夕暮れの並走
離宮へ戻る馬車が魔術大学の門を離れてまもなく、車輪の軋みが石畳の継ぎ目をそのまま背中へ運んできた。
厚いクッション越しでも、揺れは思いのほか容赦がない。小さく跳ねた振動が、ほどけかけた呼吸をまた喉の手前へ押し戻してくる。
窓の布を少しだけ持ち上げると、王都の夕暮れが屋根の縁から順に薄れていくところだった。まだ日は残っている。けれど、通りの影だけがひと足先に深くなり、石壁の白さも、さっき中庭で見たときとは違う温度をしている。
わたしは膝の上で指を重ねていた。
指先だけが、いつのまにか冷えている。中庭で掌の上に結んだあの小さな虹は、もうどこにも残っていない。残っていないはずなのに、霧へほどけた水の名残だけが、まだ皮膚の裏に薄く差し込んだままだった。
――魔素の集積。廃屋二軒。焼け跡から出たものが、通常の放火とは異なる、か。
ヴィルの声を、頭の中でなぞる。なぞった途端、その言葉へ別の破片が引き寄せられてくる。
ラウールが王都へ来た理由のひとつ。クロセスバーナの技術系統が、西の果てに閉じた話ではないかもしれないという警戒。カテリーナが灰月として追い続けていた、王都内の散発的な火種。彼女はいつも軽口を崩さないのに、数字と場所の話へ入るときだけ、目の奥の色が少し変わる。
ひとつひとつは、まだ点にすぎない。それなのに、並べはじめると、勝手に線のかたちを取ろうとする。
喉の奥へ乾いた引っ掛かりが落ちた。馬車が交差点を越え、窓枠がわずかに鳴る。膝の上で重ねていた指に、知らないうちに力が入っていた。
《《美鶴。また先に走ってない?》》
茉凜の声が、こめかみの内側へやわらかく届く。
「……え、なんのこと?」
《《と・ぼ・け・ない。頭がぐるぐる回って、先へ先へ走ってるでしょ。それも悪いことばかり想像してる。まだ何もわかってないのに。黙り込んでるときは、たいていそうだもん。瞬きなんてほとんどしてないし、指に力入ってるし。ぜんぶお見通しだよ》》
こういうところまで伝わってしまうのが、五感共有の厄介なところだった。けれど、その言い方があんまり茉凜らしくて、息の先だけが少し戻る。まだ足場までは戻らない。
「でも……あまりにも噛み合いすぎるのよ。ラウールが言っていた神代の技術のこと。そこにカテリーナが追っていた不穏な火種。そこに今回の局所的な魔素の集積まで重なったら、偶然で片づけるほうが怖いじゃない」
《《そりゃまぁ、気持ちはわかるよ》》
軽い響きのまま、茉凜の声は芯だけを外さない。
《《でも、いまの手持ちの材料だけじゃなんとも言えない。どれも人づてだし、しかも断片だけ。廃屋の焼け跡がどういう状態だったのか、発生した魔素がどれくらいの濃度で、どれくらいの規模で拡散したのか、わたしたちまだ何ひとつ見てない》》
「それは、そうだけど」
痛いところへ、やわらかい布を当てるみたいに触れてくる。
《《情報不足なままじゃ、名探偵ごっこも無理ってことだよ》》
図星だった。逃げ場のないところへ、すとんと落とされた。重く言われたわけではない。重くしないからこそ、自分がいま、憶測の上へ憶測を積んでいたことが余計にはっきり見えてしまう。
「……そうね。わかってはいるの。わかっているのに、どうしても止まらなくて」
街路樹の影が、窓硝子の上をひとつ横切った。夕陽の細い筋が膝へ落ち、すぐに退いていく。さっきまで世界をひらいてくれていた光が、今は逆に、わたしの中の落ち着かなさだけを縁取っていくようだった。
《《変に頭が回っちゃうところが美鶴だよね。あれもこれもって、いろいろ見え過ぎちゃうから、慌てて組み上げちゃおうとする》》
からかうような調子だった。けれどその底に、見捨てない手つきがある。
「痛いこと突かないでよ。先回りしておかないと、いろいろ怖いのよ。手遅れになったらどうしようって……」
《《はい、それだめー》》
「茉凜……」
《《いま、美鶴にできることと、できないことを分けてみて?》》
その言葉に、息がひとつだけ深く入った。
できないこと。現場を自分の目で検分すること。魔素の残滓を測ること。将軍へ届いている詳報を今すぐ確かめること。どれも、この馬車の中にいるわたしの手からは遠い。
――これがもし何者かの思惑に基づく餌であったなら、不用意に現場へ近づけば……。
いけない、と頭を横に振る。
できること。離宮へ戻ったら、まず体を落ち着かせること。しっかり食事を摂ること。詳報が届くまで、頭を無意味に擦り切らせないこと。講義の紙束はソレイユが預かってくれている。明日以降それを続けられるように、今夜の自分を壊さないこと。
並べてみれば、ずいぶん短い。短いのに、いちばん難しいことばかりだった。
「ありがとう、茉凜」
《《どういたしまして》》
「わたしはわたしを見失わない」
もう二度と同じ過ちは繰り返さない。
《《それがいい》》
声が、呼吸ひとつぶん退いていく。そのあとで、馬車の揺れそのものがようやく身体へ戻ってきた。
