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水は戻る

 大講義室の静けさだけが、いまのわたしに、もうひと呼吸ぶんの余白を残していた。


 わたしは、演壇の上に置いた紙束へ視線を落とさなかった。そこに書かれた文字は、もう何度も声にしている。いま必要なのは、紙に頼ることではなく、紙の上に置いた言葉を、自分の息へ移すことだった。


 大きなガラスの水受けの器が、演壇の右手に置かれている。


 透明な縁を持つ、大学の実験用の器だった。飾り気はない。祭具でも、儀礼の杯でもない。ただ、そこに水があることを誰の目にも明らかにするための、清潔で静かな器。


 その水面に、天窓から落ちる午後の光が淡く揺れていた。


 わたしは、ゆっくりと口を開いた。


「これからお見せするものは、奇跡と崇めるためのものではありません」


 声は、思っていたより遠くへ届いた。


 石壁と木の梁が、その音を大きくするのではなく、静かに受け取って、講義室の奥へ運んでいく。誰かが息を吸う気配がした。けれど、まだ誰も動かない。


「また、破壊のための力として囲い込むためのものでもありません」


 貴族院側の席で、扇の骨がわずかに鳴った。


 王宮側の文官は、表情を変えない。使節筋の一人は、隣へほんの少し首を傾けた。司教領の視察団は、聖印の上に置いた指を動かさない。


 それぞれが、それぞれの棚を持っている。


 お祖父さまの言葉が、胸の奥で低く響いた。


「ただ、世界に満ちあふれるものたちへ触れ、それに形を与え、そして元の場所へと戻すものです。その入口を、まずご覧いただきます」


 言い終えてから、わたしは右手を水受けの上へかざした。


 魔法陣はない。


 詠唱もない。


 魔石の光もない。


 ただ、水がある。わたしがいる。白い剣の中で、茉凜が息を潜めている。


 視界の端に、淡い補助線が浮かぶ。茉凜がそっと重ねてくれたものだ。水量。高さ。光の角度。聴衆との距離。警告はない。余白だけが、静かに保たれている。


《《精霊子はもう十分集まってる。流れも安定してるよ。無理に気負わない。いつも通りでいこう》》


 声は軽いのに、底はやわらかかった。


 わたしは、返事をしなかった。いつもなら合図のように唱える言葉も、いまは口にしない。


 すぅ、と息を吸う。


 大講義室が、ごく短いあいだ息を呑んだように静まり返る。


 空気がかすかに震えた。器は動いていない。それなのに、水受けの上だけ、肌に触れる大気の質がふっと変わる。ひらかれた講義室の距離が、その一瞬だけ、わたしと剣のまわりへ静かに寄ってくる。


 剣の周囲に、淡い蒼の粒がひとつ、またひとつと生まれた。蛍の光よりも儚く、星屑よりも繊細な輝き。音もなく浮かび、水受けの上へふわりと降りていく。


 ひとつ。


 ふたつ。


 ごく小さな〈場裏・青〉――水属性の領域が、静かに立ち上がる。


 粒は揺れながら、けれど剣の呼吸からはみ出さない。その青が水面へ触れた瞬間、器の中の水そのものが目を覚ますみたいに細い輪を重ね始めた。


 わたしは、指先に力を込めない。ただ、呼吸の深さだけを少し変える。


 水面から、小さな水珠が立ち上がった。


 最初の一粒は、真珠ほどの大きさだった。次の一粒は、それよりも少し小さい。さらに次。さらにその次。水面は乱れず、ただ必要な分だけを静かに上へ差し出していく。


 学生席から、かすかな息が漏れた。


 誰かのペンが、膝の上で止まる。


 水珠は、演壇の上で揺れた。落ちない。弾けない。透明な丸みの内側へ午後の光を抱えたまま、わたしの手元から少しずつ離れ、講義室の空間へと広がっていく。


 水を生んでいるのではない。そこにある水を分け、保ち、動かしている。しかも、それぞれが別々の小さな青へ抱かれていた。ひと粒ごとに独立した〈場裏・青〉があり、だからこそ、触れ合いそうで触れ合わないまま、同時に同じ意志へ従う。


