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冷え切った食堂、遠ざかる背中

 離宮の長い回廊を抜けた先にある食堂。その扉を開くだけで、本来ならば華やぎと温かさがわたしを迎えてくれるはずだった。


 大きなシャンデリアが灯り、ゆらぐ光が壁際の絵画を柔らかくなぞる。侍女たちの小走りの足音、銀器の触れ合う微かな気配、鴨のローストの匂いに口角がほどける――そんな穏やかさを、思い描いていたのに。


 実際は違った。扉の向こうには静寂だけが広がっている。さっきまでの喧騒は嘘のように消え、空気は高い天井の下で硬く冷えていた。


 銀器に触れた指腹から、ゆっくり血の気が引いていく。


 長テーブルは灯の届かない面を多く残し、椅子が均等に冷えて並んでいた。わたしが中央に座っているのに、どの席も空いたまま。気づかれず置き去りにされたような心細さが、胸の底で小さく凝っていく。


 目の前のスープはまだ湯気を立て、縁に触れる蒸気が指先をやわらかく湿らせている。同行の侍女が気を利かせてくれたのだろう。けれどそのやさしさが今は胸の表面をすべるだけで、ナプキンの端を指で摘んだまま息が浅くなった。匙を取る気になれない。燭の芯がすっと痩せ、蝋の微かな粉っぽさが鼻腔をかすめていく。


「……お祖父さま、今夜もお戻りになられないのかな……」


 ぽつりと落ちた声は、燭台の灯に溶けて小さく消えていく。吸った息が鎖骨の手前でほどけず、胸骨の裏に絡んだ重みだけが残った。離宮の夜は普段よりも広く冷え、空気が皮膚の内側まで忍び込んでくる。


 いつもなら、いざとなればお祖父さまと相談して決められた。わたしに降りかかる案件も、精霊魔術の講義で立ち止まったときも。けれど今は、その綱がない。侍女たちはさりげなく声をかけてくれる。けれど胸に空いた穴は、風の通り道を増やすばかりだった。


 視線を巡らせ、食堂の隅に立つ侍女の気配を捉えた。どんな言葉を置けばよいのかさえ掴めず、唇をかむ。ナプキンの縁が指にざらりと引っかかった。せめて、誰かと同じ卓で食べられたなら――そう思い、椅子の脚が床をこすって小さく鳴る。


 数歩先、壁際に控えるひとりの騎士が目に入った。背筋は伸び、面差しは落ち着いているのに、身の周りの空気だけが乾いて冷たい。かつての彼を思い出すと、どうしても比べてしまう。やさしさを隠しきれず、ぶっきらぼうがそのまま照れの裏返しに見えた頃のことを。


「……ヴィル、あなたも一緒に食事しない?」


 自分でも驚くほど弱い声だった。この静けさの中では仕方がない。あの人はいつも、荒い言葉の奥にひと肌の体温を隠していたのに。


 けれど目の前の騎士は、表情の筋肉を仮面のように固定している。呼びかけの余韻を切り落とす――その直前に、喉元がほんのわずかに詰まった。一瞬のことで、すぐに呼気が整う。整ったあとの声は、任務の温度で一定だった。


「職務中ですので、ご遠慮させていただきます」


 食卓をともにしない。立位警護は離宮の古い定めだ。王家の席は、見られるための礼で守られる――それが古くからの作法であることくらい、わたしにもわかっている。わかっているのに、わかりたくなかった。


 小さく首をかしげる。視線が揺れていることは、たぶん自分でもわかっていた。


「……どうして? 前はあんなに普通に、学食でだって……一緒にご飯、食べてくれたじゃない」


 喉仏が一度だけ上下して、舌の奥が乾いていく。過去へ触れた言葉は、現実の乾きにこすれて薄くなるばかりだった。


 それでも彼は、冷えた面差しのまま答える。


「それは、御学友であられるソレイユ殿が同席しておられたからです。主であるあなたに恥をかかせるわけにはまいりませぬ故」


「なによそれ……」


 意味が腹の底まで落ちるのに一拍かかった。礼法の問題なのか、それとも別の理由があるのか。意図の輪郭が見えない。見えないまま、鼓動だけが速くなっていく。


 もう一度見つめ直す前に、彼は微動だにしなかった。沈黙の肌理でそれ以上を拒んでいる。今、彼が護衛騎士としての任にあるのは事実だ。けれどわたしが祈るように声をかけたのは、護衛ではなく、ひとりの人として同じ卓に座ってほしかったからだ。


 その祈りが届かなかったという事実が、みぞおちの底にゆっくり沈んでいく。


「……そう……わかったわ」


 吐き出した声は、自分の耳にも好ましくない角度を帯びていた。彼は騎士としてわたしを守る。もう、それ以上には踏み出さない。その形だけが肩に載り、薄く目を伏せて席へ戻ると、スープの湯気は細り、パンの芯にはもう冷えが降りていた。匙は宙で迷い、喉は狭いまま。握ったナプキンに、行き場をなくした力がこもっている。


 肋骨の奥が、空洞みたいに鳴っていた。


 わたしはもう一度、彼の名を呼ぶ代わりに、別の言葉を置いてしまう。唇の震えを自覚しながら。


「では……命令です。ここに座って、一緒に食事を……して」


 喉の奥が乾いた。言葉の形だけが先に立ち、胸の内側に置き忘れた熱が、遅れて頬へ上がる。


 ――いま、わたしは何をした?


