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封蝋の匂いとぬるい茶

 部屋の隅で、魔道ランプの芯が小さく爆ぜた。揺れる火影が白紙のままの紙面を撫で、橙と闇の境を心もとなく揺らしていく。


 窓辺から机へ戻り、椅子に座り、紙を見つめ、また窓辺へ立つ。その無益な往復を何度か重ねた頃、階下で重い扉の開く気配がした。靴底が石を打ち、短い声が交わされ、それからヴィルの足音だけが、迷いのない重さで階段を上がってくる。


 扉を叩く音は、いつもより硬かった。


「どうぞ、入って」


 わずかに開いた隙間から、冷えきった廊下の空気が流れ込み、鉄に似た夜の匂いが、部屋に残っていた熱を静かに削っていく。


 開いた扉の向こうに立つヴィルは、外套をまだ脱いでいなかった。襟元には夜気の冷えが深く残り、革の手袋を外す指先だけが、かじかんだようにわずかに赤い。その手には、封蝋の割れた紙片が握られていた。


「ローベルトから追加の通達が来た」


 重い外套の布擦れが、部屋の静けさへ低く沈んだ。彼の言葉の背後にある緊張が、部屋の静けさをひとつ濃くした。


 声は低い。任務の声だった。


 差し出された紙片を受け取る。封蝋の欠片が指先に冷たく触れ、乾いたインクの匂いが鼻の奥へかすかに届いた。筆跡には、余計な感情を削ぎ落とした硬さがある。


 わたしが紙面へ目を落とすのを待ってから、ヴィルは要点だけを読み下すように口を開いた。


「王都北東街区で確認された魔素の集積について、原因の特定にはまだ至っていない。ただし、散発的な不審火との関連は否定できないと判断された。俺の権限で、離宮の警備態勢を第二種へ引き上げる」


「第二種……」


「ああ。門前の衛兵を増員し、夜間の巡回間隔を半分に縮める。離宮の出入り記録も厳にする」


 膝の上で紙片を裏返し、角を親指でなぞる。


 律儀なローベルトらしく、記されているのは決定事項だけだった。


 ――魔導兵団への出動要請。魔導観測班を王都全街区に配置。魔素探知網を敷いて、異常の発生を早く拾うつもりね。定石の対応といえる。


 それ以外に詳細は何もない。


「それと、もうひとつ」


 ヴィルは言葉を選ぶように、わずかに黙った。その沈黙の深さだけで、次の言葉が、わたしの自由へ打ち込まれる楔になるのだと察してしまう。


「ミツル。次の指示があるまで、離宮と魔術大学間の往来以外の外出を禁ずる。これは将軍府の判断だ」


 喉が、細く狭まった。


 予感はあった。けれど、言葉として宣告されると、空気の厚みが一変する。窓の外では、離宮の庭木が夜風にかすかに鳴っていた。さっきまでと同じ音のはずなのに、その向こうにある静けさだけが、急に底を失ったみたいに深くなる。


「……理由については、よくわかっているわ」


 膝の上の紙片を、もう一度見下ろす。紙のざらつきが指の腹へ返り、それがかえって現実の固さを突きつけてきた。


 ラウールの声が、胸の底でかすかに鳴る。


 クロセスバーナが虚無のゆりかごにまつわる情報、とりわけあの穴の向こう側に潜む何かへ手を伸ばそうとしていると見ていた。そして、わたしがそこへ深く関わっている可能性が高い、と。そのあと彼は、わたしの身体に浮かぶ、あの紋様のことまで言い当てた。


 喉裏へ貼りついた怖さは、こういう時ばかりは忘れたふりを許してくれない。


 しかも、わたしは実際に一度攫われている。白い剣ごと奪われかけた、あの夜の鋭い冷えは、まだ肌の奥に残っていた。依頼主から「何が何でも捕らえろ」と命じられた者たち。あれは決して偶然ではない。わたしの動静を調べ上げ、機会を見逃さなかった。


