幕間 『茉凜さんは全ルートを見たい ~美鶴しあわせ計画 マウザーグレイル恋愛演算編~』
ベッドの硬さに、ようやく身体が沈みはじめたころ、リディアはそっと扉の向こうへ消えた。
最後まで心配そうな眼差しだった。けれど、わたしが無理にでも口元を緩めると、彼女はそれ以上踏み込まなかった。そういう距離の測り方までやさしくて、胸の奥がかえって苦しくなる。
部屋には、夜だけが残った。
窓の外で風が細く鳴っている。月光は薄く、床の石目をなぞりながら寝台の脚もとで途切れていた。寝具の布は清潔で、ほのかに乾いた花の匂いがする。それなのに、みぞおちのあたりは水を含んだ布のように重かった。
白きマウザーグレイルを抱きしめる。
冷たいはずの刀身は、涙の熱を吸って、少しずつ曖昧な温度になっていた。
何度、呼んだだろう。
返事はなかった。
ヴィルに拒まれて、茉凜にも届かなくて、わたしはまるで、世界の外側へひとりだけ置いていかれたみたいだった。
息を吸う。喉の奥が痛い。
吐く。肋骨の裏で、まだ何かが割れている。
「……茉凜」
声は、ほとんど音にならなかった。
「ねえ……応えて」
刃のない白い剣は、腕の中で黙っている。
その沈黙が、やさしいのか、遠いのかもわからない。いつもなら、軽口が返ってくる。困ったように笑って、わたしの息の乱れを、何でもないことみたいにほどいてくれる。
でも今夜は、何もなかった。
何もないことが、こんなに怖いなんて知らなかった。
リディアの手の温かさを思い出す。背をさすってくれた掌。吸気は四つ、吐く息は六つ。月を見ながら、ゆっくり呼吸を数えた。確かに少し楽になったはずなのに、ひとりになると、痛みはまた水底から浮かんでくる。
わたしは枕へ額を押しつける。
息の熱が布にこもる。自分の声が、そこでようやく形を持った。
「誰か、助けて……」
こぼれた瞬間、自分でもひどく幼いと思った。
けれど、もう取り繕う力も残っていなかった。
ヴィルにそばにいてほしかった。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、わたしは命令した。
傍にいて、と言えなくて。寂しい、とも言えなくて。わたしを見て、とも言えなくて。先王陛下に庇護され、離宮に置かれているという立場を、護衛騎士という役目を、言葉の鎖みたいに使ってしまった。
――最低だ。
そう思うたび、喉の奥が苦くなる。
そのときだった。腕の中の白い剣が、ほんの微かに震えた。
はじめは、涙で揺れた自分の手のせいかと思った。けれど違う。刃のない刀身の奥で、湖底の砂がふわりと巻き上がるような気配がした。
わたしは顔を上げる。
暗さに目が慣れきらないまま、息だけが先に止まった。
《《……み・つる》》
声がした。
遠い。
深い水の向こうから届くような、少しだけ掠れた声だった。
「茉凜……?」
喉が震える。
名を呼んだだけで、涙が戻ってきた。困ったことに、安心はいつも遅れて痛みになる。
《《……ごめん。少し深いところに潜ってた。呼びかけてくれてるのはわかったんだけど。すぐには戻れなくて》》
いつもの明るさより、声は淡かった。
でも、そこにちゃんと茉凜がいた。戻ってきた。わたしの名前を呼んでくれた。
その事実だけで、張りつめていたものがゆるみ、わたしは剣を抱く腕に力を込める。
「深いところって……あなた、いったいなにをしていたのよ」
《《うん。ええとね。先に言うと、怒らないでほしいんだけどー……》》
「その前置きで怒らない人はいないと思うわ」
《《だよねえ》》
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。
それが悔しいくらい嬉しくて、わたしは唇を噛む。
暗い部屋の底で、マウザーグレイルの白がゆるく脈打つ。月光とは違う、内側から灯る光だった。刃の表面に細い文字列のようなものが浮かび、すぐ消える。見たことのない記号。けれど、なぜだかその並びには、茉凜のいたずら書きめいた気配が混じっていた。
《《あなたとヴィルのこと、ずっと考えてたの》》
「……ヴィルのこと?」
