掌に残る、祝祭の熱
その沈黙だけが、まだ掌の奥に沈んでいた。
指先へ力を込めても、返ってくるのは金属のひやりとした硬さだけだった。いつもなら、触れた瞬間に奥のほうで小さな灯がともる。呆れたような声でも、からかうみたいな軽さでも、何かしらの気配がすぐ滲むのに、今はそれがない。内側に誰かがいると知っているからこそ、その沈黙だけが異様に重かった。
意識の底で、何かが細く震えた。長く水底に沈めていた貝が、ふと光のほうを向くみたいに。
瞼の裏がじわりと明るみ、遠くで誰かが名前を呼んだ気がした。聞き慣れた声ではない。低くもなく、粗くもない。けれど、どこかでたしかに知っている響きだった。
その余韻をたどろうとした刹那、身体のどこかが別の位置にあることに気づく。さっきまで、もっと高い場所で呼吸をしていた。もっと長い指で聖剣の柄を握っていた。衣の重さも、髪が肩を撫でる角度も違っていた――その記憶だけが、まだ皮膚の表にうすく残っている。
「……ん……」
喉が鳴る。思ったより細くて、頼りない声だった。
瞼を押し開けると、見慣れた天蓋の布が目に入った。離宮の自室ではない。ヴィルの居室だ。魔導ランプの明かりが、厚いカーテンの襞を縁取るようにやわらかく照らしている。
時刻は、さほど進んでいないらしかった。
ゆっくり身を起こそうとして、側頭部がずきりと痛む。指先を額に添えると、そこだけ冷たい汗がにじんでいた。膝のあたりに何かが当たり、見下ろして、床に崩れ落ちかけた姿勢のままだったことに気づく。寝台の縁にもたれ、片手で毛布の端を掴んでいた。
そのすぐ向こうで、ヴィルが寝息を立てている。
浅かった呼吸は、いまはゆるやかな波に戻っていた。額の汗も乾き、苦しげな皺が眉間から退いている。胸にはまだ銘無しの聖剣を抱いたまま、大きな手が柄を軽く掴んでいた。
指先をそっと手首の内側へ寄せる。
拍は静かに、一定の速さで返ってくる。
肺の奥がゆるみ、息が一度だけ大きく零れた。
――よかった。生きている。
その実感が身体のすみずみまで広がるのに、ずいぶん時間がかかった。
ヴィルの指はあたたかい。けれど、わたし自身の掌のほうがまだ熱かった。さっきまで誰かの大きな手と重ねていた、あの熱が、指の付け根の内側に居座ったまま退こうとしない。皮膚の温度ではなく、その向こう側の重さ。差し出し方そのものの癖。ひどく知っている沈黙が、まだそこに棲んでいた。
思わず、反対の手でその掌を包む。
冷えた指で包んでも、熱はほどけていかない。むしろ、押し込めようとするほど輪郭が濃くなる気がした。
視線を落とす。
自分の指の短さと、爪の大きさと、手首の細さ。さっきまで握っていた聖剣の柄の長さが、もうひどく遠い。肩幅も、胸もとにできる空間も、呼吸のたびに肋のひらく幅も、みんな元に戻っている。戻っているはずなのに、借りものから帰ってきたばかりの服を身に着けたときみたいに、どこかだけがまだ馴染んでいなかった。
寝台の縁に額を預ける。
木の匂い。糊のきいた白い布。薬草の煎じ薬が冷めたあとの、ほろ苦いあと残り。鼻の奥を通っていく現実の匂いが、ひとつずつ、わたしを元の場所へ縫い留めていく。
「……ただいま、なのかな」
小さな声が漏れた。
誰に向けたのでもないのに、口にしてしまうと、喉の手前で何かがほどけた。
つい先ほどまで、あの白いテラスにいた。祝祷の声、花びらの匂い、緞帳の重さ、足裏のタイルの冷え。そして、隣に立っていた銀髪の青年の、ブルーグレーの瞳。
――いったい、あれは何だったのだろう。
