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虹がほどけた、そのあとに

 昼の食堂を出て、ソレイユと並んで中庭へ向かった。


 渡り廊下の石壁は午後の陽を受け、朝よりわずかにぬくもりを帯びている。高い窓から差す光が床のタイルへ細長い帯を落とし、抱え直した資料の角が腕の内側をかすめるたび、乾いた紙の手触りが残った。


「ミツルさん、緊張してる?」


 ソレイユが半歩うしろから訊いてくる。


「……少しだけ」


「いいね。ちょっと緊張してるくらいのほうが、たぶんちゃんと届くよ」


 根拠のない励ましではなく、受け取った側の実感として返してくれているのがわかる。この子はいつもそうだった。言葉を飾るより先に、自分の手触りを差し出してくる。


 中庭は講義棟の裏手にあった。石畳の広場を低い植え込みが囲み、隅には古い噴水がひとつだけ残っている。水はもう流れていない。枯れた水盤のふちに苔が薄く貼りつき、陽の当たるところだけが白く乾いていた。春を待ちながら、まだ動き出せないでいる庭だった。


 この時間帯は人が少ない。講義棟から出てきた学生が二人ほど遠くを横切ったが、こちらまでは来ない。植え込みの枝先で、小さな芽がひとつだけ風に揺れている。


 ヴィルは中庭の入口から少し離れた回廊の柱に背を預け、腕を組んでいた。いつもの距離だ。近すぎず、遠すぎず。視界には入るのに、こちらの空気を乱さない。その輪郭だけが、石壁の影のなかでひっそり息をしていた。


 わたしは広場の中央へ立ち、腰の剣帯に懸架したマウザーグレイルへそっと手を添えた。柄の冷えが掌に馴染むのを待つ。金属の芯から伝わってくるのは、茉凜の気配だけではない。この剣と過ごしてきた時間の、ごく薄い層のようなものまで、手首の内側へ静かに触れてくる。


 ソレイユのほうを向く。


「じゃあ、始めるわね。講義のつもりで見てちょうだい。わからないところがあったら、あとで全部教えて」


「うん。何も知らない人のつもりで見るね」


 ソレイユは噴水の縁に腰を下ろした。膝の上にノートを広げ、ペンを構えている。その姿勢がもう出来上がっていて、頼もしいのに、どこか可笑しい。


 ひとつ息を吸った。


「おいで、精霊子……」


 空気の奥へ、精霊子の気配を探る。中庭の湿った石のあいだ、植え込みの根もと、使われなくなった水盤に溜まった埃のなかにさえ、それは薄くたゆたっている。目には見えない。けれど呼びかければ、応じてくれるものがこの場のどこにでもある。


「領域展開……属性は青で」


 掌のすぐ前に、ごく小さな青の〈場裏〉を広げた。水の属性だけを通す、薄い領域。


「まず、領域に水を集めるわ」


 頼んだ瞬間、思考の奥で青い応答がひとつだけ返る。精霊子がかすかにまとまり、領域の内側で半ば自律した気配がそっと働きはじめた。


 空気が、ほんのわずかに湿り気を帯びていく。石畳の冷えの底から、水の粒が目に見えないほど細かく集まりはじめた。精霊子の流れに沿って、ゆっくり、ゆっくりと。強引に引き寄せるのではなく、応じるものだけを迎えるように。


 掌の上で、透明な水の珠がひとつ、形を結んだ。


 握りこぶしより少し小さい。表面が細かくふるえ、昼の光を丸ごと含んでいる。ソレイユが息を呑む気配が、中庭の静けさに薄く広がった。


「水よ、わたしの意志のままに振る舞え……」


 わたしはその珠をそっと持ち上げた。肘の高さまで。光の角度を探るように、指先でごくわずかに回す。


 水の内側を、光が通り抜けていく。


 珠のなかで屈折した光が、少しずつ色を分けはじめた。


 赤。橙。黄。緑。青。藍。紫。


 石畳の白い面に、七色の帯がゆらゆらと落ちる。虹だった。小さな、ほんとうに小さな、掌のなかの虹。


「領域解放」


 わたしは珠をほどいた。


 指先を離した瞬間、水は細かな霧へ崩れ、ひと呼吸遅れて空気へ散っていく。石畳に落ちていた七色は薄い膜みたいに揺れながらほどけ、最後にはただの湿りだけを残した。陽にぬくんだ白い石の匂いへ、ほどけた水の冷えがひとすじ差す。


 静寂が、ひと呼吸ぶん続いた。


 ソレイユはすぐには何も言わなかった。石畳に残る淡い濡れ色を見つめたまま、さっきまで追っていたレジュメの行と、いま目の前で起きたことを胸のなかで重ね直しているみたいに、まばたきをひとつだけ遅らせる。


