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薄羽の夜

 月明かりが薄いレースのカーテン越しに揺れ、リディアの横顔だけがほのかに浮かんで見えている。衣擦れが小さく鳴り、寝台の木がきしみを飲み込んだ。


 先ほどまで泣き腫らしていた瞼を何度か瞬かせながら、わたしは彼女の傍らに身を寄せて座りこんでいた。あれほど激しかった涙はいったん収まったものの、息をするたび、喉の奥にまだ小さな硬さが残っている。


 けれど、さっきよりはずいぶん息がしやすい。蝋の薄い匂いに、洗い立ての布の香りが混じっている。そばにいてくれる人がいるだけで、こんなにも違うのだと、肌で知る。


「……リディアさん。こんなことをお聞きするのは心苦しいのですが、どうしてそこまで、わたしに優しくしてくださるのですか?」


 半ば独り言のように問いかけると、リディアは小さく目を伏せ、柔らかな微笑を浮かべた。けれど、その奥に隠しきれない翳りがあるようで、少しだけ胸が軋む。


「お嬢様をお案じするのは、侍女として当然の務めにございます。けれども、わたくし個人の気持ちとしては……」


 月明かりに照らされた頬がわずかにやわらぎ、リディアの口もとにかすかな笑みが浮かんだ。


「どうしても放ってはおけないのです。お嬢様が抱えておいでのご苦しさを、わずかながらも見てまいりましたから」


 穏やかなのに、どこか熱を帯びた声だった。わたしはゆっくりとまぶたを開き、しゃくり上げそうになる呼吸を整えながら言葉を継ぐ。


「……やはり、こんな容姿で生まれたから、でしょうか。母と同じ黒髪と翡翠色の瞳。そればかりか、顔貌まで瓜二つで……」


 自分でそう言いながら唇が震えた。


 デルワーズの系譜がこの身に刻んだもの。禁書庫で知ってしまった真実は、わたしの容姿の理由を残酷なほど明瞭に説明してくれた。けれどそれを知る者は、この離宮にはいない。


 リディアはわたしの言葉に小さく息をつき、床に座りこむわたしをやわらかく抱き寄せてくれた。布を通して伝わる体温が、腕の内側をゆっくり温めていく。


「……なぜ代々の巫女様が皆同じお姿でお生まれになるのか、そこまではわたくしにもわかりかねます。ですが、それゆえに周囲の方々がどのようなお気持ちを向けてこられたかは、見てまいりました。お嬢様のお母上であるメイレア様も、理不尽な扱いをお受けになっておいででしたもの」


「母は、黒髪の巫女であるというだけで、この離宮に押し込められたと聞きました。言霊が聞こえることも歓迎されるわけではなく、むしろ王家にとっては都合が悪く、混乱を招くだけだったと……」


 お祖父さまから聞かされた話が甦り、喉がきゅっと締めつけられる。


「やはり、異常だと思われてしまうのでしょうね。代々、まったく同じ容姿を繰り返すのですもの」


 ぎこちなく笑おうとした瞬間、リディアは困ったように首をかしげた。否定の言葉は出てこない。その沈黙の正直さが、かえってありがたかった。


「否定しきれぬのは心苦しゅうございます。普通の方々にとって説明のつかないことは、どうしても恐れを呼び起こします。わたくし自身、初めてそのことを知った折には戸惑うばかりでございました。なぜ巫女様だけが同じ御容姿をお持ちなのか、と」


 戸惑い。それが恐怖になり、やがて隔離や忌避へ繋がる。その図式を、わたしは知識としても当事者としても知っている。だからこそ、それでもここにいてくれるこの人の存在が不思議で、同時に胸の深いところが疼いた。


「でも、リディアさんは、それでもわたしたちを怖がらずにいてくださったのですね……? 王家の方々ですら、その本当の理由をご存じないというのに」


 リディアは一瞬だけ目を丸くし、それから柔和な笑みを浮かべた。指先が、わたしの髪にかかった一筋をそっと耳の後ろへ送る。


「ただ、お守りしなければと思ったのです。お生まれになっただけで奇異な目で見られ、しかも恐れられて……あまりにも酷うございますもの。お嬢様も同じではありませんか? 何も悪いことなどしておられないというのに、周囲が無理解のまなざしを向けてしまうなんて」