「……この状況下では、不用意には動けないわ。王宮側にも伝わってしまうでしょうし、それを口実に、わたしを保安対象として押さえに来るかもしれない」


「ああ。王宮にとっては、王都の騒ぎなど『些事に過ぎん』としたいのだろう。大国の首都が不審火ごときで右往左往しているなどと知れれば、対外的にも面子が立たん。それに奴らにとって目下の関心事は、クロセスバーナなどではなく、お前なんだからな」


 ヴィルの低い声が、革の手袋を握りしめる微かな音とともに、わたしの輪郭を囲い直していく。


「わざわざ付け入る隙を見せることもない、ということよね」


「そういうことだ」


 ヴィルの声は平らだった。けれど、その平らさの下にあるものを、わたしはもう知っている。彼自身、この拘束が理にかなっていると頭では認めていて、そのうえで、わたしを閉じ込めてしまうことのきつさを、身体のどこかで量っている。


「わかった。あなたの判断に全面的に従う。信じているわ」


 吐き出した言葉が、そのまま白く凍えてしまいそうで、それ以上は言わなかった。言えば、自分を支えている細い糸が、ぷつりとほどけてしまいそうだったから。


 ヴィルは重く頷き、それから少しだけ間を置いて言った。


「……すまん」


 短い吐息が、夜気に触れて頼りなく揺れる。そのわずかな震えが、言葉よりも先に胸を衝いた。


「何が?」


「お前に自由であってほしいと願っているのに、こんな形でしか守ってやれないとは情けない」


「いまさら何を言っているのかしら。あなたのせいじゃないでしょうに」


「そうかもしれんが。やりきれんものはある」


 外套の襟元を直す仕草が、妙にゆっくりだった。疲れが、彼の肩に薄い影を落としている。


「……ヴィル」


「ん?」


「お茶を飲んでいかない? リディアさんが淹れてくれたのが、まだ温かいと思うの」


 言ってから、すぐに後悔が過った。こんな夜に、そんなことを言うべきではなかったかもしれない。けれど願っていたのは、それだけだった。


 ――すこしでいいから、そばにいてほしい。


 ヴィルは、ほんの一瞬だけ口もとを緩めた。疲れた笑いとも見える。けれど護衛騎士の硬い面差しが、その一瞬だけやわらいだのがわかった。


「いや、今はいい。門のほうを、もう一度見ておきたい」


 その答えと一緒に、馬の匂いと冷えた夜風が、ふたりのあいだへ薄く差し込む。


「……そう。仕方ないわね。頑張って」


 そう言って、わたしは唇の端だけで笑った。気取られてはならないと、自分へ言い聞かせるみたいに。


 ヴィルの眉根が、なぜかぴくりと動く。視線が机の上の飲みかけのカップへ落ちたかと思うと、つかつかと迷いなく歩み寄ってきた。


 傷だらけの大きな手が、そのままカップを掴み上げる。


「えっ、あの、ヴィル?」


「もらうぞ」


 止める間もなく、彼はカップを傾けた。喉がひとつ上下し、残っていた茶はあっけなく消える。


「ぬるいくらいがちょうどいい」


「その……」


 言葉が続かない。手の届かないはずだった体温が、さっきまで自分の唇が触れていた縁ごと持っていかれた気がして、胸の奥が不意に熱くなる。


 何を思ってそんなことをしたのかは、わからない。けれど、突っぱねられたわけではないのだと、あの乱暴な飲み方だけが教えてくる。


「明日も早い。お前も少しは寝ておけ。いざという時は体力の温存が鍵だ」


「あなたこそ、病み上がりなんだから無理しないで」


「なんともない、と言った。もうあんな失態は見せんさ」


 ヴィルはそれ以上なにも言わなかった。ただ、空になったカップを机へ戻し、今度こそ門のほうへ向き直る。


 扉が閉まり、規則正しい足音が廊下を戻っていく。そのあとに残ったのは、封蝋の匂いと、紙片の薄い重さ、そして届かない体温の残滓だけだった。


 わたしは机の上に横たえてあるマウザーグレイルへ、救いを求めるように手を伸ばした。


「茉凜……?」


 白く光る剣の肌へ触れても、返ってくるのは硬質な冷たさだけだった。彼女の意識は、深い演算の海へ沈んだまま、まだ浮上してこない。


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