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三秒の空白、その仮の名

 部屋を出て間もなく、廊下の曲がり角から、リディアに案内された侍医司の一人が現れた。先日、お祖父さまの診察に付き添っていた顔見知りで、今日はそのままヴィルの容体を診に来たのだとすぐにわかった。


 すれ違いざまに足を止め、わたしは簡潔に診察を依頼した。


 侍医は短く頷き、いまのところ症状は安定していること、まずは静養を優先すべきこと、それでも共振解析の直後である以上、ひと通り診ておく必要があることを、手短に告げた。リディアもそれに頷き、あとは任せてほしいというふうに、静かな目でこちらを見ていた。


 それ以上そこへ留まるのは、かえって邪魔になる気がした。深く頭を下げ、自室へ引き返した。


 磨かれた石床は昼前の冷えをまだ少しだけ残していて、歩くたび靴底の下で小さく乾いた音を返した。離宮の廊下はいつもと変わらず静かで、だからこそ、つい先ほどまで掌に残っていた祝祭の熱だけが、余計に現実離れして思えた。


 自室へ戻ると、戸口の向こうには、ようやく自分の呼吸に合う静けさがあった。薄いカーテンの向こうで、昼へ向かう光がゆっくり形を変えていく。椅子へ腰を下ろしたところで、ほどなく扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします、お嬢様。温かいお茶をお持ちしました」


 リディアが、銀盆に茶器を載せて入ってきた。白磁の器から立つ湯気は細く、香りはやわらかく、薬草と花をひとしずくずつ重ねたみたいに静かだった。卓へ置かれたカップの縁で、匙がごく小さく鳴った。その音だけで、張っていたものが少しほどけた。


「ありがとうございます、リディアさん」


 湯気の向こうで、リディアはいつも通り穏やかに微笑んだ。けれど、その目はよく見ている。顔色も、手の強ばりも、たぶん何も訊かないうちに、もう拾われているのだろう。


「ブルフォード様のことは、どうぞご心配なさらず。侍医がお側におりますし、何かあればすぐお伝えいたします」


 その言い方が、あまりにもやさしくて、少しだけ喉が詰まる。


「……ひとつ、お願いしてもよろしいですか?」


「はい」


「少しだけ、一人にしていただきたいんです。考えを……まとめたいので」


 リディアはすぐには答えなかった。目を伏せるでもなく、ただ静かにわたしを見つめ、それから、ごくわずかに頷いた。


「かしこまりました。お茶が冷める前に、どうかひと口だけでも」


「ええ。そうします」


「何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」


 裾がかすかに擦れ、扉が音もなく閉まった。廊下へ退いていく足音が遠ざかるのを確かめてから、ようやく大きく息を吐いた。


 部屋の静けさが、ひとつ深くなった。


 卓の上の茶から、細い湯気がのぼっていた。花をひらいたあとのような淡い香りが、白い磁器の縁からやわらかくひろがり、さっきまでの離宮の廊下の冷えを少しだけ遠ざけていく。けれど、膝へ引き寄せたマウザーグレイルの柄は、まだひやりと硬いままだった。


「……茉凜。聞こえる?」


《《聞こえてるよ。じゃあ精霊子共振解析の結果から――》》


「待って」


 思ったより強い声が出た。湯気がひとすじ揺れ、茶の表面に淡い影が走る。


《《ん? どしたの?》》


「その前に、あの現象について確認したいの」


 白い柄へ添えた指先に、まだ熱が残っていた。押し込めようとするほど、掌の付け根だけが生々しく疼いた。窓の外で枝がひとつ鳴った。その小さな音だけで、さっきヴィルが廊下の気配を先に拾ったことまで、ひどく鮮やかに思い出された。


