音の芯が剥がれる
同時刻。
王都西門に近い仮設救護区画には、湿った布と煮込みの匂いが、冬の冷えごと重く垂れこめていた。煙を吸った空気が袖口へじわりと染み、喉の奥には、薄いざらつきだけが残る。
あの大講義室の高い光とは違う。ここにある光は低く、煙と人いきれに濁っている。薄い陽は天幕の布を透かして鈍い灰になり、地へ落ちるころには泥と藁の色へ沈んでいた。布越しの明るさはあるのに、どこを見ても、息の抜ける白さはない。
リーディス王国は、西方大陸から流れ着いた者たちを追い返しはしなかった。けれど、迎え入れたわけでもない。人目の薄い区画へ天幕を寄せ集め、名を記し、最低限の炊き出しだけを回す。それ以上の手当ては、たいてい後ろへ押しやられる。
それでも、何もないよりはましだった。噂では、王家の第一王女シンシアリーナが裏で手を回しているというが、真偽のほどは定かではない。
炊き出しの鍋から湯気が立つ。荷車の車輪がぬかるみを噛み、子どもの泣き声がどこかの隅で細く続いている。身元を確かめる係の声。祈りのように繰り返される名。自分の番を待つ者たちの、疲れきった沈黙。煮込みの脂と濡れた藁の匂いが混ざり合い、足もとの冷えだけがやけに澄んでいた。
その中を、ラウールは目立たない外套で歩いていた。
深い紅紫の瞳は、普段よりわずかに光を伏せている。襟元を深く立て、群れの輪郭へ紛れるように進む姿は、貴人にも旅人にも見えない。ただ、足の運びだけは乱れなかった。ぬかるみを避けるときでさえ、靴音はほとんど立たない。人の肩と肩のあいだを抜けるたび、外套の裾が冷えた空気だけを浅く払っていく。
彼は、人の列の端で一度だけ足を止めた。
古びた毛布を肩へ掛けた男が、干し肉を配る箱のそばに立っていた。痩せている。頬の肉が落ち、顎の線だけがいやに鋭い。外套の袖から覗く手首は細く、青白い血管が皮膚の裏へ浮き出ていた。
けれど、目だけはまだ死んでいなかった。
ラウールの呼吸が、そこで一拍だけ止まる。
男は、すぐにはこちらを見なかった。炊き出しの列へ目を向けたまま、乾いた喉をひとつ鳴らし、唇だけを小さく動かす。
「久しぶりだな。遅かったじゃねぇか」
声は掠れていた。乾いているのに、奥に湿りが絡んでいる。
ラウールは男の隣へ立った。近すぎず、遠すぎない。偶然そばへ寄った者にしか見えないだけの間合いだった。
「君が生きていると聞いても、すぐには信じられなかったよ」
低く静かな声だった。
それでも、その奥にあるものを男は聞き取ったらしい。痩せた頬が、かすかに緩む。
「俺も、自分で少し疑ったさ。奇襲を受けて部隊は全滅さ。俺だけがなんとか生き延びた」
「そうだったのか……」
「だが、どうしてかな、記憶がところどころ曖昧で……どうやってここまで辿り着いたのか、あまりよく覚えていないんだ」
「……笑えない冗談だね」
「一番ヤバい橋を渡ってるあんたに言われるとはな」
短いやり取りだった。
けれど、その一言ずつのあいだには、長い不在が横たわっていた。砂の道。閉ざされた国境。途切れた伝令。戻らない名。死んだと聞かされていた者が、薄汚れた毛布の下で、まだ息をしているという事実。言葉の数より、言えない時間のほうがずっと重い。
ラウールは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「とにかく、君が無事でよかったよ」
その声は、ほとんど息だった。
「ソミンから逃れてきた仲間も、ずいぶん減っちまった。これからどうしたもんかね……」
男は肩をすくめようとして、途中で小さく咳き込んだ。乾いた咳ではない。胸の深いところへ何かが引っかかり、そこを無理に擦ってくるような、湿った音だった。
「僕なりに頑張ってはみたが、リーディス王国は、クロセスバーナの脅威をまだ理解できていない」
「だろうな。いくら王家の生き残りであるあんたが説明したところで、実質的な被害を被らない限り、所詮は対岸の火事ってところだろう。生ぬるい楽園にのうのうとしてりゃ、わかるはずもねぇさ」
ラウールの視線が、男の顔へ戻る。
「ところで、襲撃を受けた場所について知りたい。どこだったんだい?」
「西の旧移送路だ。かつての西部戦線で荒れ果てた不毛の地さ。正規の道じゃないが、そこしか選びようがなかったからな」
「そうか……」
返った声は低かった。短い相槌で済ませながらも、ラウールの目だけはもう別の場所を見ていた。咳の湿り。記憶の切れ方。痩せた頬の下へ沈んだ、言いようのない灰色。
生き延びた者の顔ではある。けれど、どこかがまだ戻ってきていない。長い飢えや疲弊だけでは済まない、別の欠落が、皮膚のすぐ下へ沈んでいるように見えた。
「悪いけれど、急ぐ。思い出せる範囲でいい。その旧移送路で、君たち以外にも人はいたかい?」
男はすぐには答えなかった。喉の奥で咳を噛み殺し、汚れた指先で毛布の端をつまむ。寒いわけではないのに、その指は小さく震えていた。
「いた……はずだ。いや、途中で合流した連中もいたな。けど、顔がうまく思い出せねえ。名前も、順番も……ところどころ抜け落ちてる」
言いながら、男は眉間へ皺を寄せた。思い出そうとするほど、内側を何かで掻き回されるみたいに苦しそうだった。記憶を探っているのではなく、傷口へ指を差し込んでいるような顔だった。