名前を聞いただけで、呼吸が浅くなる。
《《うん。ヴィルの言葉やしぐさ、あなたが彼を見つめて感じたこと。あなたが飲み込んだ言葉。言おうとしてやめた言葉。目を逸らしたタイミング。彼の足音が一拍だけ外れた瞬間。そういうの、ぜんぶマウザーグレイルに残ってる》》
「……あなた、そんなところまで記録しているの?」
《《してるよ。だって、あなたが見ているものはわたしも見てる。当然でしょ?》》
その言い方がやわらかくて、責められているのではないとわかるのに、頬が熱くなった。
――見ていた。確かに、わたしは見ていた。
彼の手。足音。声の低さ。遠ざかる背中と、食堂の床に落ちた灯り。差し出されたハンカチの白。どれも痛かった。でも、痛いと思うほど、わたしは彼を見ていた。
《《だから、それを使ってシミュレーションをしてたのさ》》
「……シミュレーションって?」
《《うん。あなたとヴィルがこれからどんな選択をするか。どこで行き違って、どこで戻って、どこでまたこじれるか。いろいろ条件を変えて、何度も何度も走らせてみたんだ。選択肢。ルート分岐。好感度とか、まあいろいろとパラメーターを設定してね》》
窓の外で風が鳴る。
わたしは、しばらく返事ができなかった。
今の話は、たぶん、とても重大なことのはずだった。マウザーグレイルの機能解放と深部接続のリスク。推論と整理を補助する仮想人格たち。未来予測。固有時制御技術。
でも、それより先に、別のものが浮かんだ。
――それって、いわゆる……。
あまりに場違いな単語が、暗い部屋の底でぽこんと浮いた。
「……ねえ、茉凜」
《《なあに》》
「それって、もしかして……恋愛ゲームみたいなことをしていたの?」
言ったあとで、自分の言葉があまりに馬鹿馬鹿しくて、喉の奥がひくついた。
茉凜は沈黙した。
とても短い沈黙だった。
でも、その短さに、言い逃れを探している気配があった。
《《ふふ、いかにも》》
「茉凜?」
《《……内部名称は》》
「うん」
《《『美鶴しあわせ計画 マウザーグレイル恋愛演算編』》》
わたしは泣いていたはずなのに、呼吸が変なところで止まった。
「……な、なによ、それ」
《《正式版のタイトルはね》》
「まだあるの?」
《《『茉凜さんは全ルートを見たい』》》
「待って」
《《副題が『美鶴しあわせ計画 マウザーグレイル恋愛演算編』》》
「待ってって言ってるでしょう」
ひどい。
あまりにひどい。
わたしは泣き疲れて、喉も目の奥も痛くて、ヴィルのことを考えるだけで息が苦しいというのに。親友は剣の奥で、わたしの人生を恋愛ゲーム化していた。
しかも、たぶん、かなり本気で。
肩の力が抜ける。いや、抜けてしまった。怒るべきなのか、呆れるべきなのか、泣き続けるべきなのかわからなくなり、わたしはマウザーグレイルを抱えたまま、寝台の縁に額を落とした。
「……あなた、本当に何してたのよ……ばかじゃないの?」
《《いやあ、これがまた難しくて》》
「感想を聞いたんじゃない」
《《まずね、ヴィルルートが難易度おかしすぎてね……》》
「その言い方をやめて」
《《好感度は初期値から高いのに、倫理ロック、職務ロック、ユベルさん由来の誓約ロック、年齢差による自己規制ロックが多重にかかってるの。しかも本人はロック解除条件をまるで自覚できてない。なにこの攻略対象。面倒くさすぎない?》》
思わず笑ってしまった。
声ではなく、息だけの笑いだった。けれど、確かに笑った。
茉凜はそれを聞き逃さなかったらしい。刀身の光が、どこか得意げに揺れた。
《《さらに美鶴の側にも問題がありまーす》》
「……わたし?」
《《好意イベントが発生すると、即座に罪悪感デバフが乗ります》》
「でばふ、って……」
《《欲しいと思うと自己嫌悪が発動します。近づきたいと思うと父さま代替疑惑が出ます。優しくされると受け取り拒否が起きます。突き放されると今度は全部『わたしが悪い』モードへ入ります》》
「……」
《《攻略させる気ある?》》
「そんなこと……わたしに言われても」
《《言うよ。だってあなたのことだもん》》
軽い声なのに、刺さるところへまっすぐ来る。
