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言えない言葉、長い夜

 逃げても仕方がないと知っているのに、足は止まらなかった。


 自室に辿り着き、扉を背で押す。鍵もかけぬまま、膝が折れて床へ崩れた。扉板の冷えが肩甲骨のあいだへ吸いつき、裾が床に擦れて小さな音を立てる。呼吸を詰めて声を押し殺すと、肋骨の奥がきしんだ。泣いているのか怒っているのか、自分でもわからない。ただ身体の内側で、何かがばらばらに割れている音だけが聞こえていた。


「……茉凜……っ……ねえ、応えて……」


 片時も離さない白きマウザーグレイルへ、縋るみたいに語りかける。


 いつもなら心の内で励ましが返り、軽口だってくれたはずの存在。けれど今は、何も言えないみたいに沈黙だけが置かれている。鞘の口金が、震える指先にひやりと貼りついた。頼みの綱が腕の中で遠のいていく。胸骨の下が、空っぽなのに重い。


 ――あの人に拒まれて、彼女にも届かないなら、わたしはいったい誰に声を出せばいいの。


「誰か……たすけて……」


 這うように寝台の脇までにじり寄り、端へ寄せられていた枕を引きずり落とす。抱え込んだそれへ顔を押しつけると、擦れる声が喉の奥で震え、肋骨が浅く上下した。強がりも矜持も紙みたいに薄くなって、指先に残るのは布の繊維の感触だけだった。


 前世でも、こんなふうに床に崩れたことがあっただろうか。あったかもしれない。でも、あの頃は少なくとも、自分で自分を嫌う理由がこんなに明確ではなかった。


 立場を振りかざして人を引き止めようとした。あの貴族たちと同じことを、「大切だ」と言ってくれた人に向かってやってしまった。その事実が、枕に押しつけた顔の奥でまだ焼けている。


 どれほどそうしていただろう。肋骨の奥で空白だけが広がり、思考が鈍りはじめた頃、小さなノックが響いた。


「……ミツルお嬢様、いらっしゃいますか? わたくしです、リディアでございます」


 控えめで落ち着いた声。返事を試みるが、息が詰まって音にならない。苦しさと恥ずかしさが喉元で絡まっていた。


「入ってもよろしいでしょうか」


 首を振ったが、鍵はかけていない。扉は静かに開き、入ってきた彼女が息を呑む気配がした。


 わたしは床にへたりこんだまま、抱え込んだ枕に顔を埋めていた。腕にだけ力が残っている。リディアは足音を殺し、膝をついて目線を合わせてくれた。


「……どうか、ご無理だけはなさらないでください」


 指先の震えに気づかないふりをして、彼女は呼吸を合わせるように同じ高さに膝を落としている。


 いつもと変わらぬ穏やかな音色。壊れ物に触れるみたいなやさしさだった。そのやさしさが喉の詰まりをほんの少しだけほどいて、息の通り道が細く開いていく。


 ――優しくされる資格が、今のわたしにあるんだろうか。


「……わ、わたしは……どうしたらいいの……」


 消え入りそうな声が室内にほどけた。リディアの瞳には揺りかごみたいな静けさが宿っていて、その灯りに触れられると、壊れたがっている部分がかえって痛む。


「お苦しいときは、どうぞそのまま吐き出してくださって構いません。何もかも、お一人で抱える必要はありませんよ」


 枕を抱く腕の力がほどけ、言葉にならないものが胸の底から昇ってきた。受け止められている。ただそれだけの事実が、冷えきった体に一滴の温度を戻していく。


「リディアさん……わたし……本当は、ただ彼に傍にいてほしかっただけなの……。なのにわたしったら、あんな命令なんてしちゃって……彼を困らせるだけだってわかってるのに」


 自己嫌悪が鉛みたいに舌の根に沈んでいく。


 あの瞬間のわたしの顔を、彼はどう見ていたのだろう。軽蔑していただろうか。それとも、何も感じていなかったのだろうか。どちらが残酷かもわからないまま、爪が掌に食い込んでいた。


 リディアは最後まで聞いてから、そっと目を細めた。


「人は、たまらなくお寂しいときほど、うまく助けを求められなくなるものです。お嬢様があのような形でお頼りになってしまったとしても、恥ずかしいことではございませんよ」


