机の上へ伏せるやさしさ
数日後、わたしは王立魔術大学へ戻っていた。
「もうなんともないさ」
そう言ったときのヴィルの声は、腹立たしいくらいいつも通りだった。朝の冷気に混じる吐息も、剣帯を締める手つきも、見慣れたまま少しも崩れていない。
共振解析の翌日には、ヴィル自身が訴える症状は、ほとんど残っていなかった。それでも、観察はやめなかった。負荷を抑えた軽度の精霊子運用で追加の解析を重ね、流れだけを静かに追っていく。視界へ重ねた淡い走査像のなかで、大脳基底核へ向かう細い光だけは、何度見ても消えなかった。
けれど、それはごく微量だった。辺縁系全域へ広がっていく気配もなく、茉凜の見立てでも、変質はそこで止まっているらしかった。
精霊魔術のデモンストレーションに向けた練習と称して、さりげなく精霊子を寄せてみても、ヴィルはそれを知覚できていないようだった。少なくとも平時の彼に、何か別の感覚が増えたようには見えない。
――だから安心していい。たぶん、大丈夫。彼がわたしみたいになることはない。茉凜と繋がっているみたいになることもない、はず。
理屈は何度もそう告げてくる。なのに、その理屈のいちばん薄いところにだけ、まだ針みたいな違和感が残っていた。何かは起きた。たしかに起きたのに、その輪郭だけがこちらの指先をすり抜けていく。今はまだ、名をつけるには早すぎる、とでもいうように。
朝の大学は、石の匂いがする。
夜の冷えを抱いた回廊に、学生たちの靴音が乾いて響き、窓の高いところから落ちる淡い光が、磨かれた床を白く撫でていた。積み上げられた古書の紙の匂い。遠くの講義室から漏れてくる低いざわめき。硝子越しの空はまだ薄く、春へ渡りきらない色をしている。
そこへ足を踏み入れると、胸の奥で固まっていたものが、少しだけ別の形になる。ただ怯えているだけではいられない場所だ。知りたいことも、調べるべきことも、もう多すぎるほどある。
抱えた資料束の角が、腕の内側にこつこつ当たった。精霊魔術の講義草稿。古い文献の抜き書き。侍医司とのすり合わせ用に書き散らした走り書き。紙の重さはたいしたものではないのに、今日のわたしには妙に現実的だった。
わたしは足を止めず、白くなりきらない息をひとつだけ胸の内でほどいた。
まだ、答えは出ていない。ヴィルのことも、お祖父さまの病のことも、精霊魔術をどこまで医の側へ引き寄せられるのかも。
――それでも、やるべきことはちゃんとある。
その言葉だけを細く握りしめて、わたしは大図書館へ続く石の階段を上りはじめた。
◇◇◇
三週間あると思っていたのに、講義本番まで、もう十六日しかない。はたして間に合うのだろうか。
いっぽう、相殺術式のほうは、茉凜が「吾にまかせておけい」と、いつもの戦国武将めいた口ぶりで胸を張っていた。膨大なシミュレーションを重ね、突き詰めた理路を想念のかたちへ落とし込み、術式として編み上げていく。
あちらは、茉凜に任せていい。
そう思えるだけで、わたしはようやく、自分の紙束へ戻ることができた。
大図書館の入口で、重い扉を押す。手首に返る木のきしみも、その向こうに満ちる古紙とインクの匂いも、何ひとつ変わっていない。
高い天窓から落ちる朝の光が、閲覧机の並びを白く照らしていた。まだ人の少ない時間帯で、椅子の背もたれだけが規則正しく影をつくっている。
奥まったいつもの席には、もう先客がいた。薄い亜麻色の髪を耳の後ろへ流し、机いっぱいに広げた紙束へ身をかがめている。
――ソレイユ。ソレイユ・ローベルト。
ソレイユは紙の上へ何かを書き込んでいた。わたしの足音に気づいて顔を上げると、目もとがふっとゆるみ、それから唇だけが少し結ばれた。
「あっ、ミツルさん!」
「ごめんなさいね、ソレイユ。また急に来られなくなってしまって……」
椅子を引きながらそう言うと、彼女はすぐには返さなかった。