わたしは息を止める。さっき笑ったせいで、涙の膜が薄くなっていた。その隙間へ、茉凜の言葉が入ってくる。
《《今回の食堂イベントもね、じつは分岐が多かったの》》
「……やっぱり、そこも見ていたのね。趣味悪くない?」
《《悪いとは思ったけど、見逃せないからね。だから何回も推論を走らせた》》
月光が床に落ちている。その縁が、夜風に揺れるカーテンの影でゆっくり歪む。
《《選択肢その一。『平気よ。お気になさらず』、と笑う》》
「……」
《《選択肢その二。『任務なら仕方ないわね』、と引く》》
「……」
《《選択肢その三。『お願い、そばにいて』、と言う》》
みぞおちが、ひゅっと縮んだ。
《《選択肢その四。『命令として』言ってしまう》》
「……やめて」
声がかすれた。
茉凜はすぐ黙った。軽さをまとっていても、そこから先へ踏み込むときの加減を、彼女は間違えない。
少しの間、部屋には風の音だけがあった。
わたしは剣を抱え直す。金属の冷たさが手のひらに戻ってくる。けれど、それはもう拒絶の冷たさではなかった。茉凜がそこにいる。まだ届く。そう思えるだけで、身体はずいぶん違う。
《《ごめん。調子乗りすぎた》》
「……ううん。いいの。本当のことだから」
《《でもね、美鶴。どの分岐でも、あなたが苦しまない道はなかったんだ……》》
静かな声だった。
ふざけていた調子が、そこで沈む。
《《平気なふりをすれば、あなたは自分を削る。引けば、彼との距離がそのまま固まる。命令すれば、あなたが自分を許せなくなる。そばにいてと言えたとしても、ヴィルはたぶん、その場ではすぐには無理……》》
「……じゃあ、どうしようもないじゃない」
《《うん。その場だけならね》》
その場だけ。
わたしは、その言葉を舌の上で転がした。
《《恋愛ゲームなら、正解選択肢を押せば好感度が上がって、イベントが進んで、次のスチルが開くんだろうけど》》
「すちる?」
《《でも、これはそういうのじゃないんだよね。あなたたちは、正解を選んだから幸せになるんじゃない。間違えて、泣いて、傷つけて、それでも戻ってくるかどうかを見てる、ってとこかな》》
身体のどこかに、まだ濡れた痛みがある。
でも、その痛みに輪郭が生まれていた。
――間違えた。わたしは間違えた。それは消えない。けれど、間違えたら終わりではないのかもしれない。
《《わたしが何度推論を走らせても、最後に必ず残る選択肢があるの》》
「……なに」
《《美鶴が、自分で、ほしいって言えるかどうか》》
息が止まる。
その言葉は、まだわたしには遠すぎた。
ほしい。
そんな簡単なことが、どうしてこんなに怖いのだろう。
そばにいてほしい。
見てほしい。
義務じゃなくて、役目じゃなくて、ただヴィルとして、わたしの隣にいてほしい。
そう思うことが、ひどく浅ましい気がする。父の影を借りているようで、先王陛下の庇護を盾にしているようで。彼の誓いを、わたしが踏みにじっているようで。
わたしは、唇を噛む。
「……それは、それだけはわたしには無理」
《《今はね》》
「今だけじゃない。これからもたぶん、ぜったい無理……」
《《そうかな》》
「そうよ。他人事だからって、そんな簡単に言わないで」
《《じゃあ、まだルート未開放ってことにしておくね》》
「……またそういう言い方をする」
《《だって、可能性は閉じてないもん》》
茉凜の声は、ふわりと笑った。
軽い。
明るい。
けれど、その明るさは逃げではなかった。
《《あなたは今、自分が最低だと思ってるよね。命令なんてしてしまったし、彼を困らせてしまった。大切だと思う人に、自分が嫌っているものを向けたって》》
「……」
《《でも、それはあなたが本当に彼をどうでもいいと思っているからじゃない。どうでもよくないから、怖かったんでしょ?》》
涙がまた落ちた。
でも今度の涙は、先ほどとは違っていた。
痛みはある。自己嫌悪もある。けれど、それだけではなかった。
《《わたしはね、美鶴。べつにあなたがヴィルに好かれる未来を見たいんじゃないの》》
「……え?」
《《あなたが、自分の幸福を罰にしない未来を見たいの》》