考えようとした途端、頭の芯がちりちりと焼けた。答えを掴もうとするたび、視界の縁が白く霞む。身体は戻ったのに、認識のほうだけがまだ半歩後ろから追いかけてきていた。
――共振解析の最中だった。
記憶を順にたぐる。
ヴィルの大脳基底核に走った青白い光。黒鶴の翼を呼び寄せた瞬間の、背に広がった重み。茉凜の切迫した声。銘無しの聖剣が発した強制同期の閃光。後頭部を打たれたような衝撃。
そこまで来て、ふと肩の力が抜けた。
前にも、似たことはあった。マウザーグレイルが、あの黒い記録媒体に触れたときだ。ロスコーとデルワーズの記憶が、感情ごと一息に流れ込んできた。他人の時間を、他人の皮膚で歩かされた。あれと、よく似ている。
そして、あの打ち合いのときも。
ヴィルと全力で剣を交わしたあの刹那、二振りの聖剣が共鳴して、白い狭間がひらいた。泉の精霊と、メービスとヴォルフの光景が、まぶたの裏へ流れ込んできた。あれも、二振りの聖剣が同じ場で鳴り合ったから起きたことだった。
――だからきっと、今度はそれがもっと深かっただけ。
大量で高密度の精霊子が、マウザーグレイルと銘無しの聖剣を同時に脈打たせた。解析のために開いていた〈場裏〉を通って、奥底に沈んでいた記録が、一気に流れ込んできたのかもしれない。
わたしはメービスの視点を、ヴィルはヴォルフの視点を、それぞれ深くなぞってしまった。
そう考えれば、説明はつく。
――そうだ。それだけのことだ。
胸にひとつ、錘みたいな納得が落ちる。
落ちたことにして、蓋をする。
そう考えるのが、いちばん自然だった。そうでなければ、あまりに現実が重すぎる。あの祝祷の声も、あの司祭長の祝詞も、二振りの聖剣の重みも、別の解釈で受け止めようとした瞬間、足もとの床ごと抜けてしまいそうだった。
――あれは聖剣の記憶解放にすぎない。メービスとヴォルフの、祝祭の記憶を、わたしたちが深くなぞっただけ。
そう言い聞かせる。
掌の熱は、まだ退かない。
――ただ、それだけのこと。
そう思えば済むはずなのに、あの感覚だけは現実の重さを帯びたまま離れなかった。まるで、わたしがメービスの皮膚の内側で息をしていたみたいに。
――どうして?
思いかけた問いに、指先が勝手に跳ねた。膝の上で掌を握りしめ、そのまま、考えるのをやめる。いまは、考えない。考えたら、この身体の輪郭がまた揺らぎ出してしまう気がした。
寝台のヴィルへ視線を戻す。
穏やかに眠っている横顔に、ほんの一瞬、あの銀髪の青年の輪郭が重なりかけて、慌てて目を逸らした。頬の内側に、ほのかな熱が差す。
――いまは、ヴィルのことだけ考えよう。
この人が、この身体のままで帰ってきてくれたこと。ずっと繋いでいた手が、まだあたたかいこと。それで十分なはずだった。
――それで十分なはず、なのに。
マウザーグレイルの柄にそっと額を寄せる。
ひやりとした金属の感触が、熱を引いてくれた。内部に気配はある。けれど、まだ茉凜の声は返ってこない。解析の最中に飛ばされた意識が、こちらに戻ってくるのを、静かに待っているのだろう。
しばらく、そのままでいた。
魔導ランプの油が爆ぜる、かすかな音。ヴィルの寝息。遠くで扉の閉まる気配。廊下を歩くリディアの足取りだろうか。
どのくらい、そうしていたのだろう。
ふいに、ヴィルがかすかに唸った。
「……ん……」
瞼がひらき、天井を見上げ、それから、ゆっくりとこちらへ向く。
わたしが知っている、沈んだ光を帯びた、いつものヴィルの瞳の色だった。
