我が騎士ヴィル・ブルフォード
ある日の午後、わたしは総長室の扉を叩いた。
「入りたまえ」
お祖父さま――グレイ総長は、机の向こうで書類に目を通していた。わたしが入ると、羽根ペンを置き、いつものように穏やかな笑みで椅子を勧めてくれる。
背後の壁際では、ヴィルが扉の重みを背負うようにして控え、硬い革の音を立てて腕を組んだ。
「まずはお茶でもどうかね」
淹れたての茶が揺らす熱気が、逆光の中に白く霞をつくっている。
「いえ、今日は遠慮させていただきます。精霊魔術の講義まであまり時間がございませんし……少し、お話がしたくて参りました」
窓の外で旗がはためく音が遠く響き、わたしは自らの呼吸の震えを静かに整えた。
お祖父さまは小さく頷いた。膝の上で手を組み直す。
「そうか。では、聞こう」
書類の端を照らす白光が銀髪に透けている。
「……いま、この王都で何が起きているのか、詳しいことは、わたしはまだ知らされていません。将軍府も、灰月も、わたしのところへは何も下ろしてきていないのです」
「うむ。情報統制はやむをえまい。わたしの元へは、魔導兵団への招集依頼関連のみだったな」
壁際の影が濃くなり、ヴィルが抱えた腕の革が軋む。
「けれど、何かが始まっていることだけは、感じています。王都の通りに貼られる紙が増えていること。憲兵の動きが活発であること。灰色の塔の門の衛兵が増えたこと。この魔術大学の空気も、前と少しだけ違うことも……」
お祖父さまは、ゆっくりと茶器を手に取り、一口含んでから、静かに戻す。磁器が触れ合う微かな音が、室内へ波紋のように広がった。
「君は聡い子だ。隠しおおせると思ったことはない。ただ、知らせる順序というものがある。ローベルトも、その点は心得ているはずだ」
「わかっています。でも、お祖父さま。わたしがお伝えしたいのは、それとは少し違うことなのです」
喉の手前で言葉がひとつ詰まりかけた。飲み込み、それでも続ける。
「わたしにできることは、限られています。いま動くのは危険だと、ヴィルも判断しています。わたし自身も、それは間違っていないと思っています」
「そうだな」
窓の桟が陽を吸い、室内の空気がわずかに重くなる。その重さが、肩のあたりへ静かに降りてきた。
「ラウールの警告を、無下にはできません。クロセスバーナが求めているのは、おそらくわたし自身なのだと思います。つまり……わたしが、彼らの盤面を動かす『鍵』になり得るということです」
陽だまりの中で踊る埃の粒を眺めながら、自分自身の存在が、兵器の影に重なっていく。
「だからこそ、いまわたしが王都市街に出向くことは、敵の思う壺でしょう」
口にすると、自分の置かれている場所の輪郭が、いっそうはっきりした。守られているのではない。守らなければならない理由のある側に、いま自分はいる。その自覚が、胃の底でじわりと冷えた。
「その通りだ」
お祖父さまの声が、少しだけ低くなる。
「だからこそ、いまのわたしにできることは、自分の本分に集中することだと思うのです。講義の準備を仕上げて、精霊魔術を……わたしにしか伝えられないことを、ちゃんと形にしたいのです」
言いながら、膝の上の指先がわずかに震えた。
「王都のことは、『あの人たち』を信じます」
お祖父さまの目を見る。銀の瞳の奥に、わたしの覚悟が、静かな湖面のように映り込んでいた。
「ローベルト将軍を信じています。灰月を率いているカテリーナを信じています。魚市場を守ろうとしているバルグを信じています。それから……ラウールのことも」
最後の名を口にしたとき、指先がわずかに冷えた。
あの赤紫の瞳の男が、どこで、何を掴んでいるのか。彼が先に走っている線の上へ、いまの王都の不穏な兆しが並びはじめていることだけは知っている。
「そのうえで、いつでも動ける覚悟だけは持っておきます。離宮預かりの養女としてではなく、黒髪のグロンダイルとして……」
足元の影が、床の石目に深く沈み込んでいく。
「必要なときに、必要な場所で、わたしにしかできないことがあるなら。……そのときは、迷わず前へ出たいのです」
壁際で微かに革がきしみ、その気配だけが背の震えを静めていく。
「ご心配には及びません。わたしはもうひとりではありません。なにより、我が騎士ヴィル・ブルフォードがいます」
