疑似精霊族化という仮説
視界の右下で、淡い文字列がゆっくりと濃くなっていく。
茉凜が拾い集めていた走査の断片が、ようやく最後まで揃ったのだろう。数字と記号の羅列の向こうに、人ひとりの身体の話が畳まれている。そう思うだけで、握り直した柄の内側で指先が冷えた。
卓の上の茶はもう湯気を失いかけていて、花の名残だけが白い磁器の縁に薄く残っている。さっきまでの会話で、あの三秒の出来事にはかろうじて仮の名前を置けた。一時的な魂情報の深い同期。その整理だけを足場にして、わたしはまだ椅子に座っている。
けれど、足場の先にあるもののほうが、ずっと重い。
「……それで、結果は?」
《《うん。行くね》》
茉凜の声が、先ほどよりひとつ低くなった。気遣っているのだろう。数字のほうが重いときほど、この声は少し沈む。
《《まず、大脳基底核と辺縁系の変質傾向。これは前より進んでる。ヴィルの脳は、いま精霊子を受け入れやすい方向へ、少しずつ配線を組み替えはじめてる》》
「進んでる、というのは……前回と比べて、具体的に?」
《《タンパク質異常の分布域が広がってる。前は基底核の周辺に限られてたけど、いまは辺縁系の一部までかかりはじめてる。ゆっくりだけど、確実に》》
カップの縁へ視線を落とす。白い陶器の面が、窓からの光をほのかに拾っていた。
辺縁系。感情と記憶の座。そこまで手が伸びているのなら、あの三秒で起きたことの余波は、思っていたよりずっと深い場所まで届いていたことになる。
喉の奥が乾き、舌の付け根だけが静かに痺れた。
「……それは、戻るの?」
口に出してから、その問いの甘さに自分で気づく。けれど、訊かずにはいられなかった。
《《わかんないけど……難しいと思う》》
茉凜は、まっすぐ返してきた。
《《受容体形成がある段階まで進むと、そこから先は「馴染む」方向へ行くのが普通だと思う。変質を元に戻すって、たぶん今のわたしたちの手には余る話だよ》》
「……そう、だよね」
頷くしかなかった。溜息が喉の奥で固まって、そのまま降りていかない。
《《ただ、ね》》
茉凜の声が、ほんの少しだけ明るいほうへ揺れた。
《《悪い話ばっかりじゃない。受容体形成の途中で起きてた吐き気とか頭痛とか、情緒の揺らぎ。ああいうのは、変質が進んでる最中の負荷だから、ある程度形が定まれば落ち着いていくはず》》
「……症状は、治まっていくということ?」
《《そう。体調不良としては、たぶん峠を越えた。あとは身体がそれを自分のものとして受け入れていく過程になる。本人がどこまで自覚するかは、まだ別の話だけど》》
その言葉だけが、わずかな救いだった。
大学の廊下で彼が喉を押さえ、中庭の植え込みの脇で膝をついた姿が、まだ鼓膜の裏に貼りついている。あの苦痛が繰り返されることはない。そう聞けただけで、肋骨の内側をずっと押していた冷たさが、ほんの少しだけ退いた。
「じゃあ、いまヴィルが眠りがちになってるのは――」
《《消耗の回復だよ。変質の進行で相当エネルギーを使ったから、そのぶん身体を休ませてる。侍医の見立ても、そう大きくはずれてないと思うよ。静養を優先するって判断は、正しい》》
リディアへ任せたのは間違いではなかった。その確認が、ささやかな支えになる。
「……でも、それだけじゃないのよね」
《《うん》》
茉凜の声が、また少し沈んだ。
《《問題はここから。変質がこのまま定着したら、ヴィルは精霊子を感じ取れる身体になる》》
「感じ取れる、って……どの程度?」
《《それが、まだわからない。受容体がどこまで育つか、どれくらい密に配線が通るか。それで感受性の強さは変わる》》
卓の木目へ目を落とす。細い筋が、光の角度で何本も重なって見えた。
精霊子を感じ取れる身体。