 言い切った瞬間、金の縁取りが視界で滲んだ。立場を使って引き止めようとしている。その自覚が舌の裏に熱く刺さり、喉の奥が固まっていく。


 ――最低だ。こんなの、あの貴族たちのしてることと同じじゃない。


 それでも放っておかれたくなかった。夜が深まるほど、思考が暗いほうへ滑っていくのがわかるから。どうしようもなくて、汚い手を使った。使ってしまった。そのことが、吐き気みたいにこみ上げてくる。


 わたしの懇願とも脅しともつかない言葉に、彼の瞳が一瞬だけ揺れた。逡巡の影。


 ――彼だって、完全に拒んでいるわけじゃない……。


 期待が胸をかすめた刹那、彼は意志を固めるように唇を結んだ。


「申し訳ございません、お嬢様。たとえ主といえど、この場でそのような命令に従うわけには参りません。私はあくまで護衛騎士。身分を弁えねばならぬ立場でございます」


 蝋の匂いが急に強くなった。視界の縁が白く波打ち、空気が音だけを残して薄くなっていく。


 静かな声なのに、匙の柄が皿にこつと触れ、手の震えが露わになった。


「……なんで……どうして、こんな……」


 うわずった声がスプーンの影に落ちる。輪郭の甘くなった視界で、湯気だけが揺れていた。テーブルクロスに小さな染みが増えていく。胸のあたりがじりじりと焼けて、それが怒りなのか悲しみなのか、もう自分でもわからなかった。


 見かねたのか、彼が小さく息を吐く。近づく靴底が石を撫で、立位の影がひやりと頬に触れた。肩を収めようと背筋を正すが、息は言うことを聞かない。差し出された白い布が、視界の手前で留まる。その端が、彼の指のあいだでわずかに折れていた。


「よろしければ、お使いください」


 短い台詞。けれど、差し向けられたのは手ではなく、役割だった。丁寧で、正しくて、わたしの肌の温度にはどこまでも届かない。


 せめて「大丈夫か」と。「ゆっくりでいい」と。――そんな言葉を期待してしまうのに、彼は何も続けない。冷静な面差しと整った所作だけが置かれる。喉の奥が詰まった。


「……いらない!」


 声が石壁で跳ね、耳の内側が熱くなる。こんな言い方をすれば彼を傷つけるかもしれない。わかっていても、こぼれた感情はもう止められなかった。握ったナプキンの端が小さく裂け、指先にこもった力にやっと気づく。


 それでも彼は表情を動かさない。やがて立ち上がり、硬い靴音をまとめて扉へ向かった。


 一歩だけ、拍が外れた。けれどすぐ整う。そのわずかな乱れがなんだったのか、今のわたしには拾えなかった。


「リディア」


 低く侍女の名を呼ぶ声が、淡々としているぶん深く刺さる。いつから、こんな距離になったのだろう。かつてはぶっきらぼうも彼らしさとして笑えたのに。


 すぐにリディアが駆け寄る。布の擦れる音、呼吸を整えるかすかな気配。叱責ではなく合図の歩調で近づいてくるのが、頬の湿りを見ないふりをしてくれているみたいで、それがかえって苦しかった。


「あとはお任せする。これ以上は、私の任務の範囲外にあたる」


 その一言のあと、扉が閉じた。締め出された感覚が一気に押し寄せ、胸の内側に張っていた膜が破れる。


「任務任務って……もう、やめてよ……」


 嗚咽がこみ上げ、肩が震えていた。王家の養女として姿勢を保つべき場所なのに、ここでは弱いわたしだけが残される。見せたくないと知りながら、身体は助けを求めてしまう。


 夕闇の庭で彼にすがって泣いたときの感触がよみがえった。あのとき無言で受け止めた腕。今は、背中だけが遠のいていく。


 背後から、リディアのやわらかな足音。皿の熱は静かに失せ、夜気が表面を曇らせていた。


「ミツルお嬢様……お加減が悪いのでしょうか。いかがなさいます? 少し横になって休まれませんか」


 やさしい声。けれど声帯が固まって返事にならず、わたしは首を横に振った。身勝手に突き放したのに、去られた事実があまりに痛く、身体だけが出口を探している。


「わ、わたし……っ……もう、こんなところにいたくない……っ」


 椅子の脚が床を擦る短い悲鳴。足裏の冷えがふくらはぎへ駆け上がった。


 制止を振り切って廊下へ走る。石床の冷たさが靴底を突き上げ、心臓が早鐘を打っていた。灯の尾が視界で伸び、涙の代わりに冷たい風が頬を撫でていく。

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