前にも同じことがあった。あのときも、ソレイユは事情を問いつめなかった。わたしの顔をひとつ見て、それで十分だと判断したみたいに、小さく頷いてくれた。
今回も、そうだった。
「……大丈夫?」
ソレイユの声は低く、図書館の静けさを乱さないまま届いた。
「ええ。大丈夫よ」
大丈夫、という言葉が最近ずいぶん軽くなった気がする。けれど、ソレイユはそれ以上は踏み込まなかった。父君であるローベルト将軍を通して、わたしの事情も多少は伝わっているはずなのに、その気配ごと机の上へ伏せてくれる。
彼女は広げていた紙を、そっとこちらへ滑らせた。
「これ、ミツルさんがいないあいだに、ちょっとだけ整理してみたの。余計なことしてたらごめんね」
受け取った紙には、前回までのレジュメの写しに、ソレイユの丸い字が書き足されていた。
ここ、順番入れ替えたほうがいいかも。
この言い換え、前の版のほうが好き。
実演のあと、ここで一回息をつける場所がほしい。
見覚えのある筆跡が、余白を静かに埋めている。わたしがいなくても、彼女はひとりで紙を読み返していてくれたのだ。
「……余計なことなんかじゃないわ。ほんとうに助かるわ」
声がかすかに湿った。喉の奥を指で押さえるみたいに、ひと呼吸を飲み込む。
ソレイユは照れたように目を伏せ、それからすぐに紙の上へ戻った。頁の端を指先でとんと押さえる。
「じゃあ、続きをやろう。本番まであと何日だっけ?」
「……十六日」
「うわ。思ったより近いね」
「でしょう? だから焦ってるのよ」
「焦ると盛りすぎるのは知ってるからね。今日は削るほうから行こう」
「うん」
その言い方に、思わず口もとがゆるむ。もう何度も言われた台詞だった。増やすことばかり考えるわたしに、ソレイユはいつも「あとに回そう」と返してくれる。削るのではなく、順番を変える。それだけで、紙の上の流れがまるで変わることを、この子に教わった。
ソレイユは一枚めくって、紙束の中央へ指を置く。
「じゃあ、今日はここからだね。前に止まってたの、精霊子の基礎的な性質と、〈場裏〉の安全運用がどうつながるか、だったでしょう?」
記憶の拾い方が正確で、思わず少しだけ笑ってしまう。
「……そう。そこが、どうしても重くなるの。危険性を先に立てすぎると、講義全体が怖い話みたいになってしまうし、逆に美しさばかりを前へ出すと、肝心の負荷や倫理が薄くなってしまう」
口にした途端、喉の奥が少し乾いた。いまわたしが怖がっているものまで、そこへ混ざってしまいそうで。
「うん」
ソレイユは頷き、手元の紙へ視線を落とす。ペン先が余白へ小さな文字を落としていく。
「でも、たぶん順番なんだと思う」
頁の端を押さえながら、彼女は少しだけ首をかしげた。
「最初に危ない話から入ると、受け取るほうは身構えちゃう。でも、先に小さな実演を見て、『きれいだった』『どうして?』ってなってからなら、危険の話もちゃんと自分のこととして聞ける気がするの」
その言い方は、研究者の整理ではなく、受け取った人の感想だった。だから、すっと入ってくる。
「……わたしだったら、たぶんそこで聞きたくなるの。どうして、あんなふうに水が集まったの、とか。虹になるまでのあいだに、何が起きていたの、とか」
高窓から落ちる光が、彼女の横顔の輪郭だけをやさしく縁取った。急がせるでも、正解を押しつけるでもない。ただ、受け手の目線を机の上へ置いてくれる。それだけで、絡まっていた糸の一部がほどける。
「そうね……まず見せること。それから、何が起きていたかをほどいていく。小さなことから、すこしずつ」
自分の声で言い直すと、言葉の骨だけが少し静かに立った。
ソレイユは「うん」と小さく頷いて、別の頁をめくる。古紙の擦れる音が、朝の冷えた空気のなかで薄く鳴った。
「それと、ここ」
指先が一段落を示す。
「精霊子の危険性そのものは必要なんだけど、最初から『大脳辺縁系がどうこう』まで行くと、少しだけ重たいかも。先に『呼びかけに応じる気配』くらいで置いて、そのあとで、受け止める側の負荷へつなげたほうが、息が続く気がする」