 わたしはそのことを、言葉にしなかった。まだ、言葉へほどく順番ではない。


 水珠は数を増やしながら、ゆっくりと上がっていった。


 演壇の上だけではない。前列の頭上へ。研究者たちの席の少し上へ。王宮側と貴族院側のあいだの空気へ。使節筋の列の前を、けれど触れない距離で。司教領の者たちが見上げた、その視線の先へ。


 いくつもの水珠が、講義室の中を舞い始めた。


 ざわめきが戻りかけ、すぐにまた消える。


 水珠のひとつが、天窓から差し込む光を受けた。


 透明な球の内側で、白い光がほどける。


 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。


 水晶を抜けたような七色が、講義室の石壁や木の梁へ、細かな破片になって散っていった。それは大きな虹ではない。けれど、水珠がそれぞれ別の角度で光を返すたび、空間そのものが、淡い色の粒で静かに満たされていく。


 ソレイユの紙束の上にも、小さな虹が落ちた。


 彼女は息を呑んでいた。けれど、目を逸らさない。あの日、小講堂で初めて水珠を見たときと同じように、ただ受け止めている。


 その視線があったから、わたしは次の呼吸へ進めた。


 水珠は、さらに高くは上がらない。


 天井へ近づきすぎれば、視界から外れる。低すぎれば、聴衆の不安を誘う。だから、頭上より少し高い場所で、それぞれの水珠を置く。止めるのではなく、漂わせる。風に流されるもののように見せながら、実際にはひとつひとつ、わたしの意志の範囲に置いている。


 数えようとすれば、たぶん追いつかない。けれど、わたしには分かる。どの水珠が、どの領域に抱かれているか。どの水珠が、どれだけ光を受けているか。どれがほんの少し重心を失いかけているか。どこへ動かせば、誰の髪にも、誰の紙にも触れずに済むか。


 幾重もの小さな青が、ひとつの空間を満たしていく。


 研究者席の前列で、年嵩の教授が唇をかすかに動かした。声にはならない。だが、その目は美しさだけを見てはいなかった。数を見ている。距離を見ている。制御を見ている。


 侍医司から来た者は、指先を重ねたまま、眉間をわずかに寄せた。


 王宮側の文官は、表情を動かさない。けれど、記録紙の端を押さえる指にだけ、力が入っていた。


 貴族院側の席では、扇を閉じたまま、微動だにせず水珠を追う目がいくつもあった。それは美しさへの感嘆ではない。これをどの棚へ置き、どんな札を掛けるべきか――彼らは沈黙の中で、その「値」を測っていた。


 シャイヴァルド使節筋のひとりが、隣の者へ目をやる。その目の奥にあるものは、驚きだけではなかった。


 バラセル司教領の視察団は、胸元の聖印へ置いた指を一度だけ強めた。


 皆、同じものを見ている。けれど、同じものとしては受け取っていない。お祖父さまの言葉の棚が、講義室中に並んでいるようだった。


 わたしは、手をほんの少し下げた。


 水珠が動く。


 いっせいにではない。波のように、順に。前列から後列へ。後列から中央へ。けれど、その動きはただの漂いではなかった。粒の高さも、間隔も、わずかずつ揃えられている。半円形の席に沿って、細い列がいくつも編まれていく。