その言葉が、どれだけのものを連れてくるのか。わたしはたぶん、この世界で誰よりもよく知っている。どこへ行っても空気の奥にはほのかに揺れる粒子がある。普通の人間には見えず、触れることもできず、けれど確かにそこに在るもの。それが見えるようになるということは、世界の見え方が根こそぎ変わるということだ。
わたし自身が、そうやって生きてきたのだから。
「でも、そんなことになったら」
声がかすれる。
「いま、この世界で精霊子を感じ取れるのはわたしだけよ。精霊族はとっくに滅んで、伝承の奥に眠っているだけ。なのに、ヴィルが……」
《《うん。だから「精霊族化」じゃなくて、「疑似的な精霊族化」なんだと思う》》
その言葉のまわりで、空気がわずかに冷えた気がした。
精霊族。いまは失われ、伝承の奥にだけ影を残す種族。デルワーズを生み出す基盤として扱われ、やがて、その兵器によって殲滅されたものたち。
ヴィルが、その影の側へ、じわじわと寄っていく。
「……どうして、彼なの」
問いは誰へ向けたものでもなかった。卓の上の白い磁器へ、ただ押しつけるように落ちる。
《《たぶんね。ここからはわたしなりの推測だけど――》》
茉凜の声が、ふっと近くなる。
《《聖剣への接触。それも、長い時間、少しずつ、継続的にね。銘無しの聖剣を渡されて、あの剣を抱えて過ごすようになってから、彼の脳は少しずつ変わりはじめてたんだと思う。そこへ、美鶴の黒鶴発動時の精霊子集積が何度も至近で重なった。そして今回の強制同期。全部が重なって、ここまで来た》》
「……順番に考えれば、そうなるのね」
《《うん。ひとつひとつは偶然に見えても、結果として、ヴィルの脳は精霊子を受け入れる側へ押し出されてきた。ずっと前から、ゆっくりと、ね……》》
その事実が、喉の手前でつかえた。
守ると言って、離宮でも、王宮でも、王都市街でも、ずっと傍に立ち続けてくれた。わたしが〈場裏〉を解放するたび、黒鶴が翼を広げるたび、その余波のただ中にいたのは彼だった。
守られていたのはわたしで、そのたびに削られていたのが彼のほうだったのだとしたら――。
カップの持ち手に触れた指先が、かすかにふるえた。
「わたしが、巻き込んだ……」
《《ちょっと待って》》
茉凜の声が、珍しく強い。
《《そこ、すぐに飛ばないの。因果としてそう見えるのはわかるけど、ヴィルが聖剣を抜いたのも、あなたの傍に残ると決めたのも、彼の選択だよ。あなたがひとりで背負うような話じゃない》》
「……でも」
《《でも、じゃない》》
茉凜はそこで、ほんの少しだけ息を置いた。
《《それも美鶴の悪い癖だよ。なんでも自分のせいにして、ひとりで抱え込もうとする。でも、それだと、ヴィルが自分で選んだ部分まで取り上げちゃうことになるじゃない》》
舌の奥が痺れた。
『何があってもお前を守り抜く。それだけは、絶対に変わらん』
――ヴィル、あなたってひとは……。
揺れていたものが、言葉にされて急に輪郭を持つ。
悪い癖。前世から背負ってきた、自己否定のかたち。わかっている。わかっているのに、手放せない。それすら自覚しているのに、知っていることと手放すことは、どうしても同じにならない。
「……ごめん」
《《謝らなくていいって》》
茉凜は、笑った気配を返してきた。軽くはないのに、重くもない。そういう温度だった。
《《ただ、いま決めつけるのは早いってこと。それだけだよ》》
湯気はもう完全に絶えていた。卓の上の白い磁器が、少しだけ遠く見える。それでも、指先の冷えはゆっくりと退きはじめていた。
「……じゃあ、これからわたし、どうすればいいの」
《《いまは観察すること。ヴィルのそばにいること。それしかないと思う》》
茉凜の声は、今度は淡々としていた。
《《そうすることで、わたしが進行度を定期的に確認できるから》》
「そうね……モニタリングを欠かさないこと。それが大切よね」