「……きれい」


 息を呑んだ勢いで零れる感嘆ではなかった。見惚れたものを、ちゃんと自分の言葉へ引き寄せてから落とすような、静かな声だった。


「前にも見せてもらったけど、何度見ても、やっぱりきれいだなって思う」


 ペンを握ったまま、彼女は小さく首をかしげた。噴水の縁へ当たった午後の光が、亜麻色の髪の先でやわらかく滲んでいる。けれど視線は、虹の消えた空間だけではなく、その現象を結んでいたわたしの掌へ戻ってきていた。


「でもね、今回は少し違うことも感じたの」


「どこが?」


「前は、ただきれいだった。でも今は……ミツルさんが何をしているのか、少しだけわかる気がする。水を無理やり引っ張ってきたんじゃなくて、もともとここにあったものを、集めただけなんだよね」


 その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。見た目の美しさではなく、そこで働いていた意思の向きへ、もう彼女の目が届いている。


「……そうよ。無から作ったんじゃない。ここにあった水分を、精霊子の流れに乗せて集めただけ」


「うん。それが、前よりもはっきり伝わった。たぶん、レジュメをずっと一緒に読んでたからだと思う。言葉で先に少しだけ触れてたから、見たときに、あ、これか、って」


 ソレイユはノートへ視線を落とし、丸い字で何かを書きつけた。ペン先が紙を細く引っかく音が、中庭の静けさへ溶けていく。


 書き終えると、その手はすぐ続きを追わなかった。ソレイユはノートの端を押さえたまま、虹の消えた石畳へもう一度目を向けた。そこから戻ってきた言葉は、さっきよりずっと輪郭を持っていた。


「だから、順番は合ってると思う。まず見せて、そのあとに何が起きていたかをほどく。わたしがそうだったから、たぶん聞く側もそうなると思う」


「……ありがとう。あなたがそう言ってくれると、ほんとうに心強いわ」


 声はまだ少しかすれていた。けれど、さっきまでの焦りとは違う。術をほどいたあとの湿り気が指先から静かに退き、そのぶん胸の奥に沈んでいたこわばりも、ひと息ごとにゆるんでいった。


 ソレイユが噴水の縁から立ち上がり、ノートを抱えてこちらへ歩いてくる。靴底が石を踏む音が、ひとつひとつやわらかく返った。


「じゃあ、ここからが本番だよ。いま見せてくれたのを踏まえて、レジュメのどこをどう繋げるか。午前に直したぶん、もう一回確認しよう」


 中庭の隅にある石のベンチへ並んで座る。紙を広げると、風が一度だけ吹いて頁の角がめくれかけた。ソレイユが指で押さえる。その指先に小さなインクの染みが残っていた。午前中からずっと書いていた跡だった。


 実演のあとに入る説明の段落。精霊子とは何か。〈場裏〉とは何か。想念による術式構築とは何か。午前中に順番を入れ替え、言い添えを足したぶんが、さっきの実演と照らし合わせると、たしかに前よりすっきり通っている。


「ここ、実演の直後だと、もう一行だけ間が欲しいかも」


 ソレイユが指で示した。


「いま見たものを、少しずつ言葉にしていく。この一文を挟んだあとに入ったほうが、次の説明に息が残る」


「そうね。入れましょう」


 ペンを取り、余白に一行を足す。インクが紙へ沈んでいくのを見つめているあいだ、呼吸がひとつぶんだけ落ち着いた。書いた文字を指でなぞると、ソレイユが小さく頷く。


「うん。いい。これなら、わたしでもついていける」


 それで十分だった。この子に届くなら、たぶん講義も届く。そう思えることが、いま手のなかにある確かさのすべてだった。


「ミツルさん」


「なに?」


「十分間に合うと思うよ。ぜんぶ完璧にならなくても、骨は立ってるんだから」


 その一言が、呼吸の底に沈んでいた硬いものをほんの少しだけゆるめてくれた。間に合うかもしれない。初めて、そう思えた。十六日。短い。けれど、膝の上の紙へ目を落とせば、次にどこへ線を引けばいいのかだけは、もう見えている。


 ヴィルは、回廊の柱に背を預けたままこちらを見ていた。わたしの実演のあいだ、彼が一度だけ目を細めたのを知っている。何も言わなかった。けれど、虹の光が石畳へ落ちた瞬間、ほんのわずかに呼吸の間合いが変わったのが、距離越しにもわかった。


 それが何を意味するのか、わたしにはまだ訊けないでいる。


 午後の陽が傾きはじめた頃、紙の上の流れはかなり整っていた。ソレイユと二人で、頁を順にめくり直す。丸い字の書き込みと、わたしの細い字が交互に並んで、もう、ひとり分の紙束ではなくなっていた。


