏み込んでいた。


 男の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ何かが揺れた。


 助けを求めたのかもしれない。謝ろうとしたのかもしれない。あるいは、名を呼んだだけだったのかもしれない。


 けれどそれは、形になる前に消えた。


 次の瞬間には、目の光は完全に切れていた。


 人の意志ではないものが、そこに定着したのだと分かる目だった。空ろなのではない。むしろ、空虚の向こうからこちらを測っているような、冷たい専心だけが宿っている。


 そのとき、反転した流れが本格的にこちら側へ噴き返した。


 濁った魔素の奔流だった。


 目には見えない。だが、肌が先に知る。空気が汚れたのだと、骨が知る。喉の奥へ刺さる鉄の匂いが一気に濃くなり、冷気のはずなのに、吸い込んだ瞬間だけ肺の裏が焼けた。鼓膜の内側で何かが軋み、世界の輪郭が半拍ぶん遅れて揺らぐ。


 押し返してきた濁流が、ラウールの前で見えない何かへぶつかった。


 そこで、ようやく彼は動く。


 左手が、外套の襟元をさぐった。そのまま懐へ滑り込み、忍ばせていた石へ触れる。布越しに伝わっていた微かな予兆が、指先で確かな熱に変わった。


 緋朧天石(ひろうてんせき)。火と風と水を宿す、あまりにも歪な三属性の魔石。ソミン王家に伝えられる至宝。その核たる命の灯火へ、彼は呪文も起動句も介さず、指先を差し込むみたいに触れた。


 魔導兵装も、圧縮術式も介さない。ただ灯火へ直に意識を沈める。危ういほど滑らかな接続だけで十分だった。


 次の瞬間、彼の前へ、目に見えない風の障壁が半円を描いて立ち上がった。空気そのものを幾層にも圧し重ねたような、薄く硬い壁だった。


 詠唱はない。息を継ぐのとほとんど変わらない自然さで、術だけが先に立ち上がる。


 濁流はその障壁に触れ、散る代わりに鈍い震えだけを返した。透明な膜の表面に、見えるはずのないものが黒ずんだ跡だけを残し、押し止められる。


 風の壁は術を維持しているというより、ラウールの呼吸に合わせて脈を打っていた。灯火へ触れ続けているのだと、見ればわかる危うい滑らかさだった。けれど、それで全部を防ぎきれるわけではない。縁から漏れたわずかな濁りだけでも、近くの者たちの喉を焼くには十分だった。


 男の口が大きく開く。


「あ……ぐあ」


 絶叫の形だった。けれど声はない。


 もっと深い場所へ落ちたのだ。人の耳で拾える高さや厚みの外へ、意味ごと削がれていったのだとしか思えない、不気味な無音だった。


 その無音の絶叫に押し出されるように、黒ずんだ気配が胸もとから薄く滲む。


 煙ではない。霧でもない。もっと細かく、もっと濃い、液体にも粉にも似た何か。雪のない救護区の泥の上へ、それは落ちるというより、空気の層を一枚ぶん汚して広がった。


 近くにいた若い女が、喉を押さえて膝をつく。


 別の男が耳を押さえ、何も聞こえない顔で口をぱくぱくさせる。子どもがようやく泣き出した。だが、その声は半ばまでしか届かず、すぐ薄い布の向こうへ追いやられていく。


 ここでようやく、救護区全体が悲鳴の形を得た。


「逃げろ!」


 ラウールの声が走る。


「天幕を捨てろ! 西門から離れろ、走れ!」


 今度は誰も立ち尽くさなかった。


 鍋がひっくり返り、煮込みが泥へ広がる。木の椀が転がり、名前札が踏み抜かれ、藁束が散る。人々は押し合い、転び、誰かを引きずり起こし、子どもを抱え、叫びながら四方へ崩れていく。最低限の秩序で辛うじて繋がっていた場所が、一息で恐慌の底へ落ちた。


 ラウールは障壁の角度を変えた。


 群れへ向かう側だけを厚くし、自分の正面だけを薄くする。背後の列と、あれの立つ場所とを切り分けるみたいに、風の壁が斜めへひらく。逃げ遅れた者たちの前から、自分ひとりを切り離して前へ出る。守るための壁でありながら、同時に、獲物の向きを捻じ曲げるための誘いでもあった。


 男だった存在の視線が、そこで初めて群れから離れる。


 空ろな目が、風の壁の向こうに立つラウールひとりへ、ぴたりと定まった。


 彼は旧友の肩から手を離した。


 軽い。あまりにも軽い。


 手を離してなお、腕にはその軽さだけが残っていた。もう人を支えていた感触ではない。身体という器の中身をそっくり別のものへ置き換えられた、敵性の殻だった。


「……『エド』。もう、僕の知っているお前じゃないんだな」


 押し殺した声は低く、硬い。噛みしめた奥歯のあたりが軋む。名に縋るかわりに、彼はその一言で感傷を断ち切った。


 次の瞬間、男の脚が地面を踏みしめた。


 踏んだだけで、泥が沈む。人の重さではありえない深さだった。ぐずりと音を立て、足もとのぬかるみが見えない底へ吸われる。藁くずがそのまわりで円を描き、外套の端が遅れて巻き込まれる。


 その動きで、ラウールはようやく完全に手を切った。


 離した、というより、離れざるを得なかった。


 腕を掴み直そうとした指先の手前で、輪郭そのものが、もう人間の間合いではなくなっていたからだ。


 見えない門は、なおこちら側の空気を測っている。


 ひとりではないかもしれない。


 その考えが、刃より先に背を冷やした。


 逃げ惑う列の向こうで、別の難民の男がふいに胸を押さえて立ち止まる。子どもを抱いた女の耳もとで、かすかな呻きが途切れる。しゃがみ込んだ老人の喉から、乾いた咳ではない濡れた音が漏れる。


 ラウールの瞳が、救護区の奥まで細く走った。


 点ではない。


 混入している。


 救護区そのものが、起動域(エリア)だ。


「……僕の読みが甘すぎたということか」


 風の障壁はなお細く震え、濁った奔流を押し返しつづけていた。膜の向こうで、男だった存在の輪郭がさらに人の理を剥ぎ落としていく。関節の節目には、生きた可動のための余白がもう見当たらない。人の身体を真似て組んだだけの粗い殻が、内側から浮かび上がってくる。


 ラウールは一歩だけ前へ出た。背後の逃走路を塞がせないために。自分だけを、あれの正面へ差し出すために。


 外套の裾が翻る。


 背後では、人の声ではない無音の絶叫が、なお広がりつづけていた。


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