窓の布を指先で少しだけ脇へ寄せる。
夕風が頬を撫でた。乾いた石畳の匂い。焼いた肉か、香草か、どこかの家の夕餉が低く流れてくる。王都の中では、何もかもがもう終わってしまったわけではない。灯がつく前の短いあわいに、誰かの暮らしだけがまだ静かに続いている。
そのとき、馬車のすぐ横を駆けていく黒い馬影に気づいた。
なめらかな首筋。乱れない脚運び。夕の光を吸った黒い毛並み。
スレイドだ、と、考えるより先にわかる。そして、その背にいる人の輪郭も。
ヴィルは前だけを見ていて、こちらへは目を向けない。けれど馬車の速度にぴたりと合わせたまま、つかず離れずの距離で並走してくれている。道がわずかに傾けば、スレイドの歩幅もそれに合わせて静かに変わる。車輪が継ぎ目を拾って大きく跳ねたときでさえ、あの黒い馬影は少しも慌てない。
見守られている、という言葉は、今日のわたしには少し薄かった。
ただ、並んで走ってくれている。
――それだけ。
なのに、さっきまで胸の奥で騒がしく鳴っていたものが、ひとつ、静かな場所へ降りていく。
何かが起きているかもしれない。王都のどこかで、もう火はついているのかもしれない。ヴィルの身体の奥に残ったあの細い変化も、ほんとうは何も終わっていないのかもしれない。
それでも、窓の外にはスレイドの黒い背中があって、その上にあの人がいる。
――いちばん確かなものは、それだけ。いまのわたしにとっては、それだけが……。
そう思ってしまうことの意味を、まだ名前にしてはいけない気がする。
――でも、巻き込んだのはわたしだ。
わたしが彼を望んだ。隣にいてほしいと。わたしも彼の隣に並び立てるようになりたいと願った。あのとき差し出した手が、彼の何かを変えてしまった。変えたかったわけではないのに、変えずに済む距離を、わたしのほうから踏み越えた。
離れたほうがいい。あの人のためにも、そのほうが正しい。頭ではそう並べられるのに、正しさの隣に立てた途端、喉の奥がきゅっと狭くなる。離れないでほしい、と、もうとっくに思いはじめていることを、自分でわかっている。わかっているから余計にそこへ目を向けられない。まつげの先でそっと逸らすように、何度も、何度も。
マウザーグレイルの柄へ掌の底を押しつけた。金属の冷えがひやりと返ってきて、その硬さだけが、いまにも輪郭を持ちかけるものの縁を少しだけぼかしてくれる。
恋だとか、そんな手早い名で片づけたくはない。けれど軽くないものだと認めた瞬間、もっと逃げ場がなくなる気がした。護衛と守られる者。年齢も立場も、本来なら、そのあいだへいくつも壁を立ててくれるはずだった。
なのに、壁にならない。
あの人がいまのわたしをどう見ているのか、わたしにはわからない。ただ、追い詰めない人だということだけは知っている。必要なときだけ距離を詰め、終われば必要なぶんだけ退く。そうやって、静かな均衡を守ろうとしているのだろう。
だから、わたしのほうで勝手に近づいてしまったら、その均衡を壊してしまう。あの人を困らせる。そのあとに差し出せるものを、わたしはまだ何ひとつ持っていない。――それが、いちばん怖い。
それでも窓の外には、スレイドの黒い肩があって、ヴィルの外套の裾が夕風にひと筋、細く流れている。
それを見ているだけで、呼吸がひとつぶん深くなる。ああ、と、声にならない音が唇の内側をかすめていった。
馬車の速度が少しずつゆるみ、道の傾きが離宮門前の上りへ変わりはじめた。車輪が継ぎ目をひとつずつ拾い、その衝撃が肋骨のあいだで細かく震える。
斜めに傾いた光の端で、ヴィルが一度だけ、馬上からこちらへ目を向けた。
窓越しに、ほんの一瞬だけ視線が合う。
何も言わない。唇はかすかに引き結ばれたままで、次の瞬間にはもう前へ戻っている。けれど、その一瞬だけで十分だった。ちゃんと、ここにいる。ちゃんと、こちらを拾ってくれている。その一点だけが、今夜のわたしには痛いほど確かだった。
窓布を持つ指先から、冷たさがゆっくりと退いていく。代わりに、視線が触れた場所にだけ、小さな熱がひとつ残っている。
前方から、門の重い扉が開く軋みが届く。蹄の音が石の響きを変え、馬車がゆっくり速度を落としていった。
離宮の庭木の輪郭が、夕の最後の光を受けて静かに浮かび上がる。わたしは膝の上の指を一度だけ深く握り、それからそっと力を抜いた。
――できないことは、置いておく。
――できることだけ、今夜のうちに、ひとつずつ。
茉凜の言葉を、自分の声で言い直す。
窓の外で、スレイドが短く一度だけ嘶いた。なだめるようなヴィルの低い声が、風に混じってかすかに届く。
並んで走ってくれている。
その事実だけを胸の奥へそっと畳み、わたしは静かに息を整えた。そこにまだあたたかさが残っていることへ、気づかないふりをしたまま、そっと目を閉じる。
離宮の石門が、馬車の両脇を通り過ぎていく。暮れかけた青い空に、最初の星がひとつ、ひそやかに灯りはじめていた。