言い終えると、喉の奥が乾いていた。お祖父さまは、しばらく何も言わなかった。窓の外で鳥がひとつだけ鳴き、それきり静かになる。
「……よくわかった」
わたしの言葉を受け取ったあとで、自分の中の何かと照らし合わせている。そういう間だった。
「君は思慮深い。そして、自分の足元がよく見えている。……ならば、私も私の場所で立つとしよう。君が知を整えることだけに集中できるよう、最大限力を尽くそうではないか」
お祖父さまの手が、机の上でそっと開かれた。こめかみの筋がかすかに引き、それから口もとがゆるむ。
「それから……」
ほんのわずかに言葉が切れた。窓から差す光が頬を横切り、銀の髪の一筋だけを明るくする。
「ローベルトのことは、私も信じているよ。あの男は、剣を振るわぬ戦い方を熟知している。武勇だけに偏りがちな体質の軍にとって、実に得難い資質だ」
「はい。よく存じ上げております」
お祖父さまが茶器の縁を一度だけ撫で、それから手を離す。
「ソミンの元王子については面識はないが、報告書には目を通させてもらった。彼の見立てが正しかったかどうかは、これから先の王都の行く末が証明するだろう。だが、彼が辿ってきた道のりが、決して軽いものではないことだけは確かだ」
そこで、空気がわずかに変わった。埃が静かに、斜光の中を泳いでいく。
「王宮の奥では、彼がもたらした情報の裏を読もうとする声もある。二重スパイなのではないか。今の不穏な盤面を敷いたのは、彼自身ではないか……とな」
その言葉が、冷たい水のように背筋を撫でた。
「疑念は当然でしょう。よくわかります。ですが、わたしは彼を信じています」
声にした瞬間、胸の底で、あの手紙の一節が静かにほどけた。理屈の先で、わたしは彼を信じている。
『欠けた翼の中に眠る真実。悲しみの中に輝く灯火を守る』
彼がどこまで見ているのかは、まだわからない。けれど、危険を前にしてなお、断定で煽るのではなく、わたしの身を案じる言葉を残した。そのことだけは、もう疑いようがなかった。
壁際で、ヴィルがわずかに姿勢を正した。護衛騎士としての硬い声音が、総長室の静けさへ低く落ちる。
「ミツルお嬢様の警護は、引き続き最優先とします」
短く、硬い言い方だった。
「将軍府との連絡についても、私が取り持ちます。念のため、風耳鳥による連絡手段も準備しましょう。離宮内外の巡回も密にします。衛兵を増員させ、指揮は私が執ります」
「ヴィル、無理をしないでちょうだい。あなたの身体だって、まだ――」
鉄と革の匂いがわずかに強まった。
「無理というほどのことではありません。お嬢様が安寧であられること。それが私の務めです」
遮る声は、やわらかくはなかった。けれど、冷たくもなかった。この人はいつも、感情を実務の形へ折りたたんで差し出す。
「そして、万一が来たときは、直ちに動けるように備えておくことこそ肝要。その判断は、お嬢様と私とで共有します。その時は一瞬たりとも遅れは取りません」
「……ありがとう、ヴィル」
振り返らずにそう答えた。窓から差す光のなかに、ヴィルの影が重なっているのが見えた。
「かつて閃光と肩を並べた雷光がおれば、これ以上心強いことはない。ミツルを頼んだぞ、ブルフォード」
胸の内側に溜まった熱気が、お祖父さまの言葉によって、静かな鼓動へと形を変えていく。
「はっ」
総長室の空気が軽くなったわけではない。ただ、膝の上で強張っていた指先だけが、いつのまにか少しほどけていた。
扉を出るとき、お祖父さまの声が背中に届く。
「ミツル」
足を止める。
「講義を楽しみにしているよ」
その一言が、胸の内側をそっと撫でた。涙にはならない。けれど、じんと熱い。
「……はい。お祖父さまにいちばんに見ていただきたいと、わたしも思っています」
廊下へ出ると、石壁の冷えがまた頬を包んだ。
ヴィルが半歩後ろについてくる。靴音が、二人分だけ、規則正しく廊下を満たしていった。
窓の向こうには、春の気配がもう少しだけ近づいた空が広がっていた。雲の切れ目から落ちた光が、回廊の床に長い白をつくっている。
――やるべきことは、ちゃんとある。いまは、それだけでいい。
息を詰めて待つ日々の中で、わたしの手元には紙とペンがある。ソレイユが待っている。お祖父さまが信じてくれている。ヴィルが横にいる。
全部を抱えたまま、わたしは図書館への石の階段を、もう一度、上りはじめた。