 ――恥ずかしいことじゃない、と言ってくれるのは、この人だからだ。


 けれど、あの人はそうは思わなかったのだろう。思わなかったから、背中を向けて出ていった。情けないから。惨めだから。見るに堪えないから。


 ――あの人が見ているのは、きっとユベル・グロンダイルの娘としてのわたしだ。なのに、わたしは違う期待をしてる。そんなの迷惑だってわかってるのに。


 そうだと決めつけてしまえたらよかったのに、まだどこかで、それだけじゃないと思ってしまう。


「でも……ヴィルはなぜ急に変わってしまったのでしょう? いくら尋ねても、彼は何も答えてくれないんです。こんなこと、今まで一度だってなかった。あんなの、わたしの知っている彼じゃない……」


 声が揺れていた。前世の記憶のなかにだって、こんなふうに人に拒まれた痛みはそう多くない。いや、あったのかもしれない。でもあの頃は、拒まれても仕方ないのだと、自分のせいなのだと納得できた。諦めればそれでよかった。


 ――でも、いまのわたしはそんなふうになれない。だって、前なら、こんなふうに息が詰まることもなかったのに。理由すら渡されないまま、壁だけが積まれていくのがこわい……。


「……侍女であるわたくしが勝手に物申すことは憚られますし、なんの確証もございませんが……お二人のあいだには、たしかに積み重ねてこられたものがございました。そう簡単に失われるものではないように、わたくしには思えます。何か、お嬢様にも明かせないご事情がおありなのかもしれません」


 穏やかな言葉の奥に、芯の硬さがあった。


 積み重ねたもの。確かに、そう呼べた時間があった。けれど今は、騎士と王家の養女という肩書きだけが前に出て、内側が見えない。


 ――明かせない理由って……。だったら、せめてそう言ってくれればいいのに。「言えない」とさえ言ってくれれば、わたしはそこで待てるのに。


「……でも、今のままじゃ、わたし……なにもわからない。大切なものが何もかも遠ざかってしまう気がするんです」


 子供めいた震えが混じっていることは、自分でもわかっていた。前世で積み重ねてきた知識も経験も、こういうときには何の役にも立たない。信頼を寄せて、拒まれて、理由もわからないまま胸が潰れそうになる――それは前世も今世も変わらない、ただの痛みだった。


 リディアは拒まず、背をやさしくさすってくれる。手のひらの温度が移り、呼吸が一段深くなった。


「お嬢様、涙は枯れたように思えても、お心はまだちゃんと叫び続けておいでなのではありませんか。どうか、今はご自分のお気持ちを、無理に押し込めてしまわれませんよう。陛下がお戻りになれば、きっと力になってくださるでしょう。でも、それまでの間も、わたくしが……いえ、わたくしどもがついておりますから」


「リディアさん……」


 そのやさしさが胸の膜を内側から撫で、肩の力が少しだけ抜けていく。それでも底には暗い澱が沈んでいた。嫌われたのかもしれない、という想像が喉に熱を呼ぶ。


 ――でも、もう前みたいには戻れないのかもしれない。


「茉凜……」


 もう一度、その名を呼ぶ。白きマウザーグレイルの内側にいる、かけがえのない人。けれど応えは、やはりなかった。いつもならすぐに返ってくる声が、今夜はどこにもない。鞘の金具が燭の光を拾って、一瞬だけ白く瞬いた。それだけが、まだそこにいる証のように見えた。


「今宵は、ゆっくりとお休みになるのが何よりです。お食事は……少し落ち着いてからでも構いません。温かいスープを、あとで厨房に新しく用意させましょう。どうか、少しでもお身体をお休めくださいませ」


 リディアが腕を差し出す。わたしはそっと首を振り、もう一度だけ手の甲で目もとを拭った。


「……でも……いまはもう少し、自分の気持ちを整理したいのです」


「はい」


 彼女は促すのをやめ、黙って傍に留まってくれた。その沈黙は、切なさと温かさを同時に運ぶ。さっきのように取り乱すことはもうない。ただ静かに、胸の奥へ水が溜まっていく。


 この先もあの人に拒まれるのだろうか。頭の中で、彼の冷ややかな声が何度も反芻する。「私はあくまで護衛騎士」。「身分を弁えねばならぬ立場」。「任務の範囲外」。正しい言葉ばかりだった。正しいから、刺さったまま抜けない。


 でも、あの靴音。扉へ向かうとき、一歩だけ拍が外れた。


 あのとき拾えなかったものの意味が、今になって胸の底でちりちりと燻っている。あれが何でもなかったのなら、こんなに苦しくはない。何かだったのなら、どうしてそれを見せてくれないのか。