「さっき、自分に言い聞かせたけれど。あれは聖剣の記憶解放にすぎないって……だって、前にもあったでしょう」


《《うん。まぁ……》》


「黒い記録媒体に触れたときも、泉の狭間がひらいたときも。だから今回も、ただもっと深く流れ込んだだけなんだって」


 そこまで言って、喉の奥が細くなる。


「でも……それだけじゃ済まない気がするの。あまりに近すぎたのよ。景色とか音とか、そういうものじゃなくて。もっと……皮膚のすぐ裏に触れられるみたいに」


《《そっか……》》


 茉凜の声から、いつもの軽さが半歩ぶん退いた。


《《まず、事実だけ言うね》》


 湯気の向こうで、声が少しだけ硬くなった。


《《精霊子からのフィードバックが暴走した、その瞬間なんだけど。美鶴の脳とヴィルの脳が、一時的に感応してたのよ。走査ログにも、波形としてはっきり残ってる》》


 肋骨の内側が、ひやりと狭まる。言葉にされると、それだけで逃げ道がひとつ塞がるような気がした。


《《それでね、その間、わたしからは二人の思考が、ふっと消えたみたいに見えたの。完全に無くなるっていうより、どこにも引っかからなくなった感じ。時間にして、ほんの三秒くらいだったかな……》》


「三秒、って? たったそれだけ?」


《《うん。わたしの観測では、それだけ》》


 カップへ伸ばしかけた指が、途中で止まった。わたしの中では、あんなものじゃなかった。花の匂いも、祝祷の声も、白い石の冷えも、あまりに濃くて、三秒なんて言われても、とても信じられない。


《《だから、聖剣から溢れた記憶情報に呑まれた、ってだけでは説明しにくい》》


「……前に起きたのとは、違うのね」


《《違うね》》


 茉凜は、今度は迷わなかった。


《《黒い記録媒体のときは、どれだけ情報量が多くても、美鶴の思考そのものはこっちに残ってた。苦しんでても、ちゃんと“ここ”にいた。でも今回は、三秒とはいえ空白ができた。性質が違う》》


 白い柄に添えた指先へ、また力がこもる。


「じゃあ……」


 そこから先を、口にするのが怖かった。けれど、言葉はもう半分ほど喉まで来ている。


「わたしたち、あの何百年も前の、メービスが女王として迎えられたあの祝祭を……“見ていた”んじゃなくて――」


《《まって》》


「茉凜……」


《《それ、美鶴の悪い癖だよ》》


 茉凜はすぐには遮らなかった。ただ、やわらかく、けれど逃げずに答える。


《《断定はまだ無理。でも、可能性としてはあるってこと》》


 窓の外を渡る風が、硝子をひとつ撫でた。昼前の離宮は明るいはずなのに、その明るさだけが急に遠く思えた。


《《魂って呼ぶしかない情報の核が、一時的にメービスとヴォルフのいる場所へ引っ張られた。そう考えると、辻褄は合うかな、ってくらい》》


 ぞっとした。


 精霊子が、魂と呼ぶしかないほど高密度の情報を抱え、時空さえ越えて運ばれることがある。そういう理屈なら、知らないわけではなかった。


 前世で死んだあと、わたしの魂は精霊子の中へ保存されたのち、弓鶴の身体へ移された。その引き換えみたいに、弓鶴の魂は精霊子の海へ散らされた。さらに、この世界へ来たときも、わたしとコピーされた茉凜の魂情報は精霊子へ溶けて飛ばされ、いまの器へ移された。


 だから否定できない。否定できないことが、何より怖かった。


 最初の巫女と騎士――メービスとヴォルフ。


 あの白いテラスで見た青年は、聖剣同士の共鳴が形作った幻想の庭園の中にあってなお、ヴィルと見紛うほど近い輪郭をしていた。そして、彼と対になる者といえば――メービス、その人しかいないのではないか。


 喉の奥が、ひどく乾いた。


「……嘘みたい」


 それ以上、うまく言葉にならない。胸の奥で鼓動だけが強く跳ねた。


「……でも、そう推論できる根拠なら、あるにはあるのよね……。こうしてわたしたちが転生している事実とか。マウザーグレイルの、異なる時と世界を繋いでしまう、あの力とか……」