「戻ってきたあと、おかしな奴はいなかったかい。傷のわりに妙に静かな者とか、夜だけ具合を崩す者とか」
その問いに、男の目がかすかに揺れた。
「……いたよ」
掠れた声だった。
「何人か、捕まったはずのやつがいた。数日して、何でもなかったみたいに列へ戻ってきた。けど、どいつも変だった。ぼんやりしてる。話の辻褄が合わない。夜になると胸を押さえて、息ができねえって……」
向こうで鍋の蓋が大きく鳴り、煮込みの匂いがぬかるみの上を重たく流れてくる。
ラウールは表情を動かさず、ただ男の次の言葉を待った。
「火の色も、おかしいって言ってたな。明るいはずなのに、くすんで見えるとか……影が、やけに濃いとか。馬鹿みてえな話だろ」
「いや」
ラウールは静かに首を振った。
「それは馬鹿にはできないね」
男はそこで小さく笑おうとして、また咳き込んだ。今度の咳はさっきより深かった。胸の奥で湿ったものが引っかかり、骨のあいだを無理に擦ってくるような音だった。
ラウールの視線が、男の胸元へ落ちる。
毛布の合わせから覗く鎖骨の下が、呼吸に合わせて妙に硬く上下していた。肌の色の悪さとは別に、そのあたりだけが、何か別の律動をこらえているようにも見えた。
「君は、いつからだい?」
「何がだ」
「誤魔化しても無駄だ。その咳だよ。胸のつかえも、あるんじゃないかい?」
男は答えかけて、言葉を失った。自分でも、どこからがおかしかったのか分からないのだろう。記憶の糸を手繰ろうとして、指先が空を掻くみたいに宙で止まる。
「……昨日、いや、もっと前かもしれねえ。最初は、ときどき息が詰まるだけだった。大したことないと思ってた。寒さのせいだって」
その最後の一語だけが、妙に弱かった。
ラウールは一歩だけ近づいた。近づきすぎない距離のまま、男の顔色と唇の乾き、喉の動きを見る。慰めるような目ではない。見落とさないための目だ。
「他に、何か」
「ときどき耳が遠くなる」
男はぽつりと落とした。
「急に、まわりの音が遠くなるんだ。人が喋ってても、水の底から聞いてるみてえに……」
そこで、男の息が止まった。
ほんの一拍。それだけだったのに、周囲の空気の張りが変わる。
炊き出しの湯気が、まっすぐ上へ昇らず、横へも流れず、その場で薄く沈んだように見えた。足元のぬかるみに溜まった濁り水が、風もないのに細かく震え、藁の切れ端が、外へ散るのではなく一点へ寄ろうとする。
向こうで泣いていた子どもの声が、ふいに薄くなった。
誰かが名前を呼ぶ。けれど、その音は薄い布を幾重にも隔てた向こう側から届くみたいに、輪郭だけを失っていく。柄杓の金属音も、荷車の軋みも、天幕を鳴らす風も、何かに吸われるみたいに鈍っていった。耳の奥へ、見えない膜が一枚ぶん貼りついたようだった。
ラウールの目が細まる。
「立てるかい?」
声は低いままだった。それなのに、問いではなく指示みたいに真っ直ぐ落ちた。
「ここを離れよう。今すぐ」
男はうなずこうとして、うまく動けなかった。片手が胸元へ上がり、布を掴む。指先の節が白くなる。
「……っ、だめだ」
喉の奥で、短い音が擦れた。
「なにか、いる……」
その瞬間、男の身体が小さく痙攣した。
ラウールはためらわず、肩を支えた。思ったより軽い。軽すぎる。人ひとりの重さではなく、からっぽの殻を抱き上げたみたいな不吉さが腕へ残る。
「しっかりしろ。僕を見るんだ」
男はラウールの袖を掴んだ。爪が布へ食い込み、息が荒く浅く切れる。
「だめだ、俺に近づくんじゃねぇ……」
「黙って。喋らなくていい」
「違う……」
男の瞳孔が、じわりと開いていく。汗が額からこめかみへ流れ、そのくせ肌の色はどんどん悪くなる。熱ではない。内側から血の気だけが引いていくような冷えだった。喉もとだけがひどく乾いて見え、その下で何か別の拍が皮膚を押し返してくる。
「とにかく、俺を……この場所から、離してくれ……」
その言葉で、ラウールの表情が初めて変わった。
やわらかさが消えたわけではない。けれど、その奥へ冷たい刃のような判断が通る。
「わかった」
短く言って、彼は男の身体を抱え直した。
「だが、僕は君を一人にするつもりはない。やっと再会できた仲間を見捨てるなんてこと、できるものか」
「ったく、このお人好しが。だから甘いってんだよ。あんたは……」
「とにかく、ここから移動しよう。僕が支える。歩けるか?」
「あ、ああ……」
そのときだった。
男の胸元の奥で、何かが脈打った。
光ではない。黒でもない。ただ、そこにあるはずの色だけが、一瞬だけごっそり抜け落ちたみたいに見えた。
今度は、向こうで泣いていた子どもの声が、ぶつりと切れた。
誰かが名を呼んだ気配だけが残り、声の芯は、そこへ届く前に剥がれ落ちた。足元の泥が、見えない底へ引かれるようにわずかに沈む。藁の切れ端が、男の足元で小さく震えた。見えない穴の縁を、探るみたいに。
風が吹いているはずなのに、その冷たさだけが頬へ触れなかった。
ラウールは腕の中の軽さに、息を殺した。
もう遅い、と言葉になる前に、男の胸の奥で、まだ開ききっていない何かが、こちら側の空気を測るように、もう一度だけ脈打った。