 それでも、いま、ここにある言葉と手のひらだけは確かで、わたしをひとりにしなかった。


「お嬢様、少しずつでも、心を休めてくださいませ。今はどれほど涙を流しても、誰も咎めたりはいたしません。明日になれば、また違うふうに見えてくることもございます」


 やさしい言葉に胸がきゅっと締まった。痛いほどのやさしさに、目の奥の熱が戻りかける。拭っても拭っても、睫毛の先に溜まるものが消えない。それでも今は、息が守られている。


 ぎゅっと目を閉じると、瞼の裏にヴィルの姿が浮かんだ。剣を手にした勇敢な背中。ぶっきらぼう。昼の酒。無神経な冗談。それでも、まっすぐで、不器用で、どうしようもなく温かかった。


 ――……だから苦しいんだ。


 その言えない言葉が、胸の一番深いところで、音もなく落ちた。


 いまのよそよそしさが彼のすべてじゃないと知りながら、なぜ行き違ってしまったのか。考えは輪を描くばかりで、わたしは無意識にリディアの手を握っていた。


「……明日になれば……何かが変わるのかな。変わってほしい……」


 部屋の闇が深まるほど、祈るみたいな言葉がこぼれる。リディアは静かに微笑み、手をそっと握り返してくれた。外の風がさらりとカーテンを揺らし、遠い廊下で衛兵の足音が一度だけ響いて消えていく。


「今夜は月がきれいですよ。窓を少し開いてみませんか? 外の風が入れば、少しは心が落ち着くかもしれません」


「はい……」


 誘われて立ち上がった。重い足取りでカーテンを引き、窓を少し押し開けると、夜空の高みに淡い月が浮かんでいる。白銀の光が窓枠を越えてわたしの足もとまで伸び、冷たい空気が頬を撫でた。カーテンの裾がふわりと膝に触れる。布目のやわらかさが、呼吸の底を撫でていった。


「深呼吸、してみましょうか。さあ、ぐっと息を吸って、ゆっくり吐きます」


 吸い込んだ夜気が鎖骨の内側で丸くなる。吐くたび、月の輪郭が少しだけ鮮明になっていく。促されるまま、何度か深呼吸を繰り返した。四つ数えるあいだに吸い、六つ数えるあいだに吐く。長い息が、ばらばらだった拍を少しずつ元の形へ戻していく。


 鼻腔を通る空気は冷たいのに、胸の中心にほんの微かな温みが生まれている。不意にあの人のことを思い出しても、呼吸は乱れなかった。


「……ありがとうございます。もう少し……このまま外の風に当たってみます」


 月を仰ぎ、濡れたまつげをそっと拭う。苦しさは簡単に消えない。けれど、寄り添う気配があるだけで、胸の重みはひと呼吸ぶんだけ軽くなっていた。


 それでも内側には、「どうしてわたしを見てくれないの」と燻る声が残っている。彼が嫌っていたはずの騎士の顔に戻ったとしても、それだけならまだ耐えられる。けれど、わたし自身と向き合うことを拒まれるのは、やはり痛かった。


 リディアは静かに傍らにいて、床に座りこんだわたしへクッションを差し出し、肩にブランケットをかけてくれる。小さな気遣いがありがたく、同時に歯痒い。この手がヴィルのものだったらと思ってしまう自分が、どうしようもなく浅ましかった。肩にかけられたブランケットの重みだけが、まだ名前のつかない無力を静かになだめている。


「……リディアさん。もう少ししたら……ちゃんと眠ります。ごめんなさい、こんな情けない姿、見せてしまって……」


 絞った声に、リディアは小さく首を振って微笑んでくれた。


「いいえ。どんなにお心が強くとも、人は一人では生きていけません。こうして誰かの力を借りるときがあるのが当然なのです。ですので、どうかご遠慮なく、今はお泣きになって……心が少し軽くなるまで」


 言葉のままに、静かな嗚咽が胸の奥をかすめていく。伏せた睫毛の先から落ちた滴が膝の上の布を打ち、小さな音を残した。


 悔しさと寂しさと、言い尽くせない自分への嫌悪。それでも、この涙が無駄ではないと信じたかった。


 扉の外を時折通る足音が遠ざかり、世界にはわたしとリディアと灯だけが残されている。震える手でブランケットの端を握り、ゆっくり目を閉じた。


 ――明日のわたしは、もう少しましな人間でいられるだろうか。


 夜の静けさが、わたしの深い呼吸とリディアのあたたかい手を包んでいく。窓の外、冷たい月光が敷石に淡く降りていた。


 夜は長い。けれど、呼吸の続くかぎり、朝はまだ遠くない。

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