その一言が、身体のいちばん深いところへ届いた。
遠い雨の匂いがした。
紫陽花の花房と、濡れた花弁に触れた指先。焦げたトーストの音と、卵焼きの色。雨上がりの寺で、肩に回された腕の重み。
ちゃんと生きたい。生きていたい。
あの日、わたしはそう思ってしまった。
そして、その願いを罪の形にした。
あたたかいものを覚えた身体を、ずっと責めてきた。
《《あのときからだよ。わたし、あのときの美鶴の気持ち、知ってるもん》》
茉凜の声が、わたしの記憶を撫でる。
《《あなたは、ちゃんと生きたいって思った。それは悪いことじゃない。だから、わたしはそれを、何度だって言う。たとえあなたが聞き飽きても、うるさいって怒っても、何度だって》》
「……茉凜」
《《生きたいって思うことも、そばにいたいって願うことも、おいしいものをおいしいって笑うことも。ぜんぶ罰じゃないよ》》
白い剣の光が、涙で滲む。
その光が、雨上がりの紫陽花に似て見えた。
馬鹿みたいだと思う。ここは離宮の一室で、わたしはベッドの上で泣いていて、腕の中には剣があるだけだ。それなのに、茉凜の声を聞いていると、あの日の水気を含んだ緑の匂いが戻ってくる。
「……でも、あなたは」
《《うん》》
「あなたは、わたしのせいで、剣の中に押し込まれて、止まった時の中で……」
《《はい、そこ。自己嫌悪ルートへ入ろうとしない》》
「……」
《《そのルートは既読です。スキップしまーす》》
「ふざけないで……」
《《怒った?》》
「少し」
《《でも泣き止んだね》》
そう言われて、わたしは初めて気づいた。
涙はまだ頬に残っている。けれど、さっきみたいに息が壊れてはいなかった。
悔しい。
茉凜は、こういうところが本当にずるい。
《《ねえ、美鶴》》
「なに」
《《わたしは欲張りだから、ぜんぶのルートを見てみたいの》》
「……そんなに面白かった?」
《《面白いよ。だって、どのルートでもあなたが一生懸命だから、がんばれって応援したくなるのさ。おねーさんとしてはね》》
「だから、いつからお姉さんになったのよ。年下のくせに」
《《うふへへへ。細かいことはいいじゃん》》
ふざけた言い方なのに、そこには笑いきれない熱があった。
《《泣くルートもある。こじれるルートもある。ヴィルが盛大に間違えるルートもあるし、美鶴が全部飲み込んで倒れちゃうルートもある。茉凜強制介入ルートは、わたしがしゃしゃり出すから一時的に安定するけど、根本解決にはならなかった》》
「……そこまで検証済みなんだ」
《《検証済みだよ》》
「それって、マウザーグレイルの無駄遣いじゃないの?」
《《無駄じゃないよ》》
即答だった。
その速さに、喉が詰まる。
《《グレイさんのことも、敵のことも、黒鶴のことも、ぜんぶ大事だよ。でも、あなたが明日も生きたいって思えるかどうかも、同じくらい大事》》
刀身が、わずかに温もる。
《《だって、美鶴が笑ってくれなきゃ、わたしは嫌だもん》》
子どもみたいな言い方だった。
でも、その言葉は、どんな神託よりも確かだった。
「……どうして、そんなに」
《《美鶴がだいすきだから》》
茉凜は、少しも迷わなかった。
《《美鶴が泣いてると、胸がぎゅーって痛い。幸せを遠ざけようとしてたら、こらって言いたくなるし。ほしいって言えないなら、わたし後ろからずっと看板振ってる》》
「看板?」
《《『この選択肢を押せー』って》》
「やめなさいって」
《《でも押してほしい。オススメだから。『ワシならこうするぜ! いかんかー!』って、剣の中で毎回思ってる》》
また笑ってしまった。
今度は、ちゃんと声が出た。
その小さな笑い声が部屋に落ちると、夜の重さが変わった。闇が薄くなったわけではない。でも、闇の中にいる自分の輪郭が、さっきより戻ってきた。
「……茉凜」
《《うん》》
「わたし、まだ何もわからない」
《《うん》》
「ヴィルが何を考えているのかも、どうしてあんなふうに距離を置くのかも。わたしがどうすればいいのかも、わからない」
《《うん》》
「でも……彼を信じてみたいとは、思ってる。離れたくないから」
言葉にすると、喉がまた少し痛んだ。
でも、痛くても言えた。