理屈としてはわかる。けれど、胸の奥に残る痛みだけは、どうしてもきれいに畳めなかった。彼の顔を思い浮かべるたび、喉の手前で言葉が細く絡まり、その揺れを悟られやしないか――そんなことばかり考えてしまう。
《《うん。変質がどこで落ち着くか、感受性がどこまで育つか、それを見ていく。いま無理に止めようとすると、かえって負荷が大きい。受容体形成の途中で干渉するのが、いちばん危ないから》》
「……止められないってこと?」
《《止める選択があったとして、それをやればヴィルのほうが壊れる可能性が高いと思う。だから、いまは見守るしかない。症状が落ち着くまでは静養を最優先に。それから、彼自身の感覚を、それとなくでいいから聞いてみて》》
「うん……」
返事といっしょに、膝の上で重ねた指先が小さくこわばった。
見守る。待つ。それがわたしにできる、いちばん苦手なことだった。何かしなければ、何か動かなければと、焦りだけはいつも先に走るのに、いまはそれが全部、いちばん壊れてはならないものへ向かってしまう。
だからこそ、頷くしかなかった。
「……彼に、どう伝えればいいのかしら」
《《それは、美鶴自身が決めることだよ》》
茉凜の返事は、思っていたよりまっすぐだった。そのまっすぐさが、かえって喉の奥を細くする。
「でも……」
《《わたしは、伝えたほうがいいと思うけどね。嘘をついて庇うと、たぶんあとで全部壊れる。でも、どう伝えるか、どこまで伝えるかは、あなたが選ぶしかない》》
「……そうね」
短く答えるだけで、いまは精一杯だった。
嘘はつけない。そもそも、つけるような相手ではなかった。『隠し事はしないって約束したのにな』――ついさっき、あの人自身がそう言ったのだ。布越しのあたたかさと一緒に、掌の底へまだ残っている声だった。
けれど、いま目覚めたばかりの彼に、何もかもを一度に投げつけるのが正しいとも思えない。落ち着いて、心と身体の両方で受け取れる場所を整えてから。それくらいの段取りは許されるだろう。
そっとマウザーグレイルを卓へ戻す。柄が木の面へ触れ、小さな音を返した。
「……ありがとう、茉凜」
《《なにが?》》
「遮ってくれて。……それと、一緒に考えてくれて」
茉凜は一瞬黙って、それから、ふふっと小さく笑った。
《《遮るのは得意だからね。これからも遠慮なく遮るよ》》
その軽さに、ようやくこちらも口もとがゆるむ。
張り詰めていた糸のいちばん細い部分が、かろうじて切れずに残っている。茉凜の声が戻ってきた。それだけで、いまは立っていられる。それがどんなに恵まれたことなのか、この沈黙のあとだからこそ、身体のどこかが深く知っていた。
窓の外で、昼の光がほんの少し角度を変えた。薄いカーテンの向こう、庭の木の枝が一度だけ揺れる。
立ち上がり、卓の端へ寄せてあった紙の束へ手を伸ばした。
精霊魔術講義の草稿。書きはじめた最初の一行から、まだいくつかのまとまりが、未完のまま待っている。
精霊魔術は、ただ戦うためだけの術ではない。
自分の書いた一行を、もう一度、指でなぞった。インクはとうに乾いている。けれど、その文字の形だけは、あの祝祭の閃光を経てなお、変わらずそこに在った。
ヴィルの異変にも、茉凜が告げた仮説にも、まだ名前はつけきれない。怖いまま抱えるしかない。けれど、次に差し出す言葉だけは、自分で選ばなければならない。お祖父さまに託されたもの。ソレイユに見せたいもの。この力が兵器ではないと示すための、最初の一歩。
やるべきことは、ちゃんとある。
怖い仮説も、掌に残る熱も、全部抱えたままで、それでも机に向かう。いまは、それしかできない。
羽根ペンを取り、次の一行へ、ゆっくりと指先を運んだ。
マウザーグレイルの芯は、もう黙ってはいない。
微かな気配だけを、そっと、返してくれていた。