そこまで言ってから、彼女は少し照れたみたいに笑った。
「ごめんね。専門の人みたいなこと、言っちゃった」
「ううん。助かるわ。むしろ、そういうところを見てほしかったの。受け取る側の視点って、つい見落としがちになっちゃうから」
頁の上へ視線を落とす。自分だけで抱えていたときには塊にしか見えなかったものが、ソレイユの言葉を通ると、まだ人に渡せる形のまま残っている気がした。
残り十六日。指折り数えるまでもなく、もう猶予は薄い。
けれど、全部を抱えて全部を言おうとするから、重すぎたのかもしれない。まず見せる。そこからほどく。最後に危うさを引き受ける。骨は、もう見えている。
ソレイユが新しい紙を一枚差し出してきた。厚みのある紙肌が、乾いた音を立てて机へ触れる。
「じゃあ書き直してみようか? 今なら、前よりずっとすっきりしそうだし」
わたしはその紙を受け取った。まだ答えの出ていないことは山ほどある。ヴィルのことも、お祖父さまの病のことも、講義の先で何が開くのかも。
それでも、ペン先を置く場所だけは、さっきよりはっきり見えていた。
しばらくして、ソレイユがふいにペンを止める。
「ねぇ、ミツルさん」
「なに?」
「実演のほう、最後に通しでやった?」
指先が紙の上で止まる。
「……まだよ。離宮の庭でヴィルに見てもらいながら何度か形は確認したけれど、通しではやっていないわ」
「じゃあ、今日どこかでやってみない? わたし、受け手になるから。本番って、紙の流れと実演の流れが繋がって初めてわかることがあると思うの」
窓から差す朝の光が、少しだけ角度を変えていた。机の上の紙の端を白く染めて、ソレイユの指先に細い影を落としている。
紙の上の整理と、実演の手触りと。たしかに、別々にしか確認していなかった。繋げてみなければ、講義当日に初めて出くわす段差がある。それはソレイユの言うとおりだった。
「……そうね。やってみましょうか」
声にする前に、余白へ手を添える。何も書かれていない白さが、こちらの言葉を待っているように見えた。
「あなたは、わたしにとっていちばん信頼できる受け手だもの。あなたがすっと入れるなら、たぶん聞く側にも届くと思えるの」
「……じゃあ、ちゃんと受け取らないとね」
彼女の目がほんの少しだけ明るくなった。嬉しいというより、ようやく次へ行ける、という顔だった。
少し離れた本棚の影に、ヴィルの気配が静かに立っている。わたしが来てからずっと、同じ距離を保ったまま動かない。その輪郭を視界の端で拾うたびに、昨日の居室での会話が戻ってくる。
「何かがずれている気がする」と、彼が言った声。「じきにもとに戻るわ」と、わたしが返した、嘘ではないけれど全部でもない言葉。
ソレイユは紙をまとめながら、ふとわたしの視線の先を追った。けれど何も言わなかった。前に一度、踏み込みかけて、それ以来、彼女はヴィルのことには触れないでいてくれている。
その沈黙もまた、ありがたかった。
「じゃあ、午前はレジュメをある程度進めて、お昼のあとに中庭で実技を通してみる?」
ソレイユが紙束を軽く揃えながら言う。
「うん。それがいいと思う」
わたしは頷いた。
ソレイユがペンを持ち直す。紙をはさんで向かい合う距離は、いつもと変わらなかった。手を伸ばせば触れる近さというより、ひとつの考えをあいだに置いて、一緒に覗き込んでいる距離。
ヴィルのことも、お祖父さまの病のことも、あの三秒のことも、まだ答えは出ていない。全部を抱えたまま、それでもここに座っている。紙の匂いと、インクの苦みと、ソレイユの丸い字。そういう具体だけが、いまのわたしを机に繋ぎ止めてくれていた。
羽根ペンの先が、紙の余白に触れる。
十六日。
短い。けれど、隣にこの子がいてくれるなら、もう少しだけ、形は見えてくるかもしれない。