《《うん。だから、完全にあり得ないとは言い切れない、というわけ》》


 茉凜の声が、ほんの少しだけやわらかく戻る。


《《ただ、いまの段階で言えるのはそこまで。断定はしないほうがいい。現象として捉えるなら、一時的な魂情報の深い同期。そんなところだと思う》》


 その整理だけが、かろうじて足場になった。全部は飲み込めない。けれど、崩れずに立つための板くらいにはなる。


「……じゃあ、ヴィルに残ってる“祭りの音”は」


《《前に出ていた異常所見と、今回の三秒が繋がって、表に出たんだと思う》》


 その一言で、医療棟の匂いが鼻の奥へ戻ってくる。薬液の滴る音。冷えた寝台。額へ残った汗。


《《大脳基底核の周辺が、精霊子を受け入れる方向へ変質しかけてる兆候、前に拾ってたでしょう? あの時点ではまだ“傾き”でしかなかった。でも今回の強制同期で、そこへさらに負荷がかかった。あなたとの感応が、一時的にでも成立してしまった》》


「わたしと……」


《《うん。でもそれが具体的にどういう意味を持つのかは、まだわからない》》


「わたしと茉凜みたいに……五感まで共有するようになる、とか?」


《《そこまでは、まだ言えない。けど、受容の配線だけ見れば、普通の人間の枠には収まりきらなくなってきてるってことはたしかね》》


 カップを持ち上げ、ひと口だけ含む。花の名残みたいな香りの奥に、遅れて小さな苦みが追ってきた。その苦みだけが、いまはありがたかった。


「でも、ヴィルは精霊族じゃないのよ。そんなこと、道理が通らないわ」


《《だから“精霊族化”じゃなくて、“疑似的な精霊族化”なんだと思う》》


 その言葉が落ちた瞬間、湯気の白が急に遠く見えた。


《《もともと持っていないはずの受容の配線が、聖剣への接触と共振で無理やり形を取りはじめてる。もしこの変質が受容体形成の方向へ進んでるなら、ヴィルの脳は、精霊子を感じ取れる側へ一歩ずつ寄っている》》


「……そんな」


 声になったのは、それだけだった。


 ――それに、何の意味があるというの。どうしてヴィルが……。


 みぞおちの底が、静かに冷えていく。怖いと認めた瞬間に壊れそうで、けれど、認めないままでいられるほど軽くもなかった。


《《断定はまだしないよ》》


 茉凜が、今度は少しだけやわらかい声になる。


《《でも、もう“あり得ない”とは言えなくなった。前から兆候はあった。今回の三秒で、それがもう見ないふりできない段階まで来た。そう考えるのが、いちばん筋が通るってだけで》》


「……そう」


 小さく答えて、カップを戻す。受け皿の鳴る音が、ひどく澄んでいた。


「うすうすわかってはいたの。“それだけのこと”なんだって無理やり蓋をしようとしてた。そうしないと立っていられなかったから……」


 怖いものは怖いし、掌の熱も消えない。


《《うん……それでいいんだよ》》


 茉凜の声が、今度はちゃんと近い。


《《怖いものは怖い。だからって、すぐ飲み込もうとしなくていい。いま必要なのは、正解を出すことじゃなくて、壊れない形で気持ちを置くことだから》》


 窓の外で、枝がもうひとつだけ鳴った。昼へ向かう離宮の音が、硝子越しにうすく届く。その現実の薄さが、いまはありがたかった。


「……壊れない形?」


《《うん。だから、いまはその整理で十分ってこと。記憶解放より深い。でも、完全なタイムスリップとは断定しない。一時的な魂情報の深い同期。そのくらいで、いったん止めておこうよ》》


 その言い方に、ようやくわたしも小さく頷けた。


 全部はわからない。けれど、わからないまま沈むよりは、仮の名前がひとつあったほうがましだ。


「……じゃあ、次はヴィルの検査結果を見ましょう」


《《うん。まずはそこからだよ》》


 視界の右下で、淡い文字列がわずかに濃くなる。走査の断片が、まだそこで待っていた。


 掌の熱は、まだ退かない。


 けれどさっきまでと違うのは、その消えなさをただ見ないふりするだけではなく、どこから来たのかを少しだけ言葉へ寄せられたことだった。


 それだけでも、いまは十分だった。

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