「あとは、倫理のところを少し締めれば――」


 言いかけたところで、中庭の入口のほうから硬い靴音が響いた。


 ヴィルが柱から背を離すのが見えた。腕を解き、半歩だけ前へ出る。植え込みの芽はさっきと同じ風に揺れているのに、もう同じ庭ではない気がした。


 回廊の角から現れたのは、大学の職員ではなかった。軍服に近い外套を羽織り、腰に短剣を帯びた伝令兵が、早足で中庭を横切ってくる。靴底が石畳を打つ、その硬さだけで日常の用件ではないとわかった。


 伝令兵はヴィルの前で足を止め、短く敬礼した。


「ブルフォード卿。灰月のウイントワース班長より急報です。至急ご確認を」


 カテリーナから――と、胸の内でだけ思う。


 封蝋を切る音が小さく、乾いて鳴った。ヴィルは紙片を広げる。目が文面を追うのを、わたしは石のベンチからじっと見ていた。表情は動かない。けれど、読み終えたあと紙を持つ指先だけが、ほんの一瞬、いつもより長く止まった。


 彼がこちらを向く。


「ミツル」


 声にあからさまな緊張はない。けれど、さっきまでの見守りの距離ではなかった。任務の声だった。回廊の柱に預けていた重心が、もう完全に前へ移っている。


「王都の北東区で、不審な魔素の集積が確認された」


 紙の端が指のあいだでかすかに鳴り、喉の奥へ冷えた息がひとすじ落ちた。


「なんですって!?」


「深夜に廃屋が二軒焼けている。灰月が現場を押さえたが、焼け跡から出たものが通常の放火とは異なるらしい。もはや憲兵たちだけでは対応できん。ローベルトが軍主導で警戒態勢の引き上げを検討している」


 石のベンチに座ったまま、わたしの指先は紙の端を握りしめていた。乾ききらないインクの上で、ペン先がかすかに滲みをつくっていた。中庭の空気が、さっきまでとまるで違う。あの小さな虹が落ちていた場所の白さだけが、妙に遠く見えた。


「魔素の集積って……この王都の中で? そんな馬鹿な!」


 頑強な城壁と、南の海岸線を見張る監視網がひと息で脳裏に立ち上がる。


「魔獣が入りこむ余地なんて、どこにもないでしょう? ありえないわ」


「まだ確定ではない。だが、ローベルトが動いたとなれば、灰月の報告に一定の信憑性があるということだ。詳報が入り次第、離宮へ戻る」


 ヴィルの声は平らだった。平らであることが、かえってその向こう側の厚みを伝えてくる。


 ソレイユはノートの上へ紙束を重ね、静かに押さえた。ローベルトの名が落ちた瞬間、肩先がほんの少しだけすくむ。細部まではわからないだろう。けれど空気が変わったことだけは、彼女にもはっきり届いている。ペンを持ったままの指先だけが、わずかに白くなっていた。


「……お父さん」


 小さな声だった。問いかけでも、引き止めでもない。ただ、父を呼んだだけ。けれどその声のなかに、さっきまでこの中庭にあった時間が、虹も、紙も、ペンの染みも、全部入っていた。


「大丈夫。講義の準備は、続けるわ」


 そう答えた自分の声が、少し硬い。硬いとわかっているのに、やわらかくする余裕がない。


「……うん。紙は、わたしが預かっておくね。明日も来るから」


 ソレイユはノートの上にレジュメの束を重ね、丁寧に端を揃えた。その手つきに、余計な言葉はいらなかった。


 預かっておく。それだけで十分だった。わたしがいつ戻ってきても、そこに紙があるということ。この子はそういうふうに、いちばん大事なものを、いちばん静かな形で差し出してくる。


「ありがとう、ソレイユ」


 立ち上がると、膝の裏が冷えていた。石のベンチへ長く座っていたせいだ。午後の陽はもう中庭の半分を影に変えていて、さっき虹を落とした石畳のあたりだけが、まだ白く残っている。水の跡は、もう乾いていた。


 ヴィルはすでに回廊の入口で待っていた。剣帯に手を添え、伝令兵と二言三言交わしている。わたしが近づくと、彼は短く頷いた。


「急がなくていい。だが、戻る準備はしておけ」


「わかってる」


 並んで歩き出す。靴底の音が、さっきまでとは違う響きで石を打った。同じ廊下なのに、空気の密度がもう違っている。


 回廊を抜けるとき、一度だけ振り返った。中庭のベンチに、ソレイユがまだ座っていた。膝の上の紙束を両手で押さえ、こちらを見ている。手は振らない。ただ、小さく頷いた。


 ――間に合うと思うよ。


 さっきの声が、まだ耳の奥に残っている。間に合うかもしれないと、初めて思えた午後だった。


 そんな午後が、もう終わろうとしている。


 廊下の先で、大学の鐘がひとつ鳴った。午後の四つ目の刻を告げる、いつもと変わらない音。なのに、その余韻だけが妙に長く石壁のあいだを漂っていた。

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