茉凜はすぐには返事をしなかった。
その沈黙は、いつもの彼女にしては珍しく、泣きそうな気配を帯びていた。
《《それでいいと思うよ》》
やっと返った声は、柔らかかった。
《《今はそれで十分。攻略情報を全部開示したらつまらないしね》》
「またそれ……最後で台無しよ」
《《うふへへへ》》
その笑い方に、わたしは目元を拭った。
腕の中のマウザーグレイルを、そっと胸へ寄せる。金属の輪郭は硬い。けれど、そこには確かに茉凜の気配が残っていた。ふたつでひとつのツバサ。前世から何度も言い合った、馬鹿みたいで、大切な言葉。
「でも、これだけは忘れないで」
《《なにを?》》
「どんなことになっても、消えないで……」
気づけば、そう言っていた。
茉凜の気配が揺れる。
「あなたがいなくなるなんてこと、絶対に許さないから」
《《はいはい。善処します。ま、先のことを断言するとフラグっぽいから、そこはぼかしておくけど》》
「茉凜……」
《《ごめんごめん》》
軽く返す声の奥に、言えないものが沈んでいる。
それでも、今は追わなかった。
茉凜がすべてを言わないのは、隠しているからだけではない。わたしに選ばせるためだ。自分の足で歩かせるためだ。それがわかってしまうから、余計に腹立たしく、余計に愛おしかった。
《《じゃあ、わたしはもう少しだけ深いところに戻るね》》
「まだやるの?」
《《もちろん。全ルートを見たいのでねー》》
「あなたって本当に……」
《《でも、今夜はここまで。美鶴は休むこと。泣き疲れた身体で考えても、だいたいバッド寄りの選択肢しか出ないから》》
「……それは、少しわかるわ」
《《でしょ。だから寝る。できれば温かいものを少し飲む。リディアさんがまだ近くにいるなら、甘えてよし》》
「命令みたいね」
《《親友命令です》》
「それ、わたしの命令より強そうなんだけど。どうにも逆らいづらいわね」
《《茉凜さん権限なので》》
白い光が、くすくす笑うように揺れた。
それから、少しずつ遠ざかっていく。
《《美鶴》》
「なに」
《《あなたがどの選択肢を選んだって、わたしは見てるよ。ま、ちょっとは叱るし、たまに突っ込むかもしれない。でも、見捨てたりなんかしない。ぜったいにね》》
喉の奥が、じんと熱くなった。
《《だから今は、朝までぐっすり眠ること。それで今日は合格だから》》
「……合格の基準、低いわね」
《《低くていいの。生きてるだけで偉い。そんな日もあるでしょ。んじゃま、アスタ・マニャーナ》》
その言葉を最後に、茉凜の気配はゆっくり沈んでいった。
けれど、消えたとは思わなかった。
剣の奥で、彼女はまだ何かをしている。あまりにも大げさな演算資源を使って、わたしの泣きべそ顔と、ヴィルの不器用な背中と、まだ開かれていない未来を、たぶん懲りずに並べている。
マウザーグレイルの無駄遣い。
そう思う。
けれど、その無駄遣いがなければ、今夜のわたしは呼吸の仕方を忘れていたかもしれない。
わたしは深く息を吸った。
四つ数える。
吐く息を六つ。
身体の内側で乱れていたものが整う。月光はまだ床にある。窓の向こうでは、夜がゆっくり動いている。
扉の方へ目を向ける。
もしかしたら、リディアが気配を消したまま待っているかもしれない。温かいスープも、まだ厨房に頼めるかもしれない。
ヴィルのことは、何も解決していない。
食堂での痛みも、自分の醜さも、彼の冷たいほど正しい言葉も、まだ全部ここにある。
けれど。
「彼を信じてみよう……」
小さく呟くと、声はもうさっきほど掠れていなかった。
答えではない。
誓いでもない。
ただ、次の一歩のための仮置きだった。
それで今は、十分なのかもしれない。
寝台から足を下ろす。石床の冷たさが、足裏へ薄く沁みた。身体は重い。けれど立てないほどではない。
腕の中のマウザーグレイルには、茉凜の温もりが、まだわずかに残っている。
ささやかなその温度を抱えたまま、わたしは扉へ向かって一歩を踏み出した。
夜はまだ長い。
けれど、朝まで生きるだけで合格の日もある。
そう言った茉凜の声が、胸の底で、馬鹿みたいに明るく鳴っていた。