 その切実な声を聞くと、胸がじわりと熱くなった。


 生まれ持った容姿と力のせいで、代々の巫女たちは、王家に保護されながら、実際には利用されたり遠ざけられたりしてきた。理由のすべてを明かせないわたしには、救いのない話だった。それでも、それをおかしいと、声に出して言ってくれる人がいる。


「けれど、わたくしには王家の秘事に口を挟むことはできません。それでも、こうして目の前で悲しんでいらっしゃる方をお支えしたいと願うことくらいは、お許しいただきたいのです」


 リディアの瞳には、侍女という立場からはみ出すほどの意志の硬さがあった。遠い昔、母もまたこうして支えられていたのかもしれない。そう想像すると、言いようのない切なさで喉の奥が詰まる。


「それに、お嬢様にはメイレア様にはなかった強さがあると、わたくしは存じております。メイレア様は……少々、奔放すぎるところもおありでしたから」


 月明かりに照らされた頬がかすかにやわらぎ、リディアは選ぶように次の言葉を置いた。


「お嬢様は少し違われます。周囲を慮りすぎるあまり、何もかもご自分ひとりで抱えてしまおうとされます」


 ――慮りすぎ、か。


 さっき食堂で命令を口にした自分を思い出す。あれは慮るどころか、我を通すために立場で殴りつけたのと同じだった。肩にかかったブランケットの端を、指先が無意識に握り直す。


「……わたし、強いなんて言われたことありません。弱いところばかりで……いつも、まわりに迷惑ばかりかけて……」


「いいえ、そんなことはございませんよ。ほんとうに弱っておられる方は、ご自分が弱いと口にすることすらできません。お嬢様は、いつも前を向こうとなさっておいでです。何事にも真摯で、逃げずに向き合ってこられたではありませんか。それは強さでございます」


 リディアはまるで断じるように頷き、わたしの頬をそっと拭ってくれた。指先のやわらかさが、涙の跡を温めていく。


 どうしようもなく救われたい気持ちに駆られる。いっそすべてを告げることができたなら、どれほど楽だろう。けれど、それを明かせば彼女を巻き込み、王家との間に亀裂を走らせかねない。その重さを、わたしはひとりで持つしかないのだ。


 ――いくら前世の知識があっても、こういう孤独の形は変わらないんだ。誰かに全部を預けたくても、預けた瞬間にその人を危うくする。


「ごめんなさい、また泣き顔ばかり……せっかく落ち着いたのに」


 苦笑を作ると、リディアはさらりとハンカチを取り出し、もう一度頬を拭ってくれた。布地の冷たさが肌に触れ、すぐに体温でぬるくなっていく。


「気になさらないでください。何度だってお付き合いいたします。お嬢様のお心が少しでもやわらぎますよう、わたくしこそ勝手ながらお側にお仕えしたいのです」


 その言葉が胸の奥を灯すように響いた。こんなにもわたしを想ってくれる人がいる。ただそれだけで、わずかに息が楽になる。さっきまで底なしに思えた夜が、ほんの少しだけ浅くなったような気がした。


「……もしわたしが、またどうしようもなく落ち込んだり悩んだりしたら、愚痴を聞いてくださいますか?」


「もちろんでございます。わたくしはいつでもここにおります。……たとえどれほど心細い夜であっても、お嬢様がおひとりにならぬように」


 リディアの声がやさしくて、思わず目を細めた。夜の闇は深く冷たいはずなのに、こうして寄り添ってもらうだけで呼吸のかたちが変わっていく。


 そっと彼女の肩に頭を預けた。荒れた呼吸が少しずつ凪いでいく。薄れていく意識のまま、独り言のように声がこぼれる。


「……ありがとう、リディアさん」


「お休みなさいませ、お嬢様。朝が訪れましたら、きっと何かしら新たな風が吹くかもしれません……」


 柔らかな声に促されるように、ゆっくりと瞼が落ちていく。窓の外には変わらず月の光が降り注いでいた。


 デルワーズの秘密は、どこにも消えてはくれない。あの人との距離も、茉凜の沈黙も、何ひとつ解決していない。


 でも、今夜ここに温もりがあったことは、嘘ではない。


 ――いつか、この人にもすべてを打ち明けられる日が来るのだろうか。


 リディアの体温に頬を預けたまま、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。月は黙って窓辺を照らし、薄いカーテンの影だけが、寝台の端で静かに揺れていた。

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