 光を受けた小さな粒が、その列ごとに午後の陽を折る。


 白い光は、点ではなく、引きのばされた明るい筋へ変わった。


 空気の中に、柱めいた光の帯が静かに立ちのぼる。


 一本の強い線ではない。細い帯が幾筋も、ゆるやかにずれ、重なり、またほどける。そのたびに白い光の縁だけが、青や金や淡い紫へ細く色を変えた。


 講義室そのものが、大きな水晶の内側へ置かれたみたいだった。


 扇の骨に、虹が滑る。


 インク壺の縁に、青い光が一瞬だけ立つ。


 白い袖口へ落ちた色が、すぐにほどける。


 誰かが思わず手を伸ばしかけた。けれど、触れるより前に、水珠は半拍ぶん遠ざかった。逃げたのではない。触れないための距離を、保っただけだ。


 そのことに気づいたのか、伸びかけた手は静かに膝へ戻った。


 わたしは、息を吐いた。


 すると、柱めいた光の帯がゆるやかに痩せ、列を成していた水珠たちが、ひとつの流れへほどけていく。


 すべての水珠が、ゆっくりとわたしの手元へ集まり始める。


 ――戻す。


 それが、いちばん見せたかったことだった。


 広がったものが、ただ消えて終わるのではない。消費されて、散り散りになるのでもない。現象を起こして、終わりではない。


 水は、水のまま戻る。


 水珠は、演壇の上へ集まってくる。大小の透明な粒が、互いにぶつからず、こぼれず、わたしの掌の上で一度だけ大きな輪を描いた。


 わたしは、指先を水受けへ向けた。


 ――領域部分解放。


 抱いていた水だけを、ゆっくりと器の中へ戻す。


 音は、ほとんどなかった。


 水面へ落ちた小さな粒が、ひとつ、またひとつ、透明な層へ溶けていく。最後の水珠が落ちたとき、器の中の水は、最初と同じ静けさへ戻っていた。


 ――領域解除。


 目に見えない青の輪郭が、ひとつずつ畳まれていく。


 わたしの指先に残っていた冷えが、すうっと薄れた。


 大講義室は、深い沈黙に沈んでいた。拍手はない。歓声もない。けれど、それは失敗の沈黙ではなかった。


 学生たちは息を忘れたようにこちらを見ている。ソレイユは、膝の上の紙束を両手で押さえたまま、瞬きさえ少なくなっていた。研究者の何人かは、筆を持ったまま動かない。侍医司の者は、低く何かを呟いたが、その言葉は講義室の静けさに吸われた。


 王宮側は、まだ表情を消している。


 貴族院側は、沈黙の奥で何かを数えている。


 使節筋は、互いに視線を交わした。


 司教領側は、ただ、見ていた。


 わたしは、演壇の上で紙束へ手を置いた。


 ソレイユの丸い字が、余白の隅で待っている。


 いまなら、言える。


「ただいまご覧いただいたもの、そして感じていただいたことを、これから少しずつ言葉にしていきます」


 声は、先ほどよりも静かだった。


 水が戻ったあとの静けさに、そのまま沈んでいくような声だった。


「先ほど申し上げましたように、これは奇跡という名で遠ざけるためでも、破壊のための力として囲い込むためのものでもありません」


 貴族院側の誰かが、ほんのわずかに顎を上げた。


 使節筋の席で、唇が動く。


 それでも、わたしは続けた。


「精霊魔術とは、通常の魔石魔術とは異なる体系です。魔石に宿る命の灯火へ働きかけ、術式を通して現象を起こすものではありません。術者の精霊器を媒介として、世界に満ちる精霊子へ触れ、〈場裏〉と呼ばれる領域を形成し、その内部で現象を具現化するものです」


 言葉が、少し硬くなりすぎないように。けれど、曖昧になりすぎないように。


 わたしは自分の呼吸を、声の下へそっと置いた。


「いまお見せしたのは、〈場裏・青〉。水属性だけを扱う、小さな領域です。水を生み出したのではありません。そこにある水を分け、保ち、動かし、そして戻しました」


 研究者たちの筆が、ようやく動き始めた。紙を擦る音が、雨の前触れみたいに小さく重なっていく。


「力とは、ただ広げるものではありません。『扱ったものを、どこへ返すか』。その責任まで含めて、術理なのだと、わたしは考えています」


 言い切ったあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 痛みというより、重さだった。


 わたしは一度だけ、水受けの静かな水面を見た。


 水は器へ戻った。けれど、放たれた言葉はもう、わたしの手元へは戻らない。


 静けさの底で、まだ見えない波紋だけが、ゆっくりと広がりはじめていた。


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