「……ミツル。お前、大丈夫なのか?」
声も、低かった。胸の底に落ちるような、よく知った響き。
喉の手前で、何かがほどけた。息が乱れかけて、慌てて押し戻す。
「……わたしは大丈夫。あなたのほうこそ、どこか痛いところはない?」
問いかけると、ヴィルは少し黙り、それから自分の頭を軽く振った。
「頭の奥に、妙な残りがある。“祭りの音”みたいな……妙な夢をみていた気がするが……いや、こいつは気のせいだな」
そう呟いて、彼は目を閉じかける。
気のせいだな。
その一言のかたちが、ほんのわずか、いつものヴィルより硬い。気がした。
気のせいかもしれない。けれど、その一言は小さな棘みたいに胸へ残った。
――やっぱりだ。ヴィルも、おなじものを見ていたのかもしれない。ヴォルフの視点から……。
わたしは、膝の上の掌をまた握り直した。
銘無しの聖剣は、ヴィルの胸の上で沈黙している。白熱の名残も、強制同期の気配もない。ただの重い鉄の塊みたいに、そこに在った。
そのとき、不意に廊下の向こうで小さな物音がした。
車輪が石をひとつ越えるような、かすかな軋み。それから、布の擦れる気配。離宮の昼前にはよくある音のはずなのに、今のわたしには、それがやけにはっきり耳へ届いた。
「……誰か来る」
ベッドの上のヴィルが、低く言った。
まだ起き上がるには早いはずなのに、彼は反射みたいに肩へ力を入れている。そのわずかな動きだけで、寝台の布がひそかに鳴った。わたしはすぐに身を乗り出し、枕元へ手を添える。
「だめ、いまは起きないで」
布越しに伝わる熱はちゃんと今の彼のものなのに、その内側にだけ、まだ説明のつかないざらつきが残っている気がした。休ませなければいけない。そう思うほど、声が少しだけ強くなる。
「昼には侍医が来るって言ったでしょう。だからあなたは、大人しくしていてちょうだい」
ヴィルは眉を寄せたまま、こちらを見る。
「わかってるが……お前、本当に大丈夫なのか? あんなことがあったんだ。何も無いってことはないはずだ」
「病人が何言ってるの? まずは自分のことを心配しなさいな。まったく、どっちが心配性なんだか」
言ってから、自分でも少しきつかったと思う。けれど、それくらいでちょうどよかった。彼はこういう時、平気な顔で起き上がろうとする人だ。
廊下の音は、またひとつ近づいて、今度は扉の前でいったん止まった気がした。けれど、叩かれる気配はない。台車は隣の控えの間へ折れたのか、車輪の軋みだけが薄く遠ざかっていく。
それに合わせるみたいに、白い剣の奥で、ごく微かなぬくもりが灯る。
「……茉凜?」
《《……うん。聞こえてるよ。ごめん、ちょっと深いところに引っ張られたみたい》》
胸の奥が、ようやくひとつだけ緩む。安堵したはずなのに、その反動で瞼の裏がじんと熱くなった。
「もう……返事くらい、してよ」
《《したかったんだけど、さっきの共振の余波がひどくてさ。お部屋のほうも少し、とっちらかっちゃって。……本棚まで倒れるの、ひさしぶりだった》》
「それは大変だったわね。あれだけの情報の渦じゃ、そうもなる」
青いカーテンと星飾りに囲まれたやわらかな仮想部屋の気配が、声の向こうでかすかに揺れる。窓辺へ並べたぬいぐるみたちまで巻き込まれたのだろうと思うと、胸の奥にまだ残る緊張が、ほんの少しだけ別の温度へほどけた。
《《ま、なんとか解析の層だけ浮かべられそう》》
その声も、いつもより少し遠い。けれど、届いた。それだけで、いまは十分だった。
わたしは白い剣を抱え直し、それからヴィルへ向き直る。
「茉凜も戻ってきたみたい。だから、あなたは休んでいて」
「……おう」
「わたし、一度部屋に戻って、共振解析の結果を見直してくるわ。診断結果はその上で話すわ」
ヴィルの金の眼差しが、わたしの顔と白い剣のあいだをゆっくり往復する。
「ここで話せばいいんじゃないのか?」
「だめよ。あなたは今、少しでも静かにしていたほうがいいもの」
「いや、もうなんともない。むしろ、さっきの奇妙な夢のせいか、頭がすっきりした」
「強がり言わないの」
「強がりなもんか。俺は臆病なくらい自分の体には敏感なんだ。どれだけ修羅場を乗り越えてきたと思ってるんだ」
「あなたの慎重さも、自分の体をちゃんと管理してるのも、よく知っているわ。でも今回は、その物差しだけじゃ測れないことが起きてるの。だから休んで」
「うむ……」
渋い声のあと、毛布の端がかすかに鳴り、張っていた肩の力がようやく寝台へ沈んでいった。
「仕方ない。主治医さまの命令だ。従おう」
「はい。素直でよろしいですことよ」
百戦錬磨の騎士で、歳だってずっと上なのに、こういうところでだけ妙に素直なのが、彼のいいところだと思う。
扉の向こうで、控えめな足音がもうひとつ重なった。侍医司の誰かかもしれないし、リディアかもしれない。
「あれだけ大きな共振現象だったんだもの。脳への負担だって大きかったはずよ。あなたの感覚、少しおかしいでしょう。自分でも気づいてるはずよ」
「まぁ……否定はできん」
「だから、まずは休んで。侍医の診察を受けている間に、わたしと茉凜で検査結果をまとめておくから」
ヴィルはすぐには頷かなかった。
その沈黙のあいだに、わたしはベッドの端へそっと毛布を引き上げる。指先に触れた布は、寝台の熱を吸って少しあたたかかった。
「お前も……勝手に無茶はするなよ」
「しないわよ」
短く答えて、それから少しだけ口もとをやわらげる。
「というわけで、何度だって言うわ。大人しくしていてちょうだいね、ヴィル」
その言い方が、少しだけ可笑しかったのかもしれない。彼の眉間の固さが、ごくわずかにほどけた。
「なんだか、命令口調だな」
「患者にはこのくらい必要でしょう?」
「はぁ……」
彼はようやく小さく息を吐くと、頭を掻いた。完全に納得したわけではない。ただ、いまは起き上がらないと決めてくれた、その程度の静かな譲歩だった。
それでよかった。
――いまは、訊かれたくない。少しでも言葉を継げば、余計なことまで零してしまいそうで……。
扉のほうへ向き直る。
取っ手へ手をかけたところで、もう一度だけ振り返ると、ヴィルはまだこちらを見ていた。目を閉じていない、そのことだけで、胸の奥が細く痛んだ。
「安心して、すぐ戻るから」
そう言って、わたしは白い剣を胸へ抱いた。
扉を開けると、廊下の空気は部屋より少しだけ冷えていた。昼へ向かう離宮の匂いがする。磨かれた石の匂い、遠くの薬草、火を落としたあとの灰の気配。部屋のぬくもりを背にして一歩外へ出ると、さっきまで掌に残っていた得体の知れない熱が、ようやく輪郭を変えはじめた。
《《美鶴、視界の右下に出すね。走査の残り、まだ断片だけど拾えるから》》
視界の隅へ、淡い文字列が静かに重なる。
わたしは扉をそっと閉め、その前でひとつ息を整えた。部屋の中には、休まなければならない人がいる。
だから今は、怖さより先に、見なくてはいけない。茉凜の戻ったぬくもりを確かめるみたいに、白い剣の柄を握り直して、わたしは侍医の来る前の静かな廊下を、ゆっくり